エッセイ「うるう日は切なく」2012年03月03日


「誕生日が2月29日なんで、僕はまだ5歳です」
 大学のサークルの後輩、N君の最初の挨拶だ。
 一見真面目そうな顔をして、実は頭の中でいつもダジャレを考えているような面白い人だった。家は鎌倉で、白いスポーツカーを乗り回し、ヨットやウィンドサーフィンを器用にこなしては、湘南ボーイを気取っていた。
 サークルの仲間は、卒業後も一緒にスキーに行ったり、海に出かけたりして、気のおけない付き合いが続いた。結婚してからも、家族ぐるみで集まっては楽しいひと時をすごしたものだ。

やがて彼は写真に興味を持ち、カメラを担いでは、自衛隊の基地に飛行機の写真を撮りに行くようになる。
「なにゆえ戦闘機? もっと平和なものを撮ったらいいのに」

と私は批判的だった。
それでも、鎌倉の海岸でバーベキューをしたときには、こんなに素敵な写真も撮っているのだった。
夕日 江の島 きらめく波頭 

 おととしの5月、N君は、くも膜下出血で倒れた。
 一命は取り留めたものの、重い後遺症が残った。
 リハビリのおかげで、一時は階段を登れるほどに回復したというのに、今度は精神的に不安定になり、ふたたび入院。記憶もまだ混とんとしているらしい。様子を見ては薬を少しずつ変えながら、治していくのだという。
「薄皮を一枚一枚はがすように、時間をかけて治療していきましょう」
 主治医の先生の言われた意味がようやくわかりましたね、と彼の奥さんは言う。
 今年の1月、彼は特養の施設に移った。車いすの生活である。

N君、14回目の誕生日おめでとう。
 これからは本当に、ゆっくりと年をとっていけばいい。
 暖かくなったら、また鎌倉の稲村ケ崎の岩の上で、バーベキューをしようよ。

 採れたてのサザエを焼いて、生ビールを浴びるほど飲んで、夕日に向かって懐かしい歌を大声で歌おうよ……
稲村ケ崎のBBQ。海岸は大賑わい。


エッセイの書き方のコツ(6)「エントリーシート」2012年03月08日


webで送付することも多いエントリーシート

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もっか、就活中の学生たちを大いに悩ませているエントリーシート。
就職希望の企業に対して履歴書とともに提出する応募用紙です。履歴書の自己紹介の部分を特化したようなテーマが与えられていて、字数制限内で書きます。
たとえば、
・自分の長所と短所について
・学生時代に力を入れたこと
・自己PR
・当社を志望した理由
といった具合で、字数は200字くらいから、多いと800字にも及びます。
企業はまず、膨大な数の応募者を、面接試験の前に、これでふるいにかけるのです。
いわば、第1次選考というわけです。

限られた字数の中で、最大限に自分をアピールする。
そのためには、まず客観的な自己分析と、わかりやすい文章を書くためのテクニックが必要とされます。
どうですか。エッセイと同じですね。
究極のエッセイと言っても過言ではないくらい。

先日、ある学生さんから、エントリーシートの相談を受けました。
ご本人が書いたものを拝見すると、学生時代に部活動に力を入れてきたことが具体的に書かれ、文章もきちんとしています。内容的にも、部活と勉強とを両立させてきた彼の頑張りは、十分アピールすると思いました。
とはいえ、いかんせん1000字を超えています。
そこで私は、参考までに、彼の文章の情報を取捨選択して、それを400字にまとめてみました。
すると彼は、自分の本音とは少し違う印象を受けたようです。
たしかに、具体的に書くことは大切ですし、正直に書きたい気持ちもあるでしょう。
が、何より重要なことは、第一関門を突破すること。面接までこぎつけることです。
そのためには、情報を選ぶ必要があります。たとえ真実だからといって、複雑な状況や微妙な思いまで書き込んでも、読み取ってもらえなければ意味がありません。
エントリーシートの読み手に、まっすぐ伝わることだけを念頭に置きましょう。

私の友人に、人気のある大手企業で、採用の選考に関わっていた男性がいます。
これは彼から聞いた話。
エントリーシートで選考するときは、書かれている内容うんぬんより、この人物と会ってみたいかどうか、が決め手になると言います。つまりは魅力的な個性がそこに表れていなければ、会ってもらうことすらできないということになります。
また、面接ではエントリーシートに書かれたことがらを話題にすることが多いとのこと。そのときこそ、字数内で書ききれなかった具体的なエピソードなどを口頭で伝え、さらなる自己PRを図るチャンスと心得ましょう。

ともあれ、文章表現力が試されるときですね。
就活中の皆さん、がんばってください!

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銀座で復興支援ボランティア2012年03月11日


テレビ中継された東日本大震災の追悼式典で、遺族代表の方がたの生の言葉から、悲しみ、苦しみ、悔しさ、つらさ……さまざまな思いが胸に迫ってきました。
あの方は私だったかもしれない。けれど、どんなに想像力を働かせても、あの方の現実の何十分の一ほどしか感じることはできていないのでしょう。
一緒に涙を流して祈るばかりでした。
せめて、これから前を向いて生きていこうとするときに、小さくても力を分けてあげたい。小さくても弱くても、たくさん集めれば大きく強くなるはずだから。
そう思いました。


ご縁があって、東松島の復興応援をするチームのお手伝いを始めました。
「チーム東松島物産展」が、317日(土)・18日(日)に、銀座5丁目のTSビル前で開催されます。
ポスターをご覧ください。
(写真は2月に開催した時のもので、私もちゃっかり写っています)

チーム東松島物産展開催!

私は317日(土)に物産展のお手伝いをする予定です。
ぜひ今度の週末は、銀座にお出かけくださいね。


自閉症児の母として(2) 「ときにへこむ」の巻2012年03月14日


私だって、ときには落ち込むこともある。いつも前向きなわけじゃない。

わが家の長男モトは、25歳の自閉症者である。
中高一貫の養護学校を卒業してからの6年間で、すでに生活の場が3回変わった。
現在は、障害者の働く職場に勤めているが、それも来年の春まで。また、次の場所を探さなくてはならない。
これまでも、通所先が変わるたびに、息子の誕生から現在に至るまでの様子、障害の程度など、逐一説明してきた。
あれはできますが、これはできません。できませんが、こうすればできるようになります。できないのは努力が足りないのではなく、それが障害の特性で……。
ああ、また、それを繰り返すのである。

昨日、次の職場探しのために、就労援助センターなるところへ、息子を連れて出向いた。今度はそこに登録して、ハローワークの紹介する求人情報を頼りに、就労活動を始めるのである。

障害者といえども、自分の能力を生かした仕事をして、それに見合った賃金をもらい、健常者と同じように社会人として生きていく。それが息子の幸せだ。私はそう信じている。
でも、それは理想であって、現実はそんなに甘くはない。息子にふさわしい仕事が、そうそうあるはずもない。
それとも、私が息子を買い被っているだけだろうか。自閉症というコミュニケーションの障害を持っているのに、社会に出て働かせることは、つらい思いをさせるだけなのだろうか。
私の葛藤は続く。

センターからの帰り道、うなだれて歩いていた。
「どうしたの。背中に元気がないじゃない?!」
後ろから声をかけられた。同じマンションに住む友人だった。
「モトのことで、落ち込んじゃってさ……」
弱音を吐いた。
彼女は、子どもたちが小さい時から、家族ぐるみで子育てをしてきた仲良しグループの一人だ。モトのこともよく理解してくれている。私が障害児を抱えてこれまでやってこられたのも、彼女たちがいつも支えてくれたからだ。
「大丈夫、今までどおり頑張れば、きっとうまくいくから」
私はまだ真冬のブーツを履いているのに、彼女はさっそうと軽快な白い靴。そんな彼女に励まされて、ちょっとだけ元気が出た。

今日は、息子の職場を覗いてきた。
市民館の中にある喫茶室の店員として働いている。「お皿洗いの達人」と呼ばれ、皿洗いならだれにも負けない。
最近は、苦手としていたフロア係も進んでやっていると聞いたので、様子を見たいと思ったのだ。
伝票と注文の品とを見比べて、トレイにおてふきやストローを添え、「お待たせしました」と、お客さんのテーブルにきちんと運んでいた。
できなかったはずのことが、また一つできるようになっている。
息子は、まだまだ成長しているのだ。

ときには落ち込んでも、また希望を見上げよう。諦めないで。


喫茶室で働くモト


復興支援in銀座 リポート2012年03月18日

ご縁があって、震災の復興を支援するチーム東松島のお手伝いをするようになりました。この週末、銀座で2回目の物産展が開催され、参加してきました。

開店前のミーティングで、20名ほどの参加者が自己紹介。
震災直後から被災地に出かけては、さまざまなボランティアをしてきた人もいましたが、それは少数。1年間、何もしないできたけれど、何かしたいと思って今回参加した、という人が多数。私だって、そうなんです。
チームリーダーも挨拶。
「明るく、楽しく、やっていきましょう!」
という彼の笑顔に、ボランティアの極意をかいま見た気がしました。


東松島からの美味しいものたち。

銀座5丁目の、東日本復興応援プラザ前にブースを作り、東松島から運んできた商品を並べていきます。
皇室献上の浜から、海苔、わかめ。いかの一夜干し、塩辛。
米粉を使ったマドレーヌやクッキーの詰め合わせ。ずんだ大福。
牛タン、豚の角煮。レトルト牛タンカレーに、カップ味噌ラーメン。
日本酒。ペットボトルに入ったお米。醤油。そば。
仮設住宅の女性たちが作った、ピンチになる猫たち……などなど。

ところが、昨日は朝からあいにくの雨。
負けてはならぬと、おそろいの青い法被を着て、大きな声で呼び込みます。

雨なんかに負けない!

グループに分かれて、チラシ配りに出ます。
「東松島の物産展やってまーす!」
雨の中、傘を持つ街行く人々は、なかなか受け取ってはくれません。
チラシも濡れてぐしょぐしょ。
こんどは、地下道で配布。受け取ってくれる人が多少は増えました。
「復興支援の物産展です。よろしくお願いします!」
ちらりと見ても、知らん顔の人。会釈して受け取らない人。
道を聞かれることもしばしば。教えてあげるけれど、物産展もよろしくね!
とにかく関心を持ってもらうことが大事なのです。

雨足は変わらないままですが、午後からは買い物帰りの人の波が増え、試食をしては買っていってくれます。声をかけておいた友人たちも駆けつけて、たくさん買い込んでいってくれます。
ありがとうございます! ご支援に感謝です!

結局、先月の売り上げを上回って、大成功!
小さな力も集まれば成果を上げることができる。ばんざ~い!!

ばんざ~い! がんばったね!

色のエッセイ№2「母の紋付で」2012年03月25日


明日は、娘の大学の卒業式です。
衣装は、私の若いころのピンク色の着物に合わせて、濃灰色の袴を借りました。
着付けるのは89歳になる母です。

そこで思い出すのがこのエッセイ。
今から10年前、娘が小学校を卒業したときに書きました。

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   母の紋付で

 娘が小学校を卒業する。卒業式にはぜひ和服を着ていきたいと思った。
 若いころから、和服の好きな母任せで振袖や普段着の小紋などをそろえ、着付けてもらっていた。でも最後に着たのは新婚のころ。とても当時の赤い着物は着られない。
 母に相談すると、
「私のでよかったら」

と、一枚の着物を和だんすから出してきて広げた。それは、淡いあずき色より少しピンクがかった落ち着いた色合いで、早春の式にふさわしい紋付だった。
「あなたの卒業式に着たものよ」
 そういえば、母は私の小学校の卒業式で保護者代表の挨拶を述べている。でも着物にはあまり見覚えがなかった。
 さて当日、母に着付けてもらって、学校へ向かう。50数名の保護者のうち、いつもはジージャン姿の私だけが唯一の和服姿だ。
「おかみさんみたい」という男の子あり、
「かっこいいですね」という若い先生あり。
 だれもが目をとめ、声をかけてくれた。
 娘は、出席簿順で文字どおり「いの一番」に名前を呼ばれ、卒業証書を受け取る。
 3つ年上の長男は自閉症という障害を持っている。娘は、生まれてからずっと母親の苦労をそばで見て育ったせいか、いつでも聞き分けがよかった。あるがままの兄を受け入れて、兄妹同じ小学校に通った。いろいろな思いがあったろうに、それでも素直な明るい子になってくれた。
 さらに、この2年間は、中学受験の勉強をがんばりとおして、難しい志望校にもみごと合格した。
 りりしい眉と涼やかな目もと。おさげ髪にスーツを着て、娘はひときわ輝いて見えた。
 そのとき脳裏には、35年前の卒業式が鮮やかによみがえった。母が私の脇を通って正面へ進んでいくときの衣擦れの音。謝辞を読み上げる少し震えた声……。
 ああそうだ、母の後ろ姿はたしかにこの着物だった。
 そして今、私はそれをまとい、あの日の母と同じ晴れがましさを感じているのだ。
 ふしぎと涙はなかった。背筋を伸ばし、凛とした気持ちで、壇上の娘を見つめていた。


母の紋付を着て、娘の卒業式へ。10年前のこと。

                               (2002年3月)
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エッセイ「娘のスマイル」2012年03月28日

おととい、娘の大学の卒業式に出席してきました。
理科系の大学なので、卒業してもそのまま大学院に進む学生がほとんどですが、娘の専攻した経営システム工学科では、卒業生の大半が実社会に出るとのこと。娘も、震災直後の混乱のなか、就活の日々を乗り越えて、企業に就職しました。
娘の大学に行くのもこれが最後。近頃の女子お決まりの袴の衣装を整えてやり、謝恩会用のお色直しのドレスが入ったカバンをゴロゴロと引いて、私も娘と一緒に出かけました。
同じ高校から一緒に進学した仲間と。理系女子の艶姿

「おしとやか」という言葉は、娘の辞書にはありません。草履でもすたすたと走り、アップした髪の毛を木の枝にひっかける。私はひやひやしながら、風を切るようにキャンパスを闊歩していく娘の後をついていくばかりです。
すれ違いざま、友達に声をかけたり、かけられたり。式の後に集まる約束をあちらでもこちらでも交わしている。いったいどれだけのサークルに出入りしていたのやら。
女子は10分の1ほどの人数だから当然ではあるけれど、「男まさり」とか「女だてらに」とかという言葉こそが彼女にはぴったり……。
以前から、DVD2倍速で見ては「ああ、おもしろかった!」などというような娘でした。しみじみと余韻を味わい、感動の涙を流す文系の私とは、明らかに違うなあと、思ってはいたのです。
男女の隔ても、昼夜の区別もさして気にせず、24時間たくさんの人と関わり、やりたいことをやり、食べたいものを食べ、行きたいところに行く。スケジュールをびっしり組んで、密度の濃い彼女流の生き方が、この4年のうちにすっかり出来上がっていました。
家庭では口数の少ない理由もよくわかりました。外で、全エネルギーを使い果たしていたのですね。

もう娘においての子育ては終わりです。
これからは、人としての成長を、近くで見守っていこうと思います。


これは、2年前に書いた作品です。

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   娘のスマイル

「お龍(りょう)殿、海と言うてみいや。うーみ」
「うーみ……」
「その顔じゃ! それだけで笑顔に見える」
 NHK大河ドラマ「龍馬伝」のワンシーン。客商売だというのに無愛想なお龍に、龍馬が笑顔を教えている。口角を引くようにして何度も「うーみ」とつぶやくうちに、ぎこちなかった彼女も、自然に微笑むことができるようになる。そうやって龍馬への思いも募っていったのだろう。やがて夫婦になる二人である。

 お龍を見ていたら、娘の七五三の記念撮影を思い出した。7歳のとき、写真館に連れていき、派手な振袖やイブニングドレスを着せて、何枚も写真を撮った。
 娘はいいかげん疲れたのか、カメラマンが「笑って」というのに、口元がひきつるばかりでちっとも笑みがこぼれない。そのうちに「もっと自然に!」というカメラマンの声がいらついてくる。娘はますます笑えなくなるのだった。
七五三の写真。笑顔もひきつって……
 

 昨年、成人式の写真を撮ったとき、七五三のときのことが話題になった。
「あなたの顔、ますますこわばってたわね」
「いやだった。あのドレス着るのも、写真撮られるのも」
 さらりと言った娘の言葉に、はっとした。
 娘は、知的障害を持つ長男の下に生まれた。てんてこまいの母親のそばで、駄々をこねたりすることはなかった。自分はいい子でいなくては、と子ども心に感じていたのかもしれない。聞きわけのいい子でいるために、どれだけの我慢をさせてきたのだろう。
 気がつくと娘は、あまり自分の思いを口にしない子どもになっていた。当時、長男の子育てに追われながらも、子どもたちの節目の祝いごとだけはきちんとやりたかった。七五三はいやだと言われたところで、止めたりはしなかっただろう。それでも娘は、そのときの気持ちを大人になるまで抱え続け、このときようやく口にしたのである。そう思うと、胸がつまった。 
 お龍は、父親を亡くし、病気の母親と四人の弟妹のために、食いぶちを稼がなくてはならなかった。龍馬が初めて会ったときも、気丈なだけの暗い女性だった。不幸な境遇を背負って笑わなかったお龍とは比べようもないはずなのに、私には七五三のときの娘が重なって見えた。娘への負い目が、そうさせたのかもしれない。

 娘は大学3年になった。今の彼女なら、私の負い目など一笑に付してしまうにちがいない。青春真っ盛りの毎日だ。勉強は要領よくこなし、部活で午前様の日もあれば、友達と旅行にも出かける。もちろん、アルバイトにも余念がない。
 最近は、大学のそばのカフェで、週に3日ほど早朝のバイトに精を出す。高校時代、寝坊しては遅刻の常習犯だった娘が、ひとりで起きて6時前に家を出るのである。
 ある日、近くまで出かけたついでに、お店を覗いてみた。娘はカウンターでお客さんの注文を聞いているところだった。
 その表情を見て、私はドキドキしてしまった。きらきらした微笑みがこぼれるようだ。いつのまに、あんな笑顔を覚えたのだろう。娘にも龍馬が現れた……?
 いや、たった一人の龍馬ではない。これまでのすべての出会いが、彼女のきらめくスマイルを作り出してくれたのだろう。
 家では見せたこともないような娘の笑顔に、ちょっぴり寂しさも味わいながら、朝のカフェテラスで、娘の淹れたコーヒーを飲んだ。


                            (2010年作品)

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