母を想う日々 3:テーマ〈愛着〉で書く「タイムスリップはもうおしまい」2021年12月04日


 

タイムスリップはもうおしまい

           

母はこの20年間、わが家と同じマンションの4軒隣で一人暮らしをしてきた。母亡き後はその住まいを売却しよう。生前からきょうだいとも話し合っていた。私が譲り受けたとしても、母の思い出の染みついた部屋を維持するのはつらいだろうと思ったのだ。

今年の8月、とうとうその時が来た。遺品を整理し、それぞれが持ち帰ったあとは、バザーやボランティアに供出し、古物商に引き取ってもらい、廃棄業者に依頼し、すべてが消えていった。最後は、せめてもの思いから、なじみの清掃業者にぴかぴかにしてもらった。

肩の荷が下りた。寂しさよりも2ヵ月半でやり遂げた達成感が湧いた。がらんとした部屋には柔らかな秋の日が差し込んでいる。それを見て思い出したのは、意外にも、母を飛び越えて30年以上前のことだった。

 

最初にこの部屋を購入したのは、私たち家族だった。当時、都内の社宅に住んでおり、マイホームを求めてこの辺りを探し回った。出合ったのが築1年のこの部屋。駅から近く、子育て環境も良さそうだった。

引っ越しまでの間、3歳の長男と1歳の長女を連れて、ときどきやって来た。レジャー用の白いプラスチックのテーブルと椅子を室内に置き、お弁当を食べたり、子どもたちをお風呂で遊ばせたりして過ごす。

「まるでリゾートマンションね」と、夫と笑ったものだ。

引っ越してしばらくたっても、外出先で長男は「うちに帰ろう」と言うところを「リゾートマンションに帰ろう」と言っては私を苦笑させた。

 やがて生まれた次男は、この床の板目に沿ってミニカーを何十台も並べた。洗面所の壁一面の大きな鏡の前で、毎朝娘の髪を結った……。つぎつぎと記憶がよみがえってくる。

その後、私の両親が同じマンションの広い部屋に移り住んだ。母が一人になると、家族が増えたわが家と住まいを交換したのである。

 

母の部屋を売り出して1週間、買い手はすぐに決まってしまった。




 


母を想う日々 2:「母の遺したカレンダー」2021年11月09日

    

          母の遺したカレンダー

 

98歳で母が亡くなって、同じマンションに住む私は、部屋の片付けを始めた。まずはタンスの小引き出しや本棚からだ。若い頃から整理整頓をきちんとやる母だったが、最後は玄関先で倒れて入院したまま戻れなかった。金銭の類はいちおう預かってはいたが、もっと大事なものが出てくるかもしれない。

筆不精で書くことの嫌いな母だと思っていたのに、何冊もの手帳に細かなメモが残されていて、驚いた。目が悪くなったと言いながら、旅の記録や、家族の年表、父の闘病記など、小さな文字でつづっている。

いくつものビニール袋に入れてとってあったのは、カレンダーの束だった。朝日新聞でチラシと一緒に月末に配られるB4サイズのカレンダー。日付の横にメモのスペースがある。予定を書き込んでいたのは知っていたが、いつからかその日の出来事や、ちょっとした感想まで書くようになっていた。

 

たまたま開いてみたのは2010年。母は80代後半で、父が亡くなって8年がたち、元気で独り暮らしを送っていた頃だ。

当時、母はマージャンを楽しんでいた。どこで、だれと、勝敗のほどは、などが記されている。高齢者向けの教室に通ったり、自宅に来てくれる古くからの友人たちと楽しんだり。その合間を縫って、私の家族も母の相手をしていた。

「ヒロ、パソコンで勉強しているので、さすがに勝ってばかり」

次男ヒロは、幼い時からよく母にボードゲームの相手をしてもらっていた。

「ヒロ、国士無双できて、大コーフン」

 この時のことは私もよく覚えている。次男の手が震えてきて、高い手で上がりそうなのだとバレバレだったのに、結局振り込んだのは、母だった。

「ひとみ、新聞に投稿が出る」

 そんな親子3代、年齢差72歳の家族マージャンをエッセイにして、朝日新聞の「ひととき」欄に載せてもらったのだった。

 

さらに母のメモからは、当時は知らなかったわが家のあれこれが明らかになる。

高校生の次男は勉強がいやで、ときどき母の部屋に逃げ込んでいたこと。長女は母の一室を借りて寝起きしていたが、夜遊び、朝寝坊、散らかった部屋のひどさなどに、母が気をもんでいたことも。私が旅行に出る時は、留守家族のために母が張り切って料理をした様子も伝わってくる。

わが家だけではなく、東京に住む姉や弟の家族も、よく泊まりに来ていた。連れだって買い物に出かけたり、母と姉と3人でハワイ旅行までしたのもこのころだ。

 

そして、こんなつぶやきも残っていた。

「楽しいこと続きで、健康で、長生きできて幸せ」

 




自閉症児の母として(73):新しいグループホームに入居しました!!!2021年11月01日

 

去る916日に、それまで暮らしていたグループホームを退去したことをお伝えしました。

8月末日を退去日とする」という一方的な通達を受け、母が危篤だという事情も考慮してもらえず、母の葬儀の3日後には退去せざるを得なかったのです。

 

でも、そのブログの最後にこう記しています。

 

今、息子は自宅から職場に通っています。

次のグループホームは半年前から探し始めていたので、「ここがいい!」と思えるホームに出会うことができました。「入居決定」は体験入居をしてから、ということになります。息子も、家族も、希望を胸に、その日を待ちわびています。

ぜひとも、いいご報告ができますように

 

最初に出会ってから8ヵ月、ようやく入居がかないました。

8ヵ月も待ったのにはわけがあります。出会ったのは、新しく社団法人を始めたばかりの青年で、ホームは建設中。まだ基礎工事が終了したという段階だった。しかも、コロナ禍のおかげで木材は不足し、竣工の予定がひと月も遅れたのです。

それでも待ち続けました。そこしか考えられないと思ったのです。

 

なぜかと言えば、息子の迷惑の原因は、まず騒音と大声。このホームは、床も壁も防音対策がしっかりとされており、窓も二重サッシを使っています。

そして、建物という箱だけではなく、なにより、その法人の代表である若者に、息子を託すだけの信頼感を抱いたのでした。

 

息子は、最初の入居希望者として名乗りを挙げ、最初に体験入居をさせてもらって「何も問題はありません。どうぞお入りください」と言われ、入居第1号となりました。

10月最後の週末は、息子の引っ越し作業に明け暮れました。衣類や生活用品を整えたり、備え付けの家具はないので、夫と二人がかりでロフトベッドを組み立てたり……。

そして本日、111日、晴れて入居日を迎えることができました。

 

息子が家に戻ってからの2ヵ月は、亡き母の住まいの売却のために遺品の整理や片付けなど、あまりに忙しい日々でした。疲れているのに眠れない夜も多く、頭痛や腰痛にさいなまれることもたびたび。それでも、2ヵ月前に比べたら、明るい希望があり、だからこそがんばれました。

 

「今のホームはやめて、新しいグループホームに入るからね」と告げた瞬間、パッと輝いた息子の顔を忘れられません。彼も、前のホームに居続けることがつらかったのでしょう。

退去してからは、何度か工事中のホームの前まで見に行ったこともあります。

ずっと楽しみにして待っていました。

 

とはいえ、一度家を出た息子が戻って家にいるのは、「やれやれ」という思いもありました。息子の入居決定を祈り、入居日を指折り数えていたのは、ほかならぬこの私。それなのに……。

今日、息子は仕事を終えたら新しいホームに帰っていくのですが、朝は自宅から出勤。グータッチをしながら「行ってらっしゃい!」と言うと、いつもと変わらずそっけなく「行ってきます」と息子が出て行ったあと、涙ぐんだのも、この私。

母心は複雑で勝手なものですね。

 

まだまだ書きたいことはありますが、今日のところは、うれしくてちょっぴり寂しいご報告まで。


▲これが息子の新居。部屋は、向こう側、南側の二階の部屋です。

ハナミズキの並木が続く坂の途中にあります。いま紅葉真っ盛り。▼

▲坂道からは、8年前まで働いていた「障害者ふれあいショップ」のある武蔵小杉の高層ビルが遠くに見えました。




800字のエッセイ:はるか遠くから2021年10月26日


     

 

はるか遠くから

 

母が亡くなって半月ほどたったころ、珍しくイギリスから手紙が届く。ミセス・マローズという差出人に覚えはない。開けてみると、やさしい花の写真のカードが出てきた。

「悲しいお知らせです。グレンダ・グラントさんが癌で亡くなりました」

 とたんに涙がこみ上げる。母の喪に服す私に、訃報を吸い寄せる力でもあるのだろうか。

 

 話は40年以上前にさかのぼる。グラント一家は、従兄がロンドンに駐在していた頃に家族ぐるみで仲良くしていたイギリス人家庭で、30代の夫婦に女の子と男の子がいた。彼の帰国と入れ替わるように、ロンドンにひとりで滞在することになった私に、従兄が彼らを紹介してくれたのである。

「とにかくいい人たちだから、頼りにしてね」

従兄の太鼓判どおり、一家を訪ねると、とても温かいもてなしを受けた。近くに住む高齢のご両親もやって来て、遅くまでダーツに興じる。気難しそうなおじいさんだったけれど、一緒に遊んだダーツの矢をプレゼントしてくれた。その夜はいかにも英国調の愛らしいゲストルームに泊まらせてもらった。

グレンダは表情豊かな明るい女性で、英語学校の教師としても働いていた。

帰国後もクリスマスカードのやり取りを続けたが、私は子育てに忙しくなり、何度か転居を繰り返すうちに、交流は途絶えてしまった。とはいえ、ロンドンの日々は青春のかけがえのない思い出。彼女を忘れたことはない。

 

 手紙の主は、グレンダの同僚だった。仲良しだったに違いない。亡くなった彼女の住所録に、私の住所を見つけたからと、わざわざ知らせてくれたのである。

 グレンダの訃報に悲しみながらも、マローズさんの心遣いに胸を打たれた。友の死に寄り添う時、大切なことは何か、教えてもらった気がする。


     






母を想う日々 12021年10月14日



201910月、友人と二人でクロアチア旅行に出かけた。新型コロナのパンデミックが始まる直前の秋のことだ。

今でも、彼女に会うと、

「あの時、行っておいてよかったね。行けてよかったね」

と二人でうなずき合う。

 

〈旅の様子は、「旅のフォトエッセイCroatia20194回にわたる連載をしましたので、よかったらお読みください〉


 

さて、今年の10月は、母の遺品の整理やマンションの片付けに追われている。

こまごました書類に紛れて、何冊も小さな手帳が出てくる。

筆不精だと思っていた母は、意外にたくさんのメモを残している。

中でも、旅の記録が多い。

それを年表のように記したページには、20回以上の海外旅行をしていることがわかる。私の旅行好きは明らかに母の影響である。

私が旅に出る時は、いつも一冊の手帳をバッグに忍ばせている。これも知らず知らずのうちに、母をまねているのだろう。

 

母の本棚には、旅のパンフレットなどの資料も残っている。

その中から、「クロアチア・スロベニア・モンテネグロの旅 12日間」という小さな冊子が出てきた。

母も、クロアチアに行っていたのである!



2年前に私が旅をした後、ホームの母に会いに行き、クロアチアの話をしたのだが、母もそこへ行ったのか行ってはいないのか、なんとなくうろ覚えで、私も半信半疑だった。

でも、確かに母は、200310月、今から18年前の同じこの季節に、80歳で、12日間のツアーに一人で参加していた。当時、私はまだ子育て真っ最中で、母が出かけた聞きなれない国に関心を寄せるひまもなく、すっかり記憶から抜け落ちてしまったらしい。

2年前のあの時、もっとよく母の留守宅を探してみればよかった。もっと母と話ができたのに、と悔やまれる。

 

遺されたたくさんのアルバムの中に、母のクロアチア旅行の写真は、残念ながら見つからなかった。

その代わり、19857月、父と母と私とで、ベルギーやオランダ、デンマークなどを旅した時の写真が見つかった。両親の旅行に私一人でお供をしたのは、これが最初で最後だった。



このツアーから戻って10日後に、御巣鷹山に日航ジャンボ機が墜落して大勢の犠牲者が出た。

翌年には長男を出産。私の海外旅行は長い空白が続いたのだった。

 

コロナが終息したら、まだまだ海外に行きたい。

私も母のように、80歳を過ぎても。



 



自閉症児の母として(72):グループホームを退去しました2021年09月16日


 あれほど気に入って、長男の入居にこぎつけたグループホームでしたが、2年半をもって退去しました。まずはそのご報告です。

 

はじめは、親亡き後も安心して生活できるように、グループホームでの自立を目指したのでした。ところが、コロナ禍の世の中になってしまうと、このホームはちょっと違うかも……と思うことが増えていきました。

ホームに見切りをつけたのは、今年の3月頃。ここではだめだ、他所を探そう。そう決めたのです。

その後、コロナ禍の影響もあって、息子とホームの問題は、ちょうど母の入院から危篤状態の続く夏の日々と重なるようにして大きくなっていきました。そして、とうとうホーム側から「退去」という言葉が出たのです。私にはふたつの重荷が両肩にのしかかったようで、苦しい毎日でした。

私の事情を話し、母が落ち着くまで(つまりは亡くなるまで、ということです)しばし待ってもらえないかと何度か願い出ましたが、受け入れてはもらえず、「10日後には退去してほしい」と一方的に決められてしまいました。福祉を提供するはずのこの組織のトップには、血も涙もない。それもまた、ショックでした。

そして、その10日の間に、母は亡くなりました。それでも、悲しむ間もなく、葬儀の翌日には片づけ、その2日後には退去し、息子は自宅に戻りました。

 

どんな理由があったのか、どんな経緯だったのか、とてもひとことでは言えません。

今は具体的な説明は控えますが、今後少しずつ整理して書いていくつもりです。

これからグループホームに入居することを考えている方に、少しでも参考になればと思います。

 

今回の挫折で、私は多くのことを学びました。グループホームの実態も、福祉のことも、そして息子自身についても。

息子は2年半でずいぶん成長した一方で、やはり変わることのない「自閉症」という難しい障害を持っている。改めて突き付けられた思いです。

 

今、息子は自宅から職場に通っています。

次のグループホームは半年前から探し始めていたので、「ここがいい!」と思えるホームに出会うことができました。「入居決定」は体験入居をしてから、ということになります。息子も、家族も、希望を胸に、その日を待ちわびています。

ぜひとも、いいご報告ができますように。

 


 


続・母を案じる日々2021年08月20日


7月の終わりに、容体が急変して面会を許可された時から、3週間がたとうとしていますが、母は点滴の栄養と酸素ボンベに繋がれて、小康状態を続けています。

私は、心の準備もお別れの準備も少しずつ進めながら、お休みさせてもらっているエッセイ教室を再開しようかと考えていた矢先、一昨日の夜8時ごろに、病院から電話がありました。

「意識がなくなり、容体が急変したようです。面会に来られますか」

ドキドキしながら、夜道を運転して駆けつけました。

 

耳元でいくら呼びかけても、母は目を開くことはなく、口を開けて、苦しそうな息をしていました。それでも、ときどき声に反応するかのように、首を動かすのです。

聞こえているのでしょうか。夢を見ているのでしょうか。

感染防止のビニールの手袋をはめた手で、母の顔や頭を撫で回しました。

酸素マスクのせいか、白い顔に青い痕があちこち残っていて、痛々しい。

少し白髪交じりとはいえ、つややかな髪が波打っている。

入院の時にはあれほど冷たい手をしていたのに、胸に載せた両手はとても温かく、いつもの母の手だと思いました。

血圧も酸素濃度も体温も安定しているそうで、その晩は帰宅しました。

翌朝、様子を問い合わせると、特に変化はないとのことで、ひとまずほっとしました。

 

この次に面会が許されるときは、3度目の正直となるのでしょうか。

もう母の目は二度と開かないのかも……。そう思ったら、泣けてきました。

まだまだ心の準備はできていないようです。

 


ダイアリーエッセイ: ワクチン接種2回目2021年07月17日


 

先月、接種1回目のことを書きました。せっかくなので、記録として、2回目も書こうと思います。そして、皆さんのご参考になれば……。

 

2回目接種も自衛隊による東京大規模接種センターで、71412時が接種予約の日時。1回目の接種から4週間と5日目です。

 

前日の夕方になって、母の暮らすホームからの電話を受けました。

母の健康診断の結果がよくないので、明日病院に連れて行ってほしい、という内容でした。今後の治療や入院などに、家族の意思確認が必要となるからです。

さあ大変。息子を送り届ける車中でしたが、その帰りの買い物もやめて、急いで帰宅。まず予約の変更が可能かどうか、調べることにしました。

2回目の接種をあまり先に延ばしてしまうと、効果が薄れるという説も聞いたことがあります。せっかくの接種を無駄にしたくはない。とはいえ、母の容態も気になります。

接種センターの予約票には、「2回目予約の変更は、Web上でキャンセルせず、窓口に連絡を」とあったので、すぐに窓口に電話をしました。

2回目接種は、28日から38日後の間に受ける必要がある」と書いてあって、私の場合は720日までに受けなくてはなりません。

しかし、てきぱきとした女性の声で、「今、空いているのは一番早くて27日以降ですね」と言われてしまいました。

さあ、困った。どうしたものかと迷っていると、「何かご事情がおありですか」と聞かれたので、正直に答えました。

すると、「それでは、予約担当にお電話をお回ししますので、ご希望の日にちや時間帯がありましたら、3つほどお知らせください」と言ってくれたのです。この先、仕事の予定も入っているので、明日の遅い時間帯を第一希望にして、伝えました。

しばらくすると、電話の向こうから「予約係です」と、こんどはおっとりとした男性の声が聞こえました。窓口の女性から私の情報を受け、話はすべて通じていました。

「明日の遅い時間がよろしければ、18時か1830分ではいかがでしょう」

ああ、よかった!

「何時ごろなら来られそうですか」

「病院の診察ですので、まったく見当もつきません。遅い時間のほうが確かだと思います」

「じゃあ、1830分にしましょうね。以前の予約は、こちらでキャンセルしておきます」

「ありがとうございます! 本当に、助かりました」と、お礼を言うと、

「たいへんですねぇ」とねぎらいの言葉までかけてもらったのです。

事務的ではない、温かい言葉でした。


翌日、梅雨明け間近の東京は、18時を過ぎても明るく、さわやかな風が吹いていました。1回目より来場者も少なく、座ったと思うとすぐに移動。どんどん進んでいきます。

いよいよ接種のブースに入ると、待っていた打ち手は、細身の白衣の女医さんでした。口調もやさしく、針をちくりとさして、すーっと液を入れていく感じ。痛みは前回の半分以下です。

打ち終わったところで、思わず「1回目はとても痛かったですけど」と言うと、

「では、腫れたのではありませんか」と申し訳なさそうに聞かれました。まるで、今回は大丈夫ですよ、と言われたかのように思えて、ホッとして帰ってきました。

さすがは自衛隊、危機管理能力が高いのはもちろん、国民への奉仕の気持ちが伝わってきました。私が直接自衛隊のお世話になったのは、このワクチン接種が初めてのことです。この接種センターを選んでよかった、今回もそう思ったのでした。


さてさて、副反応はいかに。身構えていました。

翌朝は、頭痛と気分の悪さに見舞われ、さっさとカロナールを飲み、横になりました。夕方から、37度台の発熱。倦怠感は募りますが、頭痛は消えています。もう一度カロナールを飲むと、熱だけは下がるのですが、薬が切れてくるとまた上がります。

結局、翌々日の朝も熱があって、その日の午後からのエッセイ教室の仕事はキャンセルせざるをえませんでした。ところが、その夜には、薬が切れても熱が上がらず、頭痛も不快感も解消していました。接種からほぼ48時間後で、副反応が収まったというわけです。

もし、最初の予約どおりに、正午にワクチン接種を受けていれば、何とか午後からのエッセイ教室に出向くことができたのかもしれません。リモートではなく、久しぶりの対面の教室だったのに、残念です。お教室の方々にもご迷惑をおかけしました。ごめんなさい。


そうそう、やさしい女医さんの注射は、予想どおり期待どおり、あまり痛みが残らずに、3日目の今日、あるのはかゆみだけでほぼ治っています。


    高齢者 発熱したと 自慢顔(静岡県・鈴木貞子)

  717日付け 朝日新聞 朝日川柳より



 


 

ところで、母の容態は、差し迫ってどうのというわけではありません。また来週の検査結果で、今後の治療を決めることになりました。それよりも、ほとんど口をきかず、反応がないことが心配になりました。コロナ禍で、家族が会いにも行けず、施設のイベントもなく、刺激のない生活を送っているせいかもしれませんが……

ワクチン接種が終わった今、これからは母の心配を抱えることになりそうです。


800字のエッセイ:教科書にない言葉2021年07月03日


      *** 教科書にない言葉 ***


何の小説だったか、いつ読んだのか、どうしても思い出せない。そこにこんなくだりがあった。

――中国から来日して暮らす中国人家族がいた。偉人の名を付けたというその男の子の漢字名は、日本人が読むと「バカ」と読めてしまうのだ。ところが母親は、日本語の教科書にその言葉がなかったせいで、息子がいじめられていることに気がつかなかった――

それを読んだときに、5年前のことを思い出したのだった。

 

友人と二人でパリを訪れた。旅行会社の勧めで、空港からホテルまで送迎車を頼んでおいた。出迎えてくれたパリジャンのFさんは、日本語が達者ですぐに親しくなった。

ヨーロッパの人はたいてい運転がうまい。Fさんもしかり。幹線道路が混んでくると、勝手知ったるパリの道とばかりに、脇道を抜けて走っていく。

 

片側にびっしりと縦列駐車が連なっている狭い道路で、1台分だけ空いたスペースに、車を止めようとする女性ドライバーがいた。車のおしりを突っ込んでは出し、突っ込んでは出し……。私たちの車はじっと待たされ、Fさんが呟いた。

「ヘタクソ」

 私はピンと来て、すかさずこう言った。

「Fさんの奥さんって、日本人でしょ」

「そうです! なんでわかるの?」

 友人も同様に、「なんで?」と目を丸くした。

 

私は30代まで、日本語教師をしていた。学校には日本人と結婚している外国人も多く、彼らの日本語には、教科書では絶対教えないような言葉がたくさんあった。生活の中で連れ合いから教わっているのだ。教科書に「下手(へた)」はあっても「ヘタクソ」はないのである。

 

コロナ禍のテレビ報道は、ロックダウンによって人影の消えたパリの街角を映し出す。Fさんの奥さんの実家は福岡だと言った。今はどこで暮らしているのだろうか。

 

***************************



 ▲ノートルダム大聖堂広場のパリ0地点を指しているところ。この聖堂も火災に遭って、塔は焼け落ちた。でも、またここへ行きたい。


 

☆冒頭の小説に心当たりのある方は、ぜひ教えていただけるとうれしいです。

 


藤井風の不思議2021年06月28日


昨年の10月、車を買い替えた。これまで20年以上も7人乗りを乗り継いできたけれど、これからは自分が高齢になっても楽しめる安全な車がいい。

選んだのはホンダのヴェゼル。発売された時から、次はこれだと決めていたスタイリッシュなSUV。サポート機能も充実、当然ハイブリッド。アメジストパールという渋い大人の色にする。

ようやく運転操作にも慣れてきた。愛車を伊豆の海岸にとめて撮った写真を、スマホの壁紙にしている。

 

 ところが半年もたたないうちに、ヴェゼルのフルモデルチェンジが発表された。ちょっとがっかり。がしかし、CMが放映されるようになると、そのテーマ曲「きらり」に惹かれた。リズミカルでさわやかな疾走感。ファルセットボイスも、日本語だけの歌詞も心地よい。

 作者は藤井風(ふじいかぜ)。彼の名を耳にしたのは1年ほど前、若いママ友からだった。当時は動画を見てもイメージが定まらなくて今一つだったが、その後、カーラジオから流れる彼の歌にもなじんで、悪くないかも、と思えるようになっていた。

 そこへヴェゼルのCM曲。さらに別の友人が彼のライブに埼玉まで行ったと知り、がぜん彼の輝きが増す。彼女から次々とライブ配信やCDなどの情報が送られてくる。

 極めつけは「藤井風アプリ」だった。インストールしたら、彼の顔をしたアイコンが、壁紙のヴェゼルのフロントグラスに、しかもちょうど助手席の辺りに貼りついたではないか。ドキリとした。運命の人だわ!

それから毎晩YouTubeの動画を見ては、取り寄せたCDを聴き、〈風沼〉に突き落とされるのに3日とかからなかった。

 

 彼は、岡山県出身の24歳。父親の影響で幼い頃からピアノを習い始める。中学生の時、YouTubeチャンネルを作り、演奏をアップ。才能の頭角を表した。彼の成長と進歩を追うように、演奏ぶりが次々とアップされていく。ショパンの幻想即興曲から昭和の歌謡曲やフォークソングまで、力強いタッチで弾きこなす。

しかも、才能はピアノだけではない。さまざまなジャンルの洋楽のスタンダードナンバーを、みずからアレンジしたピアノ伴奏とともに、見事に歌いこなしている。

YouTubeで注目され、高校を出ると、順調にプロへの道をたどる。ファーストアルバムは各チャートで1位になり、高い評価を得た。

岡山の田舎から出たことのなかった青年が、インターネットを駆使して世界と繋がり、多くを学び、才能を開花させてしまうなんて、努力家でもあるわけで。

 

多才なうえにルックスも半端ない。「ハイスペック・イケメン」とか、「彼の顔で城田優と福山雅治がシェアハウスしてる」などとコメントされる。

都会的でクールな雰囲気と、ふとこぼれるピュアな微笑み。岡山弁の純朴な語り口と、ネイティブのような英語のトーク。かつてイメージが定まらないと思ったのは、つまりは多面体の魅力だったのだ。

 

それにしても不思議でならない。彼の年齢の3倍近くも生きている私が、その現実に少しの後ろめたさもなく、彼の歌にとろけ、とりとめのない歌詞の深い意味に心打たれている。イケメンの豊かな表情に魅入っている。

そんな時、私の中にひらりゆらりと高揚感が立ち昇るのだ。

これって〈何なんw〉。

 

風沼にハマって3週間。やっと気づいた。

例えば、「きらり」のミュージックビデオ。肌の色も、年齢も、ジェンダーも、さまざまな人たちが現れて、彼を取り巻きながら楽しげに踊っている。そういえば、ほかのMVでも同じような人々が登場する。歌詞にしても、岡山弁だったり、やんちゃな物言いだったり、女言葉だったりする。

つまり、男と女のありきたりな愛だの恋だのとは、ひと味違っている。もっと広くて深い愛、神さまのようなやさしさ。それなのだ。

だから、どんな人でも素直に溺れることができる。ありのままの自分でいいのだと思えてくる。

だから、彼の歌を聴いて湧き上がる高揚感は、自己肯定感にとって代わる。どんなに年をとったって、私は私でいい、やりたいことをやっていこう。そんなふうに思えてくるのだ。

こんな出会いは初めて。そう、やっぱり風は不思議。

 

そして、もうひとつ、彼の世界にはたびたび、もがいた後に解放される喜びが描かれる。癒しは希望をもたらす。誰にとっても、コロナ禍の無味乾燥な日々だからこそ、風沼は瑞々しいオアシスなのだろう。

 

今日もまた、助手席に彼を乗せて、ヴェゼルを走らせる。

「どこまでも どこまでも……♪」




文中の「何なんw」は、アルバム『HELP EVER NEVER HURT』の1曲目のタイトル。

同じく「どこまでも どこまでも」は、「きらり」の一節です。



copyright © 2011-2021 hitomi kawasaki