母を想う日々 6:あの頃の母に ― 2023年03月08日
あの頃の母に
2月半ば、副甲状腺の腫瘍を摘除する手術を受けた。放置すると骨密度がますます下がっていくという。首元を横に5センチほど切開するのである。
手術当日は、おととし亡くなった母の、生きていれば100歳の誕生日にあたる。母が見守ってくれるだろう。そして私は母の長寿を受け継ぐにちがいない。心強い、と思った。
長引くコロナ禍にあって、患者が出入りする病院は、依然として厳しく感染防止対策がとられていた。面会は一切禁止。売店の買い物は原則ヘルパーが代行。食事時のお茶のサービスはなく自販機で購入する。
土日でも見舞い客のいない病棟は静かで、個室に入った私は、気楽なひとりの時間を過ごす。この時のために、タブレットに電子本を何冊も流し込んで持参していた。
その中の『重力ピエロ』には、兄弟の父親が明日手術だというくだりがあった。あら、私と同じ。それを読んでいたのが、ちょうど私の手術の前日だったのだ。結局、父親のがんは開腹したものの手の施しようがなく、息子たちが火葬場の空に父の煙が昇っていくのを見つめるシーンで終わる。私の腺腫は99パーセント良性だと言われているので不安はない。
翌日の手術は午後から。朝から飲まず食わずで、点滴を入れながら読書三昧となる。
次に読み始めたのは『夜に星を放つ』という短編集。昨年夏の直木賞受賞作で、著者の窪美澄さんは私の好きな作家だ。
物語に、死んだ母親が幽霊となって中学生の娘のもとに現れる話がある。またしても私と同じ? いや、私の場合は幽霊ではない。晩年の母ではなく、元気で私を支えてくれた若い頃の母を思い出しているだけだ。
40年近く前、私は結婚してまだ子どもができないうちに、片方の卵巣を摘出する手術を受けた。外出先で腹痛を起こし、救急車で外科に運ばれて、緊急の開腹手術だった。下半身だけの麻酔だったから、手術中の機器の音や、医師たちの会話もよく聞こえた。
「女の人ってのは、危ない橋を渡って生きてるんだなぁ」と一人の医師が呟く。卵巣の血管が切れて腹腔内に大出血していたらしい。手術の後に、「半日遅れていたら命はなかった」とまで言われた。
当時の母は、今の私よりも若く、毎日のように都心の病院まで見舞いに来てくれた。私は事の重大さをあまり意識しなかったが、母はどれだけ心配したことかと思う。母の心配は杞憂に終わり、その後3人の子を授かった。
なぜか2人の息子とともに、気持ちのよい草原にいる夢を見ていた。ああ、幸せな気分だ……。
「石渡さん、起きてください。終わりましたよ」
その日の手術は眠っている間にあっけなく終わった。しかし、目が覚めたとたん、首が圧迫されて傷が痛む。首をねじってはいけないと言われ、緊張して寝返りも打てず、苦痛の一夜を過ごした。
ふと、病室に若い頃の母が顔をのぞかせるような気がする。そんなバカな、と打ち消す。母にこのことを伝えようと思ったりして、またも苦笑する。麻酔のなごりか、小説の読みすぎか、あらぬ世界に引きずり込まれるかのようだった。それとも40年前にタイムスリップしたのだろうか。
晩年の母ではなく、あの頃の母に会いたいと思った。でも、もう母はいないのだ。母が亡くなってから初めて、寂しさをかみしめて泣いた。
母を想う日々 5:母の命日に ― 2022年08月21日
今朝、日曜のミサにあずかりました。
1年前の今日、8月21日に母が亡くなって、ちょうど1年になります。
昨年、告別式をお願いした神父様に、命日にはミサの中でお祈りをしてくださるよう、事前に依頼しておきました。
昨年の8月はコロナ第5波の真っただ中で、身内15名だけの告別式でした。今年もまた、第7波のさなか、集まることは避けなければなりませんでした。
とはいえ、ミサの時刻にはみんな心を合わせて遠くで祈っているはず。その思いを胸に、母のために祈りました。
帰宅して、広げたのは昨日の新聞の夕刊でした。ある見出しとその写真に、くぎ付けになりました。
1945年5月18日、特攻隊員たちが、みずからの命を差し出して敵を攻撃する30分前に撮られた写真です。なんと明るいいい笑顔なのでしょうか。死に向かう直前にも、こんなにも屈託のない表情を見せるなんて……。涙が出ました。
未来への果てしない可能性とエネルギーを持った息子と同じぐらいの若者たち。彼らの笑顔を犠牲にしてまで戦い続けた戦争の残酷さを、愚かさを、むしろ笑顔だからこそ強烈に訴えかけてくるようでした。
涙が止まらなくなりました。
こうやって、私はこの一年、母を失った悲しみを何か別のことにすりかえて、涙してきたように思うのです。テレビドラマの死のシーンだったり、小説の文章だったり……。まだ本当に母の死と向き合えていないのかもしれません。
8月は、2つの原爆の日があり、終戦記念日があり、戦争と平和を考える日々でもあります。
私には、今年からもう一つ、母の命日が加わりました。
命と死の意味に、向き合ってみたいと思います。
母を想う日々 4: 800字のエッセイ「最期の言葉は」 ― 2022年02月11日
最期の言葉は
母が8月に亡くなってから数ヵ月、遺品の整理や住まいの片付け、相続の手続きなどに忙しく明け暮れた。悲しみに浸るひまもないほどだった。
そんな秋のある晩のこと、毎週欠かさず見ていた大河ドラマ「青天を衝け」では、渋沢栄一の母親の最期が描かれた。
栄一が、床に就いた母のそばに寄ると、彼の手を握って言った。
「栄一、腹いっぱい食べてるかい」
栄一がうなずくと、安心した顔をする。
そのシーンを見て、ああ、同じだ、と思った。
私の母は亡くなるひと月ほど前に、体調を崩して病院で診察を受けた。老人ホームの看護師さんと、駆けつけた私が付き添っているのに、車いすの母はほとんど、うとうとと眠ってばかりいる。
午前中にいくつも検査をして、最後にPCR検査の結果を待っていた時だった。母のほうから小さな声で話しかけてきた。
「あのかた、もう帰っていただいたら……? あなたもお食事まだでしょう」
自分もおなかがすいてきたに違いないのだが、看護師さんと私のお昼ご飯の心配をしてくれたのだ。
それから数日後、母の意識はなくなり、二度とその口から声を聞くことはなかった。あれが最期の言葉となったのである。
どの母親も、いくつになっても、たとえ子どもの世話になっていようと、自分の死が近い時でさえも、気にかかるのはいつも子どもの食べることなのだ。子どもが栄一のような立派な人物でも、私のような平凡な娘でも、母親は最期まで母親のままで死んでいく。そう思うと、胸がつまった。
忘れていた涙が、その時ぽろぽろと流れて止まらなくなった。
母を想う日々 3:テーマ〈愛着〉で書く「タイムスリップはもうおしまい」 ― 2021年12月04日
タイムスリップはもうおしまい
母はこの20年間、わが家と同じマンションの4軒隣で一人暮らしをしてきた。母亡き後はその住まいを売却しよう。生前からきょうだいとも話し合っていた。私が譲り受けたとしても、母の思い出の染みついた部屋を維持するのはつらいだろうと思ったのだ。
今年の8月、とうとうその時が来た。遺品を整理し、それぞれが持ち帰ったあとは、バザーやボランティアに供出し、古物商に引き取ってもらい、廃棄業者に依頼し、すべてが消えていった。最後は、せめてもの思いから、なじみの清掃業者にぴかぴかにしてもらった。
肩の荷が下りた。寂しさよりも2ヵ月半でやり遂げた達成感が湧いた。がらんとした部屋には柔らかな秋の日が差し込んでいる。それを見て思い出したのは、意外にも、母を飛び越えて30年以上前のことだった。
最初にこの部屋を購入したのは、私たち家族だった。当時、都内の社宅に住んでおり、マイホームを求めてこの辺りを探し回った。出合ったのが築1年のこの部屋。駅から近く、子育て環境も良さそうだった。
引っ越しまでの間、3歳の長男と1歳の長女を連れて、ときどきやって来た。レジャー用の白いプラスチックのテーブルと椅子を室内に置き、お弁当を食べたり、子どもたちをお風呂で遊ばせたりして過ごす。
「まるでリゾートマンションね」と、夫と笑ったものだ。
引っ越してしばらくたっても、外出先で長男は「うちに帰ろう」と言うところを「リゾートマンションに帰ろう」と言っては私を苦笑させた。
やがて生まれた次男は、この床の板目に沿ってミニカーを何十台も並べた。洗面所の壁一面の大きな鏡の前で、毎朝娘の髪を結った……。つぎつぎと記憶がよみがえってくる。
その後、私の両親が同じマンションの広い部屋に移り住んだ。母が一人になると、家族が増えたわが家と住まいを交換したのである。
母の部屋を売り出して1週間、買い手はすぐに決まってしまった。
母を想う日々 2:「母の遺したカレンダー」 ― 2021年11月09日
母の遺したカレンダー
98歳で母が亡くなって、同じマンションに住む私は、部屋の片付けを始めた。まずはタンスの小引き出しや本棚からだ。若い頃から整理整頓をきちんとやる母だったが、最後は玄関先で倒れて入院したまま戻れなかった。金銭の類はいちおう預かってはいたが、もっと大事なものが出てくるかもしれない。
筆不精で書くことの嫌いな母だと思っていたのに、何冊もの手帳に細かなメモが残されていて、驚いた。目が悪くなったと言いながら、旅の記録や、家族の年表、父の闘病記など、小さな文字でつづっている。
いくつものビニール袋に入れてとってあったのは、カレンダーの束だった。朝日新聞でチラシと一緒に月末に配られるB4サイズのカレンダー。日付の横にメモのスペースがある。予定を書き込んでいたのは知っていたが、いつからかその日の出来事や、ちょっとした感想まで書くようになっていた。
たまたま開いてみたのは2010年。母は80代後半で、父が亡くなって8年がたち、元気で独り暮らしを送っていた頃だ。
当時、母はマージャンを楽しんでいた。どこで、だれと、勝敗のほどは、などが記されている。高齢者向けの教室に通ったり、自宅に来てくれる古くからの友人たちと楽しんだり。その合間を縫って、私の家族も母の相手をしていた。
「ヒロ、パソコンで勉強しているので、さすがに勝ってばかり」
次男ヒロは、幼い時からよく母にボードゲームの相手をしてもらっていた。
「ヒロ、国士無双できて、大コーフン」
この時のことは私もよく覚えている。次男の手が震えてきて、高い手で上がりそうなのだとバレバレだったのに、結局振り込んだのは、母だった。
「ひとみ、新聞に投稿が出る」
そんな親子3代、年齢差72歳の家族マージャンをエッセイにして、朝日新聞の「ひととき」欄に載せてもらったのだった。
さらに母のメモからは、当時は知らなかったわが家のあれこれが明らかになる。
高校生の次男は勉強がいやで、ときどき母の部屋に逃げ込んでいたこと。長女は母の一室を借りて寝起きしていたが、夜遊び、朝寝坊、散らかった部屋のひどさなどに、母が気をもんでいたことも。私が旅行に出る時は、留守家族のために母が張り切って料理をした様子も伝わってくる。
わが家だけではなく、東京に住む姉や弟の家族も、よく泊まりに来ていた。連れだって買い物に出かけたり、母と姉と3人でハワイ旅行までしたのもこのころだ。
そして、こんなつぶやきも残っていた。
「楽しいこと続きで、健康で、長生きできて幸せ」
母を想う日々 1 ― 2021年10月14日
2019年10月、友人と二人でクロアチア旅行に出かけた。新型コロナのパンデミックが始まる直前の秋のことだ。
今でも、彼女に会うと、
「あの時、行っておいてよかったね。行けてよかったね」
と二人でうなずき合う。
〈旅の様子は、「旅のフォトエッセイCroatia2019」で4回にわたる連載をしましたので、よかったらお読みください〉
さて、今年の10月は、母の遺品の整理やマンションの片付けに追われている。
こまごました書類に紛れて、何冊も小さな手帳が出てくる。
筆不精だと思っていた母は、意外にたくさんのメモを残している。
中でも、旅の記録が多い。
それを年表のように記したページには、20回以上の海外旅行をしていることがわかる。私の旅行好きは明らかに母の影響である。
私が旅に出る時は、いつも一冊の手帳をバッグに忍ばせている。これも知らず知らずのうちに、母をまねているのだろう。
母の本棚には、旅のパンフレットなどの資料も残っている。
その中から、「クロアチア・スロベニア・モンテネグロの旅 12日間」という小さな冊子が出てきた。
母も、クロアチアに行っていたのである!
2年前に私が旅をした後、ホームの母に会いに行き、クロアチアの話をしたのだが、母もそこへ行ったのか行ってはいないのか、なんとなくうろ覚えで、私も半信半疑だった。
でも、確かに母は、2003年10月、今から18年前の同じこの季節に、80歳で、12日間のツアーに一人で参加していた。当時、私はまだ子育て真っ最中で、母が出かけた聞きなれない国に関心を寄せるひまもなく、すっかり記憶から抜け落ちてしまったらしい。
2年前のあの時、もっとよく母の留守宅を探してみればよかった。もっと母と話ができたのに、と悔やまれる。
遺されたたくさんのアルバムの中に、母のクロアチア旅行の写真は、残念ながら見つからなかった。
その代わり、1985年7月、父と母と私とで、ベルギーやオランダ、デンマークなどを旅した時の写真が見つかった。両親の旅行に私一人でお供をしたのは、これが最初で最後だった。
このツアーから戻って10日後に、御巣鷹山に日航ジャンボ機が墜落して大勢の犠牲者が出た。
翌年には長男を出産。私の海外旅行は長い空白が続いたのだった。
コロナが終息したら、まだまだ海外に行きたい。
私も母のように、80歳を過ぎても。
安らかに ― 2021年08月24日
母は、安らかに天国に旅立っていきました。
前回のブログを書いた翌日、21日の夜のこと。
3度目の正直となってしまいました。
皆さまには一緒にお祈りいただき、どうもありがとうございました。
続・母を案じる日々 ― 2021年08月20日
7月の終わりに、容体が急変して面会を許可された時から、3週間がたとうとしていますが、母は点滴の栄養と酸素ボンベに繋がれて、小康状態を続けています。
私は、心の準備もお別れの準備も少しずつ進めながら、お休みさせてもらっているエッセイ教室を再開しようかと考えていた矢先、一昨日の夜8時ごろに、病院から電話がありました。
「意識がなくなり、容体が急変したようです。面会に来られますか」
ドキドキしながら、夜道を運転して駆けつけました。
耳元でいくら呼びかけても、母は目を開くことはなく、口を開けて、苦しそうな息をしていました。それでも、ときどき声に反応するかのように、首を動かすのです。
聞こえているのでしょうか。夢を見ているのでしょうか。
感染防止のビニールの手袋をはめた手で、母の顔や頭を撫で回しました。
酸素マスクのせいか、白い顔に青い痕があちこち残っていて、痛々しい。
少し白髪交じりとはいえ、つややかな髪が波打っている。
入院の時にはあれほど冷たい手をしていたのに、胸に載せた両手はとても温かく、いつもの母の手だと思いました。
血圧も酸素濃度も体温も安定しているそうで、その晩は帰宅しました。
翌朝、様子を問い合わせると、特に変化はないとのことで、ひとまずほっとしました。
この次に面会が許されるときは、3度目の正直となるのでしょうか。
もう母の目は二度と開かないのかも……。そう思ったら、泣けてきました。
まだまだ心の準備はできていないようです。
母を案じる日々 ― 2021年08月07日
母が心不全で入院しました。
コロナ下の病院では、家族といえども面会は一切できません。
それでも、先週には容体が危なくなり、面会が10分だけ許されました。
98歳の命の灯が少しずつ消えようとしています。
それなのに私は自宅に居てなすすべもなく、病院からの電話をびくびくしながら待つばかりです。
これ以上苦しむことなく、安らかに天国に逝くことができますように。
皆さまも、どうぞお祈りください。
2000字のエッセイ:「私がネコだった頃」 ― 2020年12月18日
◆◆ 私がネコだった頃 ◆◆
空前の猫ブームだという。
でも、私の猫ブームは、50年も前のことだ。
小学校高学年のころ、「ねこ目の少女」という楳図かずおのホラーマンガが少女雑誌に連載されていて、絶大な人気があった。
――その昔、加賀家のお殿様が大の猫嫌いで、ことごとく猫を殺していたそうな。猫のたたりは、何代か後の加賀家に生まれた女の子にとりついた。愛らしい少女が、時として目がつり上がり、口元は裂け、恐ろしい化け猫になっていくのだ。少女の名はひとみといった――
というわけで、中学生になると、新しいクラスでさっそく「ネコ」と呼ばれるようになる。猫は大好きだし、マンガのひとみ嬢はふだんはかわいい女の子だし、悪い気はしなかった。
部活動は、吹奏楽部に入った。パートはフルート。親に買ってもらったフルートの先端には、「ネコ」と書きこんだ小さなシールを貼った。当時、全盛だったグループサウンズのアイドルに書いてもらったものだ。
横浜の公立中学で、全生徒数2000人近いマンモス校。吹奏楽部にも50名以上の部員がいた。当時はまだ木造平屋建ての古い校舎が何棟も並んでいた。音楽室は一般教室から離れた場所にあり、大切な楽器の倉庫は職員室のそばにあった。部活が終わると、長い木の廊下をギイコギイコときしませながら、音楽室から楽器を運んできて、倉庫にしまってカギをかける。
その廊下の突き当たりが、用務員室だった。一段下がって土間になっており、中庭への出入り口が付いている。奥には宿直室がある。そこには毎日夕方になると若い男性が現れて泊まっていた。大学生のアルバイトだったらしい。生徒たちとも気さくに話をするお兄さんのような存在だった。
ある日のこと、部活が終わって楽器を片付けると、廊下の先がにぎやかだ。用務員室に猫が捨てられていたのだ。まだ目も開かない白黒の子猫。ミイミイと鳴いている。手のひらで包むようにして抱くと、とたんに欲しくなった。
これまでにも、わが家は捨て猫を拾って飼ったことがある。すべての決定権は母にあったが、子どもたちは餌やりもトイレもそれなりに手伝った。きっとこの猫も、しようがないわね、と言いながら、飼ってくれるだろう。
しかし、予想は見事に外れた。今回に限って、母は首をタテに振らない。
「どこかに捨てていらっしゃい」。きっぱりと言われ、逆らう余地もなかった。
秋も終わりの頃だったか、すでに辺りは真っ暗で寒かった。制服の上に、紺色のコートを羽織って、その胸の辺りの内側に子猫を入れて抱いた。さて、捨てろと言われても、どこに捨てたらいいんだろう。うろうろと、近所の住宅街を歩いた。子猫は鳴きながら震えている。こんなにかわいい猫を捨てて帰るなんて、私にはできない。困ったな……。涙が出そうだった。
結局、たどり着いたのは家から5分とかからない中学校。中庭から入っていくと、宿直のお兄さんひとりだった。
「母がダメって……」と、猫を差し出した。
「そうかそうか、残念だったね」
相変わらずやさしいお兄さんと、いつものように、たわいないおしゃべりをしていた。
すると、外から戸が開いて、入ってきたのは母だった。
「ちっとも帰ってこないから、心配したわ」
そんなこと言ったって、どこかに捨てて来いと言ったのはママでしょ。捨てる場所なんか見つからないし……と、心の中で、ちょっとだけ口をとがらせたが、聞き分けのいい私は、猫とお兄さんに別れを告げて、母と家に戻った。
その後、猫がどうなったのか記憶にない。やがて卒業して、お兄さんのことも忘れた。ただ、その時の帰り道、母に言われたことだけは、今も忘れずにいる。
「男の人がひとりでいる所に、女の子がひとりで行くものではないのよ」
母は、猫よりもオオカミが気がかりだったのである。
ちなみに、小さなシールに「ネコ」と書いてくれたのは、ワイルドワンズのチャッピーこと渡辺茂樹さん。わが家から電車で3つ目の駅に住んでいたので、何度か友達と押しかけたりしました。
うっとりするほどの甘いマスクと、舌足らずの口調で歌った「バラの恋人」は、今でもよく覚えています。
最近まで、若手の歌手に楽曲を提供するなど、音楽活動を続けていましたが、残念ながら数年前に亡くなりました。美人薄命、いえ美男薄命なのでした。ご冥福をお祈りします。