自粛の日々につづるエッセイ:「空港ピアノ」2020年08月13日

 

外出自粛の日々は、期待したようには終わってくれない。また今月もいくつかの予定が消えていった。

猛暑の夕方は雷が鳴る。用心のためパソコンの電源を切り、テレビの前でアイロンかけを始めた。作業をしながら見るのはBSNHKの人気番組「空港ピアノ」の録画。

ステイホーム中にはコロナのニュースをよく見るようになった。そんな折、偶然出会ったのがこの番組だった。一度でとりこになり、それ以来、毎回録画している。当然、コロナ以前に作られた番組の再放送だ。



 

世界各地の空港のロビーや、駅や街角の一角に、ピアノが置かれる。小型の定点カメラが付いている。通りすがりの人たちが、足を止めては弾き始める。

画面のテロップで、曲名と作曲者や、演奏者の簡単なプロフィールが流れる。手短なインタビューのシーンもある。ピアノを奏でるのに国境はなく、老若男女、職業もさまざまだ。

演奏の合間には、その都市の映像と音ともに、歴史や特色などが字幕で紹介される。BGMもナレーションもない。

 

ある日の空港で、髭もじゃの男性が、つたない指遣いで「エリーゼのために」を弾いた。ピアノの勉強を始めて3か月。貧しかった子どもの頃にこの曲を聞いて、なんと美しいメロディだろう、いつか自分も弾いてみたい、と思っていた。ようやく夢に手が触れた。最近女の子が生まれ、エリーゼと名付けた、と語った。彼のエピソードは、まるで小説のように私の心に刻まれる。

 

自分にピアノを教えてくれた母は、10歳の時に亡くなった。ピアノを弾くと、母を感じる、とつぶやく若い女性もいた。

 

ほろ酔いで「男と女」を奏でる老婦人。

ときどきこの場所に来て練習するという近所に住む労働者。

幼いわが子を膝にのせて弾く母親もいれば、並んで連弾する恋人たちもいる。

コーラス隊を引っ提げて演奏を楽しむ先生、仲間とともにセッションを始めるミュージシャンたち……

 

プロのピアニストが、音楽は人生だと言う。

コンピューターのプログラマーが、音楽は言語だと言う。

若いカップルが、音楽は喜びだと笑う。

 

演奏が終わると、人々はまた旅を続けるために去っていく。

そして、ひとときの静けさをかき消すように、そこにあるがままの喧騒が聞こえてくる。行きかう足音、ロビーのカフェの物音、空港内に響くアナウンス、飛行機のエンジン音……。

 

画面のこちら側の私は、ふっと切なくなって、涙が込み上げる。外出自粛の日々だから、目を背けていたつもりだけれど、失われたものが何か気づいてしまった。

私は旅がしたい。あの場所に身を置いてみたいのだ、と。



旅のフォトエッセイPortugal 2018(9)リスボンの手袋屋さん2020年01月30日

 

ちょうど2年前の今頃、娘と二人でポルトガルの旅をしました。

ブログのシリーズは、(8)まで終わっていますが、本当はまだ途中。あえて冬を待って続きを書きました。

 

スマホの読者は、先に写真だけこちらで見て、最後にスマホ用のリンクがありますから、そこから文章をお読みくだされば、と思います。

 

 



旅行の前にリスボンのガイドブックを見ていたら、この小さな手袋屋さんのことが載っていた。

ルヴァリア・ウリセス。1925年創業。

「ここに行きたい! このお店で、絶対に手袋を買いたい!」

なぜか強い気持ちがわいたのだった。

 

 

扉の上に、店の名前があり、そこにも手袋のフィギュアが。▲

近づいて狭い店内を覗くと、まじめな銀行員風の男性が、奥から現れた。

「この手袋が欲しいんです」と、ショーウィンドウの中の一つを指さす。

真冬に着る焦げ茶色のコートに合わせて選んだのは、焦げ茶色のスエードで、指の側面とベルトなどのトリミングはネイビーがあしらわれている一品。

「では、片手をここに置いてください」

穏やかに彼は言った。

左利きの私は、いつも左手が出る。私の左手、小さいのに指は太くて短くてごつい手を、遠慮がちにカウンターの上に置いた。

OK

彼は、ほんの一瞬、0.5秒間、私の手をちらりと見ただけ。すぐに奥に入っていき、壁にびっしり並んだ引き出しを一つ、持ち出してきた。

そして、カウンターの上の小さなクッションに、肘を載せるようにと言う。彼が私の手に、手袋をはめてくれるのだ。ちょっときつそう、と心配するまでもなかった。まずは木製の大きなピンセットのような道具を、指の一本一本に入れて革を伸ばす。それを私の手に、す、す、す、と被せ、指の根元がきちんと合うように着けてくれた。▼



Just fit! ぴ~ったりだわ! というわけで迷わず即決。

お店のポスターと同じ紙袋に入れてもらい、クレジットカードの控えも手にして、ご満悦で店を出たのだった。




 

帰国してから、はたと思いだした。もう何十年も前、昭和の頃のこと。

母は、国際学会に出席する父にくっついて、ときどき海外旅行をしていた。いつだったかヨーロッパ旅行から帰ったとき、どこかの国のどこかの店で手袋を買ったという話を聞いたことがあった。英語もできない母だったのに、

「店員さんがね、ぴったりサイズのものを選んで、こうやって手に着けてくれたのよ」

と話しながら、母が指先から手首までなでおろす仕草をした記憶があるのだ。もしかしたら、リスボンの同じ手袋屋さんだったのかもしれない……。

もちろん確証はないし、今では母に尋ねても、何にも覚えてはいない。

でも、時を経て、母と娘が偶然同じ店で同じ物を買った。そう思うだけでも楽しいではないか。

旅行前にガイドブックの記事で「ここに行きたい!」と強く思ったのは、眠っていた記憶とともに、母のみやげ話に憧れた気持ちが、目を覚ましたからに違いない。私がヨーロッパの旅がどこより好きなのは、母の影響であることだけは確かなのだから。



 

今年は暖冬で、なかなかこの手袋の出番がない。手袋をはめる時間も惜しんで、着けやすい普段用をつかんではバタバタと飛び出していってしまう。

それでも、先日、珍しい柄のコートを試着したとき、この手袋が脳裏をかすめ、思いきって買った。茶色とネイビーの複雑な縞模様のそのコート、リスボンの手袋とコラボさせて着てみたい。大事にしすぎて、春が来ないうちに。






スマホ用はこちらです。 

 



旅のフォトエッセイCroatia2019 ④続・ドゥブロブニクは☆パラダイス2019年12月01日

 


城壁に囲まれた旧市街は、観光客にとって本当に天国のような街。治安も良く、清潔で、従業員のサービスも気持ちよく……。

そんな体験談をもう少しご紹介します。

 

一日だけ現地のツアーを利用して、ボスニア・ヘルツェゴビナを訪ねる予定にしていました。早朝630分に迎えの車が来るので、ホテルの朝食をとる余裕がありません。

そこで、何か簡単にお弁当の用意をしてもらおうと、フロントに頼んでみました。ところが、このフロントマン、この街では見かけない不愛想な男性です。

ホテルに到着した朝、「チェックインは12時からだ」というので、その時間にふたたび戻ってくれば、「まだだ」と言うだけ。何の言い訳もお詫びの言葉もなく。でも、結局その場で手続きをしてくれて、すぐに部屋に入れたのでしたが。その時から笑った顔を見たことがない。(ラグビー日本代表選手にいましたね、けっして笑わない男。あんな感じ)

とはいえ、彼はお弁当を請け負ってくれました。当日の朝早く、無人のフロントのカウンターの隅には、紙袋が二つ置いてありました。



部屋に持っていき、広げてみました。コッペパンのハムチーズサンド、オレンジジュース、ヨーグルト、リンゴ、バナナ。ありがたいことです。

あら、なぜか片方の袋にはバナナが1本、もう一つには2本……。

あら、なんで? 二人で顔を見合わせると思わず吹き出して、フロントマンの分まで笑わせてもらったのでした。


泊まったホテルは、グランド・ヴィラ・アルジェンティーナ。

旧市街に近く、アドリア海に面して建っており、小ぢんまりとしているけれど、見晴らしは最高です。

部屋のテラスから、夕日が旧市街の向こうに沈んでいくのが見えたり、早朝には、照明がきらめく大型観光船が近づいてくるのが見えたりしたものです。


▼隣のビーチから眺めたホテル。


ホテルの玄関前。道路も狭い▼


 ほとんどは愛想のいいスタッフがいる、ロビーのカウンター▼


部屋のテラスでワインを飲みながら、夕日を眺める。▼

パステル画のような夜明けの空の下、船が音もなくやってきた▼

 

ドゥブロブニク最後の夜は、アルセナルという素敵なレストランへ、ちょっとおしゃれをして出かけました。古くからの建造物の一部を利用して造られたそうで、旧港に面していて、半テラスのような室内からは、一幅の絵のような美しい港の夜景が臨めます。



私たちをテーブルに案内してくれたスタッフは、「真面目な高田純次」といった感じの男性で、黒くて長いエプロンを腰につけて、きびきびと歩き、人懐こい笑顔で、メニューの説明をしてくれます。


厚さ3センチのマグロのステーキは、絶品でした。彼のおススメのココナツパウダーのケーキもとても美味しい。


店内はかなり暗く、壁のアーチの向こうに夜景がきれいに見えました。店の片隅でミュージシャンがヨーロッパの懐かしの名曲を奏でます。なんとロマンチック……♪ 

遠くはるかな天国のような街で、気のおけない友人と旅を楽しんでいられることに、感謝しなくては……。

 

2人の記念写真を撮ってもらおうと、純さん似のスタッフに声をかけました。

港側を背景に、と思い、「こちらから撮ってもらえますか」とタブレットを渡すと、

「まあいいから、私に任せなさい」と、バシバシ撮り始めました。

しかも、テーブル脇に据えられた花を植えたスタンドを動かしてみたり、隣のテーブルから別の色の花を運んできてみたりして、あらゆる角度から、見栄えのするスナップショットをたくさん撮ってくれたのです。彼の仕事ぶりにも、サービス精神にも、頭が下がりました。

帰り際、チップをはずんだのは言うまでもありません。



 

観光客には天国のような街。またしても思いました。

そして、そう思ったのは、もちろん私だけではありませんでした。

 

「この世の天国が見たければ、ドゥブロブニクに行かれよ」

 

先日、図書館で借りた本の中で、この言葉に出会って、びっくりしたのです。

気候温暖、風光明媚なアドリア海沿岸は、古くから、避寒や保養のための場所、観光に適した場所として注目され、発展してきたそうです。

1929年に1週間滞在しただけで、イギリスの劇作家バーナード・ショーは、くだんの言葉を残したのでした。

今では、この国の70%が観光業に携わっているとか。クロアチアの〈おもてなし〉は、年季が入ったものだったのですね。

 

さらに、もう一つの理由を見つけた気がしたのは、城壁ウォークの時に撮ったこの写真です。


 

手前の古い瓦と、向こうの新しい瓦との違いが見てとれます。

 

クロアチアという国は、ヨーロッパの長い歴史の中で、さまざまな支配を受け、戦争を繰り返してきました。国土の形も国家の形式もそのたびに変化しています。

第二次世界大戦後は、チトー大統領がユーゴスラビア社会主義連邦を打ち立て、クロアチアを含む6ヵ国を統合したのです。多民族、多宗教、多言語を内包したこの国は、ガラス細工のような国家だったことが想像できます。それでも、チトー大統領のカリスマが、そのバランスを保っていたのでした。

懸念されたとおり、1980年に大統領が逝去した後、あちこちで内紛が勃発し、ユーゴは崩壊していきます。

クロアチアにも独立運動が沸き起こり、1991年、独立宣言をするのですが、その後もドゥブロブニクは旧ユーゴ軍の砲撃を受けました。100人以上の死者が出て、世界遺産も危機に陥ったといいます。

しかし、旧市街は復旧され、98年には「危機遺産」から除外されました。そのときに、壊れた屋根に新しい瓦が使われたというわけです。

この地で、たくさんの建物が爆撃で壊され、大勢の血が流れた。その証の写真です。

 

ヨーロッパは昔から、隣国と地続きでありながら、それぞれの国では異なる民族が異なる宗教のもと暮らしている。それゆえの争いは絶えず起こり、大きな権力が攻め入ることもありました。

日本人のように、海に囲まれた一定の国土の中で、一つの国家として、長い歴史と伝統を育んできた国民には、理解を越えるものがあります。それを改めて思い知らされました。


ほんの20数年前まで、ここでは戦闘が繰り返されていた。天国のような街で、楽しい旅を満喫しながらも、その事実に目を向けずにはいられません。

瓦は新しくなり、壊れた家は修繕されました。とはいえ、クロアチア人の心の傷は、そう簡単には癒されないことでしょう。

だからこそ、この街は観光客にとって、天国なのではないでしょうか。

多くの犠牲を払い、長い紛争の果てに独立を勝ち取り、ようやく平和が訪れた今、彼らの胸の内には、いまだに乗り越えられない悲しみもあるでしょう。と同時に、平和な営みへの渇望があるにちがいない。天から授かった美しい場所で、世界遺産のこの街で、この地を訪れる人々を誠実にもてなし、観光業を充実させていくことが、彼らの豊かさを取り戻すことにつながるはずだからです。

 

ガイドブックは読んだけれど、クロアチアの歴史をよく知らないまま旅立ってしまった私は、帰国してから、もっと知りたい、と思うようになりました。

こうしてブログに文章をつづるとき、関連する本やサイトを読んでは助けてもらっています。

いつまでも、この地が平和であるようにと祈りつつ。


バーナード・ショーの言葉はこの本に書かれていました。▲

 

 



旅のフォトエッセイCroatia2019 ③ドゥブロブニクは☆パラダイス2019年11月23日



城壁に囲まれた旧市街は、何百年の歴史を持つ教会や修道院をはじめ、プラッツァ通りを中心に細い路地が縦横に並び、カフェやレストラン、銀行やこぎれいなみやげ物屋が並び、ほとんどが観光客のために営業をしているようです。土日に休業することもありません。

私たちが3泊した5つ星のホテルは、城壁のプロチェ門から徒歩5分の近さ。ほぼ毎日のように2往復して、朝から晩まで楽しい時間を過ごしました。

 

プラッツァ通りは、12世紀に水路を埋め立てて造られたそうです。今では石畳がぴかぴかに光っています。▼

 

 日本のわが家を出発したのが、10月3日の午後4時ごろ。成田空港からトルコ航空を利用、イスタンブールで乗り継いで、ドゥブロブニクのホテルにたどり着いたのは、翌4日の午前8時過ぎ。時差7時間を足せば日本時間の午後3時ごろ。ほぼ丸1日の長い旅だったわけです。

ホテルに着いても、まだ部屋には入れず、着のみ着のままで、街へくり出しました。

 

せめて長旅の疲れを癒やそうと、最初に入ったレストランは、プロトという店。ガイドブックにも載っており、創業100年以上の老舗だとか。ランチタイムから糊のきいた白いクロスのかかったテーブルが整然と並んでいて、ちょっとスノッブな雰囲気です。

コースを頼まなくても嫌な顔をされないかと心配しましたが、イケメンのスタッフが「OK!」と言って、にこやかにテーブルに案内してくれました。

まだ12時前だったので、店内も静かで、落ち着いていました。▼


 


まずは、クロアチアワインとともに、カキの養殖で有名なストン産のカキ。▲

平たい岩ガキです。もちろん生で、レモンを絞って食します。冷たい海の味がたまらない。アドリア海の澄んだ青が口の中に広がるようです。

クロアチアワインは、日本ではまだなじみがありませんが、ヨーロッパでは人気があるそうです。たしかに安くておいしい♡


▲そして、なんと、名産の黒トリュフ入りのパスタ! ほっぺたが落ちそうでした♡



 次の夜には、広場にテーブルを置いているカメニツェというレストランへ。青と白のストライプの椅子がトレードマークで、ここも人気があるそうです。▼


カメニツェというのはクロアチア語でカキのこと。ストンに自家専用の養殖場を持っている、とガイドブックに書いてありました。これは、はずせません!

もちろん、とてもおいしかったです。▼

 ▲この青いラベルのワインは、クセのない味がいい。大衆的なものらしく、スーパーやおみやげ売り場にも置いてあったので、日本に買って帰りました。


カキ同様においしかったのが、こちらのムール貝のリゾット。▲

テーブルクロスもお皿もお店の雰囲気も、前日のプロトとは対照的でカジュアルでしたが、お値段もリーズナブル。プロトの約半額で、おなかいっぱいになりました。

 

 

夜空の下、暑くもなく寒くもなく、海のそばでも湿気がなく、これ以上ないくらいに快適です。街のレストランのお客さんは、観光客に交じって、地元の人々も、外での食事を楽しんでいるようでした。

 

帰り道、聖ブラヴォ教会の向こうに、月が。▲

 

▼これがプロチェ門。ここをくぐってホテルに戻ります。何度出入りしたことでしょう。

 


ドゥブロブニクは、料理やワインがおいしいだけではなく、従業員のサービスも本当に気持ちの良いものでした。適度に控えめで、きびきびと動き回り、お客さんの要望にはいつもにこやかにOKしてくれるのです。

街の中には、ほかの国のように、お金をせびってくる乞食もいません。たむろするゴロツキや、大声を上げて騒ぐような若者もいない。

治安がいいのは、警備が厳しいわけでもなさそうです。お巡りさんは見かけませんでした。

そして、街中の清潔なことにも驚きます。アイスクリームやサンドイッチの食べ歩きはしても、ごみを路上に捨てる人はいない。ごみ箱の周りさえ、ごみが落ちていないのです。観光客のお行儀がいいから? どこかのテーマパークのように、神業で掃除をしてしまうから……??

 

不思議な街でした。

観光客には本当に天国のような街……。そう思いました。

 

この話は長くなるので、また次回に…… 

 

《続く》

 


旅のフォトエッセイCroatia2019 ②ドゥブロブニクの城壁を歩く2019年11月05日


 

紀元前の昔から、ヨーロッパという地域は、多くの巨大勢力が台頭し、領土を奪い合う歴史を繰り返してきました。クロアチアも例外ではありませんでした。ローマ帝国、フランク王国、ビザンツ帝国、オスマン帝国、ハプスブルグ家、ナポレオン軍、そしてハンガリー、オーストリア、イタリア、ナチス・ドイツ、ユーゴスラビア……などなど、次々と支配が入れ替わる変遷の歴史をたどってきました。

 

そんな中で、ドゥブロブニクはローマ人がラグーサ共和国をうち建てて、14世紀に独立し、ベネチア同様の海洋都市国家となりました。海運貿易で富を蓄え、イタリアからルネサンス文化が入り、1516世紀には繁栄を誇ったそうです。

都市をぐるりと取り囲む頑強な城壁が完成したのもその頃でした。

 

「アドリア海の真珠」と呼ばれるほどに美しい街、ドゥブロブニク。その旧市街は、1979年に世界文化遺産に登録されています。

 

着いた次の日の夕方、ロープウェイで町の北側にそびえるスルジ山に上りました。標高412mのこの山からは、旧市街を見下ろすことができます。

「みなさま、下に見えますのが、ドゥブロブニクの旧市街で、ございます!」というぐらい、手に取るように見えました。 


▼旧市街が城壁で囲まれているのがおわかりいただけるでしょうか。

 

日が落ちて、城壁がライトアップされてきました。


 新市街の向こうに広がる西の海に日が沈み、しばらく雲をオレンジ色に染めていました。


 

その翌日には、朝から城壁を歩きました。12km。快晴の空の下、真夏のような強烈な日差しが降り注ぎます。



 

▼ここが入り口。この階段を上って城壁に上がります。

料金は大人150n(クーナ)。日本円にして約2550円

 

城壁にはところどころに要塞が設けられ、狭い通路や階段が続きます。幅1メートルほどしかない箇所もあります。当時の兵士たちは戦闘服を着て、武器を持ち、この狭い城壁の上を機敏に動き回ったのでしょうか。

今は、のんびりと観光客が歩くばかりです。


▲今回の旅の相棒、ヒロミさんです。赤い帽子と黒いサングラスがお似合い。


私はといえば、スーツケースに一度入れた半袖のTシャツを、寒そうだからと出して置いてきたことが悔やまれてならず……。寒さ対策だったストールが、直射日光を遮ってくれる日よけになりました。


対岸の崖の上にも、ロヴリイェナツ要塞という名の大きな要塞が、海をにらんでいます。手前の、大砲が置いてある所が、今通ってきたボカール要塞です。▼


▼これは何の箱でしょう。銃や弾丸を入れたのかしら。謎の石の箱です。



城壁に守られている内側の家々を見るのも楽しい。

洗濯物、よく乾くでしょうねぇ。




さて、ほぼ半周を歩いたところで、聖イヴァン要塞に来ました。北側には、昨日上ったスルジ山がこちらを見下ろしています。▼


▼ここから、旧港が見下ろせます。


さらに進んで、聖ルカ要塞へ。

旧港の手前に見えるのは、ドミニコ会修道院。▼



 えっちらおっちら上り坂を進んでいくと、向こうに筒状の建物が見えてきます。ミンチェタ要塞です。城壁ウォークのなかでも最も高い場所なのです。暑い暑い。さらに要塞の中の狭い階段を何段も上って……


▼やったー! 城壁征服! 真っ青な空に踊るクロアチアの旗の下で、思わずVサイン。


そして、見下ろす旧市街。オレンジ色の屋根の波。▼




私が滞在している間、ドゥブロブニクは毎日明るい陽ざしを浴びて、平和そのもののように見えました。

しかし、「アドリア海の真珠」と呼ばれるこの街は、世界遺産になった12年後、爆撃を受けてかなり破壊された。それでも、ユネスコの支援のもと、再び元の姿を取り戻したのでした。

戦争の話は、また次回に。

 

ともあれ、お疲れさまでした!!



 


旅のフォトエッセイCroatia2019 ①はじめに2019年11月03日



「今度の旅行はクロアチアに行ってきます」

私がそう言うと、返ってきた言葉のベスト3は次のとおりでした。

 

☆なぜ、クロアチアに行くの?

私がクロアチアに行きたいと思ったのは、2年前のことです。

娘から、「消化しきれなかった有給休暇を取るから、1月に一緒に旅行しない?」と誘われました。

さて、行き先はどこにする? もちろんヨーロッパ。私が子どものころからの憧れの地。時間とお金と体力が許す限り、ヨーロッパに行きたい。娘はといえば、まだ訪ねたことのない国に行ってみたい。

そこで、ヨーロッパの中で、2人とも未踏の国にしよう、となりました。

その時に娘が「クロアチアがいいよね」と言ったのです。

私には全く未知の国でしたが、ちょっと調べただけで、きれいな写真に魅了されました。しかし、冬は寒そう。結局、選んだのは冬も温暖なポルトガルでした。

前後して、親しい友人がクロアチアの旅から帰ってくると、「また行きたい!」と大絶賛でした。私の興味は深まり、次こそはクロアチアへ、とひそかに決めていたのです。

 

☆誰と行くの?

「またお嬢さんと?」と何度か聞かれましたが、そうそう既婚の娘が私に付き合ってくれるはずもありません。

じつは今回の相棒となったのは、ほかでもないクロアチアに行って大絶賛したくだんの友人でした。同じマンションに住む仲良し女子4人組のうちの2人。4人そろっての国内旅行は札幌から沖縄まであちこち出かけましたが、2人きりで海外へ行くのは初めて。

「どんな珍道中になることやら。旅先からのライン、待ってるからね!」

残留組の2人の期待を一身(二身?)に背負って、旅立ったのでありました。

 

☆クロアチアって、どこにあるの?

最初私もよくわかりませんでした。8年前には東欧の国々も訪ねたのでしたが……。

▼グーグルマップをお借りしました。ほぼ中央にあるのがクロアチアです。アドリア海を挟んでイタリア半島と向かい合っているのですね。



 

滞在したのは、アドリア海沿いのドゥブロブニク3泊と、首都ザグレブ2泊。

日帰りで国境を越えて、隣国ボスニア・ヘルツェゴヴィナの都市モスタルへ。

また、内陸ザグレブからはプリトヴィッツェ湖群国立公園へ。

ざっと、この4か所が主な旅の目的地です。

 

▼これは、わが家へのおみやげのエプロン。クロアチアの地図が描かれています。面積は九州の約1.5倍。人口は400万人ほど。

上部の真ん中あたりに位置するザグレブ。アドリア海に沿って南下していくと、しっぽの先にあるのがドゥブロブニク。おわかりいただけますか。

ちなみに、ボスニア・ヘルツェゴヴィナはオリーブの絵の所に隣接しています。



  

iPadiPhoneで撮った写真は500枚以上になりました。ところが、ラインで送ったりクラウドを利用したりしていたせいか、改めてパソコンで整理しようとすると順番が狂ってしまっていました。少し手間ひまかかりそうですが、厳選してご覧いただきましょう。

 


帰国の翌日から2019年10月25日

 

103日の夜に成田から飛び立って、58日。クロアチアの旅を終えて、10日の夜、無事に帰国しました。

 

ところが、帰る前から「史上最強の台風が関東に接近している」という恐ろしい情報が入っており、半信半疑でしたが、予報どおりの現実となりました。

帰国翌日には、スーツケースの荷解きと並行して、夫と次男と3人で台風対策におおわらわ。買い出しに行く人、ガラス窓に段ボールを貼り付ける人、懐中電灯の明かりを確認する人、カセットコンロをチェックする人、ベランダの竿を外す人、それを室内で受け取る人……。

いつもは週末の朝に帰宅する長男も、金曜の仕事が終わったら帰宅させました。

 

翌12日、夕方になると、雨も風も激しくなってきて、不安と緊張が高まります。わが家は高台にあるので、水の心配はなさそう。怖いのは風。生垣に囲まれた1階とはいえ、何が飛んできてガラスを割ってしまうかわかりません。

家族4人一緒だし、備えも万全、きっと大丈夫……と思いながら、夕食をとっていると、ぐらりと揺れるではありませんか。

「おいおい台風と地震のコラボか。冗談じゃないぜ」と息子たち。

NHKテレビの画面は、台風情報と地震情報、青い額縁が二重になっていました。


 

食事もさっさと片付けて、鍋という鍋に水を入れました。浴槽もきれいに洗って水を張りました。わが家はオール電化なので、いったん停電すると、水道もトイレもガスも使えません。

9時を過ぎたころ、ふっと明かりが消えました。停電です。さっそく準備しておいた懐中電灯やスマホの照明が役に立ちます。でも、23分であっけなく復旧しました。……と思いきや、また停電。また復旧。3回繰り返した後は、長い停電が続きます。

 

することがない、と夫はさっさと寝てしまいましたが、息子二人と私は、寝るにはまだ早い。次男が珍しく部屋からギターを持ってきて、ポロンポロンとつま弾きます。3人でたわいのない話をしながら、いつもとは違う暗闇の中で、まったりとした時間が流れていきました。

家中の明かりがぱっとついてテレビの音が響いたのは、寝入った明け方3時半ごろでした。風はぴたりと止んでいました。

 

翌朝からは、各地の被害状況が刻々と伝わってきて、台風19号の豪雨災害の恐ろしさを知ることとなるのです。

神奈川県と東京都の境界を流れる多摩川も例外ではありません。慣れ親しんでいる地域が浸水し、同じ区内でも犠牲者が出ました。ご冥福をお祈りします。

その方はわが家と同じ「マンションの1階に住む60代の男性」ということで、たくさんの方に「あなたのご主人では?」とご心配をいただきました。


 

今なお、災害の傷痕深く、行方不明の方もいて、胸が痛みます。今日もまた大雨。報道から目が離せません。

そのかたわら、にわかファンとして、ラグビー日本代表チームの快進撃に大興奮。被災者のためにがんばる。勝って元気をあげたい。そんな彼らに、私もテレビの前で声援を送り続けました。

また、22日の天皇陛下ご即位の儀式にも、そのお言葉にも、大変感慨深いものがありました。

この半月ほどは、日本人だれもが、次々と心をつかまれるような出来事が続く日々ではなかったでしょうか。

 

長い前置きになってしまいました。どうしても書いておきたかったのです。

では、次回から始めます。

旅のフォトエッセイCroatia2019

どうぞお楽しみに!



 

 

ダイアリーエッセイ:この日にあたり、ごあいさつ。2019年09月29日



今日は、929日。長男の33回目の誕生日です。

「軽い自閉症ですね」と、小児科医に診断を下された日から、30年が経ちました。なんとまあ、長い歳月だったことでしょう。涙あり、笑いあり、苦しみあり、喜びあり。あらゆる思いがぎゅうぎゅうに詰まった30年間でした。

 

そして、この春、自宅を離れて自立の第一歩を踏み出してから、7ヵ月。

毎晩、夕食後に電話があり、その日の食事のメニューや、サッカーJリーグの試合結果、大相撲の勝敗などを報告してくれます。

毎週土曜に帰宅し、翌日にはホームに戻ります。

生活は順調で、小さな問題はあっても、本人が自立して暮らしていることにプライドを持ち、満足している。それが何よりも大切なことなのではないでしょうか。

 

昨晩は、家族5人が集まって、近くのレストランで夕食をとりました。

33歳の抱負は?

「ホームでの生活をがんばります」 

 



介護施設にお世話になっている母も、健康状態は良好。穏やかに過ごしているので、ここらでほっと一息、ついてもいいかな、と思いました。

そんなわけで、10月上旬、1週間ほど旅行に出ます。

 

今回も3週間ぶりのブログ更新になってしまいました。

旅行の前後がとても忙しいのは毎度のこと。「何も今じゃなくてもいいのに……」と思うような用事が、向こうから手を振ってやってくる。それをクリアしていくことで、旅行の喜びも増すというものですね。(強がり?)

次回は帰国後に、楽しい写真をご覧いただければと思います。

行き先は、クロアチアです。


 



ノートルダム大聖堂の復活を祈って2019年04月18日

 


おとといの朝、ノートルダム大聖堂から火の手が上がる映像に、わが目を疑いました。

次々と送られてくる写真や動画のかずかず。高い尖塔が、その骨組みを炎の中に黒く浮かび上がらせ、やがてあまたの火の粉を撒き散らしながら、ゆっくりと二つに折れ、なすすべもなく崩れて落ちていく……。その様子には、さすがに涙が出ました。

初めて訪れたのは大学生の時。その後も何度となく訪ねたものでした。

 

フランス人にとってのノートルダム大聖堂は、日本人にとっての富士山のようなものだ、と言った人がいます。そうであれば、富士山のように永遠にそこにあり続けるはずだったのに。

世界遺産としての価値にとどまらず、今なおカトリックの信仰の場でもあります。パリ市民にとって、フランス人にとって、そして、私のような遠い国の外国人にとってさえ、心の支えでした。

 

でも私は、どのような形であれ、かならずや復元されることを信じています。

 

最近訪ねたのは、3年前の春でした。


▲ここがパリのゼロ地点。



パリへ飛び立つ直前の空港で、母が通うデイサービスの介護士さんから電話を受けました。

「お母さまは顔色もすぐれず、娘さんが外国旅行に行かれるので不安なのかもしれません」

今ここでそんなことを言われても……と途方にくれたのでした。

ところで、ノートルダムはフランス語で「われらの貴婦人」つまり、聖母マリアのこと。この大聖堂は、聖母マリアに捧げられて建立された教会です。母もまた、クリスチャンネームは聖マリア。つまりマリア様が母の守護聖人なのです。

パリに着いた翌日、ノートルダム大聖堂を訪ね、母の健康と長寿のためにキャンドルを灯して祈りを捧げました。



 ところが日本ではちょうどそのころ、母は病院で診察を受け、胃がんが見つかっていたのです。手術をしなければ、余命半年。私がその事実を知らされたのは、5日後に帰国した夜のことでした。

93歳という高齢でしたが、胃の3分の2を摘出する手術を受けました。その後の経過は順調で、若い人の何倍も時間はかかったものの、完全に回復することができたのです。

だから、あの大聖堂はきっと再建される。私にはそう思えます。今こそ、母を救ってくれたノートルダムのために、今度は私が祈りを捧げましょう。

 

しかも、悲劇が起こったのは、もうすぐイースターというこの時期でした。来たる日曜日が、イースター。つまり、キリストが十字架にはりつけになって亡くなり、3日後に復活した日にあたります。

そのことにむしろ明るい希望を感じるのです。大聖堂も、きっと復活を遂げるにちがいない、と。

キリストのように3日で復活は無理でも、すでに1日にして1000億円もの寄付が表明されているとか。また、再建に向けた募金活動も各方面で始まっています。世界中の人々の気持ちが、祈りが、悲劇を乗り越える大きな力となって、復活を実現させていくことでしょう。



3年前の内部の様子。美しいステンドグラス「バラ窓」なども、被害を受けたようです。







祭壇のあるこの辺り、昨日の映像では、屋根が焼け落ち、ステンドグラスも抜け落ち、床にがれきが積もっていました。十字架だけは同じところにありました。▲



 ▲セーヌ川クルーズをした時、船の上から大聖堂の裏側を撮りました。崩落した尖塔がそびえていました。




 



旅のフォトエッセイ:世界遺産の五島列島めぐり⑤旧五輪(ごりん)教会堂2019年01月26日

 


旅の2日目、若松島のキリシタン洞窟を訪ねた後、さらに船を走らせて、久賀島(ひさかじま)の旧五輪教会へ向かいました。

 

▼濃緑色の海のすぐ脇、瓦屋根の日本家屋のような旧五輪教会が見えました。そして、横には明るいオレンジ色の新聖堂があります。


 


五島列島のほぼ中央に位置するこの島では、明治になって、厳しい弾圧が行われたそうです。

ようやく禁が解け、明治14年、この聖堂は当初、島の西側に建てられました。昭和になって新聖堂を建てることになったので、旧聖堂は解体されます。

私たちも船でこの場所に来ましたが、解体された旧聖堂も船で運ばれ、島の東側の五輪地区に引っ越してきました。昭和6年、この地の最初の教会として生まれ変わり、新しい使命を担ったわけです。

とはいえ、140年近い歳月がたっており、木造の教会としてはとても古いものです。昭和60年には、信徒の祈りの場としての使命を終えました。現在は隣の新聖堂がその役目を負っていますが、旧教会堂は貴重な遺構として、国の重要文化財に指定されているそうです。

そして昨年、この五輪集落も世界遺産に登録されました。

 

▼玄関の上に掲げられた看板の文字「天主堂」も読み取れないほど薄くなっていました。



 

▼中に入ると、まず正面の祭壇には、聖ヨセフが幼子イエスを抱いた像が私たちを見下ろしています。

この教会の守護の聖人は聖ヨセフ。聖母マリアの婚約者でしたが、マリアが精霊によって身ごもったことから、イエスの養父と呼ばれています。彼は大工としてまじめに働きながら、聖母マリアとイエスを愛情深く見守る立場に身を置いて生きました。その聖ヨセフが選ばれたのは、五島の漁村で清貧のうちに生きる信徒たちと重なるものがあったからだろう、と言われています。


 

▼両脇の祭壇には、キリスト像とマリア像があります。




▼堂内にはすでに椅子などは置かれておらず、がらんとしています。その分、天井が目を引きます。木材で造られたリブ・ヴォールト天井。木材を少しずつ温めて曲げるのだそうで、素人目にもすごい技術であったことがわかります。




ところで、五輪という地名、この文字を見た覚えがありませんか。そうです、シンガーソングライターの五輪真弓(いつわまゆみ)さん。この地区には「五輪」姓が多く、彼女のお父さんもこの地区の出身だそうです。おじいさんは教会でオルガンを弾いていたとか。ちなみに、「ごりん」と名乗るのは本家のみ、それ以外は「いつわ」と名乗っているとのことです。





 

▲教会堂を出ると、おだやかな海はすでにたそがれ始めていました。


ふたたび船に乗り込み、五島で一番大きな福江島の福江港へ。 


▼操縦士さんが、今度は荷物運びもしてくれます。お世話になりました。

沈んでいく夕日が、長い光の一すじを海に浮かべていました。

 







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