母から娘へ(1600字エッセイ)2021年02月10日

◆ 母から娘へ ◆

 

昨年11月の末のこと、娘が夕飯を食べに来て、言った。

「上海へ転勤することになりました」

 

大卒で銀行に就職して10年目。同期入社の男性と結婚して4年になるが、子どもはない。2人とも本社勤務だった。夫を残して妻の単身赴任など、近頃は珍しくないらしい。

私の影響もあってか、娘は学生の頃から海外旅行が好きで、いずれは海外で働くのだろうと自然に思っていた。私の夢でもあったから、楽しみだった。

 

ところが、いざ現実となるとどうリアクションしていいのか、わからない。よりによってコロナ禍のこの時期に……と、ただ唖然とするばかりだ。娘が言うには、上司に「早く私を出してくださいよ」とちょっと口にしたら、すぐ上海行きの話が来たとか。好きこのんで今出たがる人も少ないのだろう。

もっとも、ヨーロッパに比べたら発生源の中国は収束に向かっており、上海も厳しい感染対策が敷かれているので、東京にいるよりよほど安全かもしれない。

海外とはいえ、時差も1時間で、片道4時間足らずの隣国ではないか。日本人も大勢住んでいると聞く。いやいや、隣国とはいえ、国の仕組みが根本から異なる社会主義大国だ。思わぬ事態が待ち受けているかもしれない。

 

やがて、出国の準備を進める娘から、出生届け先はどこだったかと聞かれたり、色あせた母子手帳の予防接種のページを写メして送ってみたり……。そのぐらいしか私にできるサポートはない。

そんな時、ふっと脳裏に浮かんだ私の母の言葉があった。

 

 

今から40年以上前、私がまだ独身で両親と住んでいた頃のこと。

就職先を1年半で飛び出し、日本語教師養成講座を修了した私は、最後の仕上げという名目で、英語の勉強に半年ほどイギリスに滞在する予定でいた。

これまでの勉強の費用はすべて自分でためこんだ資金でまかなった。イギリスでの授業料は、現地の奨学金をもらう手はずを整えた。特に両親に相談するまでもなく、すべては自分で決めたことだった。

両親は反対することもなく、見守ってくれた。結婚適齢期の娘が、結婚には興味を示さず、はるか遠くに半年も行くというのだ。パソコンもインターネットもない時代、エアメールか高額な国際電話ぐらいしか、連絡を取る手段はない。どれほど心配だったことだろう。

もうすぐ出発というある日、二人で昼食を作っていると、母がふと呟いた。

「そんなとこに、行かなくてもいいのに」

私は黙っていた。ただじっと、自分の半そでから出ている腕を見つめていた。どう思ったのかさえ覚えていない。何も感じなかったのだろうか。

 

 

あの時の母の気持ちが、今ようやくわかった気がする。応援したい気持ちは大いにある。でも、心配しだしたらきりがない。そんな複雑な母親の胸のうち。まさしく「子を持って知る親心」であろうか。

 

でも私は、母と同じセリフはけっして呟かない。

「そこへ行って、がんばっていらっしゃい。新しい経験を、日本と違う経験を、たくさん積んで帰っていらっしゃい!」

そう言って、送り出してやりたいと思う


 

(母子手帳のページ。ツベルクリン反応や、三種混合の予防接種の記録を写メして娘に送った)




自閉症児の母として(68):ふたたび緊急事態宣言が出て2021年02月06日

老人介護施設や障害者施設で、新型コロナのクラスターが発生していることもあり、長男がお世話になっているグループホームでも、感染防止に真剣に取り組んでくれています。

 

息子は、土曜の朝にエレクトーンのレッスンを受け、そのまま自宅に戻って1泊。翌日、日曜の昼食を済ませて、空いた電車でクループホームに戻る。これが毎週末の彼のルーティンです。

1月になって緊急事態宣言がふたたび発出されると、グループホームの責任者の方から、あるお願いをされました。土曜に帰宅したら、翌日ホームに戻らずに2泊して、月曜の朝、自宅から出勤するようにしてもらえないかと。電車で移動する時間を少しでも短くして、感染リスクを減らしてほしい、というのです。

わかりました、と二つ返事ができませんでした。リュックを背負って、職場へ行き、夕方の時間にホームに戻ることによって、どれだけリスクが減らせるのか。いつもは日曜の昼食が終わると、彼の頭の中にはホームに戻ってやるエレクトーンの練習や、自分の部屋の掃除など、午後の予定が渦巻くようになって、いそいそとしだすのに、そのまま自宅に居続けて、時間を持て余すのではないだろうか。心配になります。

そこで、こちらから提案したのは、緊急事態宣言が解除されるまで、週末も自宅には戻らないで、ホームで過ごすことにしてはどうか、ということでした。

本人も全く問題なしの様子で、すんなりと受け入れてもらえました。

これなら、週末の移動のリスクも減らせます。一件落着したと思いました。

 

ところが――

いつにもまして、ホームで大声を出すようになったのです。ゲームに興奮するのはいつものことですが、目覚まし時計が止まっちゃったと言っては、大声を出し、ゲーム機がおかしいと言っては、大声を出し……。さらには、持たせた50枚入りのマスクが粗悪品だったようで、ひもが切れてしまうことが度重なり、大声も度重なり……。

ほかの利用者さんからも苦情が出て、お世話人の方々を悩ませるようになってしまいました。

もちろん、困っているのは息子本人のはず。今度は私の所にも、出勤前やお昼休みになると、時計が、マスクが、……と電話がかかるようになりました。

あらら、少し不安定になってきたかな。あわてて替えのマスクの箱を抱えて、職場に出向きました。

息子は落ち着いた顔で仕事をしてはいましたが、責任者の方に尋ねると、

「そういえば先日、小さなトラブルがありました。今まで見たことがなかったから、ちょっとびっくりしました」と言われました。

やっぱりそうだったか。

 

緊急事態宣言の再発令で、緊張もしているだろうに、言葉の説明だけでは完全に理解することは難しいのに。それをわかっていながら、いつものルーティンを変更したばかりか、自宅に戻ってくつろぐ機会さえもなくしてしまった。

いけない、いけない、勇み足。親として、大いに反省しました。

春の緊急事態宣言の時に万事うまくいったからと、今回の宣言下ではついつい彼を過信して、先を急ぎすぎてしまったようです。

彼は、言葉で言い表すことが難しい代わりに、大声を出してみたり、電話をかけてきてSOSを発信したりしていたのでしょう。もっと早く気がついてあげればよかった。

 

この週末は、以前のように、土曜に帰ってきて、翌日ホームに戻ることにしました。これを書いている今は、お風呂上がりのひととき、のんびりとお決まりのテレビ番組(なぜかNHKBS4K)を見ながら、スマホをいじっています。

この帰宅を、以前のように毎週ではなく、一週おきに続けてみることにしました。

グループホームの責任者も、息子の状態を理解し、快諾してくれました。

 

これまでも、そしてこれからも、焦ることなく少しずつ自立の道を進んでもらいましょう。

3歩進んで、2歩下がる。息子も、そして親としても。

 



新しい年を迎えて2021年01月08日

 

新年のご挨拶が大変遅くなりました。

「明けましておめでとうございます」と言えるのは松の内、つまり7日までだそうですから、またも出遅れた私です。

今年も最初からこんな調子ですが、どうぞよろしくお願いいたします。

 

◆◆

 

去年を振り返れば、誰が何と言おうと、地球上の人類は新型コロナの猛威に襲われました。年が明けても、それは変わりません。

そんなコロナ禍にあって、ブログという発信の場があることはラッキーでした。「発信」だなんて、かっこつけてちょっと生意気? でもそれは真実。書く場所がある、読んでくださる人がいるということは、幸せなことです。コロナ禍に身を置きながら、日々の出来事や思いをつづってきました。

 

そして、ある日の出来事を、その晩のうちに450字に仕上げて投稿したエッセイが、「ドアノブのマスク」という題で朝日新聞の「ひととき」欄に載りました。

それが思いがけずに反響を読んで、記事にまでなったり、その後も渡辺えりさん執筆の「心に残るひととき」で取り上げてもらったりしました。

まさに、瓢箪から駒とはこのこと。照れくさいやら、うれしいやら……。それでも、障害児の子育てと、それをエッセイに書き続けてきた30年間へのご褒美のように感じられたのです。コロナ禍なのにいい年だった、と言っては叱られそうですが、素直に喜ぶことにしました。

 

さらに、今年は「ひととき」が始まって70年目だそうでだそうで、年末年始に連載する特集記事にも、ちょこっとだけ載っています。

紙面では、1230日の「投稿欄ひととき、なぜ始まったの?」という大きな記事に添えられた年表「70年の歴史と特集が組まれた主な投稿」の2020年代の欄に載っています。こちらです▼


(写真はクリックすると拡大し、もう一度クリックすれば元に戻ります)

 

また、連載記事の14日付け「ひととき ことば考 5にも、取り上げられましたが、紙面ではなく、デジタル版です。コロナ禍のさまざまな言葉がひととき欄を席巻したという内容で、私の投稿はさておき、興味深くお読みいただけるのでは、と思います。

 

◆◆

 

さて、今年は……と抱負を述べたいところですが、現在の状況では予測ができませんね。

昨年の1月には、のんきなことに「会いたい人リスト」を作って、再会を楽しみにしていました。結局、リストのうちの一人にしか会えないまま2020年は終わりました。

ブログをリニューアルしたい。そんな抱負も書いていましたが、それも実現していません。それよりも、日々新たなネタのエッセイをつづるほうが忙しかったのです。

 

そして、今日から緊急事態宣言がふたたび発令されました。今年もステイホームの時間が長くなりそうです。

そんな時こそ、見たり、聴いたり、読んだり、リモートで話したり、時間を有効に使いたい。そこからたくさん考えて、たくさん書いて、ブログで発信していきたい。それが抱負と言えば抱負です。つまりは去年と同じだけれど、それが自分らしい過ごし方のような気がします。


今年もどうぞ、覗きに来てください。お待ちしております。




自閉症児の母として(67):洗剤の香りに2020年11月29日


長男がグループホームに移ったのは、昨年の33日。丸一年目の今年の「自立記念日」には、息子の変化について書きたいと思っていたのに、ほかならぬコロナ禍の変化に押し流されて、書きそびれたままになってしまった。

今でも気にはなっているのである。

 

そんなおり、925日の朝日新聞「天声人語」は胸に刺さった。

詩人23人が輪番でつづるサイト「空気の日記」が紹介されていた。

「コロナで世の中の変化がすさまじい。僕ら詩人の感性で日々を克明に書きとどめる実験です」

というのは、発案者の松田朋春さんの弁。
さらに、いくつもの引用では、「緊急事態」や「不要不急」という言葉に戸惑ったり、カタカナ言葉や横文字の羅列を「犬みたいだ」と揶揄したり……と、詩人たちの思いや感覚がみずみずしい。

 

この記事を読んで、数日前の小さな出来事が頭に浮かんだ。

息子は、毎週土曜日に帰宅して1泊していく。その時に、職場で着た作業着を私が洗濯する。ほかの衣類は週2回自分で洗っているのだが、作業着だけは週末に持ち帰って月曜に間に合うように、自宅で洗わなくてはならない。

その日、背負ってきたリュックの中から、作業着を取り出すと、見知らぬ香りが立ち昇った。

そういえば、ホームのお世話人さんから、「今までの液体式ではなくボール状の洗剤を使ってもらうことにしました」という報告を受けていた。その新しい香りだ。

次の瞬間、思いがけず、寂しさが込み上げた。わが家とは違う匂いの衣類を身につけて、もう息子はよその人だ、家族ではない、と感じたのだ。

そのことを書いておかなくては、と思った。

 

あの日から2か月もたったけれど、やっと書けた。あの瞬間を書き残せた。

今ではその香りをかいでも、なんとも思わない。作業着を持ったまま固まってしまうほどの寂しさは、どこに消えたのだろう。

 

天声人語の文章は、白井明大さんの次の一節で結ばれていた。

 

〈わざわざ書くまでもないような ささいなことを ううん わざわざ書いておかないと あとあと喉元過ぎて忘れてしまうだろうから〉。

 

 





ダイアリーエッセイ:重なる日2020年11月24日

 

今日は、午前中に長男の主治医のクリニックに行く予定だった。

 

ところが昨日の夕方、母のホームから連絡が入った。

「右手の腫れがひどくなって、痛くてご飯の時も使えないご様子です。整形外科にお連れいただけますか」

前日に、手が腫れているが、痛くはないとのことなので様子を見たい、という電話があったのだった。どうやらそれが悪化しているらしい。骨折かもしれない。

原則、通院は家族が付き添うことになっている。もちろん、ホームから車いす専用車で送迎はしてくれる。

「わかりました。午前中に行きます」と返事をした。息子のクリニックへは、朝一で予約の変更をしてもらえばすむ。

 

その電話から、1時間もしないうちに、今度は息子のグループホームから電話が来る。

「モトさんが、食欲がないと言って、夕飯を召し上がらないのですが」

世話人さんの言葉にびっくりした。腹痛もなければ熱もないし、風邪気味でもないという。それなのにご飯を食べないなんて、あの子に限ってありえない。どうしたんだろう。

もしかして、コロナ……? 最悪の事態が脳裏をよぎる。

とりあえず、夜中にお腹がすくかもしれないので、おにぎりを作っておいていただけますか、と丁重にお願いをして、明日まで様子を見てもらうことにした。

 

もし、明日の朝、熱が出ていたら? どこの医者に、どうやって連れていく?もし、コロナだったら? どこで隔離する? どこに入院する? 

息子は独りでは無理だ。私が防護服を身に着けて看病する???

たくさんの疑問の湧き上がるなか、はっきりしているのは、明日、息子の体調が悪化していたら、母はホームにお任せして、いち早く息子のもとに駆け付けるということ。母を世話してくれる人はたくさんいても、病気の息子にはこの私が必要だ。いずれ母亡き後は、福祉にお世話になるけれど、今はまだ私しかいない。

 

緊張して朝を迎えた私に、電話の息子の声は明るく元気だった。

「朝ごはんは全部食べました。お腹も痛くない。大丈夫です!」

世話人さんの話では、換気のため窓を開けたままで、ゲームに熱中していたので、体が冷えたのではないか、ということだった。

とにかくほっとした。

 

安心して、母を連れて外科へ。

レントゲンの結果、骨折はなく、細菌が入って腫れたのでしょうとのこと。念のため、採血して検査をし、明日もう一度、私一人で結果を聞きに行く。こちらも、ひとまずほっとした。

通院のおかげで、9か月ぶりに生の母に会えた。文字どおり怪我の功名に感謝する。

 

長引くコロナ禍でも、感染対策をしながら、何とか楽しみや生きがいを見つけて日常生活を送れるようになってきた。とはいえ、いつどこでコロナを拾ってしまうかわからない。そのリスクは誰もが持っているのだ。

私にはまだ、家族を守る役割がある。

改めて、そんなことを考えた一日だった。

 

それにしても、私の〈GoTo旅行〉の日と重ならなくてよかった、と三たび胸をなでおろしたのでありました。




 



自閉症児の母として(66):渡辺えりさんの言葉2020年07月23日

 

 

 

(写真はクリックすると拡大し、もう一度クリックすれば元に戻ります)


日の朝日新聞生活面に、「渡辺えりの心に残る ひととき」という特集が載っています。3ヵ月に一度の連載で、毎回3ヵ月分の「ひととき」投稿から、えりさんが数編を選んで、感想をつづる記事です。

今回4月から6月までの分で、以前ご紹介した私の投稿「ドアノブのマスク」も選ばれました。この投稿については、すでに記者による特集記事も載ったので、追跡取材はありません。

それでも、えりさんの激励の言葉が、彼女のガッツポーズの写真とともに胸にじんと来ました。

 

私と同じ年のひとみさん、良い友達がいて本当に良かったですね! 息子さんに頑張ってと伝えてください。

 

自他ともに認める泣き虫母の私。朝から涙、涙……でした。

 

自閉症児の母として(65):朝日新聞の記事になりました!2020年05月27日

 

先日の朝日新聞「ひととき」欄の投稿が反響を呼んで、わが家に記者の方が取材に来ました。

そして、本日の朝刊の生活面に、こんな記事が掲載されました。


 画像をクリックすると拡大され、再度クリックすると元に戻ります。▼

 

私は、息子の代弁者として、自閉症という障害について少しでも社会の理解が深まってほしいという思いで、これまで40年近くエッセイの勉強を続け、書き続けてきました。

障害児の母としての子育ても30年になります。

この記事は、その記念のご褒美のようなもの。

 

私の投稿に目をとめて掲載し、この記事を書いてくれた記者さんにも、マスクを送ってあげたいと思ってくれた方がたにも、そして、これまでの子育てを助けてくれてきた友人にも、エッセイの仲間にも、すべての皆さんに、今感謝の気持ちでいっぱいです。

 

♡♡♡心から、どうもありがとうございます♡♡♡



自粛の日々につづる800字エッセイ:「送迎ドライブで見つけたもの」2020年04月18日

▲朝、グループホームの前の道路で待っていると、息子が走ってくる。


 

緊急事態宣言が出されても、長男が働く福祉の職場は原則休業にはならない。きちんと感染防止に対応した環境を整えている。とはいえ、電車通勤のリスクは避けられない。

そこで私は、息子のグループホームと職場間の送迎を買って出た。朝と夕方、一時間半ずつのドライブだ。

 

終業時は、さすがに疲れた顔の息子に、まずウェットティッシュで手を拭かせてから、チョコやアイスのおやつタイム。食べ終わると、バッグからゲームを取り出して遊び始める。

 

職場のそばに消防署がある。五階建てのビルの間にネットが張られ、隊員たちが忍者のようにその上を移動する。スバイダーマンのように壁を下りてくることも。

署の前の歩道には、たいてい幼い子どもの観客がいて、指さしながらお父さんに何か話しかけている。この時期だからこその父子でお散歩、それとも保育園の帰り道?

 

最初の送迎は34日、桜が満開の頃だった。

途中、休館中の藤子不二雄ミュージアムの前を通る。いつもなら子どもたちであふれている場所だ。裏山には大きな桜の木があり、ひっそりとした建物に向かって枝を差し伸べていた。ドラえもんの描かれた市バスが花吹雪を舞い上がらせて、がらすきのまま走り去った。

 

日がたつにつれて、車の数も減ってくる。燃費もよくなった。車列はまるでソーシャルディスタンスを取るようにして、すいすいと走っていく。

それでも信号で止まると、

「赤信号です。少々お待ちください!」と息子のアナウンス。以前はこんなことは言わなかったのに、やはり非日常が彼をいら立たせているらしい。

 

葉桜になると、今度は花水木が目に付くようになる。ホームの近くの住宅街に、きれいな並木道を見つけた。

街道沿いのツツジの植え込みも少しずつピンク色を増やしていく。

 

息子をホームの前で降ろした後は、FMラジオを聴きながら、リスナーからの「今どきのネタ」に笑い転げる。

「マスクの日々で、口紅がカビた」だって……!


 



自閉症児の母として(62):息子の子育てについて話しました。2019年12月14日


 

1211日(水)に、東京都発達障害者支援センターで行われた支援員研修のなかで、自閉症児の母として、お話をさせていただきました。この講演も、ここ数年の恒例となっています。

このセンターは、息子が成人しても通い続けて療育を受けてきた「嬉泉」という社会福祉法人が、都の委嘱を受けて運営しています。まさに息子は療育のモデルそのものなのです。

 

お話しするテーマは、「子育てを通して親が学んだこと」。

つまり、私としては、この施設で受けた療育のおかげで息子がどのように成長したか、親は何を教わったかをお話することになります。

毎年、私がいの一番に伝えたいことは、子どもをあるがままに受け入れる「受容的交流方法」という障害児との関わり方。当時は、まるでイソップ童話の「北風と太陽」のようだと思いました。

息子は、入園したばかりの頃は、朝、登園しても、母親と離れることを嫌がりました。「それなら、お母さんも一緒にお部屋に張りましょう」と先生。

やがて何日もたってから、私は頃合いを見て部屋から出て、窓からのぞいています。「ほら、お母さんはあそこにいるから大丈夫」と、先生は泣いている息子をなだめます。また何日もかけて、その時間を短くしていって、母親と離れられるようになっていったのです。

 

たくさん安心させて、母親や先生に関心を持ってくれた頃に、ようやく声掛けが生きてくる。こちらの言うことに耳を傾けるようになる。言われたことをやってみて、新しい経験をする。自分からその行動ができるようになる。自発的にプライドを持って行動できるようになる。

安心→経験→プライド。その後30年に及ぶ子育てにおいて、この3つのキーワードを実践することが基本であり、何より大切だったのではないかと思っています。

 

前回の講演の直後に、息子は自立という大きな節目を迎えることができました。

2年間、月に一度の宿泊体験を積んだ後、グループホームに入所して、約10か月がたちました。小さな問題はあるにしても、息子本人は、プライドを持って毎日の生活を楽しく送っているようです。

3歳の時からの療育が、実を結んだのです。

今回、そのお話をしました。まさに「三つ子の魂百まで」ですね。

 

後日、研修を受けた支援者の方々の感想が送られてきました。その中で、23歳のお子さんを担当している方が次のように書かれていました。

「お子さまも保護者も、自ら考え選択して生きていくこと、そしてそれを見守る支援者の存在の大切さを学びました」

「発達の土台となる時期でもあり、とても大事な時期に携わっていることを改めて強く意識しました」

私の思いが伝わったのだと思います。

いつかきっと、私の子育て経験が、支援者を通して生かされる日が来ることを心から願っています。






ダイアリーエッセイ:この日にあたり、ごあいさつ。2019年09月29日



今日は、929日。長男の33回目の誕生日です。

「軽い自閉症ですね」と、小児科医に診断を下された日から、30年が経ちました。なんとまあ、長い歳月だったことでしょう。涙あり、笑いあり、苦しみあり、喜びあり。あらゆる思いがぎゅうぎゅうに詰まった30年間でした。

 

そして、この春、自宅を離れて自立の第一歩を踏み出してから、7ヵ月。

毎晩、夕食後に電話があり、その日の食事のメニューや、サッカーJリーグの試合結果、大相撲の勝敗などを報告してくれます。

毎週土曜に帰宅し、翌日にはホームに戻ります。

生活は順調で、小さな問題はあっても、本人が自立して暮らしていることにプライドを持ち、満足している。それが何よりも大切なことなのではないでしょうか。

 

昨晩は、家族5人が集まって、近くのレストランで夕食をとりました。

33歳の抱負は?

「ホームでの生活をがんばります」 

 



介護施設にお世話になっている母も、健康状態は良好。穏やかに過ごしているので、ここらでほっと一息、ついてもいいかな、と思いました。

そんなわけで、10月上旬、1週間ほど旅行に出ます。

 

今回も3週間ぶりのブログ更新になってしまいました。

旅行の前後がとても忙しいのは毎度のこと。「何も今じゃなくてもいいのに……」と思うような用事が、向こうから手を振ってやってくる。それをクリアしていくことで、旅行の喜びも増すというものですね。(強がり?)

次回は帰国後に、楽しい写真をご覧いただければと思います。

行き先は、クロアチアです。


 



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