ほぼ2000字のエッセイ:直木賞を読む2023年06月02日

 
     

油絵を習っているという友人に聞いた話だ。彼女の絵の先生は、

「本物を見なさい。展覧会に行ったら一等賞の絵だけ見ればよい」と言うのだそうだ。

絵に限らず、文章も同じではないか。一等賞の文章を読もう、できればおもしろいものを、といつも思っていた。ある時、はたとひらめいた。そうだ、直木賞受賞作がいい。大衆文学の一等賞だ。エッセイの上達のためにも、ちょうどいいのではないか。

そこで私は、柄にもなく目標を打ち立てた。10年ほど前のことだ。

《西暦2000年から現在までの直木賞受賞作を読破する》

 昭和10年に文藝春秋社が始めたこの賞は、著名な作家陣10名ほどが選考にあたり、毎年7月と1月、その半年間に発表された小説の中から選ばれる。受賞作2作品のこともあるし、該当なしのこともある。

ところで、私の目標はなぜ2000年からなのかというと、それには理由がある。1999年上半期の受賞作に、かつて読み始めたのだがどうしても読み進むことができずに投げ出した作品があったのだ。佐藤賢一著『王妃の離婚』。3分の1まで頑張ってみたけれど、何がおもしろいのがわからないままギブアップしてしまった。これを課題図書としないための年代設定だった。

 

それから3年ほどで目標は達成できた。それ以後も継続中で、新しい受賞作を欠かさず読んでいる。この1月に発表された2作を読み終えて、合計58冊、すべて読破し続けている。

それにしても『王妃の離婚』は、なぜそれほど相性が悪かったのだろう。謎を解くためにも、再挑戦してみようかと思うこともある。

 

私のもくろみどおり、読破した一等賞の作品はどれも本当にすばらしい。おもしろい。裏切られることはない。

なんといっても、読書の幅が広がった。自分で思うに、私は何事にもあまり好奇心旺盛ではない。この目標がなかったら、自分から手を伸ばすのはたいてい、お手軽な恋愛小説とか、のめり込んでしまうような推理小説とか、できれば舞台は現代で、リアリティがあって共感しやすいもの……といったところだった。知らないジャンルは避けてきた。

そんな私が、戦国時代だろうと明治時代だろうと、異国の物語だろうと未知なる生業の物語だろうと、機械的にページを繰っては文字列を追い続ける。そのうちに、しっかりと小説の中に埋没して、胸躍らせながら楽しんでいる自分がいるのだ。みずから定めた目標は、期待以上に効果があった、と自画自賛している。

   

ところが、である。2年前の受賞作『テスカトリポカ』佐藤究著。これにはまいった。初めて選考委員を恨んだ。なぜこれが受賞作なのかと。

おどろおどろしい古代遺跡の一部のような表紙も、一度では覚えられないタイトルも、古代アステカ文明の神様らしい。舞台は1990年代のメキシコから始まり、日本、ジャカルタにも及んでいる。麻薬密売組織の抗争。謎の密売人、闇の医師、プロの殺し屋たちの暗躍。古代文明の残虐ないけにえの儀式。巨額の資金が動く臓器売買という闇のプロジェクト……。最初から殺戮シーンが冷酷に克明に描かれ、物語が展開するにつれて、それらは狂気を増してエスカレートしていくのだ。

 

ちょうどその頃、朝日新聞デジタル版に、選考委員を退任した北方謙三氏のインタビュー記事が載った。彼は私の目標と同じ2000年以来の就任だったというから、選考の様子や印象的な作品など、話の内容がすべて理解できておもしろかった。

『テスカトリポカ』に関しては、選考委員の中でも意見が分かれたという。残忍な描写はともかくとして、子どもを犯罪に巻き込む場面を表現する必然性があるのかと、北方氏が選考会で疑問を呈したところ、「男って弱いのね。私は平気よ」と言われたそうだ。ちなみに、現在の選考委員は男性3名、女性6名という比率。残酷シーンにも冷静でいられる女性が増えたということか。しかも、彼女たちはそれをも含めたこの作品の文章力の高さ、小説としての優れた部分をきちんと見極めていたのだ。

この記事を読んで、目からうろこだった。私が負の感情ばかりにとらわれて、小説としてのおもしろさに思いが至らなかっただけだ。古代のいけにえの儀式を現代の犯罪によみがえらせるという奇抜な構想は、かなりの書物を読み、各地に足を運び、綿密な情報を集めたことだろう。佐藤究はすごい作家なのだ。気がつくと、結末を知りたくて、残酷シーンにおののきながらも、昼も夜も読み続けた。


これほどエネルギーを消費した読書はなかった。読んでよかったとはいまだに言えないけれど、とりあえず読了してノルマ達成できたことに安どする。

当初の目的「エッセイの上達のため」は二のつぎ、三のつぎだ。

さてさて次回の受賞作は、いかに。





GO, GO, GO!の旅(4)フォトエッセイ:広島・ヒロシマ2023年05月18日

3回までで止まっていましたが、まだまだ続行。1年前の旅のフォトエッセイです。

ご存じのように、明後日19日から3日間、広島サミットが開催されます。

そのことをまったく知らない1年前に、広島を訪れ、サミットの会場となるグランドプリンスホテル広島にも1泊しました。

振り返って、当時の写真をアップします。

 

広島には行きたい、とずっと思っていました。

世界で初めて原爆投下された街を実際に訪ねたい。2019年にはローマ教皇でさえ、はるかバチカン市国から訪問しています。その地を私も訪ねたいと思ったのです。

もう一つの理由は、映画「ドライブ・マイ・カー」のロケ地でもあるということでした。

 

高知でレンタカーを借り、翌朝出発。しまなみ海道を北上しながら、300キロの道のりを走破して、広島までやってきました。

夕方4時に広島市に入ると、まっすぐ向かった先は、広島市環境局のごみ処理工場でした。正式名称は、中環境事務所。

映画のなかで、ドライバーのみさきが、妻を亡くした家福をこの場所に連れていき、案内するのです。巨大なごみ処理機の無機質なオートメーション、きらきらしたガラス張りの吹き抜け、海面まで下りていく階段……。

映画の印象的なシーンが目の前に広がりました。

夕方のその時刻には、もう機械は動いていませんでした。人もまばらで、気持ちの良い風が吹き抜けます。

海に釣り糸を垂れる人もいれば、草原に愛犬を走らせる人もいました。



 





映画では、みさきが家福に説明していました。

「原爆ドームと平和記念公園内の原爆死没者慰霊碑を結ぶ線は〈平和の軸線〉と呼ばれています。この工場の建物は、その線を塞がず海まで延びるように設計されているんです」と。

この映画は、ひとことでいえば、傷ついた二人の再生と出発を描いたもの。平和を祈る場所から吹いてくる風は、再生の場所を通り抜け、海へと旅立っていく。

そして、素敵な市民の憩いの場所でもありました。



 

宿泊したグランドプリンスホテル広島でも、映画のロケが行われました。

広島市南端にある宇品(うじな)島の海沿いに、背の高い四角いビルがひときわ目立っています。

庭先にはヤシの木や、真っ赤なブラシツリーが咲き誇っていました。

ロビーの壁には、映画ロケの様子が写った写真パネルが並んでいました。




 


▲部屋の窓からの眺め。

 


翌朝、快晴の空の下、平和公園を訪れました。

(昨年の89日に記事を書いています)




 

▲原爆資料館。昨年は高校生たちが熱心に見入っていました。今年は、バイデン大統領も訪問するとのこと。



さらに、平和公園から歩いて、幟町(のぼりちょう)教会へ。

この教会は、世界平和記念聖堂と呼ばれ、みずからも被爆したドイツ人神父の尽力によって1954年に献堂されたカトリック教会です。外観は重厚な造りですが、内部はステンドグラスが美しく、原爆で犠牲になった人々の追悼と慰霊のため、世界の平和を祈るためにふさわしい聖堂でした。






  

いよいよ明日、原爆投下された世界でたった一つの地、ヒロシマに、核を投下した国の大統領も、核保有国の首脳たちも、集まってきます。

どのような共同声明が発表されるのか、期待を持って注目したいものです。

 


初めて書いたエッセイ 「左利きの話」2023年05月09日

 

大学卒業後に就職した会社では、社員の作る冊子があり、新人の頃、作文を載せてもらいました。(エッセイとは呼んでいなかったと思うのですが……)

エッセイ教室に入ったのは、その5年後。そして、5年前の作文を、社会的テーマのエッセイとして書き直したのでした。

今回、満を持して、40年前の手書きの原稿に推敲を加えながら、ブログに載せることにしました。いろいろな意味で、私の原点ともいえるエッセイです。

昭和時代のエッセイ、お笑いください。

 

 

  *** 左利きの話 ***

 

あなたの周りに左利きの人はいないだろうか。

おかしな角度でペンを構えて紙に向かう人、包丁をさばく手先がなぜか危なっかしく見える人、西洋料理のテーブルで両手を交差させてナイフとフォークを取り上げる人、バッターボックスに立つとピッチャーに嫌われ、テニスコートでは相手に嫌がられる人……

じつはこのどれもが私のこと。私は何から何まで完璧な左利きに生まれた。右利きのあなたに、流行歌に歌われるほどカッコよくもない、そんな私の話をお聞かせしたい。

 

子どものころから、私の両親は右手を使うようにと口うるさく言った。とはいえ、四六時中、親の監視の目が届くわけもないから、親の目が光っているかいないかで巧みに手を使い分けていた。

例えば、食事の時は、家族そろって食べるので箸は仕方なく右手の中。おかげで、7歳の頃には右手でも上手に箸が扱えるようになっていた。

学校に行っている間は、もう左手の天下だ。どの先生からも、あえて右手に治すようにと言われた覚えはない。当然、いつまでたっても鉛筆は左手に握られていた。

 

中学3年の時だ。見かねた母が真剣な顔で言った。

「高校入試の時に左手なんかで書いていたら、落とされてしまうわよ」

ショックだった。このままでは高校生になれないなんて。母の言葉を真に受けた私は、その日から死に物狂いで、家でも学校でも右手でノートを取るようになった。時間はかかるし、手は疲れるし、後で読めない字もあったりで、それはそれは大仕事だった。

最初は糸みみずの乱舞だった文字が、やがて立派なみみずの行進になり、いつしかそれもノート上からいなくなり、文字らしい文字が並ぶようになっていた。半年ほどかかっただろうか。

見事左利きを返上して試験場にのぞんだ私は、難なく高校生になった。

ところが、入学して間もなく、ノートにも黒板にも左手で字を書く生徒を発見したのだ。聞けば、入試でも左手で書いていた、というではないか。なんだか損をしたような気分になって、家に帰るとさっそく母に文句を言った。

「ぎっちょで受験したら落っこちるだなんて、ママの嘘つき」

母は涼しい顔で答えた

「とにかくぎっちょが治せてよかったじゃないの」

母の狙いはそこだった。初めての入学試験で頭がいっぱいの私は、足元を見られたような作戦にまんまと引っかかったのだ。

 

でも、今にしてみると、母も半ば本気で心配していたのではないかと思えてくる。なぜ母はあれほど私の左利きを嫌って、治そうとしたのだろう。

「大人になっても、左手で字を書いたりご飯を食べたりしていたら、みっともないでしょ」

それが母の口癖だった。

なぜみっともないのか。みんなと同じではないから。だからぎっちょはいけない、というわけだ。

最近でこそ、子どもの左利きを無理に矯正すると、吃音になるなどの弊害もあることがわかってきた。むしろ左利きも一つの個性として伸ばそうとさえ言われている。しかし、「個性の尊重」からは程遠い時代に生きてきた母にしてみれば、試験場でひとり目立つ左利きはどうしても不利としか思えなかったのかもしれない。

今でこそ、「入試でぎっちょは落とされる」と言ったら笑われるだろう。でもちょっと、入社試験の会場へ向かう大学生たちを見てほしい。短く刈った黒髪、黒縁のメガネ、黒のスーツ。あの没個性的なスタイルは、母の理屈が今なお生きていることを物語ってはいないだろうか。

みんなと違うこと。それはみっともない? 不利なこと?

私は子どものころから現在に至るまで、自分の左利きがみっともないなどと思ったことはない。むしろ、左利きの問題点は、もっと別のところにあるのだとわかっていったのだ。

 

私が半年間で右手で字が書けるようになったことを、早いと思われただろうか。私自身は、意外と早く上手になれたように感じたのだ。これにはわけがある。おそらく、右利きの人が左手で書けるようになるには、もっと日数がかかるだろう。

日本語の文字というものは、右利き用にできているのだ。漢字の書き順は左上から始まって右下に終わるというのが基本的なルール。これは、昔から右利きによって書き継がれ、右手で書きやすいように工夫されてきたものにほかならない。

試しに、右手で右から左へ線を書いてみてほしい。左から右へ書くよりも、書きづらいはずだ。左利きはこの書きづらさで字を書くのである。したがって、右手で書けばこのつらさは消えて、自ずと字の形が整ってくるのだ。

私は根っからの左利きなので、どんなに右手が使えるようになっても、やはり左手のほうがスビーディに筆圧の確かな字を書くことができる。それでも整った文字は、右手にはかなわない。

小学生の時、習字の時間には、最初から筆を右手に握った。鉛筆で書くのとは勝手が違って、払ったり止めたりという大きな文字の筆の勢いまでは、ごまかせない。それでも、小さな字を書く細筆は左手で持ったりしながら、奮闘したものだ。

先生がたは、鉛筆や大小の筆を右に左にと持ち替える私を見て、あきれながらも器用だと言って感心していたけれど、それは見当違いのほめ言葉。私にしてみれば、必要に迫られた苦肉の策だったのだから。

うまく使える手がたまたまみんなと違うだけで、どうしてこんなに大変な思いをしなければならないの。先生さえもそれがわかっていないなんて。子ども心にも、そんな不満をいだいていた。

 

ある年のクリスマス、4人きょうだいの私たちに、両親がギターを買ってくれた。かわるがわるギターを手にしては弾いてみたが、左利きの私が左手で弦を押さえて右手で弾いても、みんなのようにはうまくいかないのだ。

弦の順番を逆に張り替えて、左利き用にしてみた。ビートルズのポールのギターだ。すると、弾ける、弾ける。ただし、コード表も手元とは逆になるので、読み取るのに骨が折れたけれど。

ギターが弾けた喜びもつかのま、弦はまた元どおりにさせられた。4人のうちでただ1人左利きだったから、多数決で我慢をするのは私。この時初めて、ぎっちょの自分をみじめに感じたものだった。

 

同じように社会においても、少数に過ぎない左利きは、いつも我慢を強いられているように思う。右利きの人に、どれだけそのことがわかってもらえているだろうか。

あなたは、漢字が右手で書きやすいようにできていることを考えながら書くだろうか。自動券売機のお金の投入口が右側についていることを、電話のダイヤルや腕時計のねじが右手の指で回すようになっていることを、あなたの家の缶切りや裁ちばさみが右手用にできていることを、意識したことがあるだろうか。ようやく出回るようになったとはいえ、左利き用の道具には右手用の倍の値段が付けられていることを知っているだろうか。

これは人から聞いた話。歩道と車道の本の5cmの段差が、車椅子にとっては大きな障害になるのだとか。言われてみればなるほどと思えるのに、自分の2本の足で歩く私は考えたこともなかった。私も大多数の1人なのだ。

左利きなどは、わずかな我慢ですむけれど、普通の人とちょっと違っているばかりに、大きな犠牲を払わされる人々のことを、もっと心にとめたい。それが、左利きに生まれた私の、ひとつの使命のような気がする。


 



旅のエッセイ: 旅するアートか、アートする旅か2023年04月25日

 

私の趣味はと聞かれたら、いくつもあるけれど、小説を読むことと、美術を鑑賞することの2つは、必ず答えに入るだろう。それをダブルで提供してくれるのが、原田マハさんだ。

作家としても数かずの賞を受賞しているし、美術館のキューレーターをしていたくらいだから、芸術にも造詣が深い。天は二物を与えるのだ、といつも思ってしまう。

マハさんにはアートを題材にした小説もたくさんあるが、今手にしているのは、『原田マハの名画鑑賞術』という本。文字どおりハウツーものだ。

「日本は世界的に見ても美術館大国」と、帯には書いてある。

本書では、日本の美術館が所蔵する18人の芸術家の作品を取り上げて、鑑賞している。

 


この本を図書館で借りて読み始めたのは、3月上旬のこと。

ちょうどその頃、夫と名古屋に1泊する予定があり、そこで何をしようかと計画をしているところだった。

タイミングよく、この本が大きなヒントをくれた。愛知県美術館にグスタフ・クリムトの絵があるというのだ。この美術館の場所をグーグルマップで調べてみると、なんと滞在予定のホテルから歩いても10分とかからない距離にあるではないか。決まりだ。


私は彼をクリムトさまと呼ぶ。大ファンである。40年前からの筋金入りのファンだというのが、私の自慢である。金を用いたモザイク模様の中に写実的な人物が描かれていて、官能的な肢体やまなざしで、見る者を引きつけてやまない。あやしい魅力がたまらないのだ。

本書で紹介されている彼の絵は、「人生は戦いなり(黄金の騎士)」。

写真からわかるのは、騎馬に乗り、鐙(あぶみ)を踏んで直立する騎士が横向きに描かれていることぐらいだ。その絵のディテールや質感がすばらしいと書いてあるのに、残念ながら8cm四方の写真からは見てとれない。

これはもう、行って本物の絵を見るしかない。

この本は半分まで読んで図書館に返却した。自分で購入して手元に置こうと思ったのだった。

 

さて当日、名古屋到着後、ホテルにチェックインしてから美術館に出向いた。広い道路、広い歩道、大きなケヤキ並木は新緑が光り、根元の花壇には、黄色いチューリップと水仙が満開で美しい。

愛知県美術館は、愛知芸術文化センターの10階と8階にある。エレベーターを昇っていくと、吹き抜けの天井からぶら下がるような大きな作品が展示されている。人間に見えたり、鳥にも見えたり……。

休館かと思うほど、がらんとしている。平日だからか。事前に公式サイトも覗いてきた。今、企画展はなく、常設展のみだそうだ。

受け取ったチケットの半券には、クリムトさまのくだんの絵があった。やはりこの美術館の〈売り〉なのだろう。もうすぐ会えるのだ。

とはいえ、この絵を目指して一目散などという、はしたないまねはしたくない。現代美術の作品を一つずつ丁寧に見ていく。広い展示室が続く。絵画もあれば、彫刻や立体作品もある。説明がないと首をひねりたくなるようなものも。 


訪れる人の少ない展示室で、近くにいたひとりの男性にふと目をとめた。背が高く、ウェーブした長めの黒髪、黒ずくめの服。後ろ姿からも日本人ではないとわかる。作品の解説にスマホを近づけているところを見ると、翻訳アプリを利用しているのだろうか。横顔を向けると、その白さにドキリとした。まるでギリシャ彫刻のようだ。どこの国の人だろう。この室内の、どの作品よりも美しいと思った。

 

夫はとっとと先の部屋を覗いて、どこに消えたかと思ったら、廊下のソファに座っていた。

どうもおかしい。近くにいたスタッフに、チケットの絵の場所を尋ねた。

「今はヨーロッパで展示のために、ここにはないんです」とのことだった。

何年も前に、かの地から日本にやってきた絵画は、現在帰省中だったのだ。ホームページを見ても、気がつかなかった。

改めて、ページを開いてみる。そのお知らせは、「新着情報」を昨年7月までスクロールしてやっと見つけた。せめてトップページにそれを貼り付けておいてくれたら、落胆することもなかったのに。

しかたない。仕切り直しだ。また絵が帰国したときに、見に来よう。お楽しみ期間が増えたと思えばそれもまた楽し。


▲愛知県美術館のチケットの半券。手のひらサイズの小さなものです。

 

さらにもう一つのアートの話。

この本のクリムトの次の章には、エゴン・シーレの絵が紹介されていた。

折しも、東京では「エゴン・シーレ展」が都美術館で開催中。

10年前、彼の大きな展覧会を見た時、かなりの衝撃を受けた。クリムトさまの弟子でもあり、嫌いではないのだが、いかんせん、その時の重さと暗さが忘れられず、たださえ病院通いの重く暗い気分のこの時期に、わざわざ見に行きたいとは思わなかった。

 

本書に載っているのは、「カール・グリュンヴァルトの肖像」という人物画で、豊田市美術館所蔵とある。同じ愛知県だ、名古屋ついでに行ってみようか。

しかし、電車を乗り継いでいくと、名古屋からでも1時間半を要するらしい。残念ながら諦めた。

こうして、本書の中の2点のアートにそっぽを向かれたのだった。

 

ところが。

名古屋に行った後、友人にこの本を見せると、パラパラとめくって、

「この絵も、シーレ展にあったよね」とつぶやいた。

「えー! そうなの? 名古屋から豊田に行かなくて正解だったのね」

その日のうちに、シーレ展のチケットを予約。最終日の3日前だった。

 

▲エゴン・シーレ展で買ったえはがき「カール・グリュンヴァルトの肖像」。


かくして、今度こそは会えた。まぎれもなくマハさんの本の写真で見た絵だ。小さな写真と違って、グリュンヴァルト氏が、ほとんど等身大に描かれた縦長の堂々とした作品だった。

愛知県豊田市から、わざわざ上野の山へやって来てくれてありがとう。

マハさんは解説で、次のような言葉で、この絵を語っている。

「グリュンヴァルトの本質的なもの、内面を引き出して描くことこそが、おそらく表現したかったことではないか。(中略)シーレはやりきった。素晴らしい。この肖像画は歴史的なもの」

これまでの肖像画の常識は、本物よりも見栄えがするように、偉そうに見えることが大事だった。しかし、そんな既成の価値観を打ち破ってこそ、芸術なのだ。

マハさんの鑑賞術を読んでからシーレの絵と向き合ったことで、別の見方ができたような気がする。今回はさほど重さも暗さも感じなかった。

才能ある一人の若者が、作品を生み出し、仲間と交わり、信仰を持ち、恋をし、そして28歳の若さで病に倒れて死んでいく。かけがえのない人生の、命の、はかりしれない重さ。私は、それだけを背負って、片道1時間の旅を終えた。

 

まるで、クリムトに会えなかった代償のように、彼の弟子に会えた。不思議な出会いだった。




おススメの本『月の立つ林で』2023年04月02日



 

昨年の9月におススメした『赤と青とエスキース』の著者、青山美智子さんの最新刊です。新聞広告を見て、すぐに図書館で予約しました。

 

読みやすくて、おもしろくて、おしゃれで、心優しくて。

この4つだけでおススメ条件は十分ではないでしょうか。

これだけで読んでみたいと思われたら、この続きは読まないほうがいいかもしれません。ネタバレでごめんなさい、という意味で。

 

①読みやすい。

設定は現代。子どもから高齢者まで、幅広い年齢層の登場人物たち。セリフも多く、言葉遣いもナチュラルで、こんなふうにさりげない文体でエッセイも書いてみたい、と思います。

 

②おもしろい。

5つの章立てで、ひとつの物語となっています。まるで短編集のようではあるのですが、そうではない。1章では脇役だった人物が、2章では新しく主人公として描かれる。1章の主人公は5章でキーパーソン的な端役としてちらりと出てくる……といった具合に、人物たちが現れては影を潜め、また現れて少しずつ物語の全体像が見えてくる。推理小説を楽しむようなおもしろさがあります。

その他にも、タイトルの一部「月」が、構成のうえでも、素材としても、天文学的にも、文学的にも、重要なテーマになっているのです。

さらに、お笑い芸人が必死でネタを考える場面では、笑ってあげたくなるし、今どきのアマゾンミュージックからポッドキャストを聞くなんて、今どきの新しさにも興味が湧きます。

 

③素材がおしゃれ。

手作りのワイヤーアクセサリーとか、切り絵アートとか、美しいものたちがイメージされて楽しめる。この著者は、物語の空間を情緒豊かに彩ることがとても上手で、惹かれます。

ほかにも、アイパッドでグーグルのポッドキャストをネット視聴するなどと、新しい現代のアイテムが持ち込まれ、しかも、若い人が高齢者に手ほどきをしているので、読み手もなるほど……と、置いてきぼりにならずにすむのです。

 

④心優しい。

とにかく癒されます。「誰かのために何かをしたい」と、主人公たちは皆思っているのですが、なかなかうまくいかない。傷つくこともある。それでも、誤解が解けて、本当のやさしさが通い合う。よかったなと心が温まるのです。

話が逸れますが、私は直木賞の作品を読むという自分なりの課題を持っています。最近は戦国時代の作品を続けて読みました。それ以外にも、あまりに殺戮シーンの多い作品は、読むのを休止中にしてしまっているのもあります。

そんな時に手にしたこの本、なんと穏やかでやさしいのだろうか。「癒し系」はべつに好みではない、と自覚していたはずなのに、しみじみと癒されて、読んでよかった、と思えました。

 

うららかな春爛漫。

とはいえ、出会いと別れの季節でもありますね。

疲れた夜には、読書もいいものです。

そんな時に、おススメの一冊です。


ダイアリーエッセイ:WBC準決勝を見て2023年03月21日

 

WBCの頂点を目指す侍ジャパンの戦いを、1次ラウンドからすべて、テレビの前に貼りついて見てきた。

大谷選手も、一躍人気者になったヌートバー選手も、もちろん目が離せないのだけれど、中でも気になったのは、絶不調に苦しむ村上選手の姿だった。

彼を見ていて、ある記憶がよみがえってきたのだ。

 

小学6年の時のことだ。学年全員で横浜市の体育大会に出場することになって、その練習を続けていた。競争ではなく演技のひとつに、4段の跳び箱を跳び越えていく種目がある。どのグループも一人ずつ同じ速さで進んでいけばいいのだ。

それが、なぜか急に跳べなくなった。

お転婆の私は、4段どころか5段も6段も跳べていたのに、跳び板まで走っていって手をつくと、ふっと固まってしまう。何度やってもどうしても跳べない。

「そのうち、また跳べるようになるから」と、先生は苦笑いでスルーしてくれて、跳び箱の横を走りぬけるしかなかった。

そして大会当日、私はどうなったか。

ないのだ、その日の記憶が。ないところを見ると、きっと跳べなかったのだろう。屈辱の記憶だからこそ、抹消してしまったのだと思う。

 

さて、本日の侍ジャパンVSメキシコの戦い。あいにく家族もいないし、朝からビール片手にというわけにもいかない。それでもドキドキしながら孤独な応援を続けた。

4回表に3点も先制点を取られて、なかなか返せない。ようやく吉田選手の3ランホームランで同点に持ち込んでも、次の回でまた1点取られてしまう。

村上選手の不調は、準々決勝で2回のヒットを放ち、復調したかに見えた。が、今日もやはり不調気味で三振が続く。

彼がわが子のようでもあり、遠い日の自分のようでもあり、バッターボックスに立つたびに、今度こそ、今度こそと祈り続けた。

1点差で迎えた9回裏、もう後がない。彼は日本中のファンの祈りを受けて、ついにタイムリーにヒットを放ち、サヨナラ勝利を決めることができたのだ。

その瞬間、滂沱の涙が止まらなくなる。よかったね~、村上選手!

打順が回ってきたことも、その時に打てたことも、村神様はいたのかもしれない。でも、彼を信じた監督、不調な彼を支えてきたチームメンバー全員、応援し続けてきたファンのすべてが、神様となったのだと思う。



 

「岸田首相、本日ウクライナ電撃訪問」のニュース速報も入るなか、侍ジャパンの勝利と村神様の復活に酔いしれたひとときだった。

明日の決勝もがんばれ、侍ジャパン! 




母を想う日々 6:あの頃の母に2023年03月08日

 

あの頃の母に

 

2月半ば、副甲状腺の腫瘍を摘除する手術を受けた。放置すると骨密度がますます下がっていくという。首元を横に5センチほど切開するのである。

手術当日は、おととし亡くなった母の、生きていれば100歳の誕生日にあたる。母が見守ってくれるだろう。そして私は母の長寿を受け継ぐにちがいない。心強い、と思った。

 

長引くコロナ禍にあって、患者が出入りする病院は、依然として厳しく感染防止対策がとられていた。面会は一切禁止。売店の買い物は原則ヘルパーが代行。食事時のお茶のサービスはなく自販機で購入する。

土日でも見舞い客のいない病棟は静かで、個室に入った私は、気楽なひとりの時間を過ごす。この時のために、タブレットに電子本を何冊も流し込んで持参していた。

その中の『重力ピエロ』には、兄弟の父親が明日手術だというくだりがあった。あら、私と同じ。それを読んでいたのが、ちょうど私の手術の前日だったのだ。結局、父親のがんは開腹したものの手の施しようがなく、息子たちが火葬場の空に父の煙が昇っていくのを見つめるシーンで終わる。私の腺腫は99パーセント良性だと言われているので不安はない。

 

翌日の手術は午後から。朝から飲まず食わずで、点滴を入れながら読書三昧となる。

次に読み始めたのは『夜に星を放つ』という短編集。昨年夏の直木賞受賞作で、著者の窪美澄さんは私の好きな作家だ。

物語に、死んだ母親が幽霊となって中学生の娘のもとに現れる話がある。またしても私と同じ? いや、私の場合は幽霊ではない。晩年の母ではなく、元気で私を支えてくれた若い頃の母を思い出しているだけだ。


40年近く前、私は結婚してまだ子どもができないうちに、片方の卵巣を摘出する手術を受けた。外出先で腹痛を起こし、救急車で外科に運ばれて、緊急の開腹手術だった。下半身だけの麻酔だったから、手術中の機器の音や、医師たちの会話もよく聞こえた。

「女の人ってのは、危ない橋を渡って生きてるんだなぁ」と一人の医師が呟く。卵巣の血管が切れて腹腔内に大出血していたらしい。手術の後に、「半日遅れていたら命はなかった」とまで言われた。

当時の母は、今の私よりも若く、毎日のように都心の病院まで見舞いに来てくれた。私は事の重大さをあまり意識しなかったが、母はどれだけ心配したことかと思う。母の心配は杞憂に終わり、その後3人の子を授かった。

 

なぜか2人の息子とともに、気持ちのよい草原にいる夢を見ていた。ああ、幸せな気分だ……。

「石渡さん、起きてください。終わりましたよ」

その日の手術は眠っている間にあっけなく終わった。しかし、目が覚めたとたん、首が圧迫されて傷が痛む。首をねじってはいけないと言われ、緊張して寝返りも打てず、苦痛の一夜を過ごした。

ふと、病室に若い頃の母が顔をのぞかせるような気がする。そんなバカな、と打ち消す。母にこのことを伝えようと思ったりして、またも苦笑する。麻酔のなごりか、小説の読みすぎか、あらぬ世界に引きずり込まれるかのようだった。それとも40年前にタイムスリップしたのだろうか。

晩年の母ではなく、あの頃の母に会いたいと思った。でも、もう母はいないのだ。母が亡くなってから初めて、寂しさをかみしめて泣いた。





ご報告のためのエッセイ:「姉からのLINE」2023年02月20日



2日前のこと、

「ご心配をいただきましたが、手術も無事終わり、経過良好で昨日退院してきました。これでまた普通の生活に戻れると思いきや、のどに大きな傷を抱え、術後からの頭痛が抜けず、まだまだ病人状態です。回復が遅いのは年のせい?!と落ち込んでいます」

「ひとみさんの口から落ち込んでると聞くのは、68年間で初めてよ」

私からの報告に、そんな返事をくれたのは3つ違いの姉でした。

意外でした。私はいつだって誰かに愚痴をこぼし、弱音を吐いては、励ましの言葉をもらって支えられてきたと思っていましたから。

そんなふうに突っ張っている妹だった? ……いやいや、これはいつもの姉流の励まし。達者な毒舌の裏が読めたら、ちょっとほろりとして、思わず涙ぐみました。姉の言葉はさらに続きます。

「私たちの母譲りの遺伝子は100歳生存可能なんだから、老年期前の必要なメンテナンス。7080代で脊椎やられている人もたくさんいるから、今のうちに手を打ててラッキーなのよ。

回復しない病気ではないので、ここは心を病まないように、好きな音楽でも聴いて乗り越えて!」

 

たしかに姉の言うとおりです。未来に向けての治療だと、自分でも納得して手術を選んだはず。回復には若い頃の何倍も時間がかかるのは仕方ない。ここで落ち込んでいないで、今日よりは明日、明日より明後日、少しずつ回復に向かうことを信じていましょう。

 

散歩を兼ねて、遠回りで買い物に出ると、久しぶりに通る道沿いの畑で、白梅が花を咲かせていました。これからは次々と花が開き、春はかならずやってくる。何も焦ることはない。そう思えました。

 


自閉症児の母として(77):支援者の皆さんにお話をしました2023年02月02日



毎年冬の時期に、東京都発達障害者支援センター主催の支援員研修会のなかで、自閉症児の母として、お話をさせていただいています。

コロナ禍で、中止になったり、オンラインになったりして、今回は3年ぶりに対面となりました。

 

講話のテーマとして、「子育てを通して親が学んだこと、支援者に望むこと」とあります。これも毎年ほぼ同じで、年に一度、子育て振り返りの機会をいただくと、お話ししたいことが少しずつ違っていることがわかります。過去のエピソードが変わることはありませんが、新しい気づきがあったり、意味を見出したりするのです。なんと貴重な機会を頂いていることかと、ありがたく思います。

 

◎まず、子育てを通して学んだことは?

★その1

あるがままを受け入れて心を通わせていく〈受容的交流方法〉。

キーワードは3つ。「安心」をさせて、「経験」をさせて、自分の意思で行動できるように、ひいては「プライド」を持って生きていけるようになることが目標です。

子どもの気持ちに寄り添うことは、障害児の子育てばかりでなく、健常児でも、高齢者の世話をするときも、人との付き合いにおいても、人間関係の基本ではないかと思います。

 

★その2

子育ては、みんなに助けてもらうことが大切です。

家族、親戚、ご近所、学校、地域の人々……みんなに理解してもらい、見守ってもらい、助けてもらわなければできません。親が子どもを抱え込んで壁を築いては、いつか行き詰ってしまいます。

本当に感謝してもしきれないほど、温かい人々に支えられた歳月でした。

 

★その3

毎年、必ずお話ししたい2つのエピソードがあります。

うちの子に限って、どうして……と悩んでは泣いてばかりいたころ、施設の園長先生から聞いた言葉です。

「現在、自閉症児は1000人に1人の割合で生まれると言われています。皆さんが苦労してお子さんを育てているからこそ、ほかの999人のお母さんはフツウの子育てを楽しんでいられる。つまり、皆さんは、1000人の代表として自閉症児を育てているんですよ」

ああ、私たちは選ばれたんだ、神様に。そう思えました。

その時から、私は神さまに選ばれたプライドで、前を向いてひたすらがんばることができたのです。ポジティブシンキングは大切ですね。

 

同じように、園長先生はこう言われました。

「子どもの犠牲にはならないで、自分の人生も大切にしてください」

どれだけ気持ちが軽くなったことでしょう。

今でも私の座右の銘です。

だからこそ、エッセイを書き続け、エッセイに支えられ、仕事にもなり、私の人生に、なくてはならないものになりました。

自閉症の息子についてのエッセイ集を出版したことも、こうしてお話しすることに役に立っているのです。

 

★その4

自閉症は、自分に閉じこもるのではなく、自分と他者との境界がない、混沌とした世界の中にいるように感じています。だから、人と自分との関係性がわからないのです。

・ただいま。おかえり。その区別がわからない。

・プレゼントは誰が誰に贈るのか。だれからもらったのか。

・母の日には、ママとカーネーションが必須アイテムで、誰が買ってきても、それはまったくの不問。

・「暴力事件が勃発した!」と言うのだけれど、誰が誰をたたいたのか。加害者と被害者の区別がわからない。

・スポーツ中継など、テレビの画面で小競り合いが起きると、その感情が自分の中にも流れ込んでしまって、パニックになる。

 

だからこそ、その混沌を秩序立てるために、変更のないカレンダー、前もって決められたプログラム、例外のないルールなどが必要なのでしょう。彼には大事な生活の必需品です。その枠組みで世の中が正常に動いていれば、突発的な異常事態が起きなければ、彼は安心していられるのです。

 

そこで気がついたこと。

息子は、16歳の時に側わん症になり、背骨をまっすぐにするために、8時間に及ぶ手術を受け、20日間も入院していました。完全看護でしたが、特別に私が付き添いを認めてもらって、2人部屋で寝泊まりしました。それでもよく頑張って、退院までこぎつけたと思います。

そういえば、彼は小さい頃から、注射や薬などで、親を困らせることはありませんでした。

おそらく彼は、病気という異常事態こそが許せないのです。熱が出たら、早く熱を下げたい。背骨が曲がってくれば、まっすぐに治したい。その価値観が強かったから、治療にもおとなしく従ったのではないか、と思うのです。

そして、その後2度も手術を受けますが、最初の経験がしっかりと生きて、怖がらずに自分から進んで手術室に入っていった姿がとても印象的でした。

 

◎支援者に望むことは?

療育や支援は、けっして障害者を健常児に近づけることではない、と思うのです。ノーマライゼーションとは、社会が障害者の環境を整えることで、健常者と同じように暮らしやすい場を作っていくことではないでしょうか。

例えば、自閉症の人たちは、息をするように独り言をいうのですが、それをうるさいからやめて、というのでは、障害イコール迷惑だ、となりかねません。周囲の人が気にしないですむ環境作りを工夫してほしいのです。

障害児を普通に近づけようとすることは、障害は良くないものという前提があって、障害児を否定することに通じてはいないでしょうか。

息子のことを「面白いですよね」と言われると、うれしくなるのはなぜでしょう。障害を持っている、そのままの息子を受け入れてくれていると感じるからです。

 

36歳の息子は、今なお成長を続けています。

自閉症は決して消えません。治るものではありません。

ですから、彼の成長とは、障害を抑え込んで健常者に近づくのではなく、社会で少しでも生きやすいように、折り合いをつけるすべを身につけていくことなのです。

これからも、どうか温かいご理解とご支援をよろしくお願いいたします。


▲東京都発達障害者支援センターは、息子が3歳からお世話になってきた施設が受託しています。この建物は、一度建て替わりましたが、ここには30年以上も通い続けていることになります。



1200字のエッセイ: ユーミンと私の50年2023年01月19日


 

        

   ユーミンと私の50 

 

昨年来、ユーミン50周年の記事や広告が新聞に踊っている。

もう半世紀にもなるのだ……と、ある記憶がよみがえる。

 

彼女がデビューして間もない頃、私が通う大学の文化祭で、彼女のコンサートが開催されることになった。彼女の婚約者の松任谷正隆氏が、大学の卒業生だったからだ。まだ現役の学生で、ユーミンファンだった私たちサークル仲間は、コンサートの実行委員とかけあい、無料で見せてもらう代わりに、出演者の接待係を仰せつかった。

コンサートは古い校舎のホールで行われ、殺風景なステージで、彼女はつばの広い帽子をかぶり、当時流行りのパンタロンスーツという衣装で、ピアノを弾いて歌った。あぶなっかしい歌いっぷりは、レコードで聴いていたのと変わらなかった。

ユーミンほか、ハイファイセットなどの出演者とスタッフのために、私たちは楽屋で紅茶を入れてもてなす。屈強な男子学生が、校内をボディーガードのように連れて歩く。握手もサインもなし。

同年代のユーミンに対して有名人だという緊張感はなかったけれど、ティーカップを洗いながら、なぜかふと、彼女は私たちとは別格の女王様のように感じられたものだ。

 

そして、半世紀が過ぎた。今なお、ユーミンは正真正銘の女王様であり続けている。あの時、こっそりサインの1枚でももらっておけばよかった……。

彼女は、想像できないほどの努力をしてきたことだろう。でも、それを感じさせないところが、女王様らしいかもしれない。

私はといえば、松任谷氏と同じ大学卒の男性と結婚したけれど、ユーミンとは違って3人の子を授かった。子育てをしながら、仕事も、趣味も、それなりにがんばってきたつもりだ。

非凡と平凡。たしかに違いは大きい。

しかし、かけがえのないそれぞれの命を燃やして生きてきた50年という歳月に、ユーミンと私、何の違いもないのだ。それだけは胸を張って言える。







▲当時、たまにレコードを買うこともあったけれど、たいてい貸しレコード店で借りてきてはカセットテープにダビングして聴いた。そのカセットケースには、曲のタイトルを書き、さらに曲のイメージの絵や写真を雑誌から切り取って挟み込んで、カスタマイズしたものだ。

もうテープを再生する機器も手元にはない。それでも、レコード以上に捨てがたいテープたちなのである。


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