エッセイ「車内で出会った少年」 ― 2012年08月26日
もうすぐ子どもたちの夏休みも終わろうとしています。
市営地下鉄の車内は、それほど混んではいませんでした。ちらほら空席もあるくらいに。
私の真向かいの席には、白いポロシャツを着た少年がいました。「バスケットボール部」と書かれたショルダーバッグを膝に置いている。たぶん、部活帰りの中学生なのでしょうけど、どう見ても少年と呼ぶのがふさわしいような男の子です。さっきから、熱心に文庫本を読んでいます。
駅に止まると、お母さんと小学生ぐらいの女の子が乗ってきました。ちょうど私の隣が空いていたので、お母さんが座り、
「ほら、そこ空いてるわ」と女の子には、向かいの少年の隣を指さしました。
女の子は、「うん」とうれしそうに座りました。
すると今度は、少年がひょいと立ち上がってこちらにやって来ました。
「あっちへどうぞ」と、私の隣のお母さんに、自分が座っていた席を譲ったのでした。「あら、ありがとう!」
お母さんと女の子は、一緒に座ることができました。少年は私の隣の席へ。
えらいのね……と、少年に声をかけたかったけれど、言葉を呑みこみました。彼はなにごともなかったように、また本を開いて続きを読んでいます。じゃまをしないでおこうと思いました。
お年寄りがいたら席を譲る。それはできるかもしれない。でも、乗り込んできた親子連れが隣同士に座れるように、さっと席を譲ってあげられるなんて……。しかも、当たり前のように、ごく自然に席を立った少年。
どうしたら、こんなふうに相手の気持ちがわかる少年に育つのかしら。
彼自身がかわいがられて育ったから?
両親や周りの大人たちが、そうやって生活しているから?
たぶんどちらも正解でしょう。
ふと秋風を感じたような、小さな出来事でした。

秋の旅 ― 2011年11月09日

関西に行ってきました。
初めて降り立った大阪、4年ぶりの京都、どちらも小雨が降り、紅葉には一足早い感じでした。
写真上は、雨にけぶる大阪城と菊祭り。
写真下は、京都・嵯峨野で一番紅葉が美しいといわれる常寂光寺。まだまだしっとり緑のたたずまいでした。

それでも、関西在住の旧友たちと会って、ゆったりはんなりの休暇を楽しんできました。
この旅が、私のなかで熟成したら、エッセイが生まれてくるかもしれません。
秋のエッセイ №2 「ハロウィーンの夜に」 ― 2011年10月11日
ハロウィーンの夜に
今年も風が冷たくなって、店先に黒とオレンジ色の飾りが目につくようになった。この時期になると、忘れられない思い出がよみがえる。
ハロウィーンという言葉さえ日本では知られていなかった30年前の話である。
大学卒業後、英語の勉強を名目に、新学期の始まる9月半ば、ロンドンへ飛んだ。一度旅行をしたこともあるし、英語学校もホストファミリーも日本から決めてきた。万全のはずだった。が、予期せぬ事態発生。着いて2日目、強烈なホームシックにかかってしまったのである。
ホストファミリーは部屋の家具も食事も予想以上に質素だった。お客さんじゃないのだからとわかってはいても、涙が止まらなくなった。腫れあがったまぶたを隠すようにして街に出れば、ゴミが舞う商店街、臭気のする地下鉄……。何を望み、何に憧れてここにやってきたのか、わからなくなっていた。
その日の夕方、私と同じ学校に通うという女性が、スイスから到着した。
「マリスです、よろしくね」
身を屈めるように手を差し出してきた。すらりと背が高く、くりくりした目と金髪のウェーブ。私よりひとつ年下だけれど、英語ははるかに上手だ。私のつたない言葉をよく理解して、おしゃべりをつないでくれるのだった。
私は午後のクラスに通い始めた。生徒数50名ほどの学校は、郊外の閑静な住宅街の中にあり、片道30分の徒歩通学だ。
学校に着くとまず、半地下にある食堂へ。そこで午前の授業を終えたマリスと落ち合う。社交的な彼女の周りには、たくさんの仲間がいた。ヨーロッパ各国の生徒たちである。
10月になると、食堂の入口に顔をくりぬいたランタンが置かれた。そういえば、子どものころ教会学校でもらってくる外国の冊子に、お化けと子どもたちの漫画が載っていた。そこで見たランタンと同じだ。私は今、あの漫画の子どもたちと同じ世界にいるのだ……。
ハロウィーン。11月1日はカトリックの聖人たちの祝日で、その前夜は邪悪なる者たちがお祭りをするのである。英語学校でもその夜は仮装パーティーが開かれるという。
でも、最小限の服しか持ってきていないし……とあきらめていたら、「大丈夫、私に任せて」と、ホストファミリーの奥さんが、近所を駆け回って衣装をそろえてくれた。
マリスにはグリーンのジャンパースカートに白いブラウス。私には同じ色のブレザーにネクタイ。この地域の小学生の制服だそうだ。ふたりとも、赤い頬紅をまるくさし、目の下には大きなそばかすをたくさん描きこむ。マリスはリボンで髪を束ね、私は男の子っぽくキャップを斜にかぶった。こうして出来上がったノッポとチビの小学生カップルは、ペロペロキャンディを片手になかよく手をつないで、夕暮れのなか、学校へと向かった。
いつもの通学路に、白いチュチュを着た無精ひげのバレリーナが通る。笑い転げていると、血を滴らせたドラキュラがマントをひるがえして追いかけてくる。悲鳴をあげて逃げると本当に怖くて、ドキドキしながら大笑い!
パーティー会場の食堂も、今宵はかぼちゃのランタンに火がともり、薄暗いディスコになっていて、ダンスパーティーが始まる。先生も生徒も、狭いフロアでダンスに興じる。
やがて魔法使いのおばあさんが登場して……。じつは校長先生、男の子と女の子ひとりずつに仮装大賞を贈ります、と発表した。
「女の子の賞は、キュートな宇宙人に……」
銀色のぴったりしたコスチューム、揺れる2本の触角をつけたドイツ人の女の子だった。
「次に、男の子のベストワンは、日本から来た小さくてかわいらしい小学生に!」
私のことだった。なんと、男の子の賞をもらってしまったのである。
その夜、私の頬には祝福のキスの雨が降り注いだ。描きこんだそばかすはかき消され、ホームシックも嘘のように消え去っていた。
秋のエッセイ №1 「昼下がりのふたり」 ― 2011年10月10日
昼下がりのふたり
10月のある日、いつもの地下鉄を途中下車して、大きな公園まで足を伸ばした。
空には真っ白いヒツジ雲。陽ざしは強烈なのに、木立の中は冷たいほどの風が吹く。
ふと、ギターの音色が聞こえてきた。木立を抜けると原っぱが広がり、その向こうのベンチにギターを弾くひとの姿が見えた。切なく情熱的な旋律にいざなわれるまま、原っぱを横切って、ゆっくりと近づいた。
ひげを生やしたギタリストは、がっちりとたくましい肩で、愛しく抱きすくめるように楽器を奏でていた。クリムトの名画「抱擁」を彷彿とさせる。さらに近づくと、彼の指先は意外に細く、曲芸師の足さばきのようなしなやかさで弦の上を動いている。
缶ビール2本を挟んで、彼の隣には女性がいた。二人ともジーンズをラフに着こなし、年齢不詳に見える。私より年上かもしれない。
演奏の切れ目に、思わず話しかけた。
「スペインの曲でしょうか」
「いや、オリジナルです」
彼は低く通る声で答えた。
「プロでいらっしゃる」
「いやいや、趣味でちょっと」
それにしてはかなりの腕前である。
女性は何も言わず、ビールを口に運びながら微笑む。目もとに何本ものしわがきらめいて、いっそう魅力的に見えた。飼い主のそばでのびのびとくつろぐ気高い猫のようだ、と思った。
秋の日は駆け足を始めたらしい。影が長く伸びている。もっと聴いていたかったが、礼を言って離れた。
私にもやがて訪れる人生の秋。あの二人のように満ち足りた時を持てるのだろうか。
公園の木立はもうすぐ色づき、華やかなフィナーレを迎えることだろう。そのころにまたひとりで来ようと思った。

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