初めて書いたエッセイ 「左利きの話」2023年05月09日

 

大学卒業後に就職した会社では、社員の作る冊子があり、新人の頃、作文を載せてもらいました。(エッセイとは呼んでいなかったと思うのですが……)

エッセイ教室に入ったのは、その5年後。そして、5年前の作文を、社会的テーマのエッセイとして書き直したのでした。

今回、満を持して、40年前の手書きの原稿に推敲を加えながら、ブログに載せることにしました。いろいろな意味で、私の原点ともいえるエッセイです。

昭和時代のエッセイ、お笑いください。

 

 

  *** 左利きの話 ***

 

あなたの周りに左利きの人はいないだろうか。

おかしな角度でペンを構えて紙に向かう人、包丁をさばく手先がなぜか危なっかしく見える人、西洋料理のテーブルで両手を交差させてナイフとフォークを取り上げる人、バッターボックスに立つとピッチャーに嫌われ、テニスコートでは相手に嫌がられる人……

じつはこのどれもが私のこと。私は何から何まで完璧な左利きに生まれた。右利きのあなたに、流行歌に歌われるほどカッコよくもない、そんな私の話をお聞かせしたい。

 

子どものころから、私の両親は右手を使うようにと口うるさく言った。とはいえ、四六時中、親の監視の目が届くわけもないから、親の目が光っているかいないかで巧みに手を使い分けていた。

例えば、食事の時は、家族そろって食べるので箸は仕方なく右手の中。おかげで、7歳の頃には右手でも上手に箸が扱えるようになっていた。

学校に行っている間は、もう左手の天下だ。どの先生からも、あえて右手に治すようにと言われた覚えはない。当然、いつまでたっても鉛筆は左手に握られていた。

 

中学3年の時だ。見かねた母が真剣な顔で言った。

「高校入試の時に左手なんかで書いていたら、落とされてしまうわよ」

ショックだった。このままでは高校生になれないなんて。母の言葉を真に受けた私は、その日から死に物狂いで、家でも学校でも右手でノートを取るようになった。時間はかかるし、手は疲れるし、後で読めない字もあったりで、それはそれは大仕事だった。

最初は糸みみずの乱舞だった文字が、やがて立派なみみずの行進になり、いつしかそれもノート上からいなくなり、文字らしい文字が並ぶようになっていた。半年ほどかかっただろうか。

見事左利きを返上して試験場にのぞんだ私は、難なく高校生になった。

ところが、入学して間もなく、ノートにも黒板にも左手で字を書く生徒を発見したのだ。聞けば、入試でも左手で書いていた、というではないか。なんだか損をしたような気分になって、家に帰るとさっそく母に文句を言った。

「ぎっちょで受験したら落っこちるだなんて、ママの嘘つき」

母は涼しい顔で答えた

「とにかくぎっちょが治せてよかったじゃないの」

母の狙いはそこだった。初めての入学試験で頭がいっぱいの私は、足元を見られたような作戦にまんまと引っかかったのだ。

 

でも、今にしてみると、母も半ば本気で心配していたのではないかと思えてくる。なぜ母はあれほど私の左利きを嫌って、治そうとしたのだろう。

「大人になっても、左手で字を書いたりご飯を食べたりしていたら、みっともないでしょ」

それが母の口癖だった。

なぜみっともないのか。みんなと同じではないから。だからぎっちょはいけない、というわけだ。

最近でこそ、子どもの左利きを無理に矯正すると、吃音になるなどの弊害もあることがわかってきた。むしろ左利きも一つの個性として伸ばそうとさえ言われている。しかし、「個性の尊重」からは程遠い時代に生きてきた母にしてみれば、試験場でひとり目立つ左利きはどうしても不利としか思えなかったのかもしれない。

今でこそ、「入試でぎっちょは落とされる」と言ったら笑われるだろう。でもちょっと、入社試験の会場へ向かう大学生たちを見てほしい。短く刈った黒髪、黒縁のメガネ、黒のスーツ。あの没個性的なスタイルは、母の理屈が今なお生きていることを物語ってはいないだろうか。

みんなと違うこと。それはみっともない? 不利なこと?

私は子どものころから現在に至るまで、自分の左利きがみっともないなどと思ったことはない。むしろ、左利きの問題点は、もっと別のところにあるのだとわかっていったのだ。

 

私が半年間で右手で字が書けるようになったことを、早いと思われただろうか。私自身は、意外と早く上手になれたように感じたのだ。これにはわけがある。おそらく、右利きの人が左手で書けるようになるには、もっと日数がかかるだろう。

日本語の文字というものは、右利き用にできているのだ。漢字の書き順は左上から始まって右下に終わるというのが基本的なルール。これは、昔から右利きによって書き継がれ、右手で書きやすいように工夫されてきたものにほかならない。

試しに、右手で右から左へ線を書いてみてほしい。左から右へ書くよりも、書きづらいはずだ。左利きはこの書きづらさで字を書くのである。したがって、右手で書けばこのつらさは消えて、自ずと字の形が整ってくるのだ。

私は根っからの左利きなので、どんなに右手が使えるようになっても、やはり左手のほうがスビーディに筆圧の確かな字を書くことができる。それでも整った文字は、右手にはかなわない。

小学生の時、習字の時間には、最初から筆を右手に握った。鉛筆で書くのとは勝手が違って、払ったり止めたりという大きな文字の筆の勢いまでは、ごまかせない。それでも、小さな字を書く細筆は左手で持ったりしながら、奮闘したものだ。

先生がたは、鉛筆や大小の筆を右に左にと持ち替える私を見て、あきれながらも器用だと言って感心していたけれど、それは見当違いのほめ言葉。私にしてみれば、必要に迫られた苦肉の策だったのだから。

うまく使える手がたまたまみんなと違うだけで、どうしてこんなに大変な思いをしなければならないの。先生さえもそれがわかっていないなんて。子ども心にも、そんな不満をいだいていた。

 

ある年のクリスマス、4人きょうだいの私たちに、両親がギターを買ってくれた。かわるがわるギターを手にしては弾いてみたが、左利きの私が左手で弦を押さえて右手で弾いても、みんなのようにはうまくいかないのだ。

弦の順番を逆に張り替えて、左利き用にしてみた。ビートルズのポールのギターだ。すると、弾ける、弾ける。ただし、コード表も手元とは逆になるので、読み取るのに骨が折れたけれど。

ギターが弾けた喜びもつかのま、弦はまた元どおりにさせられた。4人のうちでただ1人左利きだったから、多数決で我慢をするのは私。この時初めて、ぎっちょの自分をみじめに感じたものだった。

 

同じように社会においても、少数に過ぎない左利きは、いつも我慢を強いられているように思う。右利きの人に、どれだけそのことがわかってもらえているだろうか。

あなたは、漢字が右手で書きやすいようにできていることを考えながら書くだろうか。自動券売機のお金の投入口が右側についていることを、電話のダイヤルや腕時計のねじが右手の指で回すようになっていることを、あなたの家の缶切りや裁ちばさみが右手用にできていることを、意識したことがあるだろうか。ようやく出回るようになったとはいえ、左利き用の道具には右手用の倍の値段が付けられていることを知っているだろうか。

これは人から聞いた話。歩道と車道の本の5cmの段差が、車椅子にとっては大きな障害になるのだとか。言われてみればなるほどと思えるのに、自分の2本の足で歩く私は考えたこともなかった。私も大多数の1人なのだ。

左利きなどは、わずかな我慢ですむけれど、普通の人とちょっと違っているばかりに、大きな犠牲を払わされる人々のことを、もっと心にとめたい。それが、左利きに生まれた私の、ひとつの使命のような気がする。


 



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