旅のフォトエッセイ:世界遺産の五島列島めぐり④キリシタン洞窟へ ― 2018年12月14日
前回、「次は、『④旧五輪教会』に続きます」と書きましたが、その教会の前に立ち寄ったキリシタン洞窟についてお伝えすることにします。
これから、車の通れる道もないような所へ向かうのです。
船は、観光用というより釣り人のための船のようで、ガソリンの匂いがして悪酔いしそうです。ここで酔っては一大事……と緊張していました。
船を操縦する男性が、ときどきガイドを兼ねてマイクで説明してくれるのですが、窓も汚れていてよく外が見えません。
30分ぐらい揺られていると、速度を落とし始め、操縦士さんはやおらドアを開けました。
岸壁が見えてきたのです。
五島を訪ねたかったもう一つの理由は、大学生の頃に見た映画『沈黙』が、ずっと忘れられなかったからでもあります。
『沈黙』の原作は、遠藤周作のキリシタンを題材にした小説で、篠田正浩監督が1971年に最初に映画化しました。
キリスト教が禁じられた時代に、キリシタンは踏み絵を強いられ、拷問を受け、それでも隠れて信仰を保ち続け、ポルトガルから来る宣教師を待ち焦がれる。そんなキリシタンの生きざまが鮮烈で、頭から離れなかったのです。▼
前作とは国籍も違う監督が、切り口を替えて映像化したとは思うのですが、本質的なところで、私の印象はあまり変わりませんでした。新作は役者のうまさもあって、私をがっちり捉えました。そして同じ疑問がわいてきます。
なぜ、キリシタンはあれほど強く信仰を持ち続けることができたのだろうか、と。
岩場に降りられるかどうかは、行ってみなければわからない。そう聞いていました。操縦士さんはしばらく状況を見ていたようですが、やがて船を近づけ、私たちを降ろしてくれました。
明治時代になってから弾圧が厳しくなり、3家族12名のキリシタンがここに逃げ込んだのですが、4ヵ月後、煮炊きの煙が見つかってしまい、捕らえられ、拷問を受けました。
彼らの強い信仰をたたえて、昭和42年に像が立てられました。そして、今なお毎年秋には、この岩場でミサが行われるそうです。とはいえ、天候や潮の影響で、今年は3年ぶりのミサだったとか。
信仰を許されず、家を追われ、最後の場所に逃げ込んでも、やがて捕まってしまう。それでも、神は”沈黙“したまま、救ってはくれない……。
キリシタンの人々がどのような思いを抱いていたのか、その岩場に降り立っても、私にはわかりませんでした。
神はなぜ沈黙するのかという、小説と映画の問いかけにも、答えは見つかりませんでした。
足元の不安もあり、洞窟にもキリスト像にもこれ以上近づけません。▼
旅からひと月たった今、少しずつ、私なりのシンプルな答えが見えてきた気がします。
キリシタンは、生き延びたとしても貧しい暮らしが続き、逃れようのない過酷な現実のなかで、苦しい日々に耐えるしかない。唯一の希望は、死んだら天国に行って神様のそばで幸福になれるということ。それしか残されていなかったのではないか。
現代に生きる私には、彼らの信仰の純粋さがまぶしく思えるのでした。
*映画『沈黙』の画像は、アマゾンのサイトからお借りしました。
旅のフォトエッセイ:世界遺産の五島列島めぐり③頭ヶ島教会 ― 2018年12月02日
2018年7月に、世界文化遺産に登録された正式なタイトルは、「長崎と天草地方の潜伏キリシタン関連遺産」です。
17世紀から19世紀の200年以上にわたるキリスト教を禁ずる政策の下で、長崎と天草地方において、ひそかに信仰を伝えた人々がいました。それが「潜伏キリシタン」です。
彼らが「潜伏」したきっかけに始まり、信仰の実践と共同体の維持のために日本の伝統的宗教や一般社会と関わりながらも、ひそかに行ったさまざまな試み、そして宣教師と接触することで転機を迎え、「潜伏」が終わるまでを、12の構成資産によって表したもの――それがこの世界遺産の内容です。
ブログのこのシリーズ①で紹介した青砂ヶ浦教会は、国の重要文化財としては登録されていますが、12の構成資産には入りませんでした。
今回の頭ヶ島教会は、構成資産の一つ「頭ヶ島の集落」の中にあります。
五島列島の最東端に位置する頭ヶ島は、かつては無人島だったそうです。そこに19世紀になって信徒が渡来し、わずかな平地を切り開いて集落を作ります。
その後も迫害を受けて、信徒たちは島を出ますが、キリスト教の禁が解けると島に戻り、念願の教会堂を建てることができました。
とはいえ、鉄川与助という建築家が手掛けた、日本でも数少ない石造りの教会は、完成までに10年もの歳月がかかっています。途中で資金が足りなくなったのです。それでも信徒たちは諦めずに、つましい生活をさらに切り詰めて費用を捻出し、五島石と呼ばれる砂岩を石切り場から運び出すなどの労働に従事して、ようやく完成に至ったそうです。教会は信徒たちの信仰の証そのものといっても過言ではないでしょう。
教会は、小さいながらも重厚な造りで、その勇壮なイメージには信徒たちの誇りが感じられました。
ところが、一歩中に入ると、がらりと違った印象です。白壁にはパステルカラーの花や葉のモチーフがあしらわれて、天国もかくやと思わせるようなやさしさに満ちています。柱はなく、天井は船底の形をした折上げ式というものだそうです。
▲教会内部は撮影禁止なので、この写真は絵はがきを撮ったもの。
外観と内部の印象の違いがお分かりいただけるでしょうか。
教会を出て、海へ向かいます。
途中、キリシタン墓地がありました。たくさんの石の十字架が、海を見つめて立っています。せめて近くで撮りたかったけれど、なにしろ時間がありません。先へ先へと急ぐ駆け足旅行です。
浜辺に着いたとたん、遠い記憶がよみがえりました。
次男の修学旅行の一枚の写真。制服を脱いで、ワイシャツの袖もズボンのすそも捲し上げ、無邪気に遊んでいる生徒たち。
あの写真はここで撮った。なぜかぴんときたのでした。
私たちが訪れた時は曇っていましたが、それでも海は少し緑がかった青さでおだやかに空を写していました。
息子たちの旅行中は晴れて暑かったと、のちに先生方から聞きました。晴れていれば、海は青く輝いていたことでしょう。生徒たちも、教会巡りが続いてやれやれ、波打ち際ではしゃぐひとときは、楽しかったにちがいありません。
9年前、息子はこの海を見ていた……そう思うと、不思議な気持ちになるのでした。
帰ってから、自分の写真と、学校通信に載ったモノクロ写真とを、見比べてみました。
遠くの島影も水辺の岩も、ぴたりと一致しました。
次回、「④旧五輪教会」に続きます。
旅のフォトエッセイ:世界遺産の五島列島めぐり②「心に残る」 ― 2018年11月30日
当時、それをエッセイにつづりました。まずはお読みいただきましょう。
「心に残る」――母バージョン
ゴールデンウィークが明けた日、ひさしぶりに一人の静けさを味わっていると、次男の中学校から電話がかかってきた。
「38度5分のお熱がありまして、今保健室で休んでいるのですが……」
車を飛ばして20分後、保健室には青い顔の息子がいた。
ちょうど、アメリカ帰りの大阪の高校生が、重症になりやすい新型インフルエンザで隔離された、というニュースが日本列島を不安に陥らせていた頃だ。
保健室の先生の話では、息子のクラスにもインフルエンザの生徒が数名出ているという。
私も青くなった。中3の息子たちは、5日後に長崎への修学旅行を控えていたのである。
「でもご安心ください、B型ですから」と、先生はにこっと笑った。
恐怖の新型はA型で、学校では安心のB型というわけだ。おそらく息子もその菌をもらったのだろう。
「発熱して1日たたないと菌が出ないことがあるので、検査は明日のほうが確実かもしれませんね」
とりあえず息子を連れて帰って寝かせる。夜には40度になり、解熱剤を飲ませた。大丈夫、出発まで5日ある。諦めるにはまだ早い。
あいにく私は、翌日の午前中は自分の習い事、午後からは仕事先の年に一度の総会が控えていた。しかたがない。午前中は休むことにして、医者に連れて行こう。総会では大事なお役目もあるから休むわけにはいかない。薬を飲んで眠っているうちに出かけてこよう。
翌日、午前中にかかりつけの小児科に連れて行く。検査の結果は予想どおりのインフルB型。
「ほうっておいても寝てれば自然に治るんだけどね」と医者は前置きして、「一刻も早く治したい事情があるということなので、特効薬を処方しましょう」。
薬はリレンザ。従来のタミフルは、副作用でまれに幻覚や妄想が起こるとされている。子どもの患者が異常行動で亡くなって以来、未成年には許可されなくなった。
「リレンザでも同様の副作用があるという報告もあります。服用したら24時間、目を離しちゃだめですよ」
大声を上げて外へ飛び出したり、窓から飛び降りたりする可能性もあるというのだ。
万事休す。午後からの総会もあきらめ、急きょ欠席のお詫びを入れて、代理を頼んだ。
吸飲式のリレンザは、簡単な器具に薬のパックを装てんして投与する。息子はやがて眠りについた。1時間おきに部屋をのぞいても、いつも死んだように眠っていた。
結局その日は、夜まで息子の爆睡を見守っただけだった。総会に出かけても大丈夫だったのに、と思う。でもそれは結果論だ。
わが家にはもう一人保護者がいるのだが、夫の育児への協力は土日祝日限定である。育児のために仕事を犠牲にするのはいつだって私。収入の多寡だと言われればそれまでだけれど、仕事である以上、私にも社会的な責任はあるんだけどな……。
翌日には息子の熱も下がり、リレンザのおかげで快方に向かった。2日間平熱が続けば完治とみなされる。旅行の前日には医者の診断書をもらって、午後からは登校できた。なんとか修学旅行に間に合ったのだ。
さて旅行当日の朝、最後のリレンザを吸いこんで、いざ出発……のはずが、トイレに入ったきり出てこない。薬の副作用から下痢を起こしたようだ。今度は下痢止めを飲ませる。ぎりぎりの時刻まで待って、集合場所の羽田へ向かわせた。中学生にとって、修学旅行に行かれないことぐらい悲しいことはない。そんな私の信念が、息子を送り出したのだった。
3泊4日の旅を終え、元気に帰ってきた息子は、開口一番、こう言った。
「ありがとう、母さん!」
初日は辛かったけれど、2日目からは食欲も出たという。五島の海の青さ、班長として班別行動をとった思い出……口下手な息子の話でも、楽しかった様子が想像できた。
母さんが治してあげたわけではないけど、でもよかったね、みんなと行けて。
1ヵ月後、さらにおまけがつく。
国語の苦手な息子が書いた「心に残る」というタイトルの修学旅行記が、学校通信に載ったのである。
「仕事を休んでまで看病してくれた親のためにも、楽しめなければ悪いという気がした」
旅行記は、私の”心に残る“最高傑作だった。
次回、「③頭ヶ島教会」に続きます。
旅のフォトエッセイ:世界遺産の五島列島めぐり①青砂ヶ浦教会 ― 2018年11月18日
ずっと以前から行きたかったのです。長崎県の五島列島、キリシタンの聖地。
今年7月、世界文化遺産に登録された「長崎と天草地方の潜伏キリシタン関連遺産」には、五島列島の中の4つの集落が含まれています。
今回の旅は、なるべく効率よく回れるようにと、一般のツアーに参加。キリシタン関連で訪れたのは、4つの教会とキリシタン洞窟だけでしたが、それでも念願の五島の地を踏んで、感慨もひとしおでした。
まずはハイライトから――
▲最初に訪れた青砂ヶ浦(あおさがうら)教会。
中通島の海を見下ろす丘の中腹にたたずむレンガ造りの聖堂です。
1549年、フランシスコ・ザビエルが来日してキリスト教宣教が始まりますが、その約30年後には早くもバテレン追放令が出て、信者たちは弾圧を受けるようになります。それでも彼らは、仏教徒を装ったり、神道の習慣に従ったりしながら、密かに信仰を守り続けたのでした。
300年の時を経て、明治6年、ついにキリスト教が許されるようになると、信者たちは、彼らの信仰の証として、自分たちの教会の建立に力を注ぎます。ただでさえ貧しい暮らしのなか、さらに生活を切り詰めて資金をつくる。自らの手で海辺の砂岩を切り出し、船で運ばれてくる資材を肩に担いで丘に運び上げる。血と汗のにじむような努力の結果、明治43年、この教会は出来上がりました。
ついに自分たちの教会堂を建てることができた! その喜びはいかばかりであったでしょう。
この日のガイドさんは、言葉遣いも丁寧で、知識も豊富、素晴らしい語り口に、感心して聞きほれていました。
彼女は、内部の見学を終えて外に出ると、「もう一度玄関の上の方を見上げてください」と言いました。
「『天主堂』と書いてありますね。教会堂という意味ですが、わざわざ書かなくてもわかるのに……。今の教会には、このようなものはあまりありません。でも、当時の信者たちの気持ちを思ってみてください。長い迫害の時代を経て、ようやく自分たちの手で神様の家を作り上げた。皆で祈りを捧げる場所ができた。その喜びが、『天主堂』という文字の中に表れていると思いませんか」
私はガイドさんの言葉に、本当に彼らの気持ちが伝わってくる気がしました。
信者さんですかと尋ねると、「私は仏教徒ですよ」と笑うガイドさん。だからこそわからないことも多く、もっと知りたいと思うのだそうです。この地に生まれ育った彼女の郷土愛なのかもしれません。熱心に学んで伝えようとする真摯な態度には、ガイドとしての誇りを感じました。
▲この写真は、バスの中で、ガイドさんが見せてくれたもの。観光客には、教会内部の写真撮影が許可されていません。
私たちは教会の椅子に掛けて、ガイドさんの説明を聞きました。
ゴシック様式のアーチ型の天井や、骨組みも柱も木造りであること。
美しい花をかたどったステンドグラスは、フランスから運ばれたこと。
その花弁が5枚ではなく4枚なのは、十字架を表していること……。
ヨーロッパの教会は、伝統的に玄関が西で、祭壇が東側。この教会も同様で、真西から日が差し込むと、その光が祭壇を照らします。祭壇左に置かれた聖テレジア像と右の聖フランシスコ・ザビエル像が、玄関上の左右のバラ窓から差し込む光によって見事に浮かび上がるのだそうです。
その日はあいにくの曇り空でしたが、話を聞いている最中に、急に日の光が差し込んできました。察知したガイドさんがすぐに電気の照明を消しました。
赤、黄色、オレンジ、緑。カラフルなステンドグラスを通して入ってきた陽光が、教会内部の空間に満ちていきます。その明るさ、美しさといったら……!
神様が私たちを喜んで迎えてくださった。そんなふうに思えました。
旅のフォトエッセイ:ちょっと京都の旅① ― 2018年10月12日
夕刻にひとり京都に降り立ち、ホテルにチェックインした後、東華菜館という北京料理の老舗へ向かいました。
鴨川のほとり、四条大橋の脇に、南座と向かい合って建つ、五階建てのレトロな洋館です。
(写真は「じゃらん」のサイトからお借りしました。▼)
玄関からして荘厳な構えです。▲
早く着きすぎたので、中には入らず、混雑する四条通をぶらぶらしていると、「全員お待ちかね」とお呼びがかかってしまい、あわてて引き返しました。
大正15年に建てられたそうで、2階へと案内された古めかしいエレベーターには、蛇腹の扉がついていました。日本橋三越にも同じようなエレベーターが残っていますが、どちらもアメリカのOTIS社製で、こちらは現存する日本最古のものだとか。▲
▼男性諸氏が待っていてくれたのが、この部屋。
(写真は「東華菜館」のホームページからお借りしました)
種を明かせば男性諸氏は、大学の美術部の1学年上の先輩がたと、同期のお仲間。卒業後も交流が途切れることなく、特に男性はリタイア組も増え、昨今は集まる機会も増えてきました。
この秋、京都出身の男性が京都ツアーを企画して、わが夫も含めて男性ばかり10名ほどが参加。旅の二日目の夜は、この伝統ある北京料理の店で夕食を、という予定だったので、私もなんとか都合をつけて、この席に駆けつけたのでした。
はい、夫は私の1年先輩でした。(今では上下関係が逆転しているかも?)
夫とは24時間ぶりですが、40年ぶりの先輩もいて、顔を見てもわからないかと思ったのに、そこは若い頃の親しい仲間。当時と変わらない冗談交じりのやり取りで、誰それの消息やら、近況やら、あることないこと、次から次へと話題が飛び出し、笑いがあふれ、楽しいひと時はあっという間でした。
学生時代に比べたら、痩せた人、太った人、髪の少なくなった人、白くなった人、意外にあまり変わっていない人……。見かけはいろいろです。同じであるのは、誰もが皆、同じ年月を過ぎてきたこと。
飲み過ぎて暴れたり、議論を吹っ掛けたり、もうそんな人はいない。やわらかな眼差しで、上手に言葉を交わしている。ほほ笑んでいる。
「かどが取れてまるくなった」とは、つまりこういうことなのでしょう。相手を思いやるやさしさを身につけてきたのですね。
かくいう私とて、だいぶ色香の褪せた紅一点。昔はこういう場で、今で言うセクハラまがいの会話をされては、怒ることもありました。もう、はねっかえす若さも弾力もありません。ここに集う紳士たちも、昔の淑女にぶしつけな物言いをすることはないのです。
そろそろお開きという頃、窓の下には鴨川のゆるやかな流れが、街の灯を映してきらめいていました。ほろ酔いの私は、40年の時の流れに思いを馳せるのでした。
夫は、初めからこのツアーに一人で参加することにしていました。
わが家には、ご存じのとおり、自閉症の長男がいます。予定外のことが起きなければ一人で何時間でも留守番はできるのですが、さすがに両親二人とも外泊するのはちょっと心配です。
今回は、彼の毎月一度の宿泊訓練を、京都行きの日程に合わせることができたので、私も夫を追いかけて(??)同席することができました。
とはいえ、翌日には帰るつもりで、夫たちのツアーではなく、関西在住の友人に付き合ってもらい、短い京都滞在の計画を立てました。
この続きは、またいずれ。
旅のフォトエッセイPortugal 2018(8)聖地ファティマへ ― 2018年07月28日
ポルトガルに行くと決まったら、ファティマに何としても行きたいと思った。バチカンお墨付きのカトリックの聖地である。
わが家は、父方の叔母が若い頃にカトリックの洗礼を受け、祖父母の代から親族みなクリスチャンになった。私たちの代はほとんど幼児洗礼だ。しかしと言うか、だからと言うか、熱心な信者とは言いがたい。それでも、仏壇も神棚もない家には、十字架やマリア様の絵がどの部屋にもあった。両親のしつけの根っこには、道徳のようにキリストの教えがあったようだ。
子どもの頃は教会学校に通わされた。高校生になると、教会で出会う友達も増え、神父様とも仲良くなり、教会は楽しい場所になる。信仰の厳しさもないまま大人になり、苦しいときの神頼みはカトリックの神様にお任せ。クリスチャンだと名乗るのも申し訳ないお気楽な信者だった。
私が20代後半の頃、当時の教皇ヨハネ・パウロⅡ世が来日する。「空飛ぶ聖座」という異名をとる行動的な教皇だ。2月の小雪が舞う日の午後、東京ドームが出来る前の後楽園球場で野外ミサが行われた。オープンカーで場内を回る教皇に、私たちが「パパさまぁ!」と手を振ると、人懐こい笑顔でこたえてくれて、カリスマ的なアイドルのようだった。
最近になって、聖地ファティマについて調べてみて、驚いた。この教皇に深い関わりがあることがわかったのである。
ファティマは、ポルトガル中部に位置する小さな村だった。村の信心深い羊番の子どもたち3人の前に、あるとき聖母マリアが出現した。何回か現れては予言を行い、奇跡を行ったという。大昔の話ではない。時代はほんの1世紀前、第一次世界大戦のさなかのこと。聖母は戦争の終わりを予言する。さらに、教皇の暗殺をも予言した。
それから64年後の1981年、予言どおりに時の教皇がバチカンで銃撃されるという事件が起きた。その方こそ、ほかでもないヨハネ・パウロⅡ世だった。幸いにも一命を取り留めた教皇は、「聖母のご加護のおかげ」と感謝してファティマを訪れる。暗殺未遂が起きたのは、来日した3ヵ月後の5月13日。それはファティマの聖母出現の記念日だったのである。
▲ファティマの街に入ると、マリア様と出会った3人の子どもの像がありました。(小さくてわかりにくいですが、ポールの右側に羊を連れています)
その前には競技場のように広大な広場があり、祭礼の日には10万人もの巡礼者がここを埋め尽くすという。でも、私たちが訪れたその日は、三々五々と人がいるだけで、閑散としていた。
▲バジリカから見て右手、聖母が現れた場所に建てられた「出現の聖堂」がある。ガラス張りの開放的な造りだ。そこには、カボチャ型の王冠を頭に載せた聖母像が、やさしげな表情で小首をかしげて佇んでいる。
▼(写真が撮れなかったので、買ってきた本のページを写したものです)
大小のろうそくをささげる場所があり、娘と二人で火をともす。▼
バジリカを背にして広場を歩き始める。緩い上り坂だ。遠方からもバジリカの祭壇が見えるようにという工夫なのだろう。
途中、ヨハネ・パウロ二世の大きな石像があった。パパさま、お久しぶりです。▼
▲巡礼者の中には、白い道をひざまずいて祈りながら歩を進める人もいる。
広場の向かい側には、10年前に建てられた近代的な教会「聖三位一体教会」がある。内部にいくつもの聖堂があり、一日中どこかでミサが行われるそうで、覗いてみると、どの聖堂にも祈る人々がいた。
残念ながらミサにあずかる時間はなかったが、聖堂に入って祈りをささげた。障害を持つ長男や、道に迷う次男、生きがいをなくした高齢の母、そして、わが身の来し方行く末のこと……。こんなに真剣に祈ったことがあったろうか。私はこのファティマの地で、巡礼者の一人に過ぎなかった。
ふたたび広場に戻り、バジリカを仰ぎ見る。もう夕刻だというのに暖かく、冬の西日がベージュ色のバジリカを照らし、浮かび上がらせている。その背景には、澄んだ青空に白い雲がたなびいていた。なんという清らかな世界だろう。
「神様が近くにいるような気がするわ」
私が呟くと、
「気持ちいいね」と、言葉少なに娘が答えた。
そのとき、鐘の音が聞こえてきた。四時を告げる鐘だ。なぜか私は、そのメロディを一緒に口ずさんでいた。
「アベ、アベ、アベマリアー……」
ああ、子どもの頃に習った歌だ。こんな遠い場所で、懐かしい歌を歌うなんて……。ここにやって来たのも、あの頃の神様に呼ばれたのかもしれない。
途中から胸がいっぱいになって、歌えなくなった。
旅のフォトエッセイPortugal 2018(7)飲んで食べて…… ― 2018年04月14日
「ポルトガル料理は美味しい」
かねてから耳にしていたので、朝食を楽しみにしていた。時差ぼけのおかげで早起きができ、ゆっくり支度をして地下のダイニングルームに降りていく。
▼中央のテーブルには、日本のホテルでもおなじみの料理が並んでいた。
その中でも目を引いたのは、分厚いスモークサーモン、真っ黒なソーセージ、ブラウンマッシュルームのバジルソテー。黒いソーセージはイカ墨ではなく、クミンシードの味がしてエスニック風、病みつきになりそうな美味しさだ。帰りの空港の売店にも置いてあったので買いたかったけれど、検閲で引っかかると面倒なので諦めた。
オレンジやトマトのジュースは素材の味が濃厚でフレッシュだ。種類豊富な果物もチーズもしかり。
そして、何といっても、ポルトガル名物エッグタルト。▲
出来立ての絶妙なおいしさと言ったらない。パリパリのパイ生地に、とろりと甘いカスタードクリーム。期待以上だった。
飲み物のテーブルの端に、冷えたボトルを見つけてしまった。スパークリングワインだ。誰に気兼ねすることもない。遠慮なくシャンパングラスについでもらう。
「朝シャンで乾杯!」
すっきりさわやかな味が、意外と朝食に向いている気がする。まるでワインバーのような料理のかずかずとも相性抜群だ。
「養命酒の代わりになるわ」
私は最近、毎回食前に養命酒を飲むようになって、効能書きどおりに少しだけ体調が良くなった気がする。とはいえ、1リットル瓶を持ってくるわけにもいかなかった。
滞在中、毎日の朝シャンは、養命酒以上の効き目で、元気の源となってくれたようだ。石畳の坂道を娘と対等に歩き、夜はぐっすり眠り、疲れ知らずだった。日本から持参した栄養ドリンクも胃薬も頭痛薬も導眠剤も、いっさいお世話にならずにすんだのである。
下の2枚の写真は、リスボンのホテルの朝食。こちらはさらに、柔らかくてジューシーなローストビーフが逸品!▼
それだけではない。毎朝たいてい一番乗りでテーブルに着き、まずは乾杯に始まって、料理をおかわりしてはたっぷりと食べ、滑らかになった舌で、娘とたくさんおしゃべりをした。結婚2年目のふたりのこと、兄弟のこと、仕事のあれこれ、今後の旅行の予定など、話は尽きなかった。ふだんは、忙しい娘となかなか話すチャンスも作れないのである。
朝シャンのおかげで、思いがけずいい時間を過ごせた。
ポルトに2泊した後、市東部のカンパニャン駅から特急列車で3時間、リスボンに移動した。▲
さすがに首都リスボンは都会だ。観光客も多い。狭い坂道を行き来する人気のトラム28番に乗りたかったのに、乗り場で待てど暮らせどやって来ない。ストライキでもやっているのか、それとも平日は間引き運転なのか。
カモインズ広場を横切るレールの脇、ここにもマクドナルドがあった。▼
午後3時を回ると、がっつり食べた朝食も消化されて、おなかが空いてきた。ガイドブックに載っていたオシャレなカフェに入る。
▼カフェ・ノ・シアードは、店先をトラムが走っている。風が冷たかったので、テラス席はやめて、店内へ。
初老の男性がゆったりワイングラスを傾けていたり、若いグループが食事をしたりしている。
「ポルトガル人も合コンするのね」と娘。いかにもそんな雰囲気が……。
▲英語のメニューを見てオーダーしたのは、干しダラとキャベツと玉ねぎを混ぜた卵とじ。タルタルステーキの形に整えて、黒オリーブと細いフライドポテトがトッピングしてある。見た目よし、味もよし。
干しダラはバッカリャウと呼ばれ、ポルトガル料理の定番食材だそうで、塩味とタラのうまみが日本人の口に合う。もちろんワインとも合う。
小さなコロッケは、牛肉のミンチ。▼
さてデザート。メニューに「伝統的なお菓子」と書いてある。ウェイトレスにこれは何、と尋ねた。卵と砂糖と小麦粉で作る。とてもおいしい、私も好きだと、拙い英語ながら、熱心に薦めてくれたので、一つ頼んでみる。
運ばれてきたのは、厚めのパンケーキのような焼き菓子だった。真ん中は色が濃く、へこんでいる。ふたりで半分ずつ。ひと口食べると、ああ、カステラの味がする。濃い部分は、しっとりと甘くてほろ苦くて、おいしい!
ちょうど、カステラの紙にくっついてしまう焦げ茶色の部分の、あの味だ。
子どもの頃、到来物の細長いカステラを、家族で切り分けて食べた。ここが一番おいしいんだよね、と言いながら、紙に付いたのをスプーンでこそげ取って食べたっけ……。
「ポルトガルってなぜか懐かしいのよ」
そう言った友達の言葉が浮かんできて、急に涙が出そうになった。
旅のフォトエッセイPortugal 2018(6)コインブラへ~後編~ ― 2018年03月30日
▲この立派な建物の内部が、ジョアニア図書館になっている。18世紀初頭に造られたという。
以前にも紹介した内部の様子。(絵葉書です)▼
ところで、前回も書いたが、ハリー・ポッターの著者J.K.ローリングは、おそらくここコインブラにも訪れているに違いない。
ゴージャスな図書館のインテリアも、学生たちが今なお身につけている黒いマントも、ハリー・ポッターを彷彿とさせる。旧大学にはほとんど学生がいないので、一人だけ黒マントを見かけたが、写真は撮り損ねた。
大学のバルコニーから見下ろすと、茶色い旧カテドラルが見える。大学を出て、そちらに向かった。▼
回廊も残されている。▼
歩き続けていたので、さすがにおなかが空いて、カテドラルの前のカフェで一休み。サングリアとエッグタルトのランチ。おいしい。
電車の時間もあるので、ふたたび、石畳の坂道を下りていく。
深い時を刻んだ家々のたたずまいに魅了される。
こちらの玄関は、聖アントニオの画像。▼
このお菓子の家のような建物が、銀行とは!▲
わが家の近くにあったら、毎日お金を預けに通ってしまいそう。
旅のフォトエッセイPortugal 2018(5)コインブラへ~前編~ ― 2018年03月22日
コインブラには、ヨーロッパでも屈指の古い歴史を持つコインブラ大学がある。ポルト滞在の2日目にはそこを訪ねることにしていた。長距離バスで1時間半ほど。バスターミナルの場所も地図で調べた。
シャンパン付きのおいしい朝食をたっぷり取り、快晴の空を見上げながら、気分よく出かけていった。
ところが、歩いて5分ほどの距離にあるはずのバスターミナルが見当たらない。ようやく奥まったところにバスの発着所があって、ほっとする。
「看板の一つも出しておけばいいのに」と、一言文句が出た。
止まっていたバスの運転手に、コインブラ行きのバスに乗りたいのだけど、と尋ねると、ない、と言う。どうやら廃止になったらしい。
前日のワイナリー見学にしても、バス路線にしても、日本のガイドブックはあてにならないということだろうか。まして、シーズンオフの観光客は、現地の観光案内所を訪ねるべきなのかもしれない。
さて困った、どうしようか。
運転手の男性は、ポルトガル語で何か説明してくれている。彼は伝わるようにと、2度、3度繰り返した。すると、地図を見ながら聞いているうちに、彼の言うことがすべて理解できたのだ。
「この道をまっすぐに行けば、地下鉄のカンポ・ヴィンテクワトロ・デ・アゴスト駅がある。そこから二つ目のカンパニャン駅まで乗って、カンパニャン駅からコインブラまで電車で行きなさい。1時間で着く」
ツアーだったら、バスの廃止もあり得ないし、雪で遅れるフライトに肝を冷やすこともないのだろう。そのかわり、こんなふうに言葉も通じない現地の人の親切に救われる、小さな感動のハプニングもないのだ。
「サンキュー! オブリガーダ!」
私たちも何度も繰り返して、地下鉄の駅に向かった。
▼そうして、たどり着いたコインブラの駅舎。(午後3時、大学からの帰りに撮った写真)
モンデゴ川に沿って歩くと、ポルタジェン広場に出る。▲
コインブラ大学は小高い丘の上にある。ここから、石畳の坂道をいくつも登っていく。賑やかな商店街を避けて、あえて住宅街を抜ける近道を選んだ。
コインブラ大学に到着。▼これは旧大学。世界文化遺産にもなっている。
▲ジョアン3世の像。
ここに初めて大学がおかれたのは13世紀初め。その後も、リスボンに移ったり戻ったりしたが、16世紀、時の王ジョアン3世が改めてここに礎を築き、現代にいたっているという。
時計塔。定時には鐘が鳴り響く。▼
▲鉄の門。かつては鉄の扉がついていた。中庭側から見る。
この向こうに、新大学の現代的なビルが並ぶ。現役の大学としてもポルトガル随一の名門である。
外側から見ると、こちら。つまりここが入り口となっている。当時の王の像や学問にかかわる女神像が飾られている。▼
大学内のサン・ミゲル礼拝堂は、17世紀から18世紀にかけて美しい内装が施されたという。天井も壁も、オルガンさえも、きらびやかな金泥細工と鮮やかなアズレージョ(タイル模様)に目がくらむ。▼
学位授与などに使われた帽子の間。もとは宮廷の広間だったそうで、装飾も施されているが、修復中で内部には入れなかった。▼
モンデゴ川の悠久の流れ。
赤茶色の屋根に降り注ぐ暖かな陽光。
穏やかな空気。
心地よく解放感に満たされていく。
〈次回に続く〉
旅のフォトエッセイPortugal 2018(4)ハリー・ポッターのふるさと、リブラリア・レロを訪ねて ― 2018年02月28日
ハリー・ポッターは英国生まれだと思っていたら、意外なことにポルトガルにもふるさとがあったのだ。
物語の作者J.K.ローリングは1990年代、ポルトに3年ほど住んでいたそうだ。ハリー・ポッター・シリーズの第1作目を世に出す前で、『ハリー・ポッターと賢者の石』は、ポルトで書かれたという説もある。
ポルトの商店街に並ぶ小さな書店、リブラリア・レロは、彼女がここで着想を得て「ホグワーツ魔法学校」の図書館を描いた、と言われている店である。
その後、2008年には、イギリスの新聞ガーディアン紙が選ぶ「世界で最も素敵な10の書店」の第3位に輝いた。
これは、ぜひとも行ってみたい。
▲クレリゴス教会の近くにあり、外から見ても見飽きない愛らしさだ。
狭い間口には、シーズンオフのこの時期でも、観光客がひっきりなしに訪れている。2軒先のチケット売り場で4ユーロの入場券を買う。本を購入すれば、その分は代金から差し引かれるとのこと。
この書店は、1906年にレロとイルマオンという二人の人物によって建てられた。当時19世紀末から20世紀初頭にかけては、ヨーロッパ各地に、既成の価値観にとらわれない新しい芸術文化の湧きおこる気運があった時代。彼らもまた、その時代にあって、文明の進歩を享受し、知的文化の発展につながる書店の創設に、情熱を燃やしていたに違いない。
この店舗も、当時のネオゴシックからアールヌーボー、アールデコなどの装飾が余すところなく施されている。
▼狭い扉を入ると、まず天井の美しさに見とれる。手の込んだ木彫だ。
▲中央のシンボル的な階段は、その美しさから、「天国への階段」と呼ばれている。階段の裏側一段一段にも植物の文様が施されている。
私には、ドラゴンが大きな口を開けたように見えるのだけれど。
見上げれば、2階の天井には明るいステンドグラスが。▲
2階から見下ろすと……▼
▲床に2本のレールが埋めてあり、今でも本を運ぶのにトロッコが使われていた。
▲店内のスケッチ画を表紙にしたノートや、しおりもたくさん売られている。
この書店は、創設当初の気運を現在にもつないで、書店として一般図書の営業を続けている。その一方で、時代を超えた今もなお、当時の店舗が訪問客を魅了する。一人の無名の作家を世に送り出すほどの魔力に満ちているというわけだ。
私も、J.K.ローリングになったつもりで、気の向くままに店内を歩いてみたけれど、何のインスピレーションもわかなかった。(いやいや、エッセイのネタぐらいは拾えたかも??)
それでも、遠く日本から丸一日かけてやってきて、この不思議な空間に身を置いている自分が、不思議だった。
果たして、ホグワーツ魔法学校の図書館がこの書店に似ているかどうかはわからない。でも、J.K.ローリングが心を揺り動かされて着想を得た、というのは真実だろうと思う。
ハリー・ポッター・シリーズは全巻わが家の本棚にそろっている。帰ったら、もう一度読み直してみよう。魔法学校の図書館のくだりを読んで、ポルトのこの店を思い浮かべることができるだろうか。
▼せっかく本代として使えるという入場料だから、おみやげを買った。
写真集[PORTO graphics]15ユーロと、小さなノートが5.9ユーロ。罫線もないはがき大のノートが800円以上もする。概してヨーロッパの文房具は高い。それでも、私は買う。旅人の一期一会の思いをこめて。
ところで、ポルト散策の翌日は、電車で1時間、コインブラ大学を訪ねた。
ヨーロッパの中でも、古い歴史のある大学で、創立は14世紀初頭にさかのぼるという。
この大学の図書館がすばらしい。18世紀に建てられたそうで、内部は華麗な金泥細工が施され、高い天井までびっしりと設えられた書棚には、30万冊を超える蔵書が収められている。
古い匂いがする。おそらく、日本と違い、湿気も少ないから、かび臭いというのとも違う。長い歴史を持つ歳月の粒子が立ち込めている……そんな雰囲気だ。
この図書館こそ、ハリーの魔法学校の図書館を彷彿とさせるではないか。立てかけてある長い梯子たちが、今にも動き出しそうだ。後ろの扉から、ハリーやハーマイオニーたちが、顔をのぞかせる気がした。
▼内部は撮影禁止なので、絵ハガキを買った。
(似ていると思いませんか)
コインブラの街も素敵だったので、また次回に。