ダイアリーエッセイ:重なる日 ― 2020年11月24日
今日は、午前中に長男の主治医のクリニックに行く予定だった。
ところが昨日の夕方、母のホームから連絡が入った。
「右手の腫れがひどくなって、痛くてご飯の時も使えないご様子です。整形外科にお連れいただけますか」
前日に、手が腫れているが、痛くはないとのことなので様子を見たい、という電話があったのだった。どうやらそれが悪化しているらしい。骨折かもしれない。
原則、通院は家族が付き添うことになっている。もちろん、ホームから車いす専用車で送迎はしてくれる。
「わかりました。午前中に行きます」と返事をした。息子のクリニックへは、朝一で予約の変更をしてもらえばすむ。
その電話から、1時間もしないうちに、今度は息子のグループホームから電話が来る。
「モトさんが、食欲がないと言って、夕飯を召し上がらないのですが」
世話人さんの言葉にびっくりした。腹痛もなければ熱もないし、風邪気味でもないという。それなのにご飯を食べないなんて、あの子に限ってありえない。どうしたんだろう。
もしかして、コロナ……? 最悪の事態が脳裏をよぎる。
とりあえず、夜中にお腹がすくかもしれないので、おにぎりを作っておいていただけますか、と丁重にお願いをして、明日まで様子を見てもらうことにした。
もし、明日の朝、熱が出ていたら? どこの医者に、どうやって連れていく?もし、コロナだったら? どこで隔離する? どこに入院する?
息子は独りでは無理だ。私が防護服を身に着けて看病する???
たくさんの疑問の湧き上がるなか、はっきりしているのは、明日、息子の体調が悪化していたら、母はホームにお任せして、いち早く息子のもとに駆け付けるということ。母を世話してくれる人はたくさんいても、病気の息子にはこの私が必要だ。いずれ母亡き後は、福祉にお世話になるけれど、今はまだ私しかいない。
緊張して朝を迎えた私に、電話の息子の声は明るく元気だった。
「朝ごはんは全部食べました。お腹も痛くない。大丈夫です!」
世話人さんの話では、換気のため窓を開けたままで、ゲームに熱中していたので、体が冷えたのではないか、ということだった。
とにかくほっとした。
安心して、母を連れて外科へ。
レントゲンの結果、骨折はなく、細菌が入って腫れたのでしょうとのこと。念のため、採血して検査をし、明日もう一度、私一人で結果を聞きに行く。こちらも、ひとまずほっとした。
通院のおかげで、9か月ぶりに生の母に会えた。文字どおり怪我の功名に感謝する。
長引くコロナ禍でも、感染対策をしながら、何とか楽しみや生きがいを見つけて日常生活を送れるようになってきた。とはいえ、いつどこでコロナを拾ってしまうかわからない。そのリスクは誰もが持っているのだ。
私にはまだ、家族を守る役割がある。
改めて、そんなことを考えた一日だった。
それにしても、私の〈GoTo旅行〉の日と重ならなくてよかった、と三たび胸をなでおろしたのでありました。

自粛の日々につづる800字エッセイ:「母とのオンライン面会」 ― 2020年05月25日

わが家に来た1セット。長男が福祉の職場で4月にもらった1セット。もう1セットは、母のポストに入っていたもの。いずれ必要になる日もあろうかと、備蓄しています。
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母とのオンライン面会
母が暮らす介護施設は、2月のうちから面会禁止となった。インフルエンザが流行る頃に面会できなくなることはあっても、今回のように3ヵ月以上になったことはない。手紙を書いて写真を送ったり、施設の職員が母の写真を撮って送ってくれたりもした。
そして先週、ついにオンライン面会をしてもらえることになった。すぐに申し込み、ZOOMを初ダウンロードして楽しみに待った。
約束の時刻になると、パソコンの画面に車いすの母が映った。顔見知りの介護士さんも3人ほどそばにいる。
「お母さん、見える?」と手を振る。
母は横を向いたまま何も言わない。かなり耳の遠い母には聞こえないのだろう。私はさらに大きな声で、
「誰だかわかる?」と自分を指さした。
見かねた介護士さんが耳元で私のセリフを伝えると、
「そんな大声で言われたらうるさい」とご機嫌がよろしくない。
「ひとみでしょ。娘の顔ぐらいは覚えてるわ」と憎まれ口は相変わらずで、元気なのだとわかる。やはり現在の新型コロナの状況や、パソコンでの面会の理由など、新聞を読み、テレビを見ているようでも、わかってはいないのだろう。終始かたくなな表情で、笑顔も見られないまま面会は終わった。
私はその後、友人グループと2回ほどオンラインお茶会をした。こもったような音声や、一拍遅れて届く反応など、慣れないせいかとても疲れた。
やはり、母とも生で会いたい。いつものように、顔と顔を寄せて母の爪を切りながら、同じ話をしよう。
「ひとみは昔から手が冷たいね」
「お母さんはいつも温かいね」
その手の温もりを感じておきたい。97歳の母には、もうあまり時間は残されていないから。
旅のフォトエッセイPortugal 2018(9)リスボンの手袋屋さん ― 2020年01月30日
ちょうど2年前の今頃、娘と二人でポルトガルの旅をしました。
ブログのシリーズは、(8)まで終わっていますが、本当はまだ途中。あえて冬を待って続きを書きました。
スマホの読者は、先に写真だけこちらで見て、最後にスマホ用のリンクがありますから、そこから文章をお読みくだされば、と思います。


旅行の前にリスボンのガイドブックを見ていたら、この小さな手袋屋さんのことが載っていた。
ルヴァリア・ウリセス。1925年創業。
「ここに行きたい! このお店で、絶対に手袋を買いたい!」
なぜか強い気持ちがわいたのだった。

近づいて狭い店内を覗くと、まじめな銀行員風の男性が、奥から現れた。
「この手袋が欲しいんです」と、ショーウィンドウの中の一つを指さす。
真冬に着る焦げ茶色のコートに合わせて選んだのは、焦げ茶色のスエードで、指の側面とベルトなどのトリミングはネイビーがあしらわれている一品。
「では、片手をここに置いてください」
穏やかに彼は言った。
左利きの私は、いつも左手が出る。私の左手、小さいのに指は太くて短くてごつい手を、遠慮がちにカウンターの上に置いた。
「OK」
彼は、ほんの一瞬、0.5秒間、私の手をちらりと見ただけ。すぐに奥に入っていき、壁にびっしり並んだ引き出しを一つ、持ち出してきた。
そして、カウンターの上の小さなクッションに、肘を載せるようにと言う。彼が私の手に、手袋をはめてくれるのだ。ちょっときつそう、と心配するまでもなかった。まずは木製の大きなピンセットのような道具を、指の一本一本に入れて革を伸ばす。それを私の手に、す、す、す、と被せ、指の根元がきちんと合うように着けてくれた。▼

Just fit! ぴ~ったりだわ! というわけで迷わず即決。
お店のポスターと同じ紙袋に入れてもらい、クレジットカードの控えも手にして、ご満悦で店を出たのだった。


帰国してから、はたと思いだした。もう何十年も前、昭和の頃のこと。
母は、国際学会に出席する父にくっついて、ときどき海外旅行をしていた。いつだったかヨーロッパ旅行から帰ったとき、どこかの国のどこかの店で手袋を買ったという話を聞いたことがあった。英語もできない母だったのに、
「店員さんがね、ぴったりサイズのものを選んで、こうやって手に着けてくれたのよ」
と話しながら、母が指先から手首までなでおろす仕草をした記憶があるのだ。もしかしたら、リスボンの同じ手袋屋さんだったのかもしれない……。
もちろん確証はないし、今では母に尋ねても、何にも覚えてはいない。
でも、時を経て、母と娘が偶然同じ店で同じ物を買った。そう思うだけでも楽しいではないか。
旅行前にガイドブックの記事で「ここに行きたい!」と強く思ったのは、眠っていた記憶とともに、母のみやげ話に憧れた気持ちが、目を覚ましたからに違いない。私がヨーロッパの旅がどこより好きなのは、母の影響であることだけは確かなのだから。
今年は暖冬で、なかなかこの手袋の出番がない。手袋をはめる時間も惜しんで、着けやすい普段用をつかんではバタバタと飛び出していってしまう。
それでも、先日、珍しい柄のコートを試着したとき、この手袋が脳裏をかすめ、思いきって買った。茶色とネイビーの複雑な縞模様のそのコート、リスボンの手袋とコラボさせて着てみたい。大事にしすぎて、春が来ないうちに。


2000字エッセイ:「母を書くこと」 ― 2019年06月22日
母を書くこと
幼い頃、近所に小さな川があった。川というより道路に沿って海へと流れる用水路だったが、子どもたちは川と呼んだ。
ある日、その川に母が流れていた。いつもの深いえんじ色の着物を、水面に広げるようにして流れていく。橋の上から呼んでも答えない。母は死んだのだ。悲しくて泣くと、目が覚める。
「どうしたの」と、隣に寝ていた母が尋ねる。
「夢、見てた」
「こわい夢?」
「ううん、悲しい夢」
「もう大丈夫だから、寝なさい」
何度か同じ夢を見た。そのたびに母に起こされ、安心する。でも、なぜ母は「こわい夢?」と聞くのだろう。悲しい夢の内容を聞いてはくれないのだろう。母が死んでしまうことほど悲しいことはないのに……と、子ども心に思ったものだ。
母は、父が亡くなった後も、わが家と同じマンションの4軒隣で独り暮らしを続けてきた。しかし93歳で胃がんを患い、翌年には大腿骨を骨折。2度の入院・手術で、頭も体もすっかり弱って、もはや独り暮らしは無理になった。
現在、わが家からさほど遠くない老人ホームで、細やかで手厚い介護を受けながら、穏やかに暮らしている。全て自分の歯だというのが、何より母の自慢で、普通の硬さの料理を食べる。しかも、とても胃の3分の2を摘出したとは思えない食欲で、顔の色つやもいい。
それでも、私は母の終活を少しずつ進めている。ホームでは看取りの説明を受ける。家族間でよく相談をして、意見をひとつにまとめておくようにと言われる。
母のカトリック信徒としての籍も、現在の川崎の教会に移した。以前は横浜に住んでいたので、父も兄も、そちらの教会で告別式を執り行ってもらった。自分も同じ場所でお別れをという思いから、籍は抜かないままだったが、もうあちらには友人も知人も少なくなっている。
「こちらの方があなたたちにも便利でしょう」と母から言いだしたのだった。
母の終活を肩代わりするだけではなく、私にはやっておくことが、もうひとつある。
数年前のこと、身内が集まったときに、父の思い出話をしていると、母が呟いた。
「私が死んだら、ひとみはまた、あれこれ書くんでしょうね……」
父のことは、折に触れて書いてきた。私が子どもの頃の思い出や、晩年になってから描き始めた絵の話、4年間の入院中のエピソードなどなど、亡くなった後に、それらを冊子にまとめて配ったりもした。母はそれを覚えているのだ。
「お望みなら、いくらでも書きますよ」
母は黙っていた。望んでいるような、いないような、諦めているような、お好きなようにと思っているような、いつもの母の、つかみどころのない表情だった。死んだ後のことまで、どうでもいいわ、と思っているのかもしれない。最近は生きることにさえ気力を失いつつある。
そうだ、今のうちに書いておかなくては。母が本当に死んでしまったら、あまりに悲しくて書けなくなるだろう。冒頭の夢の話など、金輪際書けないだろう。それに、悲しみが癒されるのを待っていたら、私の記憶も薄れてしまうだろう。そうならないうちに、母のことを書いておかなくては……。
4人きょうだいの3番目だった私は、叱られた記憶はたくさんあるが、かわいがられた記憶は少ない。「褒めの子育て」などは無縁の母だった。大好きだったかと言われると、それほどでもないと思う。特段、孝行娘でもなかったし、できた母親でもなかった。
それでも、私にとっては唯一無二の母なのである。死なれればどれほど悲しいことか。
私の知る限りの、あるがままの母を思い出して、今のうちに書いておこうと思う。

600字エッセイ「母の生きがいは」 ― 2017年12月10日

母の生きがいは
母は、わが家と同じマンションの4軒隣で、病気もせずに独り暮らしを続けてきた。子どもに迷惑はかけない、というプライドが支えだったのだろう。
ところが、昨年93歳で胃がんが見つかり、胃の3分の2を摘出する手術を受けた。それもつかの間、今年になってこんどは大腿骨骨折で手術。何ヵ月もの入院のたびに母の体は弱った。「人生の最後に来て、こんな大変なことになるなんて」と嘆きながら、独り暮らしが難しくなり、この秋、ホームに入居した。広くて明るい個室で、きめ細やかな介護を受ける。
家に帰りたいとも言わず、穏やかな表情をしているのだが、どこに行きたい、何かしたいことは、と聞いても、「おさらばしたい」と言うばかりで、生きる気力をなくしてしまっている。
それでも、訪ねていけば開口一番、「風邪は治ったの?」と、私の健康を気遣い、「あの子はちゃんと学校に行ってるの?」と、孫の心配を口にする。そんなときは、ちょっとだけ以前の口ぶりを取り戻しているようだ。
先日、NHK大河ドラマで、直虎の母が自分の最期が近いのを悟って、呟いた。
「ずっとそなたのことを案じていたかった……」
いつの世も、母親は死ぬまで子どもの心配をすることこそが、生きがいなのだ。そう思うと、テレビの前で涙が止まらなかった。

ダイアリーエッセイ:母を見舞って ― 2017年08月19日
母が大たい骨を骨折して、人工股関節を入れる手術をしてから、ちょうど2ヵ月がたちました。
入院中は、寝たきり状態のまま、リハビリもおざなり。病院からは、「本人にやる気がないので、元どおりになって自宅に戻れる見通しは立たない。施設を探してください」と宣告されました。
冗談じゃない、このまま寝たきりにはさせられません。母の終の棲家は、わが家の4軒隣の、自分のマンションです。
結局、つてを頼って、姉の地元のリハビリ専門病院に転院することができました。前向きな医療で高い評価を受けている病院です。
ところが、入院そうそう、ひとりで歩けるつもりになったのか、トイレに行こうとして転倒。腰を痛めてますますやる気も失せ、リハビリは遅々として進みません。
病院へは、車を飛ばして2時間。秋川渓谷のそばで、緑の木々に囲まれています。特に夏休みのこの時期は道路も渋滞し、一日がかりになってしまうのですが、スケジュールをやりくりして、週に一度は様子を見に行くことにしています。
でも、毎回、私が顔を見せても、母はにこりともしません。
窓の外の木々を眺めているので、「避暑地みたいね」と言うと、「避暑地だもの」と答える母ですが、表情も乏しく、スタッフの皆さんの声掛けにはあまり応じません。
おとといは、美容師さんにヘアカットをしてもらいました。それでも無言。


母はすっかり骨と皮だけの体になってしまい、もう自宅に戻れないのでは、という不安がよぎります。
入院前までは、弱った足腰でも、杖を突いたり手押し車を押したりして、何とか歩けました。また、負のエネルギーを発しては、そばにいる私を何かと悩ませていたのに……。あの母はどこに消えてしまったんでしょう。
この病院に移るまでは、一日も欠かさず母と向き合うことが私の日課でした。母にとって、遠慮なく言いたいことが言えるのは私だけ。私は精神的なストレスがたまり、せっせとストレス解消にも励みました。
今、母が離れて、私はそのストレスからは解放されました。それでも、母と向き合わないわけにはいきません。血のつながる母と娘だからです。
母のことを、こうして書くのは難しい。
変わってしまった母を見るのは辛い。目をそらせていたいのです。
母のようには老いたくない。でも、いずれはそうなる運命かもしれません。
こんなふうに思うのは、冷たい娘だろうか。いえいえ、できることは精いっぱいやってきた。葛藤は繰り返されるばかりです。
入院は、3ヵ月という期限があります。それまでには、少しずつでも母の状態が良くなってくれることを祈って、希望を捨てずに、母の病院にせっせと通うことにしましょう。

800字エッセイ:「ひとつ屋根の下」 ― 2017年07月03日

先日、所属するエッセイストグループの勉強会で、エッセイの課題が出ました。テーマは「住」、字数は800字、というものです。
そして書き上げた作品がこちらです。

ひとつ屋根の下
今から20年ほど前まで、実家の両親は、木造2階建ての大きな家に老夫婦2人きりで暮らしていた。一時期は家族8人が住んだ家だ。父は病のせいで足も不自由になっていた。
そんな折、わが家のマンションの一室が売りに出された。同じ1階の4軒隣で、広くて明るく、小さな庭もある。興味本位で見に来た両親は、ひと目で気に入り、横浜から川崎への転居を決めてしまった。
「マンション暮らしは憧れだったよ」
そう言って喜んだ父は、半年住んだだけで入院し、4年後には帰らぬ人となった。
母は今でも、父の決断に感謝している。あの家に独り残されずにすんだ。私たち一家のそばに、安心して独り暮らしができる場所を、父が作ってくれた、と何度も口にする。
母が80歳を過ぎても、元気なうちは何かと助け合った。急な雨には洗濯物を取り込んであげたり入れてもらったり、旅行中の留守を頼んだり頼まれたり。だれかの誕生日には、わが家で一緒にテーブルを囲む。私の家族とはほどよい距離を置いて暮らしてきた。
やがて母は足腰が弱り、自分の食事の支度さえ困難になる。私は料理をお盆に載せて、文字どおりスープの冷めない距離を往復する。
しかし、便利なひとつ屋根には思いがけない弊害もあった。介護保険サービスを受けようとすると、集合住宅の別世帯であっても、身内が同じ建物に居る、と判断されて、条件が悪くなるというのだ。もっと近い距離でも、屋根さえ違えば別の家となるらしい。お役所的な線引きがまかり通っているのである。
母は現在94歳。つい1週間前のこと、玄関で靴を履こうとして倒れ、動けなくなった。救急車で運ばれて入院。大腿骨骨折だった。ストレッチャーに乗せられて出ていった自宅の玄関を、歩いて入る日が来るのだろうか。部屋の明かりは消えたままだ。

「たった800字の中に、20年間の情報をうまく盛り込んでいる」というお褒めの言葉をいただきました。手前みそでした。
そんなわけで、母は胃がんの手術から1年。ようやく今の介護サービスに慣れ、私の生活も落ち着いてきたところだったのですが、ふたたび家事や仕事をこなしながらの病院通いが始まりました。母の容体やリハビリなど、先行きの心配も尽きません。
私は心身ともに疲れ果て、先週、とうとう高熱を出してダウンしました。
今日からなんとか普通の生活に戻りましたが、さて、今後どうなりますことやら。

ダイアリーエッセイ:花嫁の母の“べっぴん” ― 2016年12月23日
娘の結婚式までひと月を切った。
忙しさのなかで、17センチ四方のリングピローを作り続けてきた。結婚式で、二人の指輪を結びとめておくためのものだ。
今日、ようやく仕上がった。

今年7月のこと。手芸用品の店でこのキットを見つけたとき、母に作ってもらえたら、とひらめいた。胃がんを患い、入院手術を経てようやく退院できたのに、すっかり生きる気力を失った93歳の母。それまでは、手先が器用で洋服を作ったり編み物をしたりしていたのだ。そんな母が、せめて孫娘のために……と、手芸ごころを取り戻してくれたらしめたもの。だめもとでもいいからと、買ってきたのだった。
しかし、結局母は、封を開けることもないまま、3ヵ月が過ぎた。
そうだ、私が作ってみよう。刺繍なら経験がないわけではない。開けてみれば、必要な材料もすべてそろっているし、作り方も書いてあるし、何とかなるだろう。
そう思い立ってからも、なかなか時間が取れない。
12月になってしまった。
ドキドキしながら麻の生地にはさみを入れたのを手始めに、ちくちくと針を刺し、ビーズを通し、リボン刺繍をほどこしたりして、完成をめざした。
手を動かしながら、子どもたちの小さいころを思い出していた。私もよく洋裁をしたっけ。子供服の作り方の本を買って、兄妹おそろいの生地で半ズボンとスカートをこしらえたり、イニシャルの刺繍を入れたり……。同じ焦げ茶の小花模様で、娘はベスト、私はマタニティワンピースを作ったこともあった。捨てられず、今も押入れの奥で眠っている。
私は「門前の小僧」だった。物心ついた時には、すでに母がミシンをかけたり編み機を動かしたりするそばで遊んでいた。私の服は下着から学校の制服にいたるまで、すべて母の手作りだった。
小学校で手芸部に入り、中学の家庭科ではパジャマを縫った。どうしてもわからないところは、母が教えてくれた。
家を離れ、自分が子供服を縫うころには、母がそばにいなくても、気がつくと母の手つきをまねて、要領よくこしらえていたのだった。
洋裁も手芸からも遠のいて久しい。
そして今、母が作れなくなった小さな手芸品を、私が代わりに作っている。
何十年という歳月を想いながら。
おりしも、NHKの朝の連続ドラマは、子供用品店「ファミリア」の創始者のお話。あまり好みのドラマではないのだが、毎朝ケチをつけながらもついつい見てしまう。
「下手でも思いを込めて作ったもの、それがべっぴん」
子どもを残して逝ったヒロインの母親の言葉が、心にしみた。
私も、娘のために、“べっぴん”を仕上げることができた。
達成感とともに、いろいろな想いが込み上げて、思いがけず涙がこぼれる。
今から泣いていたら、式の当日はどうなることやら……。

伊藤比呂美著『父の生きる』(光文社文庫)を読んで ― 2016年08月30日
母は93歳、同じマンションの4軒隣りで独り暮らしを続けてきました。
健康で過ごしてき母に、今年3月、病気が見つかりました。進行性の胃がんでした。入院、手術、そして退院から3ヵ月。新しく看護付きの施設に通うようになりました。
病気をきっかけに、母は以前の生活がひとりではできなくなりました。
母の世話を背負った私は、暗いトンネルの中を手探りで歩いているような日々でした。
この本と出合って、ようやく光を見たような気分になったのです。

この本を紹介してくれたのは、同じマンションに住む友人です。家族ぐるみのお付き合いは四半世紀に及び、もちろん母のこともよくわかってくれています。そして、私の「読み友」でもあるのです。
私が母のことをこぼすと、まあ読んでごらん、とこの本を貸してくれたのでした。
伊藤比呂美さんは、詩人でもあり、エッセイや小説も手掛ける作家。イギリス人の夫や子どもたちとカリフォルニアに住んでいるのですが、熊本で独り暮らしをする80代のお父さんを、3年半にわたって遠距離介護をしてきました。毎月のように帰国しては、仕事をこなしながら熊本で暮らす。しかも、すごいのは、毎日毎日欠かさずにアメリカからお父さんに電話をしたことでした。
この本はその記録です。
私がこんなに付箋を貼りながら読んだ本も珍しい。
のっけからお父さんの言葉に釘付けになりました。このまま読み進んでしまうのがもったいない。あとでもう一度かみしめようと、印をつけずにはいられなかったのです。
赤い色の文字で書いた部分は、原文のままの引用です。
◇
あるとき私が、仕事が終わったよと言いましたら、父が「おれは終わんないんだ」と言いました。
「仕事がないから終わんないんだ。つまんないよ、ほんとに。なーんにもやることがない。なんかやればと思うだろうけど、やる気が出ない。いつまでつづくのかなあ」
私の母もすっかりやる気をなくしています。テレビさえあまり見なくなりました。何を見てもつまらない、と言います。
あれほどやってきた編み物も、手にしません。製図を見ながら高度な模様編みを楽しんでいた母にとっては、手が不自由になったからといって、子どもだましのような太い毛糸を扱う気にはなれないようです。
でもこのお父さんが、母と違う点は、なんといってもユーモアを持ち合わせているところ。さすがは詩人のお父さん、言うことがユニーク。
「だけど退屈だよ。ほんとに退屈だ。これで死んだら、死因は『退屈』なんて書かれちゃう」
◇◇
ある時、カリフォルニアからの電話に向かって、お父さんはこんなことを言いました。
父が「おれには看取ってくれるものがいない、誰もいない、ルイ(飼い犬の名)じゃだめだし」と言い出したから、つい「それは聞くのがとてもつらいから、言うのやめようよ」と言ったら、「ときどき愚痴こぼしたっていいじゃないか、あんたしか言う相手がいないんだし」とののしるような口調で言うのだった。
母も、通い始めた施設が気に入らずに、帰ってくると愚痴をこぼします。さらには「生きていたって何も楽しいことはないし……。あのまま死んじゃえばよかった」などと、返す言葉もないようなことを口にします。必死で毎日世話をしている私には、たまらなくつらい。
そんな私は、このお父さんのセリフに、はっとしました。
私はたくさんの友人に恵まれて、愚痴をこぼしたり、気晴らしのおしゃべりを楽しんだりできる。でも、母にはもう電話をかけて愚痴を言い合うような友達もいないのだ。側に居る私しかいない。母は孤独なのだ……。そう気がついたのでした。
だから、言わせてあげなくては、聞いてあげなくては……と思ったのです。
◇◇◇
ここのところうちの電話の調子が悪くて、父に電話できずにいる。……(中略)……電話できないんだからしょうがないなあと思って、ここ二、三日のうのうとしていたのは事実だ。やはり「かけなくちゃ」と思わずに済むと気が楽だ。ああ気が楽だ、気が楽すぎて、後ろめたかったのかもしれない。
私は、毎晩必ず母の所に行きます。
夕食は施設で済ませてくるので、翌日の朝食を冷蔵庫に入れたり、連絡帳をチェックしたり、薬を間違えずに飲めるようにしておいたり、こまごまと身の回りの世話をしてきます。
母は9時までには寝てしまうから、私は夕食後まったりする暇もなく、急いで行かなくてはなりません。
ああ、行きたくないな……、私もそう思ってしまう。今夜もご機嫌が悪いだろうか、どんな愚痴を吐かれるのだろうか……、寝ていてくれると助かるけれど……。思わない夜はありません。
冷たい娘だろうか、と自分を責めたりもします。
でも、私だけではないのだと思い、ほっとできました。家族から非難を浴びながらも、こんなにお父さんに尽くしている比呂美さんでさえ、電話をかけなくていいと思うだけで、気が楽になるというのですから。
母は、記憶力が急速に衰えました。
何を説明したところで、書いたものを見せたところで、母の脳みそに情報としてインプットされません。
もう母には覚えることも理解することもできないのであれば、私のほうが変わるしかありません。つらいことを言われても、以前の母ではないのだと思ってさらりと受け流すように、気持ちを切り替えてみました。
すると、母も少し変わってきたように感じます。穏やかになったのです。
私は家族とともに暮らしていますが、比呂美さんはクリスマスから新年にかけての時期さえも、家族と離れて、日本でお父さんの介護に尽くします。仕事もはかどりません。
……こうやって人を食い荒らしつつ人は生きていかねばならないものかと、一日数回考える。
てな感じの愚痴を友人に垂れ流したらスッキリするかと思ってやってみた。却ってよくないことがわかった。その瞬間は、声に出して吐き出すことでストレスの度合いがさっと下がるが、ここもいやよねあそこもいやよねと声に出して言ってるうちに、父の悪いところばかり見えてくる。……(中略)……だから、父の欠点をあげつらうような愚痴は口に出さないことにした。
そうそう、そうなのです!
やさしい友人が、「お母さんはいかが?」と聞いてくれると、堰を切ったように母の愚痴がこぼれ出す。ところが、それを口走っている自分が、とても嫌いになってくる。まるで、私のなかに悪魔が住み着いていて、私に母の悪口を言わせているような気分になるのです。
だから、ストレスは母の愚痴をこぼして発散するのではなく、短い時間でも楽しく過ごして気分転換を図ろう、と思えるようになりました。
この半年余り、仕事だけは休まないで、辞めないで……と思ってがんばってきました。そのために、自分だけの時間がずいぶん犠牲になりました。
旅行はもちろん、映画や美術展、クラス会や女子会や飲み会からも、すっかり足が遠のきました。SNSやこのブログさえもご無沙汰ばかりで、介護が終わったときには、友達が半分になっているのでは、と危惧するほど。
でも最近では少しずつ、きょうだいの協力も得て、気持ちにゆとりが出てきました。要領よく自分の生活も立て直していかなくては、と思っているところです。
母の介護は長丁場、私の時間も永遠ではありません。
比呂美さんの『父の生きる』は、お父さんの最期を看取るところまで書かれています。私がその日を迎える覚悟は、まだまだできていません。
この本は、介護に苦しむ方にも、これから経験するかもしれない方にも、そして、自分の老後を考えてみたい方にも、絶対おススメの本です。
私に薦めてくれた友人には、ほんとうに感謝です、ありがとう♡

おススメの本、原田マハ著『キネマの神様』 ― 2016年05月28日
入院中の母は、おかげさまで、ようやく来週退院の運びとなりました。
とはいえ、まだまだ全快とはいえず、新しい形の介護サービスが始まります。
母の入院から2ヵ月半、毎日毎日、病院に通いました。
それは、単なる時間的な忙しさではなく、老いを考え、死を考え、母との親子関係を考え、自分の将来を考え続ける精神的に重くつらい日々でした。
でも途中から、そんな時だからこそ、自分の時間をおろそかにしてはいけない、と思い直し、わずかな時間を割いて若冲展に3時間並んだり、夜更けまで好きな本を読んだりしました。


その中の1冊がこの本。初版は5年ほど前のものです。
『楽園のカンヴァス』、『ジヴェルニーの食卓』など、美術作品を題材にした小説はマハさんの真骨頂、私も大好きです。
この小説は、絵画ではなく映画のお話のようですから、おもしろさについては半信半疑で読み始めました。が、すぐにそれは杞憂だったと気づかされる。しかも、決して映画が主人公というわけではないのです。
実在する時代設定の中で、魅力的なキャラクターを持つ人物たちが登場して、奇跡のような物語が展開されていきます。
その素材として、実際の映画作品や俳優たちがちりばめられているのですが、映画通ではない私でさえ知っているものばかりで、あたかも私って映画通?と錯覚するほど気分よく読めました。
これ以上は、言いません。
映画通の人にも、そうではないけれど映画が好きという人にも、おススメしたい本です。
最後には素直に感動の涙を流せるエンターテイメント、とだけ言い添えておきましょう。
