陽子さんをしのぶエッセイ:『深夜特急6』2023年10月03日


826日に、親しかった友人が急逝しました。

エッセイグループの月例会で、ちょうど「本」というテーマが出されたので、惜別の意を込めて、このショートエッセイをつづりました。


 

『深夜特急6』

          

陽子さんとは、40年前に木村治美先生のエッセイ教室に足を踏み入れた初日に出会った。同期のよしみである。さらに、私の夫と誕生日も同じ、しかもひと回り年上で干支も同じだとわかって、「ご縁があるのよ、私たち」と言って親しくしてくれた。

40年の間にはいろいろなことがあった。彼女は胃がんを患っても全快し、家族の健康に気遣いながら生きた。私は3人の子を授かり、障害児を抱える子育てを続ける。何があっても、私たちはエッセイグループの仲間として、たしかな絆でつながっていた。

 

最近では、木村教室を去ったもうひとりの仲間と3人で、ワイン片手に食事をしながら、おしゃべりに花を咲かせるようになった。

コロナ大流行の前年だったろうか。私がポルトガル旅行をした話をすると、2人が沢木耕太郎の『深夜特急』は読んだか、と聞いてきた。彼が若いころに、香港から陸路ロンドンまで旅をした紀行文だという。

「旅の最後にポルトガルを訪れているから、ぜひ読んでごらん」

陽子さんはそう言うと、エッセイグループの月例会の時に、自分の文庫本を持ってきて貸してくれた。

私はちょうどそのころ、村上春樹のギリシャ滞在記を読んでいた。明るい音楽のようにリズミカルな春樹に比べると、沢木の本はどうも暗くて楽しく読み進めることができない。陽子さんには正直に伝え、返す約束をした。

 

その後、コロナ禍になり、会えなくなってしまった。「いつでもいいわよ」と言われ、送ることもしなかった。ようやくこの4月、手帳の「月例会」と書いた横に「陽子さんに返本」とメモをした。すると、それを見ていたかのように彼女からメールが来て驚く。

「『深夜特急6』をお持ちください。1から買い揃えたから、全集でとっておきたいので」

当日、お詫びの品も添えて、本は返した。

 

返さなければよかった。

旅の終わりの本を返さなければ、陽子さんは今でもこの世の旅を続けていたような気がする。


 


安らかにお眠りください、陽子さん。


 


旅のフォトエッセイPortugal 2018(9)リスボンの手袋屋さん2020年01月30日

 

ちょうど2年前の今頃、娘と二人でポルトガルの旅をしました。

ブログのシリーズは、(8)まで終わっていますが、本当はまだ途中。あえて冬を待って続きを書きました。

 

スマホの読者は、先に写真だけこちらで見て、最後にスマホ用のリンクがありますから、そこから文章をお読みくだされば、と思います。

 

 



旅行の前にリスボンのガイドブックを見ていたら、この小さな手袋屋さんのことが載っていた。

ルヴァリア・ウリセス。1925年創業。

「ここに行きたい! このお店で、絶対に手袋を買いたい!」

なぜか強い気持ちがわいたのだった。

 

 

扉の上に、店の名前があり、そこにも手袋のフィギュアが。▲

近づいて狭い店内を覗くと、まじめな銀行員風の男性が、奥から現れた。

「この手袋が欲しいんです」と、ショーウィンドウの中の一つを指さす。

真冬に着る焦げ茶色のコートに合わせて選んだのは、焦げ茶色のスエードで、指の側面とベルトなどのトリミングはネイビーがあしらわれている一品。

「では、片手をここに置いてください」

穏やかに彼は言った。

左利きの私は、いつも左手が出る。私の左手、小さいのに指は太くて短くてごつい手を、遠慮がちにカウンターの上に置いた。

OK

彼は、ほんの一瞬、0.5秒間、私の手をちらりと見ただけ。すぐに奥に入っていき、壁にびっしり並んだ引き出しを一つ、持ち出してきた。

そして、カウンターの上の小さなクッションに、肘を載せるようにと言う。彼が私の手に、手袋をはめてくれるのだ。ちょっときつそう、と心配するまでもなかった。まずは木製の大きなピンセットのような道具を、指の一本一本に入れて革を伸ばす。それを私の手に、す、す、す、と被せ、指の根元がきちんと合うように着けてくれた。▼



Just fit! ぴ~ったりだわ! というわけで迷わず即決。

お店のポスターと同じ紙袋に入れてもらい、クレジットカードの控えも手にして、ご満悦で店を出たのだった。




 

帰国してから、はたと思いだした。もう何十年も前、昭和の頃のこと。

母は、国際学会に出席する父にくっついて、ときどき海外旅行をしていた。いつだったかヨーロッパ旅行から帰ったとき、どこかの国のどこかの店で手袋を買ったという話を聞いたことがあった。英語もできない母だったのに、

「店員さんがね、ぴったりサイズのものを選んで、こうやって手に着けてくれたのよ」

と話しながら、母が指先から手首までなでおろす仕草をした記憶があるのだ。もしかしたら、リスボンの同じ手袋屋さんだったのかもしれない……。

もちろん確証はないし、今では母に尋ねても、何にも覚えてはいない。

でも、時を経て、母と娘が偶然同じ店で同じ物を買った。そう思うだけでも楽しいではないか。

旅行前にガイドブックの記事で「ここに行きたい!」と強く思ったのは、眠っていた記憶とともに、母のみやげ話に憧れた気持ちが、目を覚ましたからに違いない。私がヨーロッパの旅がどこより好きなのは、母の影響であることだけは確かなのだから。



 

今年は暖冬で、なかなかこの手袋の出番がない。手袋をはめる時間も惜しんで、着けやすい普段用をつかんではバタバタと飛び出していってしまう。

それでも、先日、珍しい柄のコートを試着したとき、この手袋が脳裏をかすめ、思いきって買った。茶色とネイビーの複雑な縞模様のそのコート、リスボンの手袋とコラボさせて着てみたい。大事にしすぎて、春が来ないうちに。






スマホ用はこちらです。 

 



800字エッセイ:「ですよねぇ」2019年08月14日

 

東京メトロの表参道駅に、オシャレなフードコートがあり、時々利用している。そこにはおいしいエッグタルトだけを扱っているブースがあるのだ。とくに出来立ては、本場ポルトガルで食べた味に近いので、懐かしさもひとしおだ。

ショーケースの向こうの若い女性店員さんに声をかけた。オバサンとしては本物を食べた自慢話のひとつもしたくなる。

「これ、おいしいのよね」

すると、明るい笑顔で、

「ですよねぇ」と返ってきた。

え? 私の笑顔が固まった。

共感してくれるのはうれしい。でも、私は客で、あなたは学生アルバイトかもしれないけれどお店側の人。ここはひとまず、「ありがとうございます」でしょ。

従業員の教育ができていないと思ってしまうのは、私だけ?

 

つい先日、息子がスマホを買い替えたいというので、二人で買いに出かけた。若手販売員君の流ちょうな説明に聞き入っていたが、ここでも、え? と耳を疑った。

「お返しスマホ」という料金割引があるという。それまでのスマホを返却した場合のことらしいのだが、客が返すのに、へりくだって「お返しします」と言わせるわけ? 

それとも販売側が「お返し!」と命令口調なわけ? 

どっちにしてもなんだか変なネーミング……。

「その言葉、おかしくないかしら」と、販売員君には言ってみたけれど、アハハと笑ってスルーされてしまった。

「ですよねぇ。上司に伝えておきます」と、ここでは答えてほしかったなぁ。




 


旅のフォトエッセイPortugal 2018(8)聖地ファティマへ2018年07月28日

 


 ポルトガルに行くと決まったら、ファティマに何としても行きたいと思った。バチカンお墨付きのカトリックの聖地である。

 

 わが家は、父方の叔母が若い頃にカトリックの洗礼を受け、祖父母の代から親族みなクリスチャンになった。私たちの代はほとんど幼児洗礼だ。しかしと言うか、だからと言うか、熱心な信者とは言いがたい。それでも、仏壇も神棚もない家には、十字架やマリア様の絵がどの部屋にもあった。両親のしつけの根っこには、道徳のようにキリストの教えがあったようだ。

 子どもの頃は教会学校に通わされた。高校生になると、教会で出会う友達も増え、神父様とも仲良くなり、教会は楽しい場所になる。信仰の厳しさもないまま大人になり、苦しいときの神頼みはカトリックの神様にお任せ。クリスチャンだと名乗るのも申し訳ないお気楽な信者だった。

 私が20代後半の頃、当時の教皇ヨハネ・パウロⅡ世が来日する。「空飛ぶ聖座」という異名をとる行動的な教皇だ。2月の小雪が舞う日の午後、東京ドームが出来る前の後楽園球場で野外ミサが行われた。オープンカーで場内を回る教皇に、私たちが「パパさまぁ!」と手を振ると、人懐こい笑顔でこたえてくれて、カリスマ的なアイドルのようだった。 


 

 最近になって、聖地ファティマについて調べてみて、驚いた。この教皇に深い関わりがあることがわかったのである。

 ファティマは、ポルトガル中部に位置する小さな村だった。村の信心深い羊番の子どもたち3人の前に、あるとき聖母マリアが出現した。何回か現れては予言を行い、奇跡を行ったという。大昔の話ではない。時代はほんの1世紀前、第一次世界大戦のさなかのこと。聖母は戦争の終わりを予言する。さらに、教皇の暗殺をも予言した。

 それから64年後の1981年、予言どおりに時の教皇がバチカンで銃撃されるという事件が起きた。その方こそ、ほかでもないヨハネ・パウロⅡ世だった。幸いにも一命を取り留めた教皇は、「聖母のご加護のおかげ」と感謝してファティマを訪れる。暗殺未遂が起きたのは、来日した3ヵ月後の513日。それはファティマの聖母出現の記念日だったのである。

 

 


▲ファティマの街に入ると、マリア様と出会った3人の子どもの像がありました。(小さくてわかりにくいですが、ポールの右側に羊を連れています)







▲十字架を頂く高い塔がそびえるファティマのバジリカは、半円を描くように両側に回廊が伸びている。その屋根には大天使や聖人たちの像が並ぶ。バチカンのサンピエトロ大聖堂を模して造られたそうで、なるほどと思った。

▼バジリカの聖堂内部。



 

 その前には競技場のように広大な広場があり、祭礼の日には10万人もの巡礼者がここを埋め尽くすという。でも、私たちが訪れたその日は、三々五々と人がいるだけで、閑散としていた。




▲バジリカから見て右手、聖母が現れた場所に建てられた「出現の聖堂」がある。ガラス張りの開放的な造りだ。そこには、カボチャ型の王冠を頭に載せた聖母像が、やさしげな表情で小首をかしげて佇んでいる。


▼(写真が撮れなかったので、買ってきた本のページを写したものです)




 大小のろうそくをささげる場所があり、娘と二人で火をともす。▼ 




 バジリカを背にして広場を歩き始める。緩い上り坂だ。遠方からもバジリカの祭壇が見えるようにという工夫なのだろう。

 途中、ヨハネ・パウロ二世の大きな石像があった。パパさま、お久しぶりです。▼

 



▲巡礼者の中には、白い道をひざまずいて祈りながら歩を進める人もいる。



 広場の向かい側には、10年前に建てられた近代的な教会「聖三位一体教会」がある。内部にいくつもの聖堂があり、一日中どこかでミサが行われるそうで、覗いてみると、どの聖堂にも祈る人々がいた。

 残念ながらミサにあずかる時間はなかったが、聖堂に入って祈りをささげた。障害を持つ長男や、道に迷う次男、生きがいをなくした高齢の母、そして、わが身の来し方行く末のこと……。こんなに真剣に祈ったことがあったろうか。私はこのファティマの地で、巡礼者の一人に過ぎなかった。

 

 

 ふたたび広場に戻り、バジリカを仰ぎ見る。もう夕刻だというのに暖かく、冬の西日がベージュ色のバジリカを照らし、浮かび上がらせている。その背景には、澄んだ青空に白い雲がたなびいていた。なんという清らかな世界だろう。

「神様が近くにいるような気がするわ」

 私が呟くと、

「気持ちいいね」と、言葉少なに娘が答えた。

 

 そのとき、鐘の音が聞こえてきた。四時を告げる鐘だ。なぜか私は、そのメロディを一緒に口ずさんでいた。

「アベ、アベ、アベマリアー……」

 ああ、子どもの頃に習った歌だ。こんな遠い場所で、懐かしい歌を歌うなんて……。ここにやって来たのも、あの頃の神様に呼ばれたのかもしれない。

 途中から胸がいっぱいになって、歌えなくなった。






旅のフォトエッセイPortugal 2018(7)飲んで食べて……2018年04月14日




「ポルトガル料理は美味しい」

かねてから耳にしていたので、朝食を楽しみにしていた。時差ぼけのおかげで早起きができ、ゆっくり支度をして地下のダイニングルームに降りていく。

中央のテーブルには、日本のホテルでもおなじみの料理が並んでいた。



その中でも目を引いたのは、分厚いスモークサーモン、真っ黒なソーセージ、ブラウンマッシュルームのバジルソテー。黒いソーセージはイカ墨ではなく、クミンシードの味がしてエスニック風、病みつきになりそうな美味しさだ。帰りの空港の売店にも置いてあったので買いたかったけれど、検閲で引っかかると面倒なので諦めた。

オレンジやトマトのジュースは素材の味が濃厚でフレッシュだ。種類豊富な果物もチーズもしかり。




そして、何といっても、ポルトガル名物エッグタルト。▲

出来立ての絶妙なおいしさと言ったらない。パリパリのパイ生地に、とろりと甘いカスタードクリーム。期待以上だった。


飲み物のテーブルの端に、冷えたボトルを見つけてしまった。スパークリングワインだ。誰に気兼ねすることもない。遠慮なくシャンパングラスについでもらう。

「朝シャンで乾杯!」

すっきりさわやかな味が、意外と朝食に向いている気がする。まるでワインバーのような料理のかずかずとも相性抜群だ。

「養命酒の代わりになるわ」

私は最近、毎回食前に養命酒を飲むようになって、効能書きどおりに少しだけ体調が良くなった気がする。とはいえ、1リットル瓶を持ってくるわけにもいかなかった。

滞在中、毎日の朝シャンは、養命酒以上の効き目で、元気の源となってくれたようだ。石畳の坂道を娘と対等に歩き、夜はぐっすり眠り、疲れ知らずだった。日本から持参した栄養ドリンクも胃薬も頭痛薬も導眠剤も、いっさいお世話にならずにすんだのである。


下の2枚の写真は、リスボンのホテルの朝食。こちらはさらに、柔らかくてジューシーなローストビーフが逸品!




それだけではない。毎朝たいてい一番乗りでテーブルに着き、まずは乾杯に始まって、料理をおかわりしてはたっぷりと食べ、滑らかになった舌で、娘とたくさんおしゃべりをした。結婚2年目のふたりのこと、兄弟のこと、仕事のあれこれ、今後の旅行の予定など、話は尽きなかった。ふだんは、忙しい娘となかなか話すチャンスも作れないのである。

朝シャンのおかげで、思いがけずいい時間を過ごせた。



 

ポルトに2泊した後、市東部のカンパニャン駅から特急列車で3時間、リスボンに移動した。


さすがに首都リスボンは都会だ。観光客も多い。狭い坂道を行き来する人気のトラム28番に乗りたかったのに、乗り場で待てど暮らせどやって来ない。ストライキでもやっているのか、それとも平日は間引き運転なのか。


カモインズ広場を横切るレールの脇、ここにもマクドナルドがあった。


午後3時を回ると、がっつり食べた朝食も消化されて、おなかが空いてきた。ガイドブックに載っていたオシャレなカフェに入る。


▼カフェ・ノ・シアードは、店先をトラムが走っている。風が冷たかったので、テラス席はやめて、店内へ。

初老の男性がゆったりワイングラスを傾けていたり、若いグループが食事をしたりしている。



「ポルトガル人も合コンするのね」と娘。いかにもそんな雰囲気が……。



▲英語のメニューを見てオーダーしたのは、干しダラとキャベツと玉ねぎを混ぜた卵とじ。タルタルステーキの形に整えて、黒オリーブと細いフライドポテトがトッピングしてある。見た目よし、味もよし。

干しダラはバッカリャウと呼ばれ、ポルトガル料理の定番食材だそうで、塩味とタラのうまみが日本人の口に合う。もちろんワインとも合う。


小さなコロッケは、牛肉のミンチ。


 

さてデザート。メニューに「伝統的なお菓子」と書いてある。ウェイトレスにこれは何、と尋ねた。卵と砂糖と小麦粉で作る。とてもおいしい、私も好きだと、拙い英語ながら、熱心に薦めてくれたので、一つ頼んでみる。



運ばれてきたのは、厚めのパンケーキのような焼き菓子だった。真ん中は色が濃く、へこんでいる。ふたりで半分ずつ。ひと口食べると、ああ、カステラの味がする。濃い部分は、しっとりと甘くてほろ苦くて、おいしい! 

ちょうど、カステラの紙にくっついてしまう焦げ茶色の部分の、あの味だ。

子どもの頃、到来物の細長いカステラを、家族で切り分けて食べた。ここが一番おいしいんだよね、と言いながら、紙に付いたのをスプーンでこそげ取って食べたっけ……。


「ポルトガルってなぜか懐かしいのよ」

そう言った友達の言葉が浮かんできて、急に涙が出そうになった。


 




旅のフォトエッセイPortugal 2018(6)コインブラへ~後編~2018年03月30日




▲この立派な建物の内部が、ジョアニア図書館になっている。18世紀初頭に造られたという。

以前にも紹介した内部の様子。(絵葉書です)▼


 

ところで、前回も書いたが、ハリー・ポッターの著者J.K.ローリングは、おそらくここコインブラにも訪れているに違いない。

ゴージャスな図書館のインテリアも、学生たちが今なお身につけている黒いマントも、ハリー・ポッターを彷彿とさせる。旧大学にはほとんど学生がいないので、一人だけ黒マントを見かけたが、写真は撮り損ねた。

 

大学のバルコニーから見下ろすと、茶色い旧カテドラルが見える。大学を出て、そちらに向かった。▼



 ▲旧カテドラルの正面。12世紀建立のロマネスク様式。

回廊も残されている。▼



 


歩き続けていたので、さすがにおなかが空いて、カテドラルの前のカフェで一休み。サングリアとエッグタルトのランチ。おいしい。



 

電車の時間もあるので、ふたたび、石畳の坂道を下りていく。

深い時を刻んだ家々のたたずまいに魅了される。




 キリストの画像のアズレージョ。▲


こちらの玄関は、聖アントニオの画像。▼




このお菓子の家のような建物が、銀行とは!▲

わが家の近くにあったら、毎日お金を預けに通ってしまいそう。




   〈次回は、食べて飲んでのお話です〉


旅のフォトエッセイPortugal 2018(5)コインブラへ~前編~2018年03月22日




コインブラには、ヨーロッパでも屈指の古い歴史を持つコインブラ大学がある。ポルト滞在の2日目にはそこを訪ねることにしていた。長距離バスで1時間半ほど。バスターミナルの場所も地図で調べた。

シャンパン付きのおいしい朝食をたっぷり取り、快晴の空を見上げながら、気分よく出かけていった。

ところが、歩いて5分ほどの距離にあるはずのバスターミナルが見当たらない。ようやく奥まったところにバスの発着所があって、ほっとする。

「看板の一つも出しておけばいいのに」と、一言文句が出た。

 

止まっていたバスの運転手に、コインブラ行きのバスに乗りたいのだけど、と尋ねると、ない、と言う。どうやら廃止になったらしい。

前日のワイナリー見学にしても、バス路線にしても、日本のガイドブックはあてにならないということだろうか。まして、シーズンオフの観光客は、現地の観光案内所を訪ねるべきなのかもしれない。

さて困った、どうしようか。

運転手の男性は、ポルトガル語で何か説明してくれている。彼は伝わるようにと、2度、3度繰り返した。すると、地図を見ながら聞いているうちに、彼の言うことがすべて理解できたのだ。

「この道をまっすぐに行けば、地下鉄のカンポ・ヴィンテクワトロ・デ・アゴスト駅がある。そこから二つ目のカンパニャン駅まで乗って、カンパニャン駅からコインブラまで電車で行きなさい。1時間で着く」

ツアーだったら、バスの廃止もあり得ないし、雪で遅れるフライトに肝を冷やすこともないのだろう。そのかわり、こんなふうに言葉も通じない現地の人の親切に救われる、小さな感動のハプニングもないのだ。

「サンキュー! オブリガーダ!」

私たちも何度も繰り返して、地下鉄の駅に向かった。

 

▼そうして、たどり着いたコインブラの駅舎。(午後3時、大学からの帰りに撮った写真)


モンデゴ川に沿って歩くと、ポルタジェン広場に出る。▲


コインブラ大学は小高い丘の上にある。ここから、石畳の坂道をいくつも登っていく。賑やかな商店街を避けて、あえて住宅街を抜ける近道を選んだ。








 

コインブラ大学に到着。これは旧大学。世界文化遺産にもなっている。




ジョアン3世の像。

ここに初めて大学がおかれたのは13世紀初め。その後も、リスボンに移ったり戻ったりしたが、16世紀、時の王ジョアン3世が改めてここに礎を築き、現代にいたっているという。


時計塔。定時には鐘が鳴り響く。▼



鉄の門。かつては鉄の扉がついていた。中庭側から見る。

この向こうに、新大学の現代的なビルが並ぶ。現役の大学としてもポルトガル随一の名門である。

外側から見ると、こちら。つまりここが入り口となっている。当時の王の像や学問にかかわる女神像が飾られている。▼



大学内のサン・ミゲル礼拝堂は、17世紀から18世紀にかけて美しい内装が施されたという。天井も壁も、オルガンさえも、きらびやかな金泥細工と鮮やかなアズレージョ(タイル模様)に目がくらむ。▼






学位授与などに使われた帽子の間。もとは宮廷の広間だったそうで、装飾も施されているが、修復中で内部には入れなかった。▼





 

モンデゴ川の悠久の流れ。

赤茶色の屋根に降り注ぐ暖かな陽光。

穏やかな空気。

心地よく解放感に満たされていく。


                   〈次回に続く〉

 

 




旅のフォトエッセイPortugal 2018(4)ハリー・ポッターのふるさと、リブラリア・レロを訪ねて2018年02月28日

 


ハリー・ポッターは英国生まれだと思っていたら、意外なことにポルトガルにもふるさとがあったのだ。

物語の作者J.K.ローリングは1990年代、ポルトに3年ほど住んでいたそうだ。ハリー・ポッター・シリーズの第1作目を世に出す前で、『ハリー・ポッターと賢者の石』は、ポルトで書かれたという説もある。

ポルトの商店街に並ぶ小さな書店、リブラリア・レロは、彼女がここで着想を得て「ホグワーツ魔法学校」の図書館を描いた、と言われている店である。

 

その後、2008年には、イギリスの新聞ガーディアン紙が選ぶ「世界で最も素敵な10の書店」の第3位に輝いた。

これは、ぜひとも行ってみたい。

 


▲クレリゴス教会の近くにあり、外から見ても見飽きない愛らしさだ。

狭い間口には、シーズンオフのこの時期でも、観光客がひっきりなしに訪れている。2軒先のチケット売り場で4ユーロの入場券を買う。本を購入すれば、その分は代金から差し引かれるとのこと。

 

この書店は、1906年にレロとイルマオンという二人の人物によって建てられた。当時19世紀末から20世紀初頭にかけては、ヨーロッパ各地に、既成の価値観にとらわれない新しい芸術文化の湧きおこる気運があった時代。彼らもまた、その時代にあって、文明の進歩を享受し、知的文化の発展につながる書店の創設に、情熱を燃やしていたに違いない。

この店舗も、当時のネオゴシックからアールヌーボー、アールデコなどの装飾が余すところなく施されている。


▼狭い扉を入ると、まず天井の美しさに見とれる。手の込んだ木彫だ。

 



▲中央のシンボル的な階段は、その美しさから、「天国への階段」と呼ばれている。階段の裏側一段一段にも植物の文様が施されている。

私には、ドラゴンが大きな口を開けたように見えるのだけれど。

 

見上げれば、2階の天井には明るいステンドグラスが。▲





2階から見下ろすと……▼


▲床に2本のレールが埋めてあり、今でも本を運ぶのにトロッコが使われていた。




▲店内のスケッチ画を表紙にしたノートや、しおりもたくさん売られている。


この書店は、創設当初の気運を現在にもつないで、書店として一般図書の営業を続けている。その一方で、時代を超えた今もなお、当時の店舗が訪問客を魅了する。一人の無名の作家を世に送り出すほどの魔力に満ちているというわけだ。


私も、J.K.ローリングになったつもりで、気の向くままに店内を歩いてみたけれど、何のインスピレーションもわかなかった。(いやいや、エッセイのネタぐらいは拾えたかも??)

それでも、遠く日本から丸一日かけてやってきて、この不思議な空間に身を置いている自分が、不思議だった。

果たして、ホグワーツ魔法学校の図書館がこの書店に似ているかどうかはわからない。でも、J.K.ローリングが心を揺り動かされて着想を得た、というのは真実だろうと思う。

ハリー・ポッター・シリーズは全巻わが家の本棚にそろっている。帰ったら、もう一度読み直してみよう。魔法学校の図書館のくだりを読んで、ポルトのこの店を思い浮かべることができるだろうか。

 

▼せっかく本代として使えるという入場料だから、おみやげを買った。

写真集[PORTO graphics15ユーロと、小さなノートが5.9ユーロ。罫線もないはがき大のノートが800円以上もする。概してヨーロッパの文房具は高い。それでも、私は買う。旅人の一期一会の思いをこめて。 

 


ところで、ポルト散策の翌日は、電車で1時間、コインブラ大学を訪ねた。

ヨーロッパの中でも、古い歴史のある大学で、創立は14世紀初頭にさかのぼるという。

この大学の図書館がすばらしい。18世紀に建てられたそうで、内部は華麗な金泥細工が施され、高い天井までびっしりと設えられた書棚には、30万冊を超える蔵書が収められている。

古い匂いがする。おそらく、日本と違い、湿気も少ないから、かび臭いというのとも違う。長い歴史を持つ歳月の粒子が立ち込めている……そんな雰囲気だ。

この図書館こそ、ハリーの魔法学校の図書館を彷彿とさせるではないか。立てかけてある長い梯子たちが、今にも動き出しそうだ。後ろの扉から、ハリーやハーマイオニーたちが、顔をのぞかせる気がした。

 

▼内部は撮影禁止なので、絵ハガキを買った。

(似ていると思いませんか)





コインブラの街も素敵だったので、また次回に。

 

 リブラリア・レロのホームページでは、360度の視界が動画で見ることができます。




旅のフォトエッセイPortugal 2018(3)ドン・ルイスⅠ世橋を渡って2018年02月15日

 




ポルトは、大西洋に注ぐドウロ川の北岸に街が広がり、南岸には古くからワインセラーが立ち並ぶ、ヴィラ・ノヴァ・デ・ガイアと呼ばれる地域がある。

この国に来てポートワインは外せない。代表的な「サンデマン」というワインセラーを見学しようと、向こう岸へ向かう。

ドン・ルイス一世橋を歩いて渡るのである。



 

この橋は二層構造で、上層は北側の高台から南側の高台まで、長さ約400メートル、どーんと鉄のアーチの橋がかかっている。下層の橋は水面に近い位置にあって、車と人が通る。

 

どこかで見たことがあるような……と思ったら、19世紀後半、パリのエッフェル塔を手掛けたギュスターヴ・エッフェルの弟子が造ったそうだ。当時の最先端技術を用いた鉄橋なのだ。アーチの感じが似ている。


驚いたことに、上の橋には幅8メートルの道路上に線路が敷いてあって、地上45メートルというこんな高い場所を、なんと地下鉄が路面電車となって走っているのだ。しかも、同じ道路を人も通行する。


 


 

歩いてみると、足元には隙間があり、下が見えるではないか。手すりも低くて怖いこと怖いこと。下半身がぞわぞわする。

事故が起きたりしないのだろうか。日本だったら、歩道が仕切られて、高いフェンスが必ずあるだろうに……、などと独り言ちて気を紛らわしながら、なんとか渡りきった。


眺望はすばらしい……のだけど。▼


 ▼ヴィラ・ノヴァ・デ・ガイアには、赤茶色の古い瓦屋根が並び、それを見下ろしながらロープウェイも動いている。



かつて、ワインを運び出すのは川を上る船だったから、建物は皆、川の方を向いて建っている。

橋から川べりまで坂道を下りてくると、SANDEMAN の裏返しの文字が屋根の上に突き出て見えた。もうすぐだ。


ところが、お目当てのワインセラーは、やっていなかった。手前にあるレストランに尋ねても「クローズド」の一点張り。シーズンオフだからだろうか。ガイドブックには、冬期の見学時間まできちんと書かれていたのだが。

 

諦めて、そこで早めの夕食をとることにした。時差のせいで、この日は1日が33時間の長丁場だというのに、恐怖の橋渡りでエネルギーを使い果たしてしまった。

エビ・魚・ベーコンの串焼きと本場のポートワインは、そんな疲れを吹き飛ばすのに十分過ぎる美味しさだった。



▲日本の居酒屋にいるおにいさんという感じ? この30センチもありそうな串に刺して焼く。2本で一人前。もちろん2人で食した。


▲お皿の上のほうに写っている黄色いのは、甘くないサツマイモのようなお芋。魚はmonkfish だという。アンコウの一種らしいけれど、柔らかくておいしかった。

 

 


帰りは、下の橋を渡った。ちょうどその場所からケーブルカーが斜面を上っている。思いがけず楽ができて、しかもライトアップされた夜景も楽しめてラッキーだった。




旅のフォトエッセイPortugal 2018(2)ポルトの街で2018年02月10日

 



まず降り立ったのは、ポルトガル北部に位置するポルトである。

ポルトガルという国名の元になったほど、国の要所として古くから栄え、歴史ある町。日本人にとっては、ポートワインでおなじみかもしれない。

 

空港に迎えの車を頼んである。ただし、ドライバーは現地語しか話さないという。ゲートを出ると、横文字の私の名前がすぐ目についた。それを掲げているのは口髭の小柄な男性だった。もちろん何を言っているのかチンプンカンプン。二人のスーツケースを軽々と運んで、車に乗せてくれた。

冬とはいえ、緑の街路樹や公園も多い。大きな建物があると、ドライバーが指さしてナントカカントカ、と名前を教えてくれる。

「イングレッシュ? ああ、イグレーシャ、教会のことね」と英語で答えると、「シー、シー!(そうそう)」。

その言葉がガイドブックの地図にあったのを思い出してピンときたのだ。彼のポルトガル語と私の英語が通じ合う……!

赤信号で止まると、彼は後ろを向いて、何かしきりと言っている。ぽかんとしていると、自分の財布を取りだして指さし、ポルト・ナントカカントカ。今度は自分の目を指して、ナントカカントカ。

「わかった! ポルトはスリが多いから気をつけなさい、ね?」

「シー、シー!」

 横で娘が、「お母さん、よくわかるねー」と尊敬のまなざしを向ける。

「会話はね、ハートよ」

ポルトガル語、恐れるに足らず。

 

30分ほどでホテルに到着。フロントの若い女性がまくしたてる英語のほうが、よほど難解だった。

日本でも、「朝食は7時から10時まで、1階奥のレストランへどうぞ。大浴場は3階でございます、午後2時から11時までご利用いただけます」などとペラペラと言われると、もう1回言って、と言いたくなる。毎日同じことをしゃべっているから、心がこもっていないのだろう。



 

時はお昼過ぎ、ポルトの街に繰り出した。曇り空だけれど、暖かい。手袋もマフラーもいらない。

ホテルは旧市街の中心にあり、辺りは賑やか。行きかう人々が、こちらを見る。けっして冷たい感じはしない。東洋人の女性二人連れはそれほど珍しいだろうか。確かに、観光シーズンでもないこの時期、あまり日本人は見かけない。


予習してきたとおり、起伏が多い。ほとんどが石畳の坂道だ。

クレリゴス教会を目指して、古い建物が立ち並ぶ坂道を上っていく。

 



振り返って見下ろせば、今歩いてきた道の、そのはるか先には別の教会の塔が見える。胸のすく眺めに、疲れも吹き飛ぶ。坂があるからこそ、景観も良くて風情があるのだ。

日本からはるか遠くのこんな場所で、「高低差ファン」を自称するタモリの顔が浮かんだ。



▼坂を上りきったところにそびえ立つクレリゴス教会。18世紀に建てられた。内部は、当時の経済力を物語るように、絢爛豪華なバロック様式だ。




 


 

▲教会の裏手には高い塔もある。76メートルあり、国内でも一番の高さを誇るとか。上まで登れば、当然、眺めも素晴らしいのだそうだが、225段のらせん階段と聞いておじけづき、明日にしようね、ということに……。




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