2000字エッセイ:「母を書くこと」2019年06月22日

 

 

母を書くこと

 

 幼い頃、近所に小さな川があった。川というより道路に沿って海へと流れる用水路だったが、子どもたちは川と呼んだ。

ある日、その川に母が流れていた。いつもの深いえんじ色の着物を、水面に広げるようにして流れていく。橋の上から呼んでも答えない。母は死んだのだ。悲しくて泣くと、目が覚める。

「どうしたの」と、隣に寝ていた母が尋ねる。

「夢、見てた」

「こわい夢?」

「ううん、悲しい夢」

「もう大丈夫だから、寝なさい」

 何度か同じ夢を見た。そのたびに母に起こされ、安心する。でも、なぜ母は「こわい夢?」と聞くのだろう。悲しい夢の内容を聞いてはくれないのだろう。母が死んでしまうことほど悲しいことはないのに……と、子ども心に思ったものだ。

 

 母は、父が亡くなった後も、わが家と同じマンションの4軒隣で独り暮らしを続けてきた。しかし93歳で胃がんを患い、翌年には大腿骨を骨折。2度の入院・手術で、頭も体もすっかり弱って、もはや独り暮らしは無理になった。

現在、わが家からさほど遠くない老人ホームで、細やかで手厚い介護を受けながら、穏やかに暮らしている。全て自分の歯だというのが、何より母の自慢で、普通の硬さの料理を食べる。しかも、とても胃の3分の2を摘出したとは思えない食欲で、顔の色つやもいい。

 

 それでも、私は母の終活を少しずつ進めている。ホームでは看取りの説明を受ける。家族間でよく相談をして、意見をひとつにまとめておくようにと言われる。

 母のカトリック信徒としての籍も、現在の川崎の教会に移した。以前は横浜に住んでいたので、父も兄も、そちらの教会で告別式を執り行ってもらった。自分も同じ場所でお別れをという思いから、籍は抜かないままだったが、もうあちらには友人も知人も少なくなっている。

「こちらの方があなたたちにも便利でしょう」と母から言いだしたのだった。

 母の終活を肩代わりするだけではなく、私にはやっておくことが、もうひとつある。

 

 数年前のこと、身内が集まったときに、父の思い出話をしていると、母が呟いた。

「私が死んだら、ひとみはまた、あれこれ書くんでしょうね……」

父のことは、折に触れて書いてきた。私が子どもの頃の思い出や、晩年になってから描き始めた絵の話、4年間の入院中のエピソードなどなど、亡くなった後に、それらを冊子にまとめて配ったりもした。母はそれを覚えているのだ。

「お望みなら、いくらでも書きますよ」

母は黙っていた。望んでいるような、いないような、諦めているような、お好きなようにと思っているような、いつもの母の、つかみどころのない表情だった。死んだ後のことまで、どうでもいいわ、と思っているのかもしれない。最近は生きることにさえ気力を失いつつある。

 

そうだ、今のうちに書いておかなくては。母が本当に死んでしまったら、あまりに悲しくて書けなくなるだろう。冒頭の夢の話など、金輪際書けないだろう。それに、悲しみが癒されるのを待っていたら、私の記憶も薄れてしまうだろう。そうならないうちに、母のことを書いておかなくては……。

4人きょうだいの3番目だった私は、叱られた記憶はたくさんあるが、かわいがられた記憶は少ない。「褒めの子育て」などは無縁の母だった。大好きだったかと言われると、それほどでもないと思う。特段、孝行娘でもなかったし、できた母親でもなかった。

それでも、私にとっては唯一無二の母なのである。死なれればどれほど悲しいことか。

私の知る限りの、あるがままの母を思い出して、今のうちに書いておこうと思う。






コメント

_ あけにし ― 2019/06/22 20:43

母を亡くしている私は、お母様がご存命の先生をうらやましいと思います。折りにふれ、母を思います。

_ hitomi ― 2019/06/23 17:04

あけにしさん、
母親というものは、遅かれ早かれ、いつかは必ずいなくなるのです。自分のほうが先に逝くことほど親不孝なことはありません。きちんと見送ることができて、よかったではありませんか。

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