ダイアリーエッセイ:この日にあたり、ごあいさつ。2019年09月29日



今日は、929日。長男の33回目の誕生日です。

「軽い自閉症ですね」と、小児科医に診断を下された日から、30年が経ちました。なんとまあ、長い歳月だったことでしょう。涙あり、笑いあり、苦しみあり、喜びあり。あらゆる思いがぎゅうぎゅうに詰まった30年間でした。

 

そして、この春、自宅を離れて自立の第一歩を踏み出してから、7ヵ月。

毎晩、夕食後に電話があり、その日の食事のメニューや、サッカーJリーグの試合結果、大相撲の勝敗などを報告してくれます。

毎週土曜に帰宅し、翌日にはホームに戻ります。

生活は順調で、小さな問題はあっても、本人が自立して暮らしていることにプライドを持ち、満足している。それが何よりも大切なことなのではないでしょうか。

 

昨晩は、家族5人が集まって、近くのレストランで夕食をとりました。

33歳の抱負は?

「ホームでの生活をがんばります」 

 



介護施設にお世話になっている母も、健康状態は良好。穏やかに過ごしているので、ここらでほっと一息、ついてもいいかな、と思いました。

そんなわけで、10月上旬、1週間ほど旅行に出ます。

 

今回も3週間ぶりのブログ更新になってしまいました。

旅行の前後がとても忙しいのは毎度のこと。「何も今じゃなくてもいいのに……」と思うような用事が、向こうから手を振ってやってくる。それをクリアしていくことで、旅行の喜びも増すというものですね。(強がり?)

次回は帰国後に、楽しい写真をご覧いただければと思います。

行き先は、クロアチアです。


 



ノートルダム大聖堂の復活を祈って2019年04月18日

 


おとといの朝、ノートルダム大聖堂から火の手が上がる映像に、わが目を疑いました。

次々と送られてくる写真や動画のかずかず。高い尖塔が、その骨組みを炎の中に黒く浮かび上がらせ、やがてあまたの火の粉を撒き散らしながら、ゆっくりと二つに折れ、なすすべもなく崩れて落ちていく……。その様子には、さすがに涙が出ました。

初めて訪れたのは大学生の時。その後も何度となく訪ねたものでした。

 

フランス人にとってのノートルダム大聖堂は、日本人にとっての富士山のようなものだ、と言った人がいます。そうであれば、富士山のように永遠にそこにあり続けるはずだったのに。

世界遺産としての価値にとどまらず、今なおカトリックの信仰の場でもあります。パリ市民にとって、フランス人にとって、そして、私のような遠い国の外国人にとってさえ、心の支えでした。

 

でも私は、どのような形であれ、かならずや復元されることを信じています。

 

最近訪ねたのは、3年前の春でした。


▲ここがパリのゼロ地点。



パリへ飛び立つ直前の空港で、母が通うデイサービスの介護士さんから電話を受けました。

「お母さまは顔色もすぐれず、娘さんが外国旅行に行かれるので不安なのかもしれません」

今ここでそんなことを言われても……と途方にくれたのでした。

ところで、ノートルダムはフランス語で「われらの貴婦人」つまり、聖母マリアのこと。この大聖堂は、聖母マリアに捧げられて建立された教会です。母もまた、クリスチャンネームは聖マリア。つまりマリア様が母の守護聖人なのです。

パリに着いた翌日、ノートルダム大聖堂を訪ね、母の健康と長寿のためにキャンドルを灯して祈りを捧げました。



 ところが日本ではちょうどそのころ、母は病院で診察を受け、胃がんが見つかっていたのです。手術をしなければ、余命半年。私がその事実を知らされたのは、5日後に帰国した夜のことでした。

93歳という高齢でしたが、胃の3分の2を摘出する手術を受けました。その後の経過は順調で、若い人の何倍も時間はかかったものの、完全に回復することができたのです。

だから、あの大聖堂はきっと再建される。私にはそう思えます。今こそ、母を救ってくれたノートルダムのために、今度は私が祈りを捧げましょう。

 

しかも、悲劇が起こったのは、もうすぐイースターというこの時期でした。来たる日曜日が、イースター。つまり、キリストが十字架にはりつけになって亡くなり、3日後に復活した日にあたります。

そのことにむしろ明るい希望を感じるのです。大聖堂も、きっと復活を遂げるにちがいない、と。

キリストのように3日で復活は無理でも、すでに1日にして1000億円もの寄付が表明されているとか。また、再建に向けた募金活動も各方面で始まっています。世界中の人々の気持ちが、祈りが、悲劇を乗り越える大きな力となって、復活を実現させていくことでしょう。



3年前の内部の様子。美しいステンドグラス「バラ窓」なども、被害を受けたようです。







祭壇のあるこの辺り、昨日の映像では、屋根が焼け落ち、ステンドグラスも抜け落ち、床にがれきが積もっていました。十字架だけは同じところにありました。▲



 ▲セーヌ川クルーズをした時、船の上から大聖堂の裏側を撮りました。崩落した尖塔がそびえていました。




 



旅のフォトエッセイ:世界遺産の五島列島めぐり⑤旧五輪(ごりん)教会堂2019年01月26日

 


旅の2日目、若松島のキリシタン洞窟を訪ねた後、さらに船を走らせて、久賀島(ひさかじま)の旧五輪教会へ向かいました。

 

▼濃緑色の海のすぐ脇、瓦屋根の日本家屋のような旧五輪教会が見えました。そして、横には明るいオレンジ色の新聖堂があります。


 


五島列島のほぼ中央に位置するこの島では、明治になって、厳しい弾圧が行われたそうです。

ようやく禁が解け、明治14年、この聖堂は当初、島の西側に建てられました。昭和になって新聖堂を建てることになったので、旧聖堂は解体されます。

私たちも船でこの場所に来ましたが、解体された旧聖堂も船で運ばれ、島の東側の五輪地区に引っ越してきました。昭和6年、この地の最初の教会として生まれ変わり、新しい使命を担ったわけです。

とはいえ、140年近い歳月がたっており、木造の教会としてはとても古いものです。昭和60年には、信徒の祈りの場としての使命を終えました。現在は隣の新聖堂がその役目を負っていますが、旧教会堂は貴重な遺構として、国の重要文化財に指定されているそうです。

そして昨年、この五輪集落も世界遺産に登録されました。

 

▼玄関の上に掲げられた看板の文字「天主堂」も読み取れないほど薄くなっていました。



 

▼中に入ると、まず正面の祭壇には、聖ヨセフが幼子イエスを抱いた像が私たちを見下ろしています。

この教会の守護の聖人は聖ヨセフ。聖母マリアの婚約者でしたが、マリアが精霊によって身ごもったことから、イエスの養父と呼ばれています。彼は大工としてまじめに働きながら、聖母マリアとイエスを愛情深く見守る立場に身を置いて生きました。その聖ヨセフが選ばれたのは、五島の漁村で清貧のうちに生きる信徒たちと重なるものがあったからだろう、と言われています。


 

▼両脇の祭壇には、キリスト像とマリア像があります。




▼堂内にはすでに椅子などは置かれておらず、がらんとしています。その分、天井が目を引きます。木材で造られたリブ・ヴォールト天井。木材を少しずつ温めて曲げるのだそうで、素人目にもすごい技術であったことがわかります。




ところで、五輪という地名、この文字を見た覚えがありませんか。そうです、シンガーソングライターの五輪真弓(いつわまゆみ)さん。この地区には「五輪」姓が多く、彼女のお父さんもこの地区の出身だそうです。おじいさんは教会でオルガンを弾いていたとか。ちなみに、「ごりん」と名乗るのは本家のみ、それ以外は「いつわ」と名乗っているとのことです。





 

▲教会堂を出ると、おだやかな海はすでにたそがれ始めていました。


ふたたび船に乗り込み、五島で一番大きな福江島の福江港へ。 


▼操縦士さんが、今度は荷物運びもしてくれます。お世話になりました。

沈んでいく夕日が、長い光の一すじを海に浮かべていました。

 







旅のフォトエッセイ:世界遺産の五島列島めぐり④キリシタン洞窟へ2018年12月14日


前回、「次は、『④旧五輪教会』に続きます」と書きましたが、その教会の前に立ち寄ったキリシタン洞窟についてお伝えすることにします。




▲ バスを降りて、郷ノ首港からチャーター船に乗ります。ここで、とてもよく説明をしてくれたガイドさんともお別れです。

これから、車の通れる道もないような所へ向かうのです。

船は、観光用というより釣り人のための船のようで、ガソリンの匂いがして悪酔いしそうです。ここで酔っては一大事……と緊張していました。


 

船を操縦する男性が、ときどきガイドを兼ねてマイクで説明してくれるのですが、窓も汚れていてよく外が見えません。



30分ぐらい揺られていると、速度を落とし始め、操縦士さんはやおらドアを開けました。

岸壁が見えてきたのです。




 

五島を訪ねたかったもう一つの理由は、大学生の頃に見た映画『沈黙』が、ずっと忘れられなかったからでもあります。

『沈黙』の原作は、遠藤周作のキリシタンを題材にした小説で、篠田正浩監督が1971年に最初に映画化しました。

キリスト教が禁じられた時代に、キリシタンは踏み絵を強いられ、拷問を受け、それでも隠れて信仰を保ち続け、ポルトガルから来る宣教師を待ち焦がれる。そんなキリシタンの生きざまが鮮烈で、頭から離れなかったのです。▼




 それから45年後、再び映画になりました。マーティン・スコセッシ監督が2016年に映画化。映画館で見る勇気がないまま、五島を旅することが決まってから、テレビ録画しておいたものを見ました。

前作とは国籍も違う監督が、切り口を替えて映像化したとは思うのですが、本質的なところで、私の印象はあまり変わりませんでした。新作は役者のうまさもあって、私をがっちり捉えました。そして同じ疑問がわいてきます。

なぜ、キリシタンはあれほど強く信仰を持ち続けることができたのだろうか、と。



 映画の中にも出てきたような海辺の洞窟が、目の前にありました。

岩場に降りられるかどうかは、行ってみなければわからない。そう聞いていました。操縦士さんはしばらく状況を見ていたようですが、やがて船を近づけ、私たちを降ろしてくれました。



▲白い十字架とキリストの像が、遠くからも目立ちました。像の下方には、キリシタン洞窟と呼ばれる場所があります。

明治時代になってから弾圧が厳しくなり、3家族12名のキリシタンがここに逃げ込んだのですが、4ヵ月後、煮炊きの煙が見つかってしまい、捕らえられ、拷問を受けました。

彼らの強い信仰をたたえて、昭和42年に像が立てられました。そして、今なお毎年秋には、この岩場でミサが行われるそうです。とはいえ、天候や潮の影響で、今年は3年ぶりのミサだったとか。

 

信仰を許されず、家を追われ、最後の場所に逃げ込んでも、やがて捕まってしまう。それでも、神は”沈黙“したまま、救ってはくれない……。

キリシタンの人々がどのような思いを抱いていたのか、その岩場に降り立っても、私にはわかりませんでした。

神はなぜ沈黙するのかという、小説と映画の問いかけにも、答えは見つかりませんでした。

 

足元の不安もあり、洞窟にもキリスト像にもこれ以上近づけません。▼



 

旅からひと月たった今、少しずつ、私なりのシンプルな答えが見えてきた気がします。

キリシタンは、生き延びたとしても貧しい暮らしが続き、逃れようのない過酷な現実のなかで、苦しい日々に耐えるしかない。唯一の希望は、死んだら天国に行って神様のそばで幸福になれるということ。それしか残されていなかったのではないか。

現代に生きる私には、彼らの信仰の純粋さがまぶしく思えるのでした。

 

 

*映画『沈黙』の画像は、アマゾンのサイトからお借りしました。




旅のフォトエッセイ:世界遺産の五島列島めぐり③頭ヶ島教会2018年12月02日



20187月に、世界文化遺産に登録された正式なタイトルは、「長崎と天草地方の潜伏キリシタン関連遺産」です。

17世紀から19世紀の200年以上にわたるキリスト教を禁ずる政策の下で、長崎と天草地方において、ひそかに信仰を伝えた人々がいました。それが「潜伏キリシタン」です。

彼らが「潜伏」したきっかけに始まり、信仰の実践と共同体の維持のために日本の伝統的宗教や一般社会と関わりながらも、ひそかに行ったさまざまな試み、そして宣教師と接触することで転機を迎え、「潜伏」が終わるまでを、12の構成資産によって表したもの――それがこの世界遺産の内容です。

 

ブログのこのシリーズ①で紹介した青砂ヶ浦教会は、国の重要文化財としては登録されていますが、12の構成資産には入りませんでした。

今回の頭ヶ島教会は、構成資産の一つ「頭ヶ島の集落」の中にあります。



五島列島の最東端に位置する頭ヶ島は、かつては無人島だったそうです。そこに19世紀になって信徒が渡来し、わずかな平地を切り開いて集落を作ります。

その後も迫害を受けて、信徒たちは島を出ますが、キリスト教の禁が解けると島に戻り、念願の教会堂を建てることができました。

 

とはいえ、鉄川与助という建築家が手掛けた、日本でも数少ない石造りの教会は、完成までに10年もの歳月がかかっています。途中で資金が足りなくなったのです。それでも信徒たちは諦めずに、つましい生活をさらに切り詰めて費用を捻出し、五島石と呼ばれる砂岩を石切り場から運び出すなどの労働に従事して、ようやく完成に至ったそうです。教会は信徒たちの信仰の証そのものといっても過言ではないでしょう。

 

教会は、小さいながらも重厚な造りで、その勇壮なイメージには信徒たちの誇りが感じられました。

ところが、一歩中に入ると、がらりと違った印象です。白壁にはパステルカラーの花や葉のモチーフがあしらわれて、天国もかくやと思わせるようなやさしさに満ちています。柱はなく、天井は船底の形をした折上げ式というものだそうです。



▲教会内部は撮影禁止なので、この写真は絵はがきを撮ったもの。

外観と内部の印象の違いがお分かりいただけるでしょうか。


 

教会を出て、海へ向かいます。

途中、キリシタン墓地がありました。たくさんの石の十字架が、海を見つめて立っています。せめて近くで撮りたかったけれど、なにしろ時間がありません。先へ先へと急ぐ駆け足旅行です。



 

浜辺に着いたとたん、遠い記憶がよみがえりました。

次男の修学旅行の一枚の写真。制服を脱いで、ワイシャツの袖もズボンのすそも捲し上げ、無邪気に遊んでいる生徒たち。

あの写真はここで撮った。なぜかぴんときたのでした。

 

私たちが訪れた時は曇っていましたが、それでも海は少し緑がかった青さでおだやかに空を写していました。

息子たちの旅行中は晴れて暑かったと、のちに先生方から聞きました。晴れていれば、海は青く輝いていたことでしょう。生徒たちも、教会巡りが続いてやれやれ、波打ち際ではしゃぐひとときは、楽しかったにちがいありません。

9年前、息子はこの海を見ていた……そう思うと、不思議な気持ちになるのでした。

 

帰ってから、自分の写真と、学校通信に載ったモノクロ写真とを、見比べてみました。

遠くの島影も水辺の岩も、ぴたりと一致しました。





 

次回、「④旧五輪教会」に続きます。

 



旅のフォトエッセイ:世界遺産の五島列島めぐり②「心に残る」2018年11月30日


五島に行きたいと思うようになったのは、9年前にさかのぼります。
次男の忘れられない出来事にあるのです。

当時、それをエッセイにつづりました。まずはお読みいただきましょう。

 

 

    「心に残る」――母バージョン

 

ゴールデンウィークが明けた日、ひさしぶりに一人の静けさを味わっていると、次男の中学校から電話がかかってきた。

385分のお熱がありまして、今保健室で休んでいるのですが……」

車を飛ばして20分後、保健室には青い顔の息子がいた。

 

ちょうど、アメリカ帰りの大阪の高校生が、重症になりやすい新型インフルエンザで隔離された、というニュースが日本列島を不安に陥らせていた頃だ。

保健室の先生の話では、息子のクラスにもインフルエンザの生徒が数名出ているという。

私も青くなった。中3の息子たちは、5日後に長崎への修学旅行を控えていたのである。

「でもご安心ください、B型ですから」と、先生はにこっと笑った。

恐怖の新型はA型で、学校では安心のB型というわけだ。おそらく息子もその菌をもらったのだろう。

「発熱して1日たたないと菌が出ないことがあるので、検査は明日のほうが確実かもしれませんね」

とりあえず息子を連れて帰って寝かせる。夜には40度になり、解熱剤を飲ませた。大丈夫、出発まで5日ある。諦めるにはまだ早い。

あいにく私は、翌日の午前中は自分の習い事、午後からは仕事先の年に一度の総会が控えていた。しかたがない。午前中は休むことにして、医者に連れて行こう。総会では大事なお役目もあるから休むわけにはいかない。薬を飲んで眠っているうちに出かけてこよう。

 

翌日、午前中にかかりつけの小児科に連れて行く。検査の結果は予想どおりのインフルB型。

「ほうっておいても寝てれば自然に治るんだけどね」と医者は前置きして、「一刻も早く治したい事情があるということなので、特効薬を処方しましょう」。

薬はリレンザ。従来のタミフルは、副作用でまれに幻覚や妄想が起こるとされている。子どもの患者が異常行動で亡くなって以来、未成年には許可されなくなった。

「リレンザでも同様の副作用があるという報告もあります。服用したら24時間、目を離しちゃだめですよ」

大声を上げて外へ飛び出したり、窓から飛び降りたりする可能性もあるというのだ。

 

万事休す。午後からの総会もあきらめ、急きょ欠席のお詫びを入れて、代理を頼んだ。

吸飲式のリレンザは、簡単な器具に薬のパックを装てんして投与する。息子はやがて眠りについた。1時間おきに部屋をのぞいても、いつも死んだように眠っていた。

結局その日は、夜まで息子の爆睡を見守っただけだった。総会に出かけても大丈夫だったのに、と思う。でもそれは結果論だ。

わが家にはもう一人保護者がいるのだが、夫の育児への協力は土日祝日限定である。育児のために仕事を犠牲にするのはいつだって私。収入の多寡だと言われればそれまでだけれど、仕事である以上、私にも社会的な責任はあるんだけどな……。

 

翌日には息子の熱も下がり、リレンザのおかげで快方に向かった。2日間平熱が続けば完治とみなされる。旅行の前日には医者の診断書をもらって、午後からは登校できた。なんとか修学旅行に間に合ったのだ。

さて旅行当日の朝、最後のリレンザを吸いこんで、いざ出発……のはずが、トイレに入ったきり出てこない。薬の副作用から下痢を起こしたようだ。今度は下痢止めを飲ませる。ぎりぎりの時刻まで待って、集合場所の羽田へ向かわせた。中学生にとって、修学旅行に行かれないことぐらい悲しいことはない。そんな私の信念が、息子を送り出したのだった。

 


34日の旅を終え、元気に帰ってきた息子は、開口一番、こう言った。

「ありがとう、母さん!」

初日は辛かったけれど、2日目からは食欲も出たという。五島の海の青さ、班長として班別行動をとった思い出……口下手な息子の話でも、楽しかった様子が想像できた。

母さんが治してあげたわけではないけど、でもよかったね、みんなと行けて。

 

1ヵ月後、さらにおまけがつく。

国語の苦手な息子が書いた「心に残る」というタイトルの修学旅行記が、学校通信に載ったのである。

「仕事を休んでまで看病してくれた親のためにも、楽しめなければ悪いという気がした」

旅行記は、私の心に残る“最高傑作だった。




 ぎりぎりセーフの病み上がりで出かけ、元気になって帰ってきた息子。彼が見た海を、いつか私も見てみたい。願いは9年目にかなったのでした。

次回、「③頭ヶ島教会」に続きます。

 

 

旅のフォトエッセイ:世界遺産の五島列島めぐり①青砂ヶ浦教会2018年11月18日




ずっと以前から行きたかったのです。長崎県の五島列島、キリシタンの聖地。

今年7月、世界文化遺産に登録された「長崎と天草地方の潜伏キリシタン関連遺産」には、五島列島の中の4つの集落が含まれています。

 

今回の旅は、なるべく効率よく回れるようにと、一般のツアーに参加。キリシタン関連で訪れたのは、4つの教会とキリシタン洞窟だけでしたが、それでも念願の五島の地を踏んで、感慨もひとしおでした。

 

まずはハイライトから――



 

▲最初に訪れた青砂ヶ浦(あおさがうら)教会。

中通島の海を見下ろす丘の中腹にたたずむレンガ造りの聖堂です。

 

1549年、フランシスコ・ザビエルが来日してキリスト教宣教が始まりますが、その約30年後には早くもバテレン追放令が出て、信者たちは弾圧を受けるようになります。それでも彼らは、仏教徒を装ったり、神道の習慣に従ったりしながら、密かに信仰を守り続けたのでした。

300年の時を経て、明治6年、ついにキリスト教が許されるようになると、信者たちは、彼らの信仰の証として、自分たちの教会の建立に力を注ぎます。ただでさえ貧しい暮らしのなか、さらに生活を切り詰めて資金をつくる。自らの手で海辺の砂岩を切り出し、船で運ばれてくる資材を肩に担いで丘に運び上げる。血と汗のにじむような努力の結果、明治43年、この教会は出来上がりました。

ついに自分たちの教会堂を建てることができた! その喜びはいかばかりであったでしょう。

 

この日のガイドさんは、言葉遣いも丁寧で、知識も豊富、素晴らしい語り口に、感心して聞きほれていました。

彼女は、内部の見学を終えて外に出ると、「もう一度玄関の上の方を見上げてください」と言いました。


「『天主堂』と書いてありますね。教会堂という意味ですが、わざわざ書かなくてもわかるのに……。今の教会には、このようなものはあまりありません。でも、当時の信者たちの気持ちを思ってみてください。長い迫害の時代を経て、ようやく自分たちの手で神様の家を作り上げた。皆で祈りを捧げる場所ができた。その喜びが、『天主堂』という文字の中に表れていると思いませんか」

私はガイドさんの言葉に、本当に彼らの気持ちが伝わってくる気がしました。

信者さんですかと尋ねると、「私は仏教徒ですよ」と笑うガイドさん。だからこそわからないことも多く、もっと知りたいと思うのだそうです。この地に生まれ育った彼女の郷土愛なのかもしれません。熱心に学んで伝えようとする真摯な態度には、ガイドとしての誇りを感じました。


 ▼白い手袋がガイドさん。


 


▲この写真は、バスの中で、ガイドさんが見せてくれたもの。観光客には、教会内部の写真撮影が許可されていません。

 

私たちは教会の椅子に掛けて、ガイドさんの説明を聞きました。

ゴシック様式のアーチ型の天井や、骨組みも柱も木造りであること。

美しい花をかたどったステンドグラスは、フランスから運ばれたこと。

その花弁が5枚ではなく4枚なのは、十字架を表していること……。

ヨーロッパの教会は、伝統的に玄関が西で、祭壇が東側。この教会も同様で、真西から日が差し込むと、その光が祭壇を照らします。祭壇左に置かれた聖テレジア像と右の聖フランシスコ・ザビエル像が、玄関上の左右のバラ窓から差し込む光によって見事に浮かび上がるのだそうです。

その日はあいにくの曇り空でしたが、話を聞いている最中に、急に日の光が差し込んできました。察知したガイドさんがすぐに電気の照明を消しました。

赤、黄色、オレンジ、緑。カラフルなステンドグラスを通して入ってきた陽光が、教会内部の空間に満ちていきます。その明るさ、美しさといったら……!

神様が私たちを喜んで迎えてくださった。そんなふうに思えました。

奇跡のような、ほんの一瞬の出来事でした。




旅のフォトエッセイ:ちょっと京都の旅①2018年10月12日

 

夕刻にひとり京都に降り立ち、ホテルにチェックインした後、東華菜館という北京料理の老舗へ向かいました。

鴨川のほとり、四条大橋の脇に、南座と向かい合って建つ、五階建てのレトロな洋館です。

(写真は「じゃらん」のサイトからお借りしました。▼)




玄関からして荘厳な構えです。▲

  

早く着きすぎたので、中には入らず、混雑する四条通をぶらぶらしていると、「全員お待ちかね」とお呼びがかかってしまい、あわてて引き返しました。


 

大正15年に建てられたそうで、2階へと案内された古めかしいエレベーターには、蛇腹の扉がついていました。日本橋三越にも同じようなエレベーターが残っていますが、どちらもアメリカのOTIS社製で、こちらは現存する日本最古のものだとか。▲

 

▼男性諸氏が待っていてくれたのが、この部屋。

(写真は「東華菜館」のホームページからお借りしました)


 

種を明かせば男性諸氏は、大学の美術部の1学年上の先輩がたと、同期のお仲間。卒業後も交流が途切れることなく、特に男性はリタイア組も増え、昨今は集まる機会も増えてきました。

この秋、京都出身の男性が京都ツアーを企画して、わが夫も含めて男性ばかり10名ほどが参加。旅の二日目の夜は、この伝統ある北京料理の店で夕食を、という予定だったので、私もなんとか都合をつけて、この席に駆けつけたのでした。

はい、夫は私の1年先輩でした。(今では上下関係が逆転しているかも?)

 

夫とは24時間ぶりですが、40年ぶりの先輩もいて、顔を見てもわからないかと思ったのに、そこは若い頃の親しい仲間。当時と変わらない冗談交じりのやり取りで、誰それの消息やら、近況やら、あることないこと、次から次へと話題が飛び出し、笑いがあふれ、楽しいひと時はあっという間でした。

 

学生時代に比べたら、痩せた人、太った人、髪の少なくなった人、白くなった人、意外にあまり変わっていない人……。見かけはいろいろです。同じであるのは、誰もが皆、同じ年月を過ぎてきたこと。

飲み過ぎて暴れたり、議論を吹っ掛けたり、もうそんな人はいない。やわらかな眼差しで、上手に言葉を交わしている。ほほ笑んでいる。

「かどが取れてまるくなった」とは、つまりこういうことなのでしょう。相手を思いやるやさしさを身につけてきたのですね。

かくいう私とて、だいぶ色香の褪せた紅一点。昔はこういう場で、今で言うセクハラまがいの会話をされては、怒ることもありました。もう、はねっかえす若さも弾力もありません。ここに集う紳士たちも、昔の淑女にぶしつけな物言いをすることはないのです。

 

そろそろお開きという頃、窓の下には鴨川のゆるやかな流れが、街の灯を映してきらめいていました。ほろ酔いの私は、40年の時の流れに思いを馳せるのでした。

 

 

夫は、初めからこのツアーに一人で参加することにしていました。

わが家には、ご存じのとおり、自閉症の長男がいます。予定外のことが起きなければ一人で何時間でも留守番はできるのですが、さすがに両親二人とも外泊するのはちょっと心配です。

今回は、彼の毎月一度の宿泊訓練を、京都行きの日程に合わせることができたので、私も夫を追いかけて(??)同席することができました。

とはいえ、翌日には帰るつもりで、夫たちのツアーではなく、関西在住の友人に付き合ってもらい、短い京都滞在の計画を立てました。

この続きは、またいずれ。







旅のフォトエッセイPortugal 2018(8)聖地ファティマへ2018年07月28日

 


 ポルトガルに行くと決まったら、ファティマに何としても行きたいと思った。バチカンお墨付きのカトリックの聖地である。

 

 わが家は、父方の叔母が若い頃にカトリックの洗礼を受け、祖父母の代から親族みなクリスチャンになった。私たちの代はほとんど幼児洗礼だ。しかしと言うか、だからと言うか、熱心な信者とは言いがたい。それでも、仏壇も神棚もない家には、十字架やマリア様の絵がどの部屋にもあった。両親のしつけの根っこには、道徳のようにキリストの教えがあったようだ。

 子どもの頃は教会学校に通わされた。高校生になると、教会で出会う友達も増え、神父様とも仲良くなり、教会は楽しい場所になる。信仰の厳しさもないまま大人になり、苦しいときの神頼みはカトリックの神様にお任せ。クリスチャンだと名乗るのも申し訳ないお気楽な信者だった。

 私が20代後半の頃、当時の教皇ヨハネ・パウロⅡ世が来日する。「空飛ぶ聖座」という異名をとる行動的な教皇だ。2月の小雪が舞う日の午後、東京ドームが出来る前の後楽園球場で野外ミサが行われた。オープンカーで場内を回る教皇に、私たちが「パパさまぁ!」と手を振ると、人懐こい笑顔でこたえてくれて、カリスマ的なアイドルのようだった。 


 

 最近になって、聖地ファティマについて調べてみて、驚いた。この教皇に深い関わりがあることがわかったのである。

 ファティマは、ポルトガル中部に位置する小さな村だった。村の信心深い羊番の子どもたち3人の前に、あるとき聖母マリアが出現した。何回か現れては予言を行い、奇跡を行ったという。大昔の話ではない。時代はほんの1世紀前、第一次世界大戦のさなかのこと。聖母は戦争の終わりを予言する。さらに、教皇の暗殺をも予言した。

 それから64年後の1981年、予言どおりに時の教皇がバチカンで銃撃されるという事件が起きた。その方こそ、ほかでもないヨハネ・パウロⅡ世だった。幸いにも一命を取り留めた教皇は、「聖母のご加護のおかげ」と感謝してファティマを訪れる。暗殺未遂が起きたのは、来日した3ヵ月後の513日。それはファティマの聖母出現の記念日だったのである。

 

 


▲ファティマの街に入ると、マリア様と出会った3人の子どもの像がありました。(小さくてわかりにくいですが、ポールの右側に羊を連れています)







▲十字架を頂く高い塔がそびえるファティマのバジリカは、半円を描くように両側に回廊が伸びている。その屋根には大天使や聖人たちの像が並ぶ。バチカンのサンピエトロ大聖堂を模して造られたそうで、なるほどと思った。

▼バジリカの聖堂内部。



 

 その前には競技場のように広大な広場があり、祭礼の日には10万人もの巡礼者がここを埋め尽くすという。でも、私たちが訪れたその日は、三々五々と人がいるだけで、閑散としていた。




▲バジリカから見て右手、聖母が現れた場所に建てられた「出現の聖堂」がある。ガラス張りの開放的な造りだ。そこには、カボチャ型の王冠を頭に載せた聖母像が、やさしげな表情で小首をかしげて佇んでいる。


▼(写真が撮れなかったので、買ってきた本のページを写したものです)




 大小のろうそくをささげる場所があり、娘と二人で火をともす。▼ 




 バジリカを背にして広場を歩き始める。緩い上り坂だ。遠方からもバジリカの祭壇が見えるようにという工夫なのだろう。

 途中、ヨハネ・パウロ二世の大きな石像があった。パパさま、お久しぶりです。▼

 



▲巡礼者の中には、白い道をひざまずいて祈りながら歩を進める人もいる。



 広場の向かい側には、10年前に建てられた近代的な教会「聖三位一体教会」がある。内部にいくつもの聖堂があり、一日中どこかでミサが行われるそうで、覗いてみると、どの聖堂にも祈る人々がいた。

 残念ながらミサにあずかる時間はなかったが、聖堂に入って祈りをささげた。障害を持つ長男や、道に迷う次男、生きがいをなくした高齢の母、そして、わが身の来し方行く末のこと……。こんなに真剣に祈ったことがあったろうか。私はこのファティマの地で、巡礼者の一人に過ぎなかった。

 

 

 ふたたび広場に戻り、バジリカを仰ぎ見る。もう夕刻だというのに暖かく、冬の西日がベージュ色のバジリカを照らし、浮かび上がらせている。その背景には、澄んだ青空に白い雲がたなびいていた。なんという清らかな世界だろう。

「神様が近くにいるような気がするわ」

 私が呟くと、

「気持ちいいね」と、言葉少なに娘が答えた。

 

 そのとき、鐘の音が聞こえてきた。四時を告げる鐘だ。なぜか私は、そのメロディを一緒に口ずさんでいた。

「アベ、アベ、アベマリアー……」

 ああ、子どもの頃に習った歌だ。こんな遠い場所で、懐かしい歌を歌うなんて……。ここにやって来たのも、あの頃の神様に呼ばれたのかもしれない。

 途中から胸がいっぱいになって、歌えなくなった。






旅のフォトエッセイPortugal 2018(7)飲んで食べて……2018年04月14日




「ポルトガル料理は美味しい」

かねてから耳にしていたので、朝食を楽しみにしていた。時差ぼけのおかげで早起きができ、ゆっくり支度をして地下のダイニングルームに降りていく。

中央のテーブルには、日本のホテルでもおなじみの料理が並んでいた。



その中でも目を引いたのは、分厚いスモークサーモン、真っ黒なソーセージ、ブラウンマッシュルームのバジルソテー。黒いソーセージはイカ墨ではなく、クミンシードの味がしてエスニック風、病みつきになりそうな美味しさだ。帰りの空港の売店にも置いてあったので買いたかったけれど、検閲で引っかかると面倒なので諦めた。

オレンジやトマトのジュースは素材の味が濃厚でフレッシュだ。種類豊富な果物もチーズもしかり。




そして、何といっても、ポルトガル名物エッグタルト。▲

出来立ての絶妙なおいしさと言ったらない。パリパリのパイ生地に、とろりと甘いカスタードクリーム。期待以上だった。


飲み物のテーブルの端に、冷えたボトルを見つけてしまった。スパークリングワインだ。誰に気兼ねすることもない。遠慮なくシャンパングラスについでもらう。

「朝シャンで乾杯!」

すっきりさわやかな味が、意外と朝食に向いている気がする。まるでワインバーのような料理のかずかずとも相性抜群だ。

「養命酒の代わりになるわ」

私は最近、毎回食前に養命酒を飲むようになって、効能書きどおりに少しだけ体調が良くなった気がする。とはいえ、1リットル瓶を持ってくるわけにもいかなかった。

滞在中、毎日の朝シャンは、養命酒以上の効き目で、元気の源となってくれたようだ。石畳の坂道を娘と対等に歩き、夜はぐっすり眠り、疲れ知らずだった。日本から持参した栄養ドリンクも胃薬も頭痛薬も導眠剤も、いっさいお世話にならずにすんだのである。


下の2枚の写真は、リスボンのホテルの朝食。こちらはさらに、柔らかくてジューシーなローストビーフが逸品!




それだけではない。毎朝たいてい一番乗りでテーブルに着き、まずは乾杯に始まって、料理をおかわりしてはたっぷりと食べ、滑らかになった舌で、娘とたくさんおしゃべりをした。結婚2年目のふたりのこと、兄弟のこと、仕事のあれこれ、今後の旅行の予定など、話は尽きなかった。ふだんは、忙しい娘となかなか話すチャンスも作れないのである。

朝シャンのおかげで、思いがけずいい時間を過ごせた。



 

ポルトに2泊した後、市東部のカンパニャン駅から特急列車で3時間、リスボンに移動した。


さすがに首都リスボンは都会だ。観光客も多い。狭い坂道を行き来する人気のトラム28番に乗りたかったのに、乗り場で待てど暮らせどやって来ない。ストライキでもやっているのか、それとも平日は間引き運転なのか。


カモインズ広場を横切るレールの脇、ここにもマクドナルドがあった。


午後3時を回ると、がっつり食べた朝食も消化されて、おなかが空いてきた。ガイドブックに載っていたオシャレなカフェに入る。


▼カフェ・ノ・シアードは、店先をトラムが走っている。風が冷たかったので、テラス席はやめて、店内へ。

初老の男性がゆったりワイングラスを傾けていたり、若いグループが食事をしたりしている。



「ポルトガル人も合コンするのね」と娘。いかにもそんな雰囲気が……。



▲英語のメニューを見てオーダーしたのは、干しダラとキャベツと玉ねぎを混ぜた卵とじ。タルタルステーキの形に整えて、黒オリーブと細いフライドポテトがトッピングしてある。見た目よし、味もよし。

干しダラはバッカリャウと呼ばれ、ポルトガル料理の定番食材だそうで、塩味とタラのうまみが日本人の口に合う。もちろんワインとも合う。


小さなコロッケは、牛肉のミンチ。


 

さてデザート。メニューに「伝統的なお菓子」と書いてある。ウェイトレスにこれは何、と尋ねた。卵と砂糖と小麦粉で作る。とてもおいしい、私も好きだと、拙い英語ながら、熱心に薦めてくれたので、一つ頼んでみる。



運ばれてきたのは、厚めのパンケーキのような焼き菓子だった。真ん中は色が濃く、へこんでいる。ふたりで半分ずつ。ひと口食べると、ああ、カステラの味がする。濃い部分は、しっとりと甘くてほろ苦くて、おいしい! 

ちょうど、カステラの紙にくっついてしまう焦げ茶色の部分の、あの味だ。

子どもの頃、到来物の細長いカステラを、家族で切り分けて食べた。ここが一番おいしいんだよね、と言いながら、紙に付いたのをスプーンでこそげ取って食べたっけ……。


「ポルトガルってなぜか懐かしいのよ」

そう言った友達の言葉が浮かんできて、急に涙が出そうになった。


 




copyright © 2011-2021 hitomi kawasaki