エッセイの書き方のコツ(31):「生まれる言葉、消える言葉」2017年05月15日

【お詫び】

最近、またスパムのコメントが多くなりました。

いずれも英文で、足のトラブルや靴の販売などに特化したサイトからのコメントです。

世界規模でサイバー攻撃が起きている昨今、それに比べたら実害はないのですが、やはり気持ちのいいものではありません。ときどき、コメントをシャットアウトしたり、また受け付けたりして、スパムを回避していますが、さほどの効果はないようです。

コメント欄が開かなくても、数日後には開けるようにしていますので、ご迷惑をおかけしますが、どうぞよろしくお願いいたします。



 


このたび、NHK学園の川柳講座が発行する『川柳春秋』という季刊誌に、「巻頭随想」を書かせていただきました。

「生まれる言葉、消える言葉」と題して、体験したエピソードを交え、持論を展開してみました。



 

日本には日本語評論家が一億人いると言われています。皆さんも一家言おありかもしれません。

日本語評論家としての皆さんは、どうお考えですか。

 

エッセイを書くときにも、その流行語がふさわしいかどうか、読み手にどう受け取られるか、ちょっと考えてみましょう。

使うか使わないかは、書き手の自由です。センスが求められます。

そして、「文は人なり」と言うがごとく、その選択にも、年齢、性別、人柄など、書き手の姿が垣間見えてくるのではないでしょうか。






 



おススメの本、又吉直樹著『火花』2015年07月26日

 



一部のマニアは快挙を喜んだでしょうけれど、私も含め、一般の人々はへえ!と驚いたにちがいありません。

お笑い芸人のコンビ「ピース」の又吉直樹さんが、7月16日に芥川賞を受賞しました。候補に挙がったというだけでニュースだったのに、本当に受賞してしまったのですから。彼の文才は本物だったようです。

 

本物かどうかぜひこの目で確かめたくて、さっそく読みました。

どこも書店では売り切れで、通販アマゾンでも在庫切れ。こういう時に便利なのは電子書籍です。データの売り切れはありえない。

 

ブログにも書いているように、私の愛読書といえば、もっかのところ西暦2000年からの直木賞受賞作品です。芥川賞作品も読むことは読みますが、はっきり言ってつまらないものもあり、途中でほうりだすこともあります。

直木賞は大衆文学で、芥川賞は純文学というくくりがあるからでしょうか。

そもそも、私が追求するエッセイといえば、読みやすくわかりやすいことが一番。芥川賞を敬遠してしまうのも無理もない、と自分で言い訳をするのですが。

 

『火花』も、つまらなかったらどうしよう、と心配しなかったわけではありません。それも、数ページ読んで杞憂に終わりました。

まず、文体がきちんとしている。若い作者にありがちな、カタカナ言葉やはやり言葉が少ない。意外だったというのは失礼ですね。

売れない芸人の「僕」と、先輩として尊敬し、あこがれる神谷さんという人物との関わりが、感情を抑えた筆致で淡々とつづられていきます。

時に、漫才の掛け合いのようなセリフのやり取りが続いて、無条件におもしろい。時に、的確な言葉を用いて丁寧に人物を描写し、リアリティを生みだしている。その混ざり具合が心地よいのです。

そして、いつも章の最後の一文で締めている。これが静かなリズムを生んでいます。全体としても、構築の上手さを感じました。

 

もちろん技巧的なことだけではなく、私がいいなと思うのは、表現というものに正面から向き合っていること。神谷さんは漫才について次のように話します。

 

「……平凡かどうかだけで判断すると、非凡アピール大会になり下がってしまわへんか? ほんで、反対に新しいものを端から否定すると、技術アピール大会になり下がってしまわへんか? ほんで両方を上手く混ぜてるものだけをよしとするとバランス大会になりさがってしまわへんか?」

 

まさに、芸術すべてに共通することかもしれませんね。お笑い芸人であれ、前衛芸術家であれ、表現者の苦悩はその辺りにありそうです。

 

また、神谷さんは漫才師のことを、こんなふうに説明します。

 

「……あらゆる日常の行動は全て漫才のためにあんねん。だから、お前の行動のすべてはすでに漫才の一部やねん。漫才は面白いことを想像できる人のものではなく、偽りのない純正の人間の姿を晒すもんやねん。……」

 

ここで私は、エッセイも同じだ、と思ったのです。

エッセイとは、その人自身が表れているもの。「文は人なり」です。巧みな文章力を持ったエッセイストだけが、優れたエッセイを書けるものではない。その人自身が魅力的でなければ、魅力的なエッセイは生まれない……

 

漫才も、小説も、エッセイも、自己表現の一つの手段に過ぎないことを、『火花』は改めて教えてくれました。

奇をてらわず、流行に流されず、自分を見つめ、生きることを真面目に見つめた好感のもてる小説でした。

 

まだまだ、ご紹介したいくだりはありますが、これから読む皆さんのために、このぐらいにしておきましょう。

 

 





エッセイの書き方のコツ(27):テーマは「育てる」2015年07月08日

 



この春、私が講師を務める通信エッセイ講座で、エッセイコンクールが行われました。テーマは「育てる」。

皆さんだったら、誰を、何を、「育てる」エッセイを書くでしょうか。

 

150編を超える参加があり、そのうちの半数は、やはり人間を育てる話です。子どもだったり、孫だったり、あるいは自分自身だったり。

妻が夫を家事メンに育てあげる、なんていうのもありましたが、一方で、熟年夫婦の夫が、妻に対する恋心をもう一度育てるというお話は、素敵でした。

子育てならほとんどの方が経験しているので、誰にでも書けそうではありますが、だからこそほかのエッセイとは違う何かがコンクールでは必要になります。例えば、ユニークな内容、独自の視点、洒脱な文章……といった強みがあれば、真っ向から「子どもを育てる」でも十分いけるでしょう。

 

人間以外というと、やはりペットや植物ですね。

その中に、子どもの頃、かわいがって育てた鶏を食べたという話が、2編もありました。戦後の食糧難を経験された世代の作品です。どちらのエッセイでも、生物の頂点に立つ人間が自然界の命をいただくことの意味を、親が子どもにきちんと教えています。胸に残る秀作でした。

 

テーマのあるコンクールでは、テーマがエッセイの主題に収まっていることが大事です。

どんなに感動的な話でも、テーマからそれてしまっては得点にはなりにくい。最後にこじつけたようにテーマの言葉が添えられているだけでは、その言葉がなくても成り立つようなもので、これも主題に収まっているとは言いがたい。テーマをいつくしんで書かれているか、その作品のいわば山の部分にテーマが感じられるか、というあたりが審査されるのです。

 

公募のエッセイコンクールなどもありますから、ぜひ、皆さんも挑戦してみてください。

 

ちなみに、今回最優秀賞を受賞した作品は、アメリカの若者の話です。エリート教育を受けた青年が、原爆投下された当時の日本の状況について深い知識を持ち、原爆の正当性を語る父親を冷静に批判した。日本でも自国の戦争と平和を考え、自らの考えを発信できる世代を育てなければならない、というものでした。

「時間的にも空間的にも、そしてテーマとしても、奥行きの深い作品」という審査委員長のコメントがありました。





 

 


エッセイの書き方のコツ(25):この課題、ご一緒に書きませんか。2015年02月07日




私が所属するエッセイの勉強会で、次のような課題でエッセイを書くことになりました。次回23日までに仕上げて、無記名で提出し、その日の会でコンテストをするのです。

・書き出しの1行の中に、「扉を開けると」という文言を入れること。読み方は「とびら」「と」「ドア」のいずれでも構わない。

・字数800字以内。

さあ、この課題が出た日から、いつも以上にアンテナを高く張り巡らせて、ネタ探しです。

面白いことに、探し始めたとたん、テレビからも、友人との会話からも、この言葉が出てきては、パッと明るく光るのです。

案外よく使っている言葉なのだな、と改めて感じました。

ところで、本日第1土曜は、自主グループ「磯の綴り会」の活動日でした。

来月のエッセイのテーマの代わりに、この課題をメンバーにも出しました。

さてさて、どんなエッセイが集まるでしょうね。

ブログをお読みの皆さんも、この課題でご一緒にショートエッセイを書いてみませんか。

私の作品は、23日以降、ブログで発表するつもりです。

もう、ほぼ出来上がりました。あと2週間、推敲を重ねていきます。

エッセイの書き方のコツ(23):どきどき・ドキドキ2014年11月09日


先日、添削講師の勉強会を主催しました。

そのなかで、こんな発言がありました。

「擬音語はかたかなで、擬態語はひらがなで書く。その原則どおりに直したほうがいいのでしょうか」

********************

 

音や声をまねてできた言葉、例えばゴロゴロ、ワンワンのような擬音語はかたかなで書き、様子を表す言葉、例えばふらふら、にやにやのような擬態語はひらがなで書く。――日本語の現代表記には、そのような原則が定められています。

でも、これは戦後に定められた「現代かなづかい」の流れのなかで決められてきたルールです。生涯学習としてエッセイを楽しむ方々の中には、戦前の教育を受けたご年配も大勢いて、なじむのは難しいのかもしれませんね。

そこで、上のような添削講師の悩みが起きてくるのでしょう。

 

私が添削をさせてもらっている受講者のなかにも70代・80代が多く、さらには90代の方もおいでです。

私なら「ちょっと出かける」と書くところを、「チョット出掛ける」、さらには「一寸出掛ける」と書かれる方もいます。私にはどう転んでも、「一寸」は一寸法師の一寸で、いっすんとしか読めないのですが。

 

世代を超えた言葉の問題もあります。

例えば、いよいよこれからステージに立つ。こんなとき、緊張した自分の体の状態をどんなふうに表現しますか。

――手はぶるぶる震えて、足もがくがく、胸はどきどき……。

では、そのステージが終わった安堵感をどんなふうに書きますか。

――ほっとしました。

「どきどき」は、擬態語としてひらがなで書きますか。でも、もとはといえば鼓動の音から生まれた言葉ではないでしょうか。実際に、口から心臓が飛び出しそうなときにはドキドキという心音が聞こえたりしませんか。

「ほっと」も、広辞苑を見ると、

「一回息を吐くさま。緊張が解けて、安心したり心が休まったりするさま」と出ています。つまり、ため息の音から派生した言葉のようです。ではかたかなで書きましょうか。

私はといえば、どちらもひらがなで書くことのほうが多いです。とくに、ほっとしたときには、「ホッとした」と書くよりも、その時の安らかになれた心持ちを字面からも表しているような気がします。

この字面から発する印象もあなどれない、と私は思っています。

ひらがなにするか、かたかなにするか。原則で割り切れない言葉もたくさんあるのです。

 

もう一つ、星が光るさまは、どうでしょう。

きらきら、ちかちか。

でも、キラキラ星のように、かたかなのほうが見慣れている気もしますね。

ちかごろのアニメでは、一瞬きらめくときに、ごていねいに「キラリン!」という効果音が入ったりします。そんな影響もあるかもしれません。

 

原則を踏まえたうえで、このエッセイの中ではどう書くのがいちばんふさわしいのか、あえてこだわってみるというのも大切ですね。

 

********************

冒頭の質問には、そんな例をいろいろと話し合った後、

「原則はきちんとお伝えしましょう。そのうえで、受講者の年齢、作品の雰囲気などを考慮しつつ、臨機応変に対応していきましょう」というコメントを述べました。

 

だらだらと書いてしまいました。最後まで読んでくださってありがとうございます。

これも、「ダラダラと書いてしまいました」とすると、くだけた感じになりますね……

 





「笑っていいとも!」終了によせて2014年03月28日


 

少なくとも私のブログを読んでくださる皆さんなら、知らない人はいないでしょう。よけいな解説は不要ですね。32年間続いたフジテレビの「笑っていいとも!」が、31日をもって終わりになります。

ちょうど、私が結婚した年の秋に始まった番組で、言ってみれば、私の結婚生活はこの番組とともに続いてきたことになります。在宅の日の正午には、「いいとも!」にチャンネルを合わせて、さてお昼、というのが習慣になっていました。

 

ところで、結婚して2年目には、エッセイ教室に通い始めました。

この番組のことも、エッセイの中に登場させたことが2回ほどあります。

その最初の作品を、あえて載せてみましょう。

1983年、今から31年前のエッセイ。もちろん、手もとに残っているのは、黄ばんだ手書きの原稿用紙です。留めてあったクリップも錆びていました。

             

 

 

「幸福」の黄ばんだ原稿用紙。

 

 

  

「幸福」

 

暑い夏の昼下がり、『幸福』というドラマを見ている。向田邦子氏が亡くなって二年目の夏に、追悼番組と称して、彼女の脚本によるドラマが再放送されているのである。生前から向田ドラマの大ファンで、いつも欠かさず見ていたが、今回は数年ぶりのうれしい再放送である。

おりしもホームビデオを買ったばかりで、これを収録しない手はない。彼女の著書とともに大切に保存するつもりで、新しいカセットテープに一回一時間のドラマを毎回録画しているところだ。カセットの背には、収録内容を書き入れるように、幅2センチほどの白いシールが貼ってある。ビデオ愛好者向けの雑誌には、録画されそうないくつかの番組タイトルがそれに適したサイズできれいに印刷され、ただ切り取って貼ればいいようになっているのだが、あいにく『幸福』はその中に含まれていなかった。

かといって、末永く残すテープに手書きのタイトル、というのもアカ抜けない。そこで手持ちの女性雑誌からこの二文字を切り抜いて貼ることにした。「幸福」なんて、いかにも記事の見出しに使われそうだ。「私の幸福なひととき」とか「○○の幸福感」とか……。雑誌の四分の一を占めるカラフルな広告のページにだって、いくつか見つかるにちがいない。高をくくってページをめくり始めた。一冊一冊、記事や写真にも目を留めながら、「幸福」の二文字を探し続けた。何十分かの後、投げ出された雑誌の中、ついに「幸福」を見出せなかった不幸な私がいた。

       

 

使われているようで使われていない言葉というのは、意外に多い。あのタモリ氏の「いいかな?」とたずねて「いいとも!」と答えるやり取りも、決して新しい言い回しではないのに、今や立派な流行語である。彼いわく、あの「いいとも」は誰でも口にするようでいて、じつは日常あまり使われず、芝居のセリフでしか聞くことのない言葉だという。それを仲間うちで使ったらウケた。あとはテレビの電波に乗せて流行らせてしまったというわけである。

逆に、よく使われるから使わないほうがいい、ということもある。いわゆる陳腐な表現、月並みな言い回しは、ものを書くときには避けなければならない。

「……と思う今日この頃である」でエッセイを結ぶのはタブー。新聞記事なら、「今後の成り行きが注目される」でニュースを片付けてしまうこと。毎日新聞の記者の中には、自戒として「ナリチュウ」と呼んで使わないようにしている人もいるとか。そのことを何かの本で読んだ翌日に、朝日新聞のディズニーランドホテル用地売買をめぐる記事が、このナリチュウでおわっていた。まさに、朝日に輝く他山の石、などと笑ってはいられない。

 言語には、さまざまなルールや約束事があり、創作とはいえ、それらは守られなければならない。その範囲の中で、読む人にわかりやすく、ただし慣用表現は避けて新鮮な文章を書くとなると、文才のない私にとってはもうお手上げである。しかし、だからといって、使い古しの語句を捨てないかぎり、読む人を惹きつけることはできないだろう。

「幸福」という言葉が使われないわけもその辺にありそうだ。私たちは幸福を求めて暮らしてはいるが、なかなか手に入れることができない。どんなに物質的に豊かになっても心の悩み苦しみは一向に減らない。何が本当の幸福かもよくわからなくなる。それを、いともかんたんに「幸福」と書いてしまったら、あまりに直截で安易に過ぎる。しらじらしいのである。

 ところが向田氏は、そこを逆手にとって、あえてドラマのタイトルに使ってしまった。意表を突かれた感じである。「いいとも!」がウケたのも同じ理由だろう。使われているようで使われていないものを、ホラ、とでもいうように目の前にさらけ出して見せている。いかにもふがいなげな旋盤工の物語が『幸福』とは、何ともにくいではないか。

   

 

 

 昨年の夏には、ある週刊誌の別冊として、『向田邦子の手紙』という本が発行されたので、買って読んだ。個人の手紙や遺品が公開され、知人友人が彼女の人となりを語り、既刊の本十六冊も表紙の写真入りで紹介されていた。

「幸福」の二文字は、やむなくその中から切り抜いた。『向田邦子TV作品集Ⅱ・幸福』の表紙であった。

                           1983年9月 記

 

 

 

最後まで読んでくださってありがとうございます。

なんとも理屈っぽくてくどい文章。まだ始めたばかりの青臭さですね。自分で赤を入れたいところです。

でも、内容は一つひとつ懐かしい。

31年前、皆さんはどうしていましたか。

「いいとも!」は32年目で終わりますが、私の結婚生活はこの先も続きます。(やれやれ……)

 

次回は、もう一つの「いいとも!」登場エッセイをアップする予定です。

 



エッセイの書き方のコツ(21):推敲は楽しい!!2014年01月28日


怒涛の2013年が去り、一段落したので、私も某エッセイ教室に通い始めました。
人さまに教えるためには、自分もまた勉強です。

さっそく縦書きで2000字のエッセイを提出します。
ありがたいことに、ふだんからブログにつづっているので、それを利用してまとめれば簡単に書ける。今回は、そんな私の手の内を公開しましょう。

エッセイのタイトルは「ジョニーの第二の人生は」としました。
ブログ読者の皆さんには、おわかりですね。昨年12月に、3回に分けて書いていた愛車の話です。
でも、初めてタイトルを目にした読み手は、だれのことかと思う。
そこがネライです。意表を突く。

次に、ブログの原稿3回分をコピーして、20字×20行の縦書きの書式に貼り付けます。もちろんパソコン上の作業。横書きが縦書きに換わります。
原則として、縦書きには漢数字を使いますから、アラビア数字ではなく、漢字に直します。10年→十年 のように。
それから、私の場合、ブログでは段落をきちんと設けずに、1行空けることで代用させています。だから、それをつめて、段落の頭を1字下げる。

と、ここまでは機械的にできますが、さて、ここからが頭をひねるところ。
字数を気にせず書いているブログと違って、2000字という規定の中に完結させなくてはならない。主題、つまり一番書きたいことを念頭に置いて、取捨選択の作業をしていきます。
ジョニーの第二の人生が、4つもの偶然が重なって決まった。これが主題。
1
つ。90歳の母にはジョニーの乗り降りがきつくなってきた。
2つ。ニュー・オデッセイが発売になる。
3つ。アフリカで車を必要としている人がいる。
この3つが、ほぼ同時に起こった。そして、アフリカの夢がついえた時、知り合いが車をほしがっていた。これが4つ目。
この4つをバランスよく盛り込みたい。ブログでは、アフリカの塩尻さんについての情報もかなり書き込みましたが、エッセイでは、破れた夢の話なので、最少限にとどめます。モロさんの説明もしかり。焦点はたった1点、ジョニーの行く末です。

さらに大事なことは、ブログには写真があるから一目瞭然。でも、エッセイは原則として、ビジュアル素材に頼ることはできない。冒頭に、ジョニーの姿かたちを描写しなくては。

こうして、2200字ぐらいに凝縮してきました。
あとは、語句を減らしたり、言い換えたりして、1字ずつでも削っていきます。うまくいけば、1字削ることで、1行分カットできることもある。内容を書き換えることなく、字数を減らすのです。
たとえば、「エイズ孤児のための施設、助産院、診療所」と3つ並んだ中から、「助産院」は割愛。また、「お手伝いさせてもらったことがある」→「お手伝いしたことがある」のように。

不思議なことに、長い習慣というものはなかなか抜けないものですね。
いえいえ、私が単なるアナログ人間だからなのか、どうしてもプリントアウトして紙面で読みたい。パソコンのディスプレイで読んだときには気づかなかった問題点が、即座に見えてきます。
この方法で、少しだけ読み手の気持ちに近づいて、わかりにくい個所を書き換えたり、同じ言い回しの重複を手直ししたりします。
そして、一晩寝かせてから読み直す。すると、さらに自分の文章が遠くなっていて、あら探しが楽にできるようになるのです。
これが推敲です。

この推敲を始めてから、今日で3日目。
そろそろ完成にしてもいいかな、と思います。もう少し詳しく書きたい部分もありますが、もうこれ以上一字一句削れない。そういう思いになったからです。
のめりこんで、楽しい時間でした。完成に近づいていく昂揚感、達成感。これこそエッセイを書く醍醐味。久しぶりに味わいました。

そういえば、ブログの文章はあまり推敲をせず、書きあげたその日にアップしてしまいます。ブログはスピードが命。紙面に表す縦書きエッセイとは別のものだ、と自分に言い訳をしていますが、読んでくださる皆さんに失礼ではなかったか、思いがけず反省もしています。

はじめに、「ブログの文章を利用すれば、簡単に書ける」と書きましたが、そこからの推敲は決して簡単ではない。それも改めて実感しました。
でも、だからこそ面白いのです。

明日、完成版「ジョニーの第二の人生は」を掲載しましょう。



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エッセイの書き方のコツ(20):「爆睡」、使う? 使わない?2014年01月07日


先日、ある教室で、受講生のA子さんからこんな質問を受けました。
「エッセイを書くにあたって、造語や若者言葉を使ってもいいのでしょうか」
A子さんが気になったのは、「爆睡」という言葉。
以前、娘さんがそれを使っていたときに、「辞書には載っていない言葉だから」と注意したことがあったそうです。ところが、お仲間のエッセイの中にそれが出てきた。だれもおかしいとは言わないし、講師の私も問題視しなかった。
A子さんは、エッセイの勉強を機会に、ふだんからなるべく正しい言葉を使っていこうと思っていたところでした。疑問に感じたのも無理はありません。

じつは、この「爆睡」、私もエッセイに使ったことがあります。
(そのエッセイは2013128日にアップしていますので、よろしかったらお読みください)

次男がインフルエンザにかかったとき、特効薬を飲んで眠りについた。薬の投与によって異常行動を起こすこともあるそうで、医師に言われたとおり、仕事を休んで見守った。1時間おきに部屋をのぞいても、いつも死んだように眠っていた。結局、夜まで息子の爆睡を見守っただけだった。留守にしても大丈夫だったのに……

という文章です。
若者言葉の「爆睡」は、いかにも若い人が前後不覚に眠る感じが表れている言葉だと思います。ちょっとやそっと起こしても起きない、むさぼるような眠り。眠りの浅い私にはうらやましいほどの熟睡状態。
だから私も、高校生の眠りに対してあえて使ってみました。これが、お年寄りの眠りだったら使わなかったでしょう。

同じような言葉でここ数年使われだした「がっつり」。「がつがつ食べる」という語感に近く、食欲旺盛な若い人がたっぷり食べる状態を表現するときには、私も使うかもしれません。

つまり、使ってもいいか悪いかではなく、よく考え、意識したうえで使うことが大事ではないでしょうか。その言葉を使うことで効果が出るかどうか。それを吟味しましょう。

また、そのエッセイ自体に、文章の雰囲気に、ふさわしいかどうか。これも、大事なポイントになります。
真剣な話や、重い内容のなかに、その言葉が入ることで、違和感はないでしょうか。
大和言葉を使って花鳥風月を描写したエッセイに、カタカナの言葉を使ったら、雰囲気が壊されることもあるでしょう。

さらに、若者言葉は、はやりすたりも激しいので、そのへんも要注意。
「ルンルン気分で帰ってきました」
気持ちはわかりますが、いかにも時代遅れの感じがするのは私だけでしょうか。
かくいう私も、ついうっかり、「アベック」とか「ナウい」とか口にしては、友人や子どもたちからバカにされてしまいます。さすがにエッセイに書くことはありませんが、ふだんから気をつけていたいですね。

「なるべく正しい日本語で書きたい」というA子さんの姿勢、私も賛成です。
でも、言葉は生きています。今、正しくないものも、やがて市民権を得て、正しいといわれるようになるかもしれません。
一つの目安として、広辞苑に新たに収録されると、日本語として定着した、と見なされるようになります。
「めっちゃ」「うざい」なども収録されているのですが、若者言葉であることには変わりありません。あくまでも、目安として参考にされるといいでしょう。
最近では2008年に24万語が新収録されました。
その一例はこちらのサイトでご覧ください。

エッセイを書くためには、A子さんのように、日本語に対して、いつも敏感でいたいものですね。





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エッセイの書き方のコツ(13):字数制限でシェイプアップ2013年02月12日

つれづれなるまゝに、心に移りゆくよしなし事を、そこはかとなく書きつく……のは、兼好法師の時代の話。現代のエッセイはそうはいきません。
エッセイには必ずと言っていいほど、字数制限があります。執筆や出版など、字数を決めて、契約が成り立つものです。
たとえばエッセイコンテストなどでは、字数がほんの少しオーバーしただけでも、選考対象から外されることもあります。

エッセイ教室の場合、たくさんの生徒さんの公平を図るためにも字数制限が必要です。
私のクラスでは、およそ1600から2000字程度の作品を書いてもらいます。エッセイを書くのにちょうどいい長さではないでしょうか。

テーマに沿って、書きたいことを書いていく。書き終わって、「やっと書けた」とせいせいする気持ちもつかの間、字数は規定を大きく超えている。やれやれ、これをいかに縮めるか……。
そういう場合が多いのではありませんか。かくいう私もそうです。
字数制限がなければ、このまま提出できるのに……と、恨まないでくださいね。

最後まで書き上げたら、こんどは推敲をします。
そのとき、長すぎた原稿は、規定の字数まで縮めましょう。
つまり、字数制限は、推敲の一つの手段と考えてください。

まず、段落ごとに、書いてある内容をチェックしてください。
それから、自分の書きたいこと、つまり主題、それは何かをもう一度考えながら読み直してみてください。その主題にとって、それぞれの段落が、本当に必要かどうか。
内容が主題からそれている、と思ったら、思い切って段落ごとカットしましょう。

もうひとつ、書き出しに着目。ついつい、くどくどと書いてしまうのが前置きです。
できれば、すぱっと本題から入っていくのが、読み手を引き付ける上手な書き方です。
とはいえ前置きには、いつのことか、場所は、人間関係は……などなど、削れない情報もあるでしょう。
季節感を取り入れた情報も、作品の入り口に飾りたくなるかもしれません。
でも、長すぎませんか。半分ぐらいになりませんか。検討してみましょう。

三つ目のチェックポイントは、具体的な情報。
具体的に書くことはもちろん大切です。でも、そのエピソードがたくさんありすぎると、今度は、大事な部分の印象が薄まってしまいます。
紀行エッセイにありがちなのが、このパターン。一番大事なところをヤマにして、あとは割愛の決断も必要です。

いかがですか。
字数制限がなかったら、しまりのないままだった文章も、規定字数の枠内に収めることで、ぜい肉を落とすことができるのです。
文章だってシェイプアップ。魅力的に変身します!



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エッセイの書き方のコツ(12):敬語は控えめに2012年10月27日


前回の「敬語の話」を受けて、エッセイを書くときの敬語について考えてみましょう。

例えば、エッセイのなかの次の文。
Aさんは、傘を貸してくださった。
書き手にとっては、とても親切なAさんだから、思わず感謝と敬意を表したにちがいありません。あるいは目上の人だったのかもしれませんね。
Aさんは、傘を貸してくださった。ご自分は雨の中を走って帰られた。おやさしい方でいらっしゃった。
ここまで来ると、もやもやとした読みづらさを感じませんか。
敬語がくどいだけではありません。敬意という書き手の気持ちが、読み手に向いているのではなく、Aさんに向いているからです。読むうえでじゃまな情報なのです。
Aさんは、傘を貸してくれた。自分は雨の中を走って帰った。やさしい人だった。
これなら読みやすいですね。

ときどき、年配の生徒さんのエッセイに登場するのが、恩師のエピソード。
B先生も一緒に校歌を歌われたとき、目に涙を浮かべておいでだった。
一般に、年配の方ほど、敬語がなじんでいます。まして、先生のことを書くのに、敬語を使わずにはいられないのでしょう。いけないと決めつけるつもりはありません。
それでも、読み手がもやもやとしないために、工夫が必要になってきます。
せめて1か所だけにする。
軽く受身形の敬語にとどめる。
などなど、控えめにする方法はありそうですね。
B先生も一緒に校歌を歌ったとき、目に涙を浮かべておいでだった。
B先生も一緒に校歌を歌ったとき、目に涙を浮かべておられた。

文は人なり。文体からも、書き手の年齢や人となりが表れる。
それもまたエッセイのおもしろさですね。






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