旅のフォトエッセイPortugal 2018(3)ドン・ルイスⅠ世橋を渡って2018年02月15日

 




ポルトは、大西洋に注ぐドウロ川の北岸に街が広がり、南岸には古くからワインセラーが立ち並ぶ、ヴィラ・ノヴァ・デ・ガイアと呼ばれる地域がある。

この国に来てポートワインは外せない。代表的な「サンデマン」というワインセラーを見学しようと、向こう岸へ向かう。

ドン・ルイス一世橋を歩いて渡るのである。



 

この橋は二層構造で、上層は北側の高台から南側の高台まで、長さ約400メートル、どーんと鉄のアーチの橋がかかっている。下層の橋は水面に近い位置にあって、車と人が通る。

 

どこかで見たことがあるような……と思ったら、19世紀後半、パリのエッフェル塔を手掛けたギュスターヴ・エッフェルの弟子が造ったそうだ。当時の最先端技術を用いた鉄橋なのだ。アーチの感じが似ている。


驚いたことに、上の橋には幅8メートルの道路上に線路が敷いてあって、地上45メートルというこんな高い場所を、なんと地下鉄が路面電車となって走っているのだ。しかも、同じ道路を人も通行する。


 


 

歩いてみると、足元には隙間があり、下が見えるではないか。手すりも低くて怖いこと怖いこと。下半身がぞわぞわする。

事故が起きたりしないのだろうか。日本だったら、歩道が仕切られて、高いフェンスが必ずあるだろうに……、などと独り言ちて気を紛らわしながら、なんとか渡りきった。


眺望はすばらしい……のだけど。▼


 ▼ヴィラ・ノヴァ・デ・ガイアには、赤茶色の古い瓦屋根が並び、それを見下ろしながらロープウェイも動いている。



かつて、ワインを運び出すのは川を上る船だったから、建物は皆、川の方を向いて建っている。

橋から川べりまで坂道を下りてくると、SANDEMAN の裏返しの文字が屋根の上に突き出て見えた。もうすぐだ。


ところが、お目当てのワインセラーは、やっていなかった。手前にあるレストランに尋ねても「クローズド」の一点張り。シーズンオフだからだろうか。ガイドブックには、冬期の見学時間まできちんと書かれていたのだが。

 

諦めて、そこで早めの夕食をとることにした。時差のせいで、この日は1日が33時間の長丁場だというのに、恐怖の橋渡りでエネルギーを使い果たしてしまった。

エビ・魚・ベーコンの串焼きと本場のポートワインは、そんな疲れを吹き飛ばすのに十分過ぎる美味しさだった。



▲日本の居酒屋にいるおにいさんという感じ? この30センチもありそうな串に刺して焼く。2本で一人前。もちろん2人で食した。


▲お皿の上のほうに写っている黄色いのは、甘くないサツマイモのようなお芋。魚はmonkfish だという。アンコウの一種らしいけれど、柔らかくておいしかった。

 

 


帰りは、下の橋を渡った。ちょうどその場所からケーブルカーが斜面を上っている。思いがけず楽ができて、しかもライトアップされた夜景も楽しめてラッキーだった。




旅のフォトエッセイPortugal 2018(2)ポルトの街で2018年02月10日

 



まず降り立ったのは、ポルトガル北部に位置するポルトである。

ポルトガルという国名の元になったほど、国の要所として古くから栄え、歴史ある町。日本人にとっては、ポートワインでおなじみかもしれない。

 

空港に迎えの車を頼んである。ただし、ドライバーは現地語しか話さないという。ゲートを出ると、横文字の私の名前がすぐ目についた。それを掲げているのは口髭の小柄な男性だった。もちろん何を言っているのかチンプンカンプン。二人のスーツケースを軽々と運んで、車に乗せてくれた。

冬とはいえ、緑の街路樹や公園も多い。大きな建物があると、ドライバーが指さしてナントカカントカ、と名前を教えてくれる。

「イングレッシュ? ああ、イグレーシャ、教会のことね」と英語で答えると、「シー、シー!(そうそう)」。

その言葉がガイドブックの地図にあったのを思い出してピンときたのだ。彼のポルトガル語と私の英語が通じ合う……!

赤信号で止まると、彼は後ろを向いて、何かしきりと言っている。ぽかんとしていると、自分の財布を取りだして指さし、ポルト・ナントカカントカ。今度は自分の目を指して、ナントカカントカ。

「わかった! ポルトはスリが多いから気をつけなさい、ね?」

「シー、シー!」

 横で娘が、「お母さん、よくわかるねー」と尊敬のまなざしを向ける。

「会話はね、ハートよ」

ポルトガル語、恐れるに足らず。

 

30分ほどでホテルに到着。フロントの若い女性がまくしたてる英語のほうが、よほど難解だった。

日本でも、「朝食は7時から10時まで、1階奥のレストランへどうぞ。大浴場は3階でございます、午後2時から11時までご利用いただけます」などとペラペラと言われると、もう1回言って、と言いたくなる。毎日同じことをしゃべっているから、心がこもっていないのだろう。



 

時はお昼過ぎ、ポルトの街に繰り出した。曇り空だけれど、暖かい。手袋もマフラーもいらない。

ホテルは旧市街の中心にあり、辺りは賑やか。行きかう人々が、こちらを見る。けっして冷たい感じはしない。東洋人の女性二人連れはそれほど珍しいだろうか。確かに、観光シーズンでもないこの時期、あまり日本人は見かけない。


予習してきたとおり、起伏が多い。ほとんどが石畳の坂道だ。

クレリゴス教会を目指して、古い建物が立ち並ぶ坂道を上っていく。

 



振り返って見下ろせば、今歩いてきた道の、そのはるか先には別の教会の塔が見える。胸のすく眺めに、疲れも吹き飛ぶ。坂があるからこそ、景観も良くて風情があるのだ。

日本からはるか遠くのこんな場所で、「高低差ファン」を自称するタモリの顔が浮かんだ。



▼坂を上りきったところにそびえ立つクレリゴス教会。18世紀に建てられた。内部は、当時の経済力を物語るように、絢爛豪華なバロック様式だ。




 


 

▲教会の裏手には高い塔もある。76メートルあり、国内でも一番の高さを誇るとか。上まで登れば、当然、眺めも素晴らしいのだそうだが、225段のらせん階段と聞いておじけづき、明日にしようね、ということに……。




旅のフォトエッセイPortugal 2018(1)初めての国へ2018年02月08日




「そこに、何があるの」

ポルトガルに行くと話すと、5人中3人までが、そう言って首を傾げた。

ところが、行ったことがある人は、ほとんど全員が絶賛する。懐かしい感じがするとか、食べ物がおいしいとか、物価が安いとか……。

たしかに、天ぷらもパンも金平糖も、語源はポルトガル語だ。

 

昨年の秋のこと、社会人の娘が、年次休暇を消化するから、一緒に旅行しない? と誘ってきた。二つ返事で飛びつく。ヨーロッパのどこか、二人ともまだ行ったことのない国にしよう。出かけるのは真冬だから、寒すぎない所がいいね。そんなわけで決めた先はポルトガル。ヨーロッパ最西端の国だ。

 

とはいえ、家事も仕事も母の世話も、いつも忙しがっている私。楽に行けるツアーを探していると、娘が言った。

「お母さん、おしきせツアーじゃ文句たらたらでしょ」

うーん、たしかに。結局、娘に丸め込まれて、旅の計画や準備をしょい込む羽目になった。

娘とはこれが3回目のヨーロッパ旅行。一番気楽である。

 

1月下旬の出発当日は大雪の予報で、午前中からじゃんじゃん降りだし、雪が積もるにつれて私の不安も募った。深夜のフライトが欠航になったら、どこで交渉して、だれに連絡を取って……と、気の小さい私は気が気ではない。

 

午後2時過ぎには、すでにこの状態。▼


 

空港バスが走らなくなっても困るので、はやばやと家を出る。ノーマルタイヤの車を出すのはとうてい無理。最寄りの駅までは夫がスーツケースを運んでくれた。(感謝♡)

電車で8分、バスの出る駅へ。通常の経路となっている首都高が雪のため通行止めになり、迂回したので20分遅れたが、なんとか空港着。

久しぶりの羽田は、オシャレに変わっていた。





その日の勤めを終えてやって来る娘を待ちながら、わくわく気分どころか、胃がキリキリと痛んだ。それでも、京都のおばんざい料理にワインで、ちょっと気持ちが落ち着いた。なるようにしかならない、と。

こんな旅立ちは初めてだ。ま、これも後から忘れられない思い出となるのだろうか。



 

幸い、フライトは2時間少々の遅れですんだ。ポルトガルへは直行便がないので、ドイツで乗り継ぐ。それも本来は4時間の待ち時間があったので、事なきを得た


残念ながら、機内食を食べたばかりでおなかがいっぱい。楽しみにしていたビールとソーセージは、帰りにね。フランクフルト空港内のカフェで。▼

 


フランクフルトからは3時間ほどで、いよいよ初ポルトガルに到着だ。

 






自閉症児の母として(34):シドニー・オリンピックの閉会式2016年08月22日


今日は長男の職場も台風のおかげで休業となりました。画面の隅に出る台風情報が気になりながらも、なかよくリオ・オリンピックの閉会式をテレビで見ていました。

息子といると、シドニー・オリンピックがいっそう懐かしく思い出されます。




 

   閉会式

 

最終日。オリンピック・スタジアムに出かけていく。男子マラソンのゴールを見とどけてから、閉会式になる。

この日は、前から二番目の席。周囲には日本人の団体も多い。バックスタンドとはいえ特等席だ。チケットに書かれた値段は、1,382ドル、約10万円なり。いまだかつてこんな高い入場料を払ったことはない。これから数時間の価値だ。ちょっぴり緊張する。

フィールドには、なにやら仕掛けのありそうな白いステージや、スピーカーなどの装置が、すでに並んでいた。

そのステージの向こう側から、マラソンのトップランナーが現れた。エチオピアの選手だ。そして2位にはケニアのワイナイナ。日本で活躍するわれらの選手だ。辺りの日本人がどよめき立つ。

ゴールのあと、喜びのウィニングラン。バックスタンドまでやって来る。「ありがとうございます」と日本語で挨拶しながら、日本人の観客たちと握手を交わす様子を、テレビカメラマンが追っていた。その映像は、衛星放送で世界中に生中継されていた。

帰宅後、録画しておいてもらったテープの中に、私の笑顔と望人の横顔が、ちゃんと映っていたのである!


 


              閉会式の大道具。(マリオは出てきません)


  

3日目にして初めて、スタジアムには冷たい風が吹いた。暗くなって寒さが増す。

閉会式の中でもとりわけ聖火の消えゆく瞬間を、私は神妙な気持ちで待ち受けていた。しかし、選手団入場やサマランチ会長の挨拶など、お決まりのセレモニーの後、期待はあっけなく裏切られてしまった。スタジアムの屋根のすぐ上、飛行機の爆音が聞こえてきたと思ったら、聖火は消し去られていたのだ。なんて物足りない幕切れなの……。


が、そんな感傷をも吹き消すかのように、次の瞬間、スタジアムの空間には、いっせいにクラッカーがはじけて、銀色の紙ふぶきが舞った。スクリーンには、”LETS PARTY!”の文字。耳に馴染んだモダンなミュージック。激しいビート。頭上にはミラーボールが回り、カラフルな照明がスタンドを浮き上がらせて揺れる。スタンドの人々も立ち上がり、リズムに乗り、一体となって揺れ動く。ビッグ・ウェーブも何回となくやって来る。一瞬にして、オリンピック・スタジアムは巨大なディスコと化したのだ。

ステージでは、一流のミュージシャンによるショーが繰り広げられる。トラックでは、次から次へとお祭りのようなパレードが続く。文字どおりのビッグ・パーティーだ。


夢を見ているようだった。いや、夢ではないのだ。今この時を、目の前に広がるこのシーンを、いつまでも覚えておこう、と思った。

この14年間、がんばってがんばって望人を育ててきた。そのご褒美のように、望人の夢に乗って、シドニー・オリンピックへやって来ることができたのだ。


ステージの仕掛けが動き、いつのまにか大きな球体のスクリーンが浮かんでいた。地球だ。大陸や海の映像が見える。

SEE YOU IN ATHENS!(アテネで会いましょう)の文字も読める。

このまま気球のように望人の夢に乗り続けて、世界中を旅することができたら……!

  私はもう一つの夢を見ていた。


       紙製の五輪メガネは、閉会式の観客用のグッズ。








自閉症児の母として(33):「夢シドニー二人旅」より2016年08月21日


今日は午前中、リオ・オリンピックのサッカー決勝がテレビ中継されましたね。ご覧になった方も多かったのではないでしょうか。

ブラジルvs.ドイツの試合は、11の同点のままPK戦へ。最後はネイマールの見事なシュートで、地元ブラジルが金メダルを手にしました。

 

私も、シドニー・オリンピックでは、サッカー決勝を観戦しました。

自著『歌おうか、モト君。』の中に収められた「夢シドニー二人旅」より、オリンピックのエッセイをいくつかご紹介します。

 


写真のはがきサイズのアルバムは、シドニーのおみやげに買い求めたもの。お金では買えない思い出の写真がたくさん入っています。

当時はデジカメではなく、フィルムを入れた一眼レフでした。



 

オリンピック・スタジアムで

 

自閉症の長男、望人と二人でオリンピックを見るため、2000年9月28日から6日間のツアーに参加した。このオリンピック観戦ツアーは、陸上競技、サッカー決勝戦、閉会式をメーンスタジアムで見ることになっている。ツアーとはいえ、ほとんどが個人行動。スタジアムへも自分で市電を乗り継いで行かねばならなかった。

 

 ヒューイ、ヒューイ、ヒューイ……

 歩行者用の信号が青になると、口笛を吸い込むような音がする。

カタカタカタカタカタ……

青の点滅に合わせて、木製のおもちゃを鳴らすような音に変わり、思わず走り出す。なんともユーモラスな効果音だ。

ホテルから最寄りの駅までは、にぎやかな大通りの歩道を歩いて10分ほど。街路樹のプラタナスが青々と繁ってすがすがしい。行き交う人々は、ラフなスタイルで表情も明るい。のんびりというよりは快活だ。一緒になって小走りに駅へ急ぐ。

渡された大きな観戦チケットを、ホルダーに入れて、首から提げておく。これがあれば、スタジアムのあるオリンピックパークまで市電がフリーパスなのだ。

駅はどこも混雑していた。けっして観光客にわかりやすい駅ではないけれど、カラフルなユニフォームを着たボランティアの係員があちこち立っていて、何でも教えてくれるので、迷うことはなかった。

スタジアムが電車の窓から見えてくると、望人がうれしそうに指さした。



 

ゲートをくぐり、中に入る。スタンドの大きさに思わず「うわあ」と声が出る。高々と燃えさかる聖火。席はバックスタンドだったけれど、前から10番目といういい席だ。

ぎらぎらと西日がまぶしい。日が沈んでからも、気温は下がらず、用意していったダウンジャケットがじゃまになった。こちらでも異常な暑さだという。そのせいか蛾がたくさん飛び交っている。

初日の夜は、陸上競技観戦。まず、女子の円盤投げが始まる。巨大なスクリーンに選手の姿が映し出される。英語とフランス語のアナウンス、電光掲示板などで、競技の進行がわかるようになっている。

暗くなるにつれ、11万人収容のスタンドはどんどん埋まっていき、ほぼ満席の状態。観客の声援もパワフルになってくる。オーストラリアの選手が現れると、怒涛のような歓声がわき上がる。

やがて、フィールドでは、男子棒高跳びが始まる。人間がすごい高さに跳ね上がり、迫力がある。

トラックでは男子、女子のリレーが行われ、速さを競うアスリートたちがすぐ目の前を駆け抜けていく。3000メートル障害の一団が、波のようにハードルを飛び越えて、水しぶきを上げる。さまざまな競技が同時進行でおこなわれているスタジアムの中、アボリジニの民族音楽の響きが満ちていく。

跳ねる人、駆ける人、跳ぶ人、上がる水しぶき、唸りのような声……。そのとき、私は不思議な感覚にとらわれた。遠く太古ギリシャ時代の競技場にいるような気がしたのだ。

それもつかのま、すぐ周囲に鳴り渡る携帯電話の音で、現代に引き戻されるのだった。


         ほほには、日の丸のシールを貼っている。


翌日は、正午からサッカーの決勝戦を観る。

望人は、Jリーグの大ファンだ。こちらに来るまでは、テレビに釘付けになって、予選で戦う日本チームに声援を送ってきた。

にわかフリークの私が、初めて観るサッカーの試合がオリンピックの決勝戦だなんて、ぜいたくな話だ。スペイン対カメルーン、といったって、じつのところ何の知識もない。

 

ところが、これも旅の運というのだろうか。隣の席に日本人の青年が座った。一人でオリンピックを見に来たという。髪を後ろで一つに結んで、いかにもフリーターといった感じだ。スポーツにとても詳しい。

「カメルーンのエンボマ、10番です、注目してください。ガンバ大阪にいた選手です」

 スタジアムには、テレビの実況中継のような解説はない。審判の笛が鳴っても、プレーが中断されても、よくわからなかったりするのだが、彼に尋ねると親切に教えてくれる。物静かな声で、きちんと敬語を使って話す。いい青年だと思った。

 

 私たちの後方には、スペインの国旗をはためかせた一団がいて、

「エスパーニャア!」と、大声で応援している。

ところが、試合運びがスペインに有利に展開すると、なぜか、どよめくようなブーイングが起こる。スタンド全体としては、どうやらカメルーンびいきに傾いているようだ。

「カメルーンは強い国じゃないのに、ここまで来たからでしょう」

と青年が言う。

 スタンドは、真夏のような西日を浴びて、暑かった。座って観戦しているだけで、シャツの中を汗がたらたらと流れていく。

結果はPK戦のすえ、予期せぬカメルーンの逆転優勝となった。

 

「どうぞお元気で」

 表彰式の後、名前すら聞かないまま、私たちは別れた。一期一会。そんな言葉が浮かぶ旅先での出会いだった。



         聖火をかかげるモト。



旅のフォトエッセイ:Vacance en France 13 モネの庭2016年07月14日


2年前のちょうど今ごろ、娘と二人でフランスを訪れていました。

このタイトルは12回で終わってしまっています。続きを書くつもりでいたのが、2年目にしてようやく13回目をアップ。お待たせいたしました。




 

私が油絵を始めたのは、高校生のときだ。

まだ、何の知識もないころで、なんとなくいいなと感じる絵は、光をまとったような風景画。おそらくそれが印象派の作品だったのだろう。

やがて、クロード・モネの睡蓮の絵と出合う。幻想的な紫色に惹かれた。

 

高校の中庭には、小さな池があり、初夏になると、睡蓮が咲いた。

美術の時間、モネを真似て、それを描いてみた。先生は描きたいように描かせるだけ。麻布のキャンバスなどではなく、せいぜい6号ぐらいのボードだった。

混ぜれば色が濁るが、乾いてから上塗りすると、油彩画らしい色の重なりが出てそれらしく見える。試行錯誤で学んでは油絵具の質感を楽しんだ。

 

やがて大学に入るとすぐ、美術部に籍をおいて、油絵を続ける。

ある夏の合宿では、野反湖へ。湖畔にイーゼルを立てて、1本の木の枝の向こうに、湖を描いた。

秋の合評会で、部の大先輩でもある著名な画家先生がやってきて、

「印象派のような構図ですね」と、この絵にお褒めの言葉をいただいた。

しかしながら美術部では、絵の描き方より、お酒の飲み方を教わったような気がする。

 

そのころの仲間の一人と、今も一つ屋根の下で暮らしている。

彼は今でも写実的な植物画を楽しんでいるが、私はもう絵はやらない。

ときどき本物を見に出かけるだけである。

 

そして、憧れていたモネの庭を訪れるために、パリからバスに乗って1時間、ジヴェルニーへと出かけていったのだった。



バスを降りて、静かな通りを歩いて……


       小川に添って進めば……

 

              蓮池が現れた。


         日本庭園を真似て、モネは柳の木を植えたという。

そして、竹林も。


 
         よく見ると睡蓮も咲いていた。


印象派の人々は、屋外に出て、自然光を絵筆でとらえようとしたのである。

その名前の由来となった『印象・日の出』を描いたクロード・モネは、光の画家とも呼ばれた。 

ところが、残念ながら、訪れた日はあいにくの曇り空。晴れていれば、水面に光の破片が浮き沈みするのだろうに、池はおとなしく眠っているようだった。



池の周りには、寄り添うように花が咲いている。            




         私の大好きなホクシャ。

こちらでよく見かける濃いピンクのアジサイ。

         淡いピンクのガクアジサイも。


               懐かしい月見草も咲いていた。


       大輪のダリア。

  


       手入れのいきとどいたガーデン。





モネの家へ。


       入り口はこちら。内部は写真撮影禁止でございます。




家の中には、たくさんの浮世絵のコレクションが飾ってあった。

日本庭園に憧れていたモネは、太鼓橋や蓮池のある庭を造った。

彼の描く絵の中には、浮世絵が登場したり、モデルがあでやかな和服を着ていたりする。

そんなモネの住んだ家を、今は日本からの観光客がおおぜい訪れている。

 

またいつの日か、バラの花の香るころ、そしてまた、藤の花房が咲き垂れるころ、光が満ちあふれるお天気の日に、もう一度訪ねてみたい。

願いは叶うだろうか。

 




旅のフォトエッセイParis2016(2)ノートルダム大聖堂にて2016年04月04日

 




「どうせ、すぐには帰国できないだろうし、帰ってくるまで知らせないでおこう」

それはパリ旅行中の私のために、家族が出した思いやりのある結論でした。

私がパリに立った2日目。マンションの4軒隣で独り暮らしをしている93歳の母が、体調を崩したのです。かかりつけの医師に診てもらったところ、ひどい貧血で、即入院。検査の結果、胃がんが見つかったのでした。

 

帰国した羽田空港では、荷物も一つ置き忘れられたことがわかり、風邪も引いたようで、くたびれ果てて帰宅すると、家族の様子がなんだかおかしい。初めて母のことを知らされました。

翌日には、私がインフレンザになって万事休す。母は病室から電話をかけてきて、私の体を心配してくれました。どちらが重病人かわかりません。

 

幸い母は、転移もなく、痛みもなく、年齢のわりには心臓も肺も元気で、手術が可能とのこと。胃の3分の2を切り取ることになるでしょう。進行性のがんだから、何もしなければ数か月……。

なんだか私には事の重大さがピンときません。

 

4月は年に一度のエッセイコンテストの審査もあって、一番忙しい時期。それでも仕事に出かけない日はすべて母の病院に通います。自分の時間はなくなりました。ブログもますます書けなくなってしまいますが、時間を見つけて何とか続けたいと思っています。何か月かかっても、パリ旅行をアップしていきたい。



 

写真は、パリのノートルダム大聖堂の中。母の健康と長寿のためにキャンドルを灯して祈りを捧げてきました。ノートルダムはフランス語で「われらの貴婦人」つまり、聖母マリアのこと。母の守護聖人でもあります。母を守ってくれると信じています。

 

皆さまも、どうぞ母のためにお祈りください。







旅のフォトエッセイParis2016(1)共和国(レピュブリック)広場にて2016年03月25日

 

21日夜、無事に羽田に帰り着きました。

ご心配くださった方もいらしたかと思いますが、ベルギーのテロ事件は、帰国翌日のこと。1日違いで恐怖を味わったかもしれず、他人ごとではありませんでした。犠牲者のために祈ります。

 

しかし今回は、これまでの旅と違って、何かと小さなアクシデントがありました。

 

第一弾は、気がついたのが成田に着くまでの車中。出発前の記事にも書いた大事なParisノートを、自分の机の上に置いてきてしまったこと……! 

ま、パスポートではなくてよかった、と気を取り直して出発しましたが。

さて、そのほか旅行中のことは、これから少しずつ、書いていきます。

 

そして最後の(これが最後だと信じたい)アクシデントは、帰国翌日、咳がひどく熱も出てダウン。市販薬を飲んでも熱が下がらず、医者に診てもらうと、インフルエンザA型でした。

特効薬を飲み始めるのが遅れたのか、4日目の今日になって、ようやく平熱に戻りました。

昨日は講演をキャンセルするという最悪の事態に。どれほど迷惑をかけたかと思うと、情けないやら悔しいやら。これからはきちんと予防接種を受けることにします。


 

 


ところで今日は、キリストが十字架にかけられて亡くなった金曜日。

そこで、こんな写真の記事から……。



 

パリ最終日、共和国広場を訪れました。

共和国としての問題が持ち上がると、人々はここで集会を開くそうです。昨年1月にシャルリー・エブドが襲撃されたときも、「私はシャルリー」のスローガンとともに、デモはこの広場から始まっていったとか。

そして、1114日、同時多発テロの後にも、この場所に人々は終結しました。

 

自由と平和の象徴であるマリアンヌ像の周りには、今も人々が訪れ、花やキャンドルが手向けられています。

そして、たくさんのスローガンがかかっている。

「愚かな行為には立ち向かって」

「平和のために立ち上がろう」

「不安にされたって、パリは変わらない」 

フランス人の精神的な強さが伝わります。

 

私の目を引くのは、遺影のかずかず。昨日まで平和な日常を送っていた若い女性や子どもの笑顔が痛々しい。

曇り空の下、冷たい風に吹かれて、思わず涙。彼らの死を無駄にしないため、これ以上犠牲者を増やさないためにも、心から平和を祈らずにはいられませんでした。

 

キリストは、罪深い人間を救うために、十字架の上で死んでいきました。

たとえ普通の人々であっても、その人の死には、何かの復活や新生のための力を残していくという意味があるのだと信じていたいものです。

 

 



仕切り直して、パリへ2016年03月13日


昨年の11月、予定していたパリ旅行をキャンセルせざるを得なかったことは、1124日の記事「ときめきのパリが、悲しみのパリに……」で読んでいただいたとおりです。

 

同行するはずだった友人M子は、長男がパリで研修中なのですが、今年の4月には帰国する予定です。ぜひ、その前にパリを訪ねたい。彼女の思いに、私ももう一度乗り合わせることにしました。

 

仕切り直してパリへ、明後日から行ってきます。

昨年《Paris 2015》と書いたノートのタイトルに、2016と書き加えました。

 



ドミニク・ブシェというパリの一つ星レストランをご存じでしょうか。

銀座にも支店があります。

2年前、娘とパリへ行く直前にテレビ番組で紹介され、行ってみたいと思っていましたが、そのときは、願い叶わず……。

そのオーナーシェフの奥さんという人が日本人で、じつはM子の元同僚であることが、彼女の親しい友人を介してわかったのです。

マダムは、その名を松本百合子さんといい、フランス語の翻訳家としても活躍しているのでした。

 

ちょうど、私たちの再出発に合わせるように、彼女のエッセイ集が発行されました。

『それでも暮らし続けたいパリ』主婦と生活社発行。



 

15年以上もパリに在住している彼女の目を通して、フランスの魅力、その豊かさ、おおらかさが楽しくつづられています。

まえがきで、パリの同時多発テロのことが語られていました。パリの人々の心意気に、目頭が熱くなりました。

 

迷いなく、パリへ行ってきます。








ときめきのパリが、悲しみのパリに……2015年11月24日


29日から1週間、友人とパリに行ってきます!」

 

そう、ご報告するつもりでしたが、残念ながら、本日キャンセルしました。

ご心配くださった皆さん、ありがとうございます。

 

パリ同時テロから11日が経ちました。

旅行会社の情報では、

「パリは平穏を取り戻し、平常どおりの営業、運航をしています」

「シャンゼリゼ大通りのイルミネーションが点灯しました」

などと、安心させるような印象のものがほとんどです。

パリ市民は、気持ちのうえでは恐怖を感じながらも、これまでどおりの暮らしを取り戻すことで、テロに屈しない強さを表そうとしているのでしょう。

 

とはいえ、実行犯が逃亡中とのこと、非常事態宣言が3か月延長されること、オランド大統領の発言のみならず、テロに対抗する世界情勢がますます厳しさを増していること、パリ開催のCOP21に出席する安倍首相も同じ日に向かうこと……など、現状を考慮して、泣く泣く中止を決めました。

「これは戦争だ」と言われているところへ、のこのこ出かけていくほどの急用もなければ、自己責任を負う強さも持ち合わせません。

 

同行の友人には、パリ滞在中の長男に気がかりなことがあって彼に会いに行くという、私にはないもう一つの目的がありました。彼が事件に巻き込まれることはなかったのですが、友人の心配はさらに募ったことでしょう。

それゆえ、私からキャンセルを言いだすことがはばかられて、ずいぶん悩みました。

結局、彼女自身も熟慮のすえ、諦めようと言ってくれました。

本当に不運でした。いや、パリに行く前でよかった、と思うべきでしょう。

 

私にとってフランスは、若いころからあこがれて、親しみを感じてきた国です。だからといって、今回のテロの犠牲者だけが特別だと言うつもりはまったくありません。世界各地で起きている、愚かな憎しみに満ちた戦いや攻撃のかずかず。それらによって亡くなった命のことを知らされるたびに、いつも胸が痛みます。

それでも今回の事件はことさらでした。私の現実に直接影響を与えてきたのですから。犠牲者の魂がすべて天国に迎えられるようにと祈るばかりです。

そして、パリの悲しみに寄り添いながら、世界中のテロの犠牲者を悼み、平和を祈りたいと思います。

 

いつかまた、平和が訪れたパリに飛ぶ日を、夢見ています。




 


 

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