ニーハオ、上海!:③一番のお気に入りは、ここ ― 2024年12月16日
「上海に、世界一大きいスタバがあるらしい。行ってみようよ」
「え、スタバなんて日本にだってたくさんあるじゃない」
上海の街を歩けばどこにだってスタバはあるし……、ただ大きいというだけでわざわざ見にいくの? とあまのじゃくな私は思いました。
が、しかし。
午後の便で帰国という日の朝、早起きして8時の開店に合わせて行ってみたら、いつも行列ができるらしいけれど、平日ということもあって、お客さんは少ない。
しかも、一歩中に入れば、フレッシュなコーヒーの香りに満ち満ちている。
スタバなんて東京にだってあるし……と思っていた私は、大まちがい!
ワンランク、いえ、ツーランク上の店舗だったのです。

スターバックス ・リザーブ・ロースタリー(Starbucks Reserve Roastery)という名称で、2014年にアメリカのシアトルに1号店ができて、上海には2号店として2017年に完成。南京西路駅のすぐそば、目抜き通りの角地にあります。
2階建ての広さは2,700㎡あるそうで、普通の店舗の10倍近い印象です。(もっとかも?)
大がかりな焙煎機の装置があり、自家製パンやケーキも店舗内で焼き、お茶の販売も、さらにはアルコール類をおくバーまであり、スタバグッズの種類も充実の品ぞろえなのです。
▼内部は、天井も、椅子もテーブルも、ほとんどが木材。


ここが焙煎工房▲

パンの販売コーナー▲ 店員さんたちはみな、それぞれ好みの帽子をかぶっていてオシャレ。デニッシュパンからクロワッサンサンドやピザまで、たくさんの種類が並んでいます。出来立てで本当に美味しそう。

迷い迷って、やっぱり大好きなデニッシュをチョイス。レーズン・ピスタチオ味と、シナモンロールを娘と半分こして食べました。どちらも直径15センチほどで、ボリュームもおいしさも満点。ちなみに1つ630円ほど。シナモンアップル・マキアートと一緒に。
クロワッサンサンドは普通のソーセージときゅうりのサンドで、1050円。店内で淹れ立てのブレンドコーヒーは3杯分たっぷりポットに入っていて、お値段1600円ほど。
決して安くはないけれど、上海最後の朝食として、思い出に残りました。

2階に上がる階段を下から見上げて一枚▲
吹き抜けになっているので、2階から1階を見下ろすこともできます▼
2階にはバーやお茶のカウンターがありました。


▲充実のグッズたち。早くもクリスマスの飾りも。
ゆっくりと店内を見て歩き、写真をシャカシャカと撮り、出来立てパンの朝食をいただいて、しっかりと自分用のおみやげも買いました。
上海限定のタンブラーは、上海の人気スポットのかわいいイラストが。


さらに、オリジナルのプリントもオーダーできるというので……▲
ちなみにタンブラーの写真は、帰国してすぐに稲城教室があり、その時に稲城のスタバで撮りました。もちろん、中には熱々のコーヒーが入っています。
思いがけず、素晴らしかった。
ここの魅力は、広さや美味しさだけではなく、アメリカや日本のスタバにはない、上海ならではの魅力そのものなのかもしれない。伝統に胸を張る一方で、新しいものもすかさず取り入れて、前に進んでいこうとするこの街とその人々。そんな印象を持ったのでした。
上海の最後に訪れて、イチ押しの場所となりました。
ニーハオ、上海!:②上海の美味しいものたち ― 2024年12月08日
中国初上陸で、中華料理は大きな楽しみのひとつでした。
そんな親の思いにこたえようと、娘があれこれ考えて選んで、必要なら予約も入れておいてくれました。
夜に到着して、翌朝はまず街に繰り出して朝ごはんです。8時ごろでも下町風の商店街はすでににぎわっていて、湯気の上がる店もありました。営業は朝だけという店もあるそうです。
中国では女性も仕事に出るので、朝ごはんを家族そろって自宅で食べるという習慣はあまりない、と聞いたことがあります。
娘のおススメは、焼き小籠包。小籠包なら日本でも食べたことがあるけれど、この〈焼き〉が美味しいのだとか。目星をつけておいたという店を目指します。
新装開店の店には行列が▼


▲肉屋の店先で、ハガキより大きいぐらいの包丁で肉を切り分ける(というより、ぶった切るという感じの)人、それを見守る人たち。

これが、焼き小籠包。大きな鉄板のような鍋で転がして焼き、ゴマとねぎをトッピング。
調理は店の奥ではなく、道路に面したガラス張りの調理場。女性が何人もいて、せっせと手を動かして、作っていました。
店内は、ちょっとレトロな雰囲気。一人で朝ごはんを食べている男性客が多かったです。


アツアツのところに、お酢の利いたタレをつけて食べます。まあ、美味しいこと!
初中国の初シャオチー(軽食)は、本当にハオチー(美味しい)。忘れられない味になりました。
11月といえば、上海蟹のシーズンです。この貴重な時期に行くことになったのは、ラッキーこのうえなし。2日目の昼食に、新光酒家という人気のお店へ。






カニ丸ごとよりも、むき身の料理がとても美味しい。アスパラと炒めたり、ソースと絡めたり。とくに、パクチー大好きな娘と二人で、山のようなパクチーと大豆と炒めたような一皿、ぺろりと堪能いたしました。
もちろん、陶製のボトルに入った紹興酒も、毎日飲んでいたあっさりしたチンタオビールも、大変おいしゅうございました。
3日目のランチは、ミシュラン2つ星の中華料理店へ。
喜粤8号/CANTON 8という元は香港料理のシェフが、上海らしい広東料理にアレンジした高級店だそうで、娘の一押し。
下町のようなごみごみとした地域に、タクシーでたどり着きました。



店構えはこざっぱりとして、従業員の制服はちょっとおしゃれ、食器類もちょっとあか抜けている印象で、お客さんたちも、いかにもちょっと……という雰囲気。





フランス料理でおなじみのオマールエビは、くどいホワイトソースではなく、あっさりとやさしい味で、エビのうまみがよくわかります。
ありふれた酢豚とはいえ、今まで食べた中で一番! 周りはカリッと、中はジューシー。プロの味です。
たかがチャーハン、されど広東料理のチャーハンは逸品でした。
広東料理の特色は、甘辛醤油味。それが濃すぎずまろやかで食材本来の味をしっかり残していて美味しい。
私は四川料理のような辛すぎるのは苦手だけれど、一切それを感じませんでした。

ただし、最後のデザートのこれは!
お汁粉のようです。確かに小豆で作られています。が、ひとさじ口にすると、ほんのりと甘い小豆の味の最後に、舌の奥に柑橘類のピールのような苦みが残るのです。「私の体の半分はお砂糖でできている」と豪語するスイーツ大好きな私ですが、どうしても食べきれず、残しました。ごめんなさい。デザートを残すなんて、生まれて初めてかも。
ちなみに、このレストランは、2年前に銀座に上陸したとのこと。懐かしくなったら、行ってみようかと思ったり、いやいや上海だったからこそ美味しかったのだと思いとどまったりしています。
どうせなら、ふたたび上海へ……というのがいいかな。
(③に続く)
ニーハオ、上海!:①びっくり7選 ― 2024年11月22日
「南フランスの旅のフォトエッセイ」も中断したままだし、前回の投稿がちょうど同じ日付の10月22日。1ヵ月もご無沙汰しておりました。娘の駐在先の上海へ行っていたのです。準備にも、帰国後の忙しさも、目の回る1ヵ月でした。
初体験の中国です。まず観光とはいえ、ビザが必要で、申請も受け取りも江東区有明にある中国ビザセンターに出向き、それぞれ狭い部屋で2時間半待たされました。それだけで気持ちが折れそうでした。
とはいえ、娘がどんな場所でどんな暮らしをしているのか、この目で見てこよう。そんな強い思いで、夫とふたりで、かの地へ向かいました。
娘が上海に行くことになったいきさつは、2021年2月10日の記事につづっていますので、そちらもお読みいただけたらうれしいです。
コロナ禍の真っ最中に単身赴任してから早くも3年半。娘もさることながら、聞きしに勝る中国とそこに住む人々のおもしろさに圧倒されるやら呆れるやらの5日間でありました。
びっくり・その1
まずは初日、仕事帰りの娘が空港に迎えに来てくれるので、夜に到着。出口で待っていた娘は、タクシードライバーと電話でやりとりしています。もちろん、中国語。彼女が中国語を話すのを初めて聴いたので、まずびっくり。3年半も暮らしてきたのだから、当たり前だとはわかってはいても、感動してしまったのでした。
その2
彼女のひとり暮らしの住まいが立派なのでびっくり。26階建てのホテル兼レジデンス。週2回お掃除が入ると聞いてはいたけれど、要するにホテル住まいだから、タオルも寝具も取り換えてもらえる。キッチンや大きな冷蔵庫はあっても、ほとんど外食だとか。広い寝室もバスルームも2つずつあって、私は高級ホテルのシングルルームに泊まった気分。ああ、うらやましい。(と私が言うのがわかっていて、これまで娘は詳しく話してくれなかったようです)

その3
まあ、街中の賑やかなこと。車はクラクションをブブブーと鳴らして走り、バイクは歩道さえもビービー鳴らしながら通行人を縫うように走るのです。これにはいつもびくびくして歩いていました。
人々は大きな声で会話をします。近くの人とでも。まるでけんかしているみたい、と言われるとおりでした。
その4
上海は都会ですから、人口も多い。その混み具合は、東京とあまり変わらないでしょうか。ただ大いに違うなと思ったのは、どこを歩いていても、人がよけてくれないこと。いつも向こうから突進してくる人をこちらがよけている、という感じがしてなりません。こちらを人間として見ていないの? 物体のように思ってる? ……とすら思えてくる。娘もそうなのよ~と同意。日本なら、どちらからともなくぶつからないように自然と身をかわすのに。
とはいえ、あちこちでぶつかって倒れる人もいないので、うまくすれ違っているのでしょうね。ひと月もすれば慣れるのかもしれないけれど、新参者としては戸惑うばかりでした。

▲南京東路・西路と呼ばれる繁華街。いつでも歩行者天国でにぎわっていました。
その5
同じように、地下鉄の中でも、当たり前のように電話をしています。しかも、スピーカフォンで、相手の声まで聞こえてくる。これもまた日本ではありえない。
みんながみんな同じようにしていて、お互いさまだから?
話し声も大きいから、電話だって同じ?
「車内ではお静かに」というマナーはないのかもしれません。

その6
さすがに中国は、日本の先を行くIT社会です。
まず、出発前に娘の指示どおり、中国のAlipayというアプリをダウンロードして、アカウントの初期設定をしました。中国の人民元で支払いをするためのアプリで、娘が夫と私のそれぞれのアカウントに、滞在中に使う程度の人民元をチャージしてくれました。手持ちのクレジットカードも登録すれば使えますが、その都度3%の手数料がかかるので、使ったのはチャージした元だけ。地下鉄に乗るときも、改札口にQRコードをかざすだけで、アプリから電車賃が支払われます。買い物の支払いも、店頭で同様にQRコードだけで決済が完了します。
結局、滞在中は中国の紙幣も小銭も、現金には一切触れず、目にもせず、でした。
タクシーにも何度も乗りましたが、すべて娘がアプリで手配。近くのタクシー乗り場を指定すると、利用する車のナンバーや、あと何分で来るかもわかり、安心して待っていればいいのです。
日本でもたまに「GO」のタクシーを利用しますが、それより進歩していて便利なように感じました。
ちなみに電車賃もタクシー料金も、およそ日本の3分の1程度でした。
なんともかわいかったのは、娘の住むレジデンスのロビーで、充電しながら待機している青とピンクのロボット2体。日本でもファミレスなどで料理を運んでいるのを見かけるようになりましたね。
このビルでも、ときどきエレベーターに乗っていたり、扉が開くと降りてきたりして驚いたものです。ビルの玄関先まで届けられた居住者宛ての配達物を、従業員が受け取り、ロボットたちに指令を出すと、それを間違いなく部屋のドアの前まで届けるのです。娘も熱々のご飯や通販での買い物など、しょっちゅうお世話になっているようです。
ちなみに、彼らの名前は、トムとジェリーですって。かわいい働き者たちでした。
その7
こうやって、驚いてばかりの初めての異国を、中国語しか通じない街で、老夫婦ふたりが迷子にもならず、けがもせず、(当局に捕まりもせず?)歩き回れたのは、ひとえに娘のおかげです。
思い起こせば、3人の子どもたちが小さい頃、私たち親は苦にもせずに車を運転したり、電車に乗せたりしては、あちこち連れて行ったものです。
それが今、まったく立場が逆転してしまった。感無量の思いです。娘がここまで成長したのも、親の力なんてほんのわずか、自分の努力と我慢をたくさん積み重ねてきたからだと、私は思っています。
立派になったね。ほめてあげたい。
☆びっくりの番外編です!

★次回は、美味しい中国料理のかずかずや、上海の人気スポットなど、たくさんの写真とともにアップするつもりです。お楽しみに!
南フランスの旅のフォトエッセイ:⑩エズ村のフォトアルバム ― 2024年09月16日

▲エズ村のマグネット。底辺が5㎝ほど。
コート・ダジュールには、切り立った崖や岩山の上に、小さな村がたくさん見られます。ちょうど鷲の巣が連なっているかのようで、「鷲の巣村」と呼ばれるようになったとか。
前日に、ステファニーさんに連れていってもらったサン・ポール・ド・ヴァンス村もそのひとつ。
中世の頃から要塞として作られたり、お城が建てられたりした所に人々が住むようになったそうです。
南フランス3日目は、なかでも一番人気のエズ村をふたりで訪ねました。
ステファニーさんの著書『ニースっ子の南仏だより12ヵ月』によると、第二次世界大戦後、村長の発案で、高台のお城の跡地に、熱帯植物園を作ろうということになった。観光客誘致のためです。そうはいっても、石畳の細い坂道や石段ばかりの村に、重機は入れません。それでも断念することなく、男性たちが人海戦術で重い土の入った袋を背負って運んだのだそうです。

エズ村の地図▲(見づらくてあまり役に立たなかったのですが……)

城壁を潜り抜けて歩いていくと、トンネルの先に……

白い炎のような満開のジャスミンが、家の入口を覆いつくしていました。今でも甘い香りがよみがえってきます。




熱帯植物園に入ると、歩道の両脇にはサボテンなどの珍しい植物が所せましと植わっています。
植物たちは、人の手入れも行き届き、太陽の光の恵みと地中海の風とで、すくすくと幹を伸ばし、枝を広げ、花をつけ、実をつけ、はるか遠くの国から訪れた私たちを出迎えてくれました。







造園当時の人びとの苦労のかいあって、世界中から観光客がやって来ています。絶景とともに、なかなかに見ごたえのある植物園でした。



標高430mほどの絶景。急斜面なのでちょっぴり怖い……。
城壁の辺りまで下りてきて、ほっと一息つけました。

エズ村を出た所に、フラゴナールのお店がありました。
1926年創業の、フランスの香水の老舗です。パリに行ったときには必ず買い物をしてきました。
商品の香水瓶のように、店舗のガラスにライラックの花の絵が描かれています。▼

今回もたくさんの種類から迷いに迷って買ったのは、ザクロのオードパルファム。くせのないまろやかな香りです。
同じ香り、同じパッケージのハンドクリームも買ってみました。

南フランスの旅のフォトエッセイ:⑨シャガール美術館へ ― 2024年08月28日
ステファニーさんのガイドツアーが終わって、ディナータイムにはまだ少し時間があったので、シャガール美術館まで送ってもらいました。

マルク・シャガールは、1887年、ロシアのユダヤ人の家庭に生まれます。画家を志して美術学校に通い、20世紀になると、芸術家の集まるパリへ。
しかし、世の中は第二次世界大戦のただなか、ユダヤ人である彼はナチスの迫害を受け、アメリカに亡命するのです。
戦後、フランスに戻ると、フランス国籍を取得。ニース郊外のサン・ポール・ド・ヴァンスに居を構えます。
やがて、当時の文化大臣アンドレ・マルローと親交を持つようになり、パリのオペラ座の天井画制作を依頼され、1964年に完成させました。
私はもう何年も前のこと、パリを訪ねた時、どうしてもシャガールの描いたその天井画が見てみたいと思った。でも見学のチャンスがなく、頼み込んで楽屋の小さな窓から、こっそりと覗き見させてもらったことがありました。いつ、誰と、どうして……はもう記憶にないのですが、シャガール独特のふわふわしたブルーの色調が、重厚な建造物の一部となっているのが垣間見えました。
また、1966年には17点に及ぶ『聖書のメッセージ』の連作も、フランス国家に寄贈しています。
マルローは、この連作をはじめとしたシャガールの作品を展示する国立美術館を造ることに尽力し、1973年、ニースのこの地に建設したのです。
その後もシャガールは1985年に亡くなるまで、この美術館に作品の寄贈を続けたそうです。

さてその日、チケット売り場で入場券を買おうとすると、
「本日は無料です」
と言われました。ほとんどの作品が、どこかの町か外国か、展覧会にお出かけ中で、少ししか残っていないそうで……。
なんという不運でしょうか。それでも「館内に入ることはできる」というので、入りました。


小ぢんまりとしたコンサートホールの壁面にはステンドグラスがあり、ステージに置かれているのは、彼の絵が施されたグランドピアノです。このピアノの音色からは、画家の魂が響いて聞こえるのかもしれませんね。
さらに、『聖書のメッセージ』の大作がずらりと並び、残り時間が少なくて、心残りでした。本当に無料では申し訳ないくらい。こんなにたくさんの大作に会えるなんて、不運どころかラッキーだったのでしょう。どの絵も、2メートル、3メートルという大作なのです。

▲「人類の創造」

▲「楽園」
縦が2メートル、横が3メートルほどの大きな絵です。

▲「アブラハムと三人の天使」
この絵はどこかで見たような……と思いました。それは私が持っている手のひらサイズの小さなカードでした。
この絵は15世紀にロシア人の画家が描いたもので、ロシアには古くからイコンという宗教画の歴史があり、シャガールもその影響を受けているといわれています。三人の天使の顔の向きも似ているし、テーブルについているというのも同じ。画家はきっとこの絵から着想を受けたのでしょう。
彼が描いたのは、旧約聖書の創世記のお話です。後ろの青い服の男性がアブラハムで、左の女性が妻のサラ。夫は100歳、妻90歳の老夫婦なのに、天使たちは「来年男の子を授かる」と神のお告げを伝えるシーンです。
私が持っていたカード。ルヴリョフというロシア人画家による「三位一体」。▼


▲「イサクの犠牲」
神様のお告げのとおり、1年後にサラは男の子を生み、お告げに従って、イサクと名付けます。それがこの絵の横たわる人物です。神様はアブラハムの信心を試すために、「イサクをいけにえとして捧げなさい」と言われます。(なんということを!) しかし、アブラハムは神を恐れ、神に従うのです。最愛の息子を薪の上に寝かせ、その胸にナイフを突き立てようとした瞬間、天から「わかった、もういい。何もするな」という声が聞こえてきて、イサクの命は助かったのでした。
アブラハムがどれほど苦しみ、そして、安堵したことか。赤く燃えるような血の色が、アブラハムの心からにじみ出ているような絵です。
まだまだ他にもありましたが、
「閉館の時刻です!」というアナウンスに、追い立てられるように展示室を後にしました。

広い敷地に緑あふれる庭も、木陰の小さなカフェも、次の機会にはゆっくり立ち寄りたいと思いました。▼

【⑩エズ村】に続く
南フランスの旅のフォトエッセイ:⑧サン・ポール・ド・ヴァンス村のフォトアルバム ― 2024年08月17日

マティスの礼拝堂を見た後、最後に訪れたのがサン・ポール・ド・ヴァンスという村でした。小高い丘の上にあって、古代ローマ時代から中世にかけては要塞として何度も城壁が築かれたそうです。
やがて19世紀になると、温暖な気候や景観のすばらしさから、多くの人が訪れるようになり、芸術家や作家たちも住みつくようになりました。
マルク・シャガールもそのひとり。20年もここで暮らし、村の墓地に葬られています。(残念ながら、お墓参りはできませんでした)
ちなみに元フジテレビアナウンサーの中村江里子さんも、この村出身の男性と結婚し、ここの教会で挙式をしたそうです。
石畳の坂道、階段、古い石造りの壁も家も、たくさんの植物や花たちをまとって、とてもオシャレなたたずまい。ため息が出ました。
そんな写真をご覧いただきましょう。
城壁のトンネルをくぐって、村の中へ。石畳まで美しい。


芸術家の村らしく、アートを扱う店も多くみられました。



わきの階段を下りると、遠くの景色も見下ろせます。

ブーゲンビリアも花盛り!



写真屋さんの壁には、ピカソの写真パネルのほかにも、スティーブ・マックイーン、アラン・ドロンなど、往年のスターたちが飾ってありました。懐かしい。


この水道のお水は飲めます。



専属モデルのHiromiさん(笑) ジャスミンの咲き誇る家の前で。
入り口の広場まで下りてきました。

白い日よけの下には、たくさんの出店が並びます。


▲自分でこしらえた手芸品のかずかずを売る女性。
ステファニーさんによると、フランス人は手作りを高く評価するので、買い手は値切ったりしないそうです。鉢カバーを買おうかと迷ったけれど、なにしろ円安でユーロが最高値の頃だったので、思い留まりました。
広場のカフェで、クロックムッシューを食べました。写真も撮らずに食べてしまいましたが、パンもチーズも、ガツンとくる美味しさでした。
ステファニーさんの著書を持参して、カフェのテーブルでサインをしてもらいました。
Merci beaucoup!

南フランスの旅のフォトエッセイ:⑦プロヴァンスのパリオリンピック ― 2024年08月07日
そもそも、南フランスに出かけるのを6月にしたのは、ふたつの理由がありました。
日本ではなんといっても6月は梅雨の時期。あまりいいイメージはなく、旅行にも不向きですが、ヨーロッパは反対に、晴れてさわやかな日が多く、年間でも一番いい季節。たくさんの花がいっせいに咲いてきれいだそうです。
ジューンブライド(6月の花嫁)は幸せになれるという伝説が今でも支持されているのは、神話の女神の言い伝えだけではなく、この良いお天気が続いて挙式にふさわしいからなのでしょう。
そんな6月にヨーロッパを訪れたことがないので、一度6月に行ってみたいと思っていました。
プロヴァンスといえば、あの紫色のラベンダーも6月に満開になるそうです。美しい一面のラベンダー畑を見るのも楽しみでした。
もうひとつの理由は、パリオリンピック。7月下旬には開催予定です。
開催前から混雑もするでしょうし、航空券やホテルの価格も上がることでしょう。
今回は、パリはスルー。目指すはプロヴァンス。

意外にも、プロヴァンスでオリンピックのポスターなどにはほとんどお目にかかりませんでした。唯一、遭遇して写真を撮ったのがこれ。ニースの裁判所のフェンスに掛けられていました。
この地の人たちは、遠く離れたパリの祭典に関心が薄いのでしょうか。
ところで、話は先に飛びますが、ニースに滞在した後は、西に向かい、アヴィニョンへ。そこからバスで1時間ほどのリル・シュル・ラソルグという小さな町を訪れ、その地で素敵なシャンブルドット(民宿)に泊まります。それを営むのが、以前ご紹介した町田陽子さんとダヴィッド・ミシャールさん夫妻です。
▼ダヴィッドさん

ダヴィッドさんには、まる1日かけて車でのチャーターツアーをお願いしました。彼は東京で10年間もプロヴァンス料理店のシェフとして活躍してきたので、日本語はペラペラ。ハンドルを握りながらたくさんお話してくれました。
帰り道、もうすぐ町に帰り着くころに、彼が言いました。
「来週の日曜に、この通りを聖火が走るんですよ」
「え! そうなんですか。だったら、1週間遅く来ればよかった……」
と、私が残念がると、彼はすかさず答えます。
「ダメダメ。車は通れなくなるし、混雑するし、今日でよかったですよ」
まあ、そうでしょうけど、聖火は特別の炎。せっかく今年フランスに来たのだから、聖火を見たかったな……とオリンピックを避けて南仏に来たはずなのに、私はちょっと欲張りすぎの未練を抱いたのでした。
もっとも、ダヴィッドさんの言うこともわかります。パリのお祭りはパリの人たちに任せておけばいい。プロヴァンスはプロヴァンス。いつもどおりの週末を楽しめばいい……。それが南仏の人たちの大方の考えなのかもしれないなぁと、つくづく思ったのでした。

▲乗り継ぎのシャルル・ドゴール空港にあったパネル写真です。
(⑧に続く)
南フランスの旅のフォトエッセイ:⑥ニースの浜辺のサプライズ ― 2024年07月26日
ニースに着いた翌日は、ステファニーさんのガイドで、念願のマティスのロザリオ礼拝堂を訪ねて、早くも旅の目的を果たすことができ、満たされた気分でした。
そして、夜はコート・ダジュール初のディナー。Hiromiさんとふたり、ステファニーさんお勧めのレストランで、地元のロゼワインとともに美味しい料理を満喫。それは、また次回に書きましょう。
ところで、コート・ダジュールというのは、南フランスの地中海沿いで、とくに美しい海岸があり、温暖な気候から保養地になっている地域のこと。ある作家が『ラ・コート・ダジュール』という小説を出版したことから、この呼び名が定着したとか。日本語に訳せば、「紺碧海岸」ですね。
地理的にいえば、プロヴァンス=アルプ=コート・ダジュール地域圏の中にあり、私たちには、プロヴァンスという名もよく聞くので、はて、その違いはというと、これまたよくわからない。大ざっぱに言えば、神奈川県の海岸沿いのおしゃれな地域を「湘南」と呼ぶようなものでしょうか。
そのコート・ダジュールの中心的な都市のひとつがニースです。
夕食後、ほろ酔いで店を出ても、まだまだ明るい。気持ちのいい風に吹かれて、ニースの浜辺をそぞろ歩きました。ホテルのカーペットの模様と同じような石ころの浜が広がっています。泳いでいる人もいれば、男女混合でサンドバレーに興じる若い人たちもいる。日本人はほとんど見かけません。
夜の8時過ぎの浜辺▼



男女混合でサンドバレーを楽しむ人たち▲
ふと見ると、男の人が砂の彫像を作っています。腹ばいになった犬の形をしている。彼のアートにチップを上げようと、コインを探しました。
と、その時、

「これ、何犬ですかね」と、後ろから男の人の声。しかも日本語の。
「え?」と驚いて振り向くと、サングラスをかけたイケメン風の男性が立っている。「ええーっ?」と、2度びっくり。どう見ても、フランス人です。
「今、日本語、しゃべりましたよね。日本人には見えませんけど……」とHiromiさんが思わず尋ねました。

「僕はニースに住んでいるフランス人。名前はトマといいます。日本語を勉強して、日本でも何年か暮らしたことがあるんですよ」
「あら、私も昔は外国人のための日本語教師をしていたんですよ」と話すと、興味を持ってくれたらしい。
「僕は日本語を忘れないために、日本人と会話がしたいんですけど、お時間があれば、ちょっとお茶でも飲みませんか」と、流ちょうな日本語で、ナンパされたのです。もちろん、断る理由など何もない。あとはホテルに帰って寝るだけ。息子ほどの年の男性に誘ってもらえるなんて、旅先のうれしいハプニング。Hiromiさんも異論はなさそうで、ふたりでトマ君についていきました。
浜辺に面した明るいテラスで、ハーブティーとソッカというお好み焼きのひとくちサイズのようなニース名物をご馳走になりました。


彼は、日本ではディオールやヴィトンなどのモデルの仕事をしていたと言います。たしかに背も高くてルックスもいい。その写真も見せてくれました。
「でも今は、いずれニースで日本そばの店を持ちたいので、そのための準備中なんですよ」と話す。
「今日はどこかに出かけましたか」と聞かれたので、ステファニーさんのガイドであちこち連れて行ってもらった話をすると、
「ステファニーならよく知っていますよ! ぼく、同級生でした」
「えええーっ!」と、3度目のびっくり。地元の高校で一緒に日本語を学び、パリの大学でも一緒だったというのです。ニースはなんと狭いのでしょうか。
最初はちょっと警戒したけれど、ステファニーさんに連絡してみればすぐわかること。トマ君の言うことを信用しよう、とちょっとほっとしました。
ステファニーさんからも聞いてはいましたが、高校の日本語の授業では、漢字を何百と覚えさせられ、読み書きをきっちりと学んだそうです。だからこそきちんとした日本語を話せるのだろうと推測できました。彼らにとって日本語をマスターする難しさは、教師だった立場からもよくわかるのです。
トマ君、見かけと違って、意外と真面目でひたむきなのかもしれない、と見直したのでした。
「明日はママの誕生日だから、お寿司をご馳走するんだ」と彼が言ったとおり、翌日には、お寿司の写真と、はつらつとしたママとのツーショットが届きました。
彼には黙っていたけれど、じつは私は、彼のママと同い年。ニースにもう1人の息子ができたような気がして、なんだかうれしくなりました。
ステファニーさんからも、メールが来ました。
「ニースでトマ君に会ったのですか? あまりにも偶然でびっくりです、笑」
かつては一期一会だった旅の出会い。今はSNSで簡単に繋がることができます。世界は小さくなり、私の世界は広がっていく。
ときどき、2人の投稿を見ては、「いいね♡」を送ったり、コメントを書いたり。
またいつか、ニースに行くことも、彼らと日本で会うことも、もう夢ではなくなりました。
南フランスの旅のフォトエッセイ:⑤Hotel Beau Rivage ― 2024年07月15日
ニースで3泊したのは、Hotel Beau Rivage (ホテル・ボー・リヴァージュ)という4つ星ホテルでした。
Beau Rivageとは、フランス語で「美しい海岸」という意味です。その岸辺に建つホテルだという自負があるのでしょう。旧市街からも近く、立地条件の良さは抜群です。


ホテルの廊下には、リアルな小石模様のカーペットが。▲
このホテルには、もうひとつ、すごい歴史がありました。それを知らずに予約してもらっていたのですが……。
1917年に、アンリ・マティスは初めてニースにやって来た。その時に泊まったのが、このホテルだったのです。しかも、それはクリスマスの日だったそうで、寒くて暗いパリから、暖かな陽の光が満ちているはずのニースへ、明るい希望を抱いてやって来たことでしょう。がしかし、運悪くひと月も雨が降り続いたとか。
その107年後、私たちは同じホテルにチェックイン。宝くじに当たった気分です。
きれいにリフォームされて、当時の面影はないのかもしれませんが、ロビーにも朝食をとるレストランにも、マティスのポスターや複製画がたくさん飾られていました。


このシリーズ「南フランスの旅のフォトエッセイ」のプロローグとして、出発前日の6月3日に書いた記事「南フランスへ」の中でも、著書とともに紹介しています。
とくに今回のシリーズは、彼女がJAL機内誌SKYWARDに載せた「南フランス アンリ・マティスの光」という記事を参考にさせていただきました。プロのライターのメリハリが利いた文章も魅力のひとつ。ぜひお読みください。
(WEBマガジンで読むことができます)
さて、その美しい海岸で、サプライズに遭遇します。
次回、お楽しみに。
(⑥に続く)
南フランスの旅のフォトエッセイ:④Hiromiさんのナイスアイデア ― 2024年07月12日
さて、話は1日前に戻ります。

6月4日の朝6時に家を出て、空港バスで成田へ。
11:20発のオランダ航空でアムステルダムへ。現在はロシア上空を飛べないので、北極海上空を飛んでいるようでした。13時間かかって到着。
スキポール空港で乗り継いで、ようやくニース・コートダジュール空港に到着したのは、現地時間の22:25です。東京は、時差7時間、翌朝の5:25着となり、自宅からここまで24時間近くかかったことになる。まあなんと長旅だったことでしょう。早くホテルで眠りたい……。
空港からホテルまでは、夜も遅い時間なので、日本で旅行会社の送迎車を手配してきました。
ところが、着いた時にお迎えらしき人がいない。待てど暮らせど、現れない。予約手配をしてくれたHiromiさんが、問い合わせ用のアプリをダウンロードして、電話をかけようにもなぜか通話ができないのです。
小さな空港ロビーから、ほとんどの利用客は姿を消していきます。30分たってもらちが明かず、客待ちをしていたタクシーでホテルに向かうことにしました。
一見怖そうなドライバーがたむろしています。その中のひげ面の1人が、私たちを見つけて、当然乗るだろう、と目で合図をされました。フランスのタクシーは問題ないとは聞いていたので、勇気を出して乗ることに。
スーツケースをトランクに入れてもらって、「Hotel Beau
Rivage」と告げると、すぐ走り出しました。
「英語を話しますか」と聞くと、「あまり上手じゃないけど」と言いながら、おしゃべり好きなフランス人らしく、いろいろ彼のほうから質問してきました。
最初の質問は、「どこから来ましたか」。
日本だと答えると、「日本に行きたい!」と急にテンションが上がりました。彼の友人も日本を旅して、とてもよかった、おもしろかった、と彼に薦めたそうです。30代か40代ぐらいの彼にとって、日本はアニメやゲームの聖地なのでしょう。彼は「ワンピース」などのマンガ本を読み、彼の息子たちはポケモンやマリオなどのゲームで遊んでいるとか。
そんな楽しい会話をしているうちに、あっというまにホテルに到着。スーツケースを下ろしてもらい、料金とわずかなチップを渡すと、さっさと車に戻ろうとした彼を、私たちは引き留めました。
「日本のおみやげを渡したいから、ちょっと待って」
Hiromiさんがスーツケースの中から取り出したのは、ポケモンのキャラクターが描かれているスナック菓子と、「きのこの山」。
「日本のお菓子です。お子さんたちと食べてね」
彼はびっくりして、そして、とてもうれしそうな笑顔で「サンキュー!」と言ってくれました。

Hiromiさんは前回のクロアチア旅行でも、「チップと一緒に渡すと喜ばれるのよ」と言って、ポッキーとかハッピーターンとか、日本のお菓子をたくさん買い込んできてくれたのです。実際に、彼女がお菓子を渡すと、こわもてのドライバーさんがみな一様に顔をほころばせるのでした。
今回の旅でも、「私に任せて!」と大量に持ってきてくれていました。
到着早々の空港で見舞われたアクシデントだったけれど、Hiromiさんの機転で、こんなにステキな笑顔に出会えたのです。まさに、災い転じて福となす。
後日、送迎車を予約した旅行会社からは丁重なお詫びのメールが届き、全額返金となりました。