旅のフォトエッセイ:世界遺産の五島列島めぐり①青砂ヶ浦教会2018年11月18日




ずっと以前から行きたかったのです。長崎県の五島列島、キリシタンの聖地。

今年7月、世界文化遺産に登録された「長崎と天草地方の潜伏キリシタン関連遺産」には、五島列島の中の4つの集落が含まれています。

 

今回の旅は、なるべく効率よく回れるようにと、一般のツアーに参加。キリシタン関連で訪れたのは、4つの教会とキリシタン洞窟だけでしたが、それでも念願の五島の地を踏んで、感慨もひとしおでした。

 

まずはハイライトから――



 

▲最初に訪れた青砂ヶ浦(あおさがうら)教会。

中通島の海を見下ろす丘の中腹にたたずむレンガ造りの聖堂です。

 

1549年、フランシスコ・ザビエルが来日してキリスト教宣教が始まりますが、その約30年後には早くもバテレン追放令が出て、信者たちは弾圧を受けるようになります。それでも彼らは、仏教徒を装ったり、神道の習慣に従ったりしながら、密かに信仰を守り続けたのでした。

300年の時を経て、明治6年、ついにキリスト教が許されるようになると、信者たちは、彼らの信仰の証として、自分たちの教会の建立に力を注ぎます。ただでさえ貧しい暮らしのなか、さらに生活を切り詰めて資金をつくる。自らの手で海辺の砂岩を切り出し、船で運ばれてくる資材を肩に担いで丘に運び上げる。血と汗のにじむような努力の結果、明治43年、この教会は出来上がりました。

ついに自分たちの教会堂を建てることができた! その喜びはいかばかりであったでしょう。

 

この日のガイドさんは、言葉遣いも丁寧で、知識も豊富、素晴らしい語り口に、感心して聞きほれていました。

彼女は、内部の見学を終えて外に出ると、「もう一度玄関の上の方を見上げてください」と言いました。


「『天主堂』と書いてありますね。教会堂という意味ですが、わざわざ書かなくてもわかるのに……。今の教会には、このようなものはあまりありません。でも、当時の信者たちの気持ちを思ってみてください。長い迫害の時代を経て、ようやく自分たちの手で神様の家を作り上げた。皆で祈りを捧げる場所ができた。その喜びが、『天主堂』という文字の中に表れていると思いませんか」

私はガイドさんの言葉に、本当に彼らの気持ちが伝わってくる気がしました。

信者さんですかと尋ねると、「私は仏教徒ですよ」と笑うガイドさん。だからこそわからないことも多く、もっと知りたいと思うのだそうです。この地に生まれ育った彼女の郷土愛なのかもしれません。熱心に学んで伝えようとする真摯な態度には、ガイドとしての誇りを感じました。


 ▼白い手袋がガイドさん。


 


▲この写真は、バスの中で、ガイドさんが見せてくれたもの。観光客には、教会内部の写真撮影が許可されていません。

 

私たちは教会の椅子に掛けて、ガイドさんの説明を聞きました。

ゴシック様式のアーチ型の天井や、骨組みも柱も木造りであること。

美しい花をかたどったステンドグラスは、フランスから運ばれたこと。

その花弁が5枚ではなく4枚なのは、十字架を表していること……。

ヨーロッパの教会は、伝統的に玄関が西で、祭壇が東側。この教会も同様で、真西から日が差し込むと、その光が祭壇を照らします。祭壇左に置かれた聖テレジア像と右の聖フランシスコ・ザビエル像が、玄関上の左右のバラ窓から差し込む光によって見事に浮かび上がるのだそうです。

その日はあいにくの曇り空でしたが、話を聞いている最中に、急に日の光が差し込んできました。察知したガイドさんがすぐに電気の照明を消しました。

赤、黄色、オレンジ、緑。カラフルなステンドグラスを通して入ってきた陽光が、教会内部の空間に満ちていきます。その明るさ、美しさといったら……!

神様が私たちを喜んで迎えてくださった。そんなふうに思えました。

奇跡のような、ほんの一瞬の出来事でした。




旅のフォトエッセイ:世界遺産の五島列島めぐり②「心に残る」2018年11月30日


五島に行きたいと思うようになったのは、9年前にさかのぼります。
次男の忘れられない出来事にあるのです。

当時、それをエッセイにつづりました。まずはお読みいただきましょう。

 

 

    「心に残る」――母バージョン

 

ゴールデンウィークが明けた日、ひさしぶりに一人の静けさを味わっていると、次男の中学校から電話がかかってきた。

385分のお熱がありまして、今保健室で休んでいるのですが……」

車を飛ばして20分後、保健室には青い顔の息子がいた。

 

ちょうど、アメリカ帰りの大阪の高校生が、重症になりやすい新型インフルエンザで隔離された、というニュースが日本列島を不安に陥らせていた頃だ。

保健室の先生の話では、息子のクラスにもインフルエンザの生徒が数名出ているという。

私も青くなった。中3の息子たちは、5日後に長崎への修学旅行を控えていたのである。

「でもご安心ください、B型ですから」と、先生はにこっと笑った。

恐怖の新型はA型で、学校では安心のB型というわけだ。おそらく息子もその菌をもらったのだろう。

「発熱して1日たたないと菌が出ないことがあるので、検査は明日のほうが確実かもしれませんね」

とりあえず息子を連れて帰って寝かせる。夜には40度になり、解熱剤を飲ませた。大丈夫、出発まで5日ある。諦めるにはまだ早い。

あいにく私は、翌日の午前中は自分の習い事、午後からは仕事先の年に一度の総会が控えていた。しかたがない。午前中は休むことにして、医者に連れて行こう。総会では大事なお役目もあるから休むわけにはいかない。薬を飲んで眠っているうちに出かけてこよう。

 

翌日、午前中にかかりつけの小児科に連れて行く。検査の結果は予想どおりのインフルB型。

「ほうっておいても寝てれば自然に治るんだけどね」と医者は前置きして、「一刻も早く治したい事情があるということなので、特効薬を処方しましょう」。

薬はリレンザ。従来のタミフルは、副作用でまれに幻覚や妄想が起こるとされている。子どもの患者が異常行動で亡くなって以来、未成年には許可されなくなった。

「リレンザでも同様の副作用があるという報告もあります。服用したら24時間、目を離しちゃだめですよ」

大声を上げて外へ飛び出したり、窓から飛び降りたりする可能性もあるというのだ。

 

万事休す。午後からの総会もあきらめ、急きょ欠席のお詫びを入れて、代理を頼んだ。

吸飲式のリレンザは、簡単な器具に薬のパックを装てんして投与する。息子はやがて眠りについた。1時間おきに部屋をのぞいても、いつも死んだように眠っていた。

結局その日は、夜まで息子の爆睡を見守っただけだった。総会に出かけても大丈夫だったのに、と思う。でもそれは結果論だ。

わが家にはもう一人保護者がいるのだが、夫の育児への協力は土日祝日限定である。育児のために仕事を犠牲にするのはいつだって私。収入の多寡だと言われればそれまでだけれど、仕事である以上、私にも社会的な責任はあるんだけどな……。

 

翌日には息子の熱も下がり、リレンザのおかげで快方に向かった。2日間平熱が続けば完治とみなされる。旅行の前日には医者の診断書をもらって、午後からは登校できた。なんとか修学旅行に間に合ったのだ。

さて旅行当日の朝、最後のリレンザを吸いこんで、いざ出発……のはずが、トイレに入ったきり出てこない。薬の副作用から下痢を起こしたようだ。今度は下痢止めを飲ませる。ぎりぎりの時刻まで待って、集合場所の羽田へ向かわせた。中学生にとって、修学旅行に行かれないことぐらい悲しいことはない。そんな私の信念が、息子を送り出したのだった。

 


34日の旅を終え、元気に帰ってきた息子は、開口一番、こう言った。

「ありがとう、母さん!」

初日は辛かったけれど、2日目からは食欲も出たという。五島の海の青さ、班長として班別行動をとった思い出……口下手な息子の話でも、楽しかった様子が想像できた。

母さんが治してあげたわけではないけど、でもよかったね、みんなと行けて。

 

1ヵ月後、さらにおまけがつく。

国語の苦手な息子が書いた「心に残る」というタイトルの修学旅行記が、学校通信に載ったのである。

「仕事を休んでまで看病してくれた親のためにも、楽しめなければ悪いという気がした」

旅行記は、私の心に残る“最高傑作だった。




 ぎりぎりセーフの病み上がりで出かけ、元気になって帰ってきた息子。彼が見た海を、いつか私も見てみたい。願いは9年目にかなったのでした。

次回、「③頭ヶ島教会」に続きます。

 

 
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