自閉症児の母として(33):「夢シドニー二人旅」より ― 2016年08月21日
今日は午前中、リオ・オリンピックのサッカー決勝がテレビ中継されましたね。ご覧になった方も多かったのではないでしょうか。
ブラジルvs.ドイツの試合は、1対1の同点のままPK戦へ。最後はネイマールの見事なシュートで、地元ブラジルが金メダルを手にしました。
私も、シドニー・オリンピックでは、サッカー決勝を観戦しました。
自著『歌おうか、モト君。』の中に収められた「夢シドニー二人旅」より、オリンピックのエッセイをいくつかご紹介します。

写真のはがきサイズのアルバムは、シドニーのおみやげに買い求めたもの。お金では買えない思い出の写真がたくさん入っています。
当時はデジカメではなく、フィルムを入れた一眼レフでした。

オリンピック・スタジアムで
自閉症の長男、望人と二人でオリンピックを見るため、2000年9月28日から6日間のツアーに参加した。このオリンピック観戦ツアーは、陸上競技、サッカー決勝戦、閉会式をメーンスタジアムで見ることになっている。ツアーとはいえ、ほとんどが個人行動。スタジアムへも自分で市電を乗り継いで行かねばならなかった。
ヒューイ、ヒューイ、ヒューイ……
歩行者用の信号が青になると、口笛を吸い込むような音がする。
カタカタカタカタカタ……
青の点滅に合わせて、木製のおもちゃを鳴らすような音に変わり、思わず走り出す。なんともユーモラスな効果音だ。
ホテルから最寄りの駅までは、にぎやかな大通りの歩道を歩いて10分ほど。街路樹のプラタナスが青々と繁ってすがすがしい。行き交う人々は、ラフなスタイルで表情も明るい。のんびりというよりは快活だ。一緒になって小走りに駅へ急ぐ。
渡された大きな観戦チケットを、ホルダーに入れて、首から提げておく。これがあれば、スタジアムのあるオリンピックパークまで市電がフリーパスなのだ。
駅はどこも混雑していた。けっして観光客にわかりやすい駅ではないけれど、カラフルなユニフォームを着たボランティアの係員があちこち立っていて、何でも教えてくれるので、迷うことはなかった。
スタジアムが電車の窓から見えてくると、望人がうれしそうに指さした。

ゲートをくぐり、中に入る。スタンドの大きさに思わず「うわあ」と声が出る。高々と燃えさかる聖火。席はバックスタンドだったけれど、前から10番目といういい席だ。
ぎらぎらと西日がまぶしい。日が沈んでからも、気温は下がらず、用意していったダウンジャケットがじゃまになった。こちらでも異常な暑さだという。そのせいか蛾がたくさん飛び交っている。
初日の夜は、陸上競技観戦。まず、女子の円盤投げが始まる。巨大なスクリーンに選手の姿が映し出される。英語とフランス語のアナウンス、電光掲示板などで、競技の進行がわかるようになっている。
暗くなるにつれ、11万人収容のスタンドはどんどん埋まっていき、ほぼ満席の状態。観客の声援もパワフルになってくる。オーストラリアの選手が現れると、怒涛のような歓声がわき上がる。
やがて、フィールドでは、男子棒高跳びが始まる。人間がすごい高さに跳ね上がり、迫力がある。
トラックでは男子、女子のリレーが行われ、速さを競うアスリートたちがすぐ目の前を駆け抜けていく。3000メートル障害の一団が、波のようにハードルを飛び越えて、水しぶきを上げる。さまざまな競技が同時進行でおこなわれているスタジアムの中、アボリジニの民族音楽の響きが満ちていく。
跳ねる人、駆ける人、跳ぶ人、上がる水しぶき、唸りのような声……。そのとき、私は不思議な感覚にとらわれた。遠く太古ギリシャ時代の競技場にいるような気がしたのだ。
それもつかのま、すぐ周囲に鳴り渡る携帯電話の音で、現代に引き戻されるのだった。

翌日は、正午からサッカーの決勝戦を観る。
望人は、Jリーグの大ファンだ。こちらに来るまでは、テレビに釘付けになって、予選で戦う日本チームに声援を送ってきた。
にわかフリークの私が、初めて観るサッカーの試合がオリンピックの決勝戦だなんて、ぜいたくな話だ。スペイン対カメルーン、といったって、じつのところ何の知識もない。
ところが、これも旅の運というのだろうか。隣の席に日本人の青年が座った。一人でオリンピックを見に来たという。髪を後ろで一つに結んで、いかにもフリーターといった感じだ。スポーツにとても詳しい。
「カメルーンのエンボマ、10番です、注目してください。ガンバ大阪にいた選手です」
スタジアムには、テレビの実況中継のような解説はない。審判の笛が鳴っても、プレーが中断されても、よくわからなかったりするのだが、彼に尋ねると親切に教えてくれる。物静かな声で、きちんと敬語を使って話す。いい青年だと思った。
私たちの後方には、スペインの国旗をはためかせた一団がいて、
「エスパーニャア!」と、大声で応援している。
ところが、試合運びがスペインに有利に展開すると、なぜか、どよめくようなブーイングが起こる。スタンド全体としては、どうやらカメルーンびいきに傾いているようだ。
「カメルーンは強い国じゃないのに、ここまで来たからでしょう」
と青年が言う。
スタンドは、真夏のような西日を浴びて、暑かった。座って観戦しているだけで、シャツの中を汗がたらたらと流れていく。
結果はPK戦のすえ、予期せぬカメルーンの逆転優勝となった。
「どうぞお元気で」
表彰式の後、名前すら聞かないまま、私たちは別れた。一期一会。そんな言葉が浮かぶ旅先での出会いだった。

