母に代わって戦争体験記を〈前編〉2015年08月31日


11年前のこと。娘が中学3年のとき、「家族の戦争体験を書く」という宿題が出ました。

私も娘とともに、当時81歳だった母の話を聞きました。母は娘にもよくわかるように、やさしく解説しながら、話してくれました。

それまでも、私は何度となく母から戦争の話を聞いてきましたが、ちょうどいい機会なので、母の代わりに書き残してみようと思い立ちました。

それがこのエッセイです。「私」というのは母自身のことです。

原稿用紙10枚という長編ですので、2回に分けてお届けします。

 

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  (母が16歳のときの写真です)

 

 昭和12年、日本が中国と戦争を始めた頃、私は女学校の生徒でした。今で言えば高校生です。東京の世田谷に、両親と兄、姉、弟とともに暮らしていました。

 戦争が始まってもしばらくは、今までどおりに通学し、勉強していましたが、そのうちに昼休みや放課後を利用して、慰問袋を作るようになりました。戦地に出征した兵隊さんに贈るのです。まず、手ぬぐいを半分に折って両端を縫い、その中に食べ物や手紙を入れて封を閉じます。缶入りのドロップなどを入れたように思います。作文の苦手な私は、兵隊さんへの手紙に何て書いていいのか分からなくて困ったものでした。

 戦地から負傷して帰って来た兵隊さんも目につくようになりました。負傷兵はみな白い着物を着ていたから、目立ったのかもしれません。

 女学校には、ときどき負傷兵の方が講演に来ました。中国の地図を広げては、日本がいかに攻撃して勝利を上げたかを話してくれます。今でも覚えているのは、とても話し上手で面白かった海軍の将校さんと、もう一人、対照的に話のつまらない陸軍の将校さん……。じつはこの人こそ将来の舅になる人だとは、神のみぞ知る、だったのです。その女学校に娘さんが二人通っていた関係で講演に来た、ということは後からわかったことでした。

 女学校卒業後は、家政専門学校に入学。家庭科の教師になるための学校です。派手な着物に袴をはいて、しゃなりしゃなりと通学します。雨の日には、駅から学校まで華やかな色の傘の列が続いたものでした。

けれども、日本は太平洋戦争へと突入し、どんどん戦争の色に染まっていくのです。女学生といえども派手ではいけないといわれて、入学した年の夏休みには、制服を作らされました。上着とスカートの、地味な紺色のスーツでした。

また、学校の校庭で軍事訓練をするようになります。すぐ近くの市ヶ谷に近衛師団があったので、そこから若い将校が教官としてやって来て、私たちは鉄砲を担いで行進の練習をしたりしました。

 

このころ、日本人の男性は全員、二十歳になると兵隊検査を受け、赤紙と呼ばれる召集令状が来たら、軍隊に入らなければなりませんでした。

赤紙が来ると、周囲の女性が「千人針」を作り始めます。それは、手ぬぐいのようなさらしの布に、千人分の女性の縫い玉を集めたもので、出征兵士は敵の弾除けとしてお腹に巻いていくのです。まず、筆の柄のおしりに赤い墨をつけては布に判を押し、千個の印をつける。その輪の中に、赤い糸で一人一針縫っては玉を作ってもらいます。女性たちは、兵士が無事に帰って来られるようにと、祈りを込めて縫いました。なかなか千人分も集めるのは大変なので、一人が年齢の数だけ玉を作ることにしたり、寅年生まれの人にはその倍縫ってもらったりしました。

私の長兄は、当時発電所に勤務しており、台湾に住んでいたので、現地で召集されました。衛生兵として陸軍病院で働いたそうです。

次兄は中国へ送られました。おもにトラックの運転手として物資の輸送にあたったそうです。二人とも激戦地に駆り出されることもなく、終戦後、無事に復員してきました。

しかし、長姉の夫は、二度目の招集で南方へ行かされることになります。東京港から出発の前日、主計中尉だった彼は、人目をしのぶようにして私の家に訪ねてくることができました。そのとき、母だけが在宅していました。

「おかあさん、あとの家族のことをよろしく頼みます」

彼はその場で遺書をしたため、急いで帰っていきました。母一人、涙ながらに見送ったのでした。

結局、彼の乗った船は南方へ向かう途中で撃沈されたそうです。姉のもとに届いた骨壷には、わずかな遺髪だけが入っていたといいます。

 

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〈後編に続く〉



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