モトのエッセイ№2「震災の日から」2012年02月26日


 その日は朝から頭痛がした。昼食後、少し眠ってもまだふらふらする。しつこい二日酔い……と思ったが、そうではない。恐怖が走った。
 地震だ!
 ベッドから飛び降りた。揺れはどんどん強くなる。ベランダのガラス戸を開け、サッシにつかまりながら、しゃがみこむ。木々や電線が激しく揺れている。ガラスの降り注ぐビル街、地下鉄の大災害、逃げ惑う人々……、映画で見たような映像が頭をよぎる。
「お願い、もうダメ。収まって、お願い!」
 ひとり声に出して叫んだ。
 東日本大震災の瞬間だった。
 テレビの画面には、東北地方の津波がリアルタイムで映し出される。信じられない光景。だが、これは映画ではないのだ。
 地元川崎市のニュースはほとんどなく、交通機関の「運転見合わせ」や「停電」の文字情報だけ。東北の被害に比べたら、この辺りは何でもなかったということだ。
 子どもたちは、どうしているだろう。わが家の長男は自閉症で、障害者雇用の職場に勤めている。公民館内の喫茶室で、新しくできた超高層ビルの一階にある。この程度の揺れなら、何の問題もなく営業を続けているだろう。でも、彼はパニックを起こしていないだろうか。ふだんから神経が過敏なのである。ところが、職場の電話もスタッフの携帯電話も一向につながらない。
 高校生の次男は、電車で小1時間、町田市の友人宅に遊びにいっている。彼からの連絡も気がかりで、私が自宅を離れるわけにはいかない。そのうちに長男が利用するJR南武線も動いて、なんとか帰宅できるだろう。もう少し待ってみようと思った。
 6時を回って、やっと次男から電話があった。友人の家ではなく、カラオケで遊んでいたという。親の心子知らず。地震以後ものんきに歌い続けていたらしい。
 JRが終日復旧しないと知り、ようやく車で長男を迎えに出たときは、午後7時を過ぎていた。少し走ると、信号が消えている。辺り一帯が停電しているのだ。街路灯も消えて、コンビニも真っ暗。暗闇の中、車列のライトだけが、ぞろぞろと歩いている人々を照らしだす。
 いつもなら30分もかからない距離なのに、1時間以上かかって長男の職場に到着。最新鋭のビルも真っ暗で、くろぐろと不気味にそびえ立っていた。まさかこのビルまでも停電が起きていたとは。
 ビルの玄関に入っていき、「石渡です!」と名乗ると、寄りそうような2人の人影が近づいてきた。息子と女性の店長だった。思わず3人で抱き合った。
 地震発生と同時に、息子は机の下にもぐり、震えながら店長の手を握って耐えたという。小学校のときから続けてきた避難訓練が生きたのだろう。最初の揺れの直後に全館停電となり、営業はストップ。ほかの従業員は次々と家族が迎えに来て帰っていった。日没後は懐中電灯をともし、営業用のドーナツやおにぎりを食べながら、店長と2人、ずっと私の迎えを待っていたのだった。

 地震当日から、首都圏は混乱状態に陥った。南武線の運行も見通しが立たず、計画停電があるのかないのかさえもよくわからない。息子の職場も、営業時間や勤務体制が日々変わる。さらには、彼が楽しみにしているテレビ番組もことごとく中止。かならず発売日に買っている雑誌も、予告もなく発売延期になったりした。
 自閉症者は、予期せぬ出来事が大の苦手である。カレンダーのように変更のないものを好み、予定がわかれば安心して暮らせる。それがこの異常な事態。息子の精神状態は大丈夫だろうか。
 しかも、彼は音の刺激にも過敏だというのに、テレビからは緊急地震速報、携帯からはエリアメールの音が、文字どおり四六時中鳴り響く。たえず不安と刺激にさらされ続けている。
 しかし、長男は何の不満も口にしなかった。テレビやインターネットからの情報をよく理解して、自分の生活のやむをえない変化も納得しているらしい。いつもと変わらぬ表情で過ごしていた。しかも、「節電しよう」と言っては自分から不要な電気を消し、エアコンもつけずに過ごしているのだ。見習わなくては、と思った。
 ある日、職場でこう話したという。
「被災地の人は大変だけど、僕は僕の仕事をがんばります」
 震災以降、私は日常生活の混乱に振り回され、さまざまな情報に一喜一憂していた。ところが長男は、環境の変化にも揺るがない強さをいつのまにか身につけていたのである。
 社会人となって5年目、大きく成長した長男がいた。



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