テーマは「思い出の曲」でつづる800字エッセイ ― 2020年10月28日

「アルプス一万尺」
20代半ばのころ、ほんの4ヵ月だけロンドンで暮らした。英国人家庭にホームステイして、近くの英語学校に通ったのである。ヨーロッパの各国からやって来る学生たちと交わる生活は、毎日刺激に満ちていた。
ホームステイ先からは、住宅街を30分歩いて通う。学校はそんな地域の一角にある古いお屋敷を利用した小さな所だった。
帰り道は、同じ方向の生徒と一緒になる。同じ家庭に住むホームメイトのスイス人女性マリスと、別の家から通うイタリア人のファビオ。マリスはキリンのように背が高く大きな目をした社交家で、1つ年下だけれどお姉さんのように頼もしい。ファビオは黒ぶちメガネに足元は革靴。いかにもイタリアのお坊ちゃんという感じの十代の青年だ。
3人のおしゃべりは尽きることがない。3国共通の食べ物を発見したり、共通だと思っていた習慣が自国特有だと知って驚いたり……。
ある日のこと、マリスが、
「同じ歌をそれぞれの言葉で同時に歌ってみない?」
と提案した。それが「アルプス一万尺」だった。
「アルプスいちまんじゃーく、こやりのうーえで、アルペン踊りをさあ踊りましょ!」
ふたりも負けじとドイツ語とイタリア語で声を張り上げる。何を言っているのかわからないけれど、メロディはまったく一緒だ。
「……ラーンラランランララララ、ラララララーン、ヘーイ!」
と、最後だけは声がそろった。その歓声はすぐに笑い声に変わる。言葉は違っても、曲は同じ。そんな当たり前のことを実感して、うれしくておかしくて、いつまでも笑い転げた。秋の黄昏の中、若い声が閑静な住宅街に響いていた。
マリスとはその後も友情が途切れず、今ではSNSでつながっている。
ファビオはどうしているだろう。今年、新型コロナのパンデミックのニュースに、ふと心配になる。
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