エッセイ:「父の絵」2013年06月05日

 父は子どものころから、絵を描くことが好きだったという。
 写生をしているときに、近くに住む画家と知り合いになり、彼の家に遊びに行くようになった。それを知った祖父は、激怒した。
「お前を絵描きなんぞにするつもりはない。男の子は勉強だけしておればいい」
 軍人だった祖父は厳格で、父はおとなしく従った。画家にもらった絵筆も、言われるままに捨ててしまい、後はひたすら勉学に打ちこんだ。

 私が子どものころの記憶に、およそ父の笑い声というものがない。寡黙な人だった。お酒も飲めないから羽目をはずすこともなく、いつもタバコの煙の中で押し黙っていた。
 やがて、50歳を過ぎて、長年勤めた会社を退職。大学で教鞭を執ることになった。このころから、父はよく笑いよく喋るようになった。人間関係がわずらわしい会社勤めより、学問の場に身をおいているほうが性に合っていたにちがいない。
 何より、父を変えたのは、ふたたび絵を始めたことだろう。絵を描く時間が取れるようになったのだ。道具を少しずつ買い揃え、絵のサークルにも入った。胸のポケットに何本も鉛筆をさして、風景画を描きに出かけるようになった。
 写生会の後には、必ず仲間と話しこんで帰ってくる。あれほど口の重かった父が、
「絵のことなら何時間でも話していたい」と、目を細める。

 父は自然の風物を好んで写生した。水辺の景色、新緑の山々、紅葉の街路樹、桜並木……。帰宅したばかりの父のスケッチブックを開くと、風景と向き合ったときの父の感動が伝わってくる。ちょっとふるえた線描や、濃く淡く走らせる筆さばきで、風のきらめきや匂いまでもが手にとるようだ。スケッチならではの新鮮さが生きている。
 ところが父はそうやって外で描いてきたものを、書斎の机の上で手を入れてしまう。写真を見たり頭で考えたりしながら描き加える。木や家はぎこちなくちぢみあがり、とってつけたように人物が置かれ、絵はつまらなくなる。
「どうだ」
 得意そうに、父が新しい絵を見せる。私も大学生のときに油絵をやっていたので、わが家で絵の話し相手は、私の役目だ。
「その人物、ないほうがいいのに」
 遠慮なく言う。
「…………」
 おれはよくなったと思うぞ、と言わんばかりに、父は口をへの字にむすんで黙り込む。
 ほめれば父が喜ぶのはわかっている。でも父の上達を願ってこそ、感じたままを口にする。多少なりとも絵のことはわかるつもりだ。娘が本当のことを言わなかったら、だれが率直な批評などしてくれるだろう。ひょっとしたら私は、父の絵をほめない唯一の人物かもしれない。父も頑固なら、娘にも意地がある。
「ひとみに見せてもケチばかりつける」
 父は、かげで母にこぼしていたらしいが、そんな父娘の確執を楽しんでいたのは、ほかならぬ父と私自身だったかもしれない。

 晩年、父は、前立腺がんにかかる。その治療の副作用で体中がこわばり、自由が利かなくなっていった。その後、敗血症になり、入院。そのまま、老人専門の病院に移った。
 家族が見舞うと、父を車椅子で三階のホールへ連れてくる。冬晴れの日には、病院の西側の窓から、連なる山々の向こうに富士山が見える。
「ひさしぶりに描いてみたら?」
 ある日、病院のホールで、父の膝の上にスケッチブックを広げて、鉛筆を持たせてみた。
 父はしばらく富士山のほうを眺めていた。やがて、ゆるゆると山の稜線のような筋を一本描いた。が、あとは鉛筆を胸のポケットにさす仕草をくり返すばかり。鉛筆は、何もないパジャマの胸をむなしくこすっていた。
 父は筋力を失っただけでなく、あれほど好きだった絵を描く気力さえも失くしたのだ。
 もう、以前の父ではなかった。

 告別式の最後に、棺の中には眼鏡と絵筆とスケッチブック、そしてたくさんの白い花が納められた。盛り上がるほどの花の底で、父は微笑んで見えた。
 天国の父には、もう痛みも苦しみもない。心おきなく大好きな絵を描き続けていることだろう。


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昨日64日は父の命日でした。
父の遺作を写真に撮りましたので、ご覧ください。
199555日、車椅子で昭和記念公園に出かけたとき、ポピーの花畑を描いたものです。これが最後の絵になりました。

父の遺作



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