母を想う日々 1 ― 2021年10月14日


2019年10月、友人と二人でクロアチア旅行に出かけた。新型コロナのパンデミックが始まる直前の秋のことだ。
今でも、彼女に会うと、
「あの時、行っておいてよかったね。行けてよかったね」
と二人でうなずき合う。
〈旅の様子は、「旅のフォトエッセイCroatia2019」で4回にわたる連載をしましたので、よかったらお読みください〉
さて、今年の10月は、母の遺品の整理やマンションの片付けに追われている。
こまごました書類に紛れて、何冊も小さな手帳が出てくる。
筆不精だと思っていた母は、意外にたくさんのメモを残している。
中でも、旅の記録が多い。
それを年表のように記したページには、20回以上の海外旅行をしていることがわかる。私の旅行好きは明らかに母の影響である。
私が旅に出る時は、いつも一冊の手帳をバッグに忍ばせている。これも知らず知らずのうちに、母をまねているのだろう。
母の本棚には、旅のパンフレットなどの資料も残っている。
その中から、「クロアチア・スロベニア・モンテネグロの旅 12日間」という小さな冊子が出てきた。
母も、クロアチアに行っていたのである!

2年前に私が旅をした後、ホームの母に会いに行き、クロアチアの話をしたのだが、母もそこへ行ったのか行ってはいないのか、なんとなくうろ覚えで、私も半信半疑だった。
でも、確かに母は、2003年10月、今から18年前の同じこの季節に、80歳で、12日間のツアーに一人で参加していた。当時、私はまだ子育て真っ最中で、母が出かけた聞きなれない国に関心を寄せるひまもなく、すっかり記憶から抜け落ちてしまったらしい。
2年前のあの時、もっとよく母の留守宅を探してみればよかった。もっと母と話ができたのに、と悔やまれる。
遺されたたくさんのアルバムの中に、母のクロアチア旅行の写真は、残念ながら見つからなかった。
その代わり、1985年7月、父と母と私とで、ベルギーやオランダ、デンマークなどを旅した時の写真が見つかった。両親の旅行に私一人でお供をしたのは、これが最初で最後だった。

このツアーから戻って10日後に、御巣鷹山に日航ジャンボ機が墜落して大勢の犠牲者が出た。
翌年には長男を出産。私の海外旅行は長い空白が続いたのだった。
コロナが終息したら、まだまだ海外に行きたい。
私も母のように、80歳を過ぎても。

800字のエッセイ:はるか遠くから ― 2021年10月26日

はるか遠くから
母が亡くなって半月ほどたったころ、珍しくイギリスから手紙が届く。ミセス・マローズという差出人に覚えはない。開けてみると、やさしい花の写真のカードが出てきた。
「悲しいお知らせです。グレンダ・グラントさんが癌で亡くなりました」
とたんに涙がこみ上げる。母の喪に服す私に、訃報を吸い寄せる力でもあるのだろうか。
話は40年以上前にさかのぼる。グラント一家は、従兄がロンドンに駐在していた頃に家族ぐるみで仲良くしていたイギリス人家庭で、30代の夫婦に女の子と男の子がいた。彼の帰国と入れ替わるように、ロンドンにひとりで滞在することになった私に、従兄が彼らを紹介してくれたのである。
「とにかくいい人たちだから、頼りにしてね」
従兄の太鼓判どおり、一家を訪ねると、とても温かいもてなしを受けた。近くに住む高齢のご両親もやって来て、遅くまでダーツに興じる。気難しそうなおじいさんだったけれど、一緒に遊んだダーツの矢をプレゼントしてくれた。その夜はいかにも英国調の愛らしいゲストルームに泊まらせてもらった。
グレンダは表情豊かな明るい女性で、英語学校の教師としても働いていた。
帰国後もクリスマスカードのやり取りを続けたが、私は子育てに忙しくなり、何度か転居を繰り返すうちに、交流は途絶えてしまった。とはいえ、ロンドンの日々は青春のかけがえのない思い出。彼女を忘れたことはない。
手紙の主は、グレンダの同僚だった。仲良しだったに違いない。亡くなった彼女の住所録に、私の住所を見つけたからと、わざわざ知らせてくれたのである。
グレンダの訃報に悲しみながらも、マローズさんの心遣いに胸を打たれた。友の死に寄り添う時、大切なことは何か、教えてもらった気がする。

