お酒のエッセイ №2 「ゴールデンビラのマスター」 ― 2011年10月25日
ゴールデンビラのマスター
所属していた美術部は、よくコンパを開いた。今でいう飲み会。場所はパブが多かった。これも今は死語だろうか。
店には中年のマスターがいた。黒い背広に蝶ネクタイで、初めて見たとき、バタヤンこと田端義夫にそっくりだと思った。いかにも雇われマスターといった風情で、眉間にしわを寄せて、最低限の言葉しか口にしない。無愛想な男性だった。
ある夜のコンパで、酔いの回った後輩の女の子が叫んだ。
「マスター、お水ちょうだい!」
かしこまりましたとうなずいて、彼は奥からお盆に載せてグラスを運んできた。
彼女はさっそくゴクン。次の瞬間、
「キャー、なにこれ!」
透明なグラスの透明な液体、その正体はウォッカだったのである。素知らぬ顔のマスターは、見かけによらぬ茶目っ気があった。
6月のある日のこと、高校の同級生だったA君と、ゴールデンビラで向かい合っていた。高校生のころから仲良しで、彼は一浪して私と同じ大学に入ってきた。そんな縁もあり、ときどき二人で飲みに出かけた。身長180センチで近眼の彼は、小柄な私の顔を、キリンのように上の方から覗き込んでくる。彼とのおしゃべりは飽きなかった。私の話に、目じりを下げてよく笑ってくれる。友達関係を越えようのない、どこまでもプラトニックなふたりだった。
その夜も、オールドの水割りを飲みながら、他愛のない話をしたのだろう。渋谷駅の改札口で、じゃあね、と別れた。
その数日後、こんどは美術部の先輩Mさんと、同じ店で向かい合っていた。こちらは目下の本命。美術展に足を運び、その帰りに飲みに行くというのがお決まりのデート。飲みながら、何の話をしていたのだろう。一緒にいるだけでよかった、なんて、今となっては気恥かしくて封印したい記憶だけれど。
彼が中座したそのすきに、マスターがテーブルにやってきて、
「先日のお連れさまの忘れ物です」
と差し出したのは、黒い小銭入れ。A君のだ。そういえば、途中で電話をかけていたっけ。携帯電話もテレフォンカードもない時代、電話は小銭を握ってかけるものだった。
「あら、失くしたのも気がつかなかったんですね。渡しておきます」
お礼を言って、空っぽの財布を預かった。
それからずいぶん長いこと、A君に会う機会もなく、小銭入れは私の机の引き出しに、所在なく埋もれたままになっていた。彼に返した記憶もない。
大学卒業後はゴールデンビラから足が遠のき、店はいつのまにか消えていた。
マスターはどこに行ったのだろう。
娘が、あのころの私と同じ年頃になった。口数も少なく、何を考えているのか、どう感じているのか、よくわからない。娘の気持ちを推し量ろうとするたびに、当時の自分を思い返してみる。
それにしても、あのマスターは無表情の裏でしたたかだった。どうせ親からもらったこづかいで酒を飲んでは酔っぱらう小娘。連日のように違う男性と現れる小娘。そんな私たちにチクリと針を刺す、粋な大人だったのである。そのことに気がついたのも、ずっと後になってからのことだ。
A君とは今でも仲良しだ。同級生仲間でときどき飲みに行く。そうだ、こんど会ったら、あの小銭入れを私から返してもらったかどうか、聞いてみよう。
Mさんとは、もう仲良しとは言いがたい。夫婦となって四半世紀、夫は妻の尻に敷かれている。
コメント
_ suzuking ― 2011/10/25 21:09
_ hitomi ― 2011/10/26 08:29
_ (未記入) ― 2014/11/06 08:46
大学時代の回想。
うらやましくなるような大学生活です。
<パブ>
ありましたね。
<いかにも雇われマスターといった風情で、眉間にしわを寄せて、最低限の言葉しか口にしない。無愛想な男性だった。>
リアルです。
<携帯電話もテレフォンカードもない時代、電話は小銭を握ってかけるものだった。>
そんな時代でしたね。でも、そんなに遠い昔ではありません。
<小銭入れは私の机の引き出しに、所在なく埋もれたままになっていた。>
「所在なく」という言葉の意味をよく理解していませんでした。この文章における「所在なく」のニュアンスが把握できませんでした。
<Mさんとは、もう仲良しとは言いがたい。夫婦となって四半世紀、夫は妻の尻に敷かれている。>
Who is Mさん?
とても楽しめました。
村上 好
_ hitomi ― 2014/11/06 11:24
子どものような大学生だった私に対して、人生を知り尽くしたような大人なマスターのやることは、なんとかっこよかったのかと、今になって思っています。
それがうまく伝わっていないのかもしれない、と村上さんのコメントを読んで反省しています。
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現在のM君はどんな紳士になったのでしょう?