南フランスの旅のフォトエッセイ:①ステファニーさんとの出会い ― 2024年06月21日
2019年10月にクロアチア旅行をした後は、翌年の1月から新型コロナのパンデミックが始まり、海外旅行はおあずけとなりました。
昨年2023年5月にようやくコロナが5類移行となり、いろいろなことが解禁となり、私もコロナ以前の暮らしに戻れると期待したのでしたが……。
7月には遅ればせながらコロナに感染したり、夏にはぎっくり腰にやられて動けなくなったり……。同じころに義姉が脳出血で倒れ、入院中の義姉と、実家に一人残された高齢の義母との2人の世話をすることになったり……と、のんきに旅行どころではない難題が立ちはだかりました。
それも何とか落ち着いてきて、今年こそはいざヨーロッパへ。その希望をかなえるべく、ひそかに計画を進めたのでした。
まずはガイドブックを見つけようと立ち寄った本屋さんで手にしたのが、『ニースっ子の南仏だより12ヵ月』でした。フランス人の女性が日本語で書いた本! かつて日本語教師をしていた私としては、それだけで興味津々です。
著者のステファニーさんは、高校生の時に日本語を学び始め、さらにパリの大学で勉強を続け、日本にも何度か留学したことで、読み書きもでき、流ちょうな日本語が話せるようになっていったのです。彼女の努力と、日本語への愛情のたまものにほかなりません。
こうして、その稀有な能力を生かし、日本人のための観光ガイドとして地元ニースで活躍してきました。この15年間、毎年ほぼ400人の日本人を案内しているとか。今ではマイ・コート・ダジュールという会社の代表であり、結婚して2人の男の子の母親でもあるという、スーパーレディなのです。
この本と出合えて、ラッキーでした。
私は、若いころからフランスが好きで、パリへは何回も訪れていますが、なぜか南仏に足を延ばしたことはありません。でも、昨年、東京で開催されたマチス展で、マチスが最後に手がけた南仏のロザリオ礼拝堂のことを知り、ぜひそこに行ってみたいと思ったのです。
今度の旅は、南仏へ行こう。
手がかり、足がかりは、ステファニーさんにアクセスすることから始まりました。
そして旅の道連れは、前回のクロアチアでも一緒だったHiromiさん。
彼女はすでに昨年、コロナ解禁後にイギリス旅行をしていましたが、初めての「南仏の旅」に心が動いたと言って、付き合ってもらえることになりました。
(②に続く)
▲菩提樹の木の下で、左がHiromiさん、右がステファニーさん。
南フランスへ ― 2024年06月03日
明日から、5年ぶりの海外旅行に出かけます。
行き先は、オリンピックで賑やかしそうなパリを避けて、南フランスを訪ねます。
★『ニースっ子の南仏だより12カ月』ルモアンヌ・ステファニー著
★『南フランスの休日 プロヴァンスへ』町田陽子著
この2冊に導かれて、旅の計画が出来上がっていきました。
ニースと、アヴィニョンで、それぞれの著者にお世話になる予定です。
帰国したら、少しずつ、旅のフォトエッセイをブログに載せていけたら、と思っています。
それでは、行ってまいります❣
ロングエッセイ:「アー友とアートを見にいく」 ― 2024年04月09日
所属するエッセイグループでは、毎年1回、会誌を発行しています。各メンバー1編のエッセイを掲載します。1編の長さは冊子の2ページから4ページまで。字数にして1600字から3400字までとなっています。3400字で書くチャンスはめったにないので、今回もその長さに挑戦しました。
長いですが2編分だと思って、最後までお読みいただければ幸いです。
** アー友とアートを見にいく **
大学時代、西洋美術史を専攻した。キリスト教文化に始まって、ルネッサンスを経て、印象派やピカソに至るまで、西洋の芸術を追い求めた。歴史、哲学、美学など、新しいことを学ぶ興味は尽きなかった。
当時、同じ学科に属し、同じ美術部で油絵を描いていたC子は、私のアー友第1号だ。アート好きの友達を、私はこう呼んでいる。当時から2人で絵画展に足を運んだものだ。卒業後、人並みに結婚し、転勤や子育てに追われる時期を過ぎると、一緒にヨーロッパに出かけて、教室のスクリーンで見た絵画や建築の本物を、感激しながら見たこともあった。それぞれ埼玉県の大宮と神奈川県の川崎に住み、北と南から都心に出かけていっては芸術鑑賞をし、その後の食事でおしゃべりに花を咲かせるというのが最近のパターンだ。ある日のこと、
「クリムトやモネもいいけど、ここまでくると、その先を見たくなるよね」
「だから今、現代アートがおもしろいのよねー」と、2人の意見が一致した。
昨年の秋、3年に1度の国際芸術祭を開催中の直島(なおしま)へ出かけた。誘ってくれたのは2人のアー友。同じマンションに住む子育て仲間だったのが、今では趣味や旅行を一緒に楽しむ気のおけない友人たちだ。
直島は、穏やかな瀬戸内海に浮かぶ小さな島。およそ30年前、ベネッセの初代社長が、ここで壮大なプロジェクトを立ち上げた。その名も「ベネッセアートサイト直島」。自然豊かな島と、そこで暮らす人々と、人間の作り出すアートとがコラボして共生する特別な場所を生み出そうというのだ。長い年月をかけていくつものホテルや美術館ができ、周辺の島にもプロジェクトは広がっていった。
四国の高松港から船に乗る。船が接岸する前から、港に黒い水玉模様の大きな赤いカボチャが見えた。おなじみ草間彌生さんの作品だ。島のシンボル的存在で、来訪者を迎えてくれる。
着いたその日、夕刻にオープンするカフェのテラス席で、スパークリングワインのグラスを傾けながら、金色の太陽が海の向こうに沈んでいくのを見つめていた。それもまた一幅の絵のようだった。
宿泊するベネッセハウスは、ホテルと美術館とが一体化したような造りだ。コンクリートむき出しの壁や廊下やホールのあちこちに、現代アートが姿を見せる。夕食後にはそれらを巡る解説ツアーに参加した。
現代アートは、芸術の概念を打ち破るところから始まるのだから、四角い額縁などに収まってはいない。断崖で海風にさらされ続けた写真パネル。アリたちが巣作りをして模様を増やしていく砂絵。がれきを鉛の板でくるんだ巻き物の積み重ね。しゃべり続ける3人のロボット……。言葉では描写しきれない意味不明の作品たちだ。
解説者はわかりやすく謎解きをしてくれる。作品群の大きなテーマは、時の表現だという。たしかに、経年劣化した画材や、海辺の古木にも時が宿る。季節の移ろい、年月の流れのなかで形を変えていくのだ。
「なるほど……。よくわかるね」と、私たちは解説を聞いて、芸術鑑賞ができた気分でうれしくなる。
翌日は町に出て、芸術祭の「家プロジェクト」を楽しんだ。使われなくなった古い家屋を、著名なアーティストが芸術作品に変えているのだ。古民家がよみがえり、畑の中にオブジェが立ち、世界中から観光客が押し寄せる島で、お年寄りたちも元気に活躍している。日焼けしたバスの運転手さんはかなりのお年だが、狭い道もビュンビュンと走る。
「芸術のことはよくわかんないけどな」とつぶやいて、くしゃっと笑った。芸術祭に理屈はいらないのだ。島興しにも一役買っている。
直島の旅を終えて、現代アートがわかった気になったけれど、別の作品と向き合うと、やっぱりわからない。うーん、と考え込んでしまう。そんな時、ある友人から、1冊の本を薦められた。
『目の見えない白鳥さんとアートを見にいく』。タイトルを読んだだけでも衝撃的だ。一体どういうこと?
白鳥さんは、50代の全盲の男性。幼い時から「あなたは目が見えないのだから、人の何倍も努力しなさい」と育てられた。やがて、盲学校の寄宿舎に入って身辺自立の訓練を受け、マッサージ師の資格も取る。「障害があって大変」「かわいそう」と言われることに疑問を持ちながら、白杖を頼りにどこへでも出かけていき、コンサートを楽しんだり、鉄道ファンになったり、〈普通〉の人に近い行動をとるようになっていく。
そして、彼女ができた。目の見える彼女が、ある時、「美術館に行きたい」と言った。デートにぴったりだ、と喜んで、白鳥さんは美術館を初体験。デートの楽しさと相まって、美術館がお気に入りの場所となる。盲人らしくないからこそ美術館に行ってみたい。持ち前の反骨精神だ。かくして白鳥さんは、見たい美術展があると自分で電話をかけては、盲人が鑑賞するという前例のない美術館の扉を、一つひとつ開いていったのである。
この本の著者は、川内有緒さんというノンフィクション作家だ。彼女の友人を介して白鳥さんと出会い、3人で美術鑑賞に出かけるようになった。まず、作品の前で目の見える2人がコメントする。何が描いてあるのか。どんな印象か。思いつくままに言葉を交わす。ときどき白鳥さんも質問を挟む。ありきたりの解説より、2人にもわからないことがあったり、意見が食い違ったりするほうがおもしろい。2人のやりとりの息遣いまでもが、白鳥さんにとっての絵画鑑賞となるのだという。
ある時、絵画の遠近法の話になった。「遠くにあるものは大きいビルでも、手前にある小さなリンゴに隠れてしまう」という説明を受ける。すると白鳥さんが叫んだ。
「えー、隠れるってなに? わかるけど、わからない!」
これを読んだ私は、頭をガツンとやられたようなショックを受けた。以前、自閉症の長男についてのエッセイで、自閉症の理解の難しさに言及し、「視覚障害を理解するにはアイマスクを付ければいいが、自閉症はその手段がない」と書いたことがある。なんと不遜だったことか。安易だったことか。健常者がアイマスクを付けたとしても、見える記憶がある限り、けっして全盲の人と同じにはなれないのだ。大きな間違いに気づいた。
川内さんは言う。どんなに一緒に絵を見たとしても、同じものを感じることはできない。たとえ見えても見えなくても、人間はみなひとり。そばにいて、一緒に絵を見て、そして一緒に笑っていられたらそれでいいのだ、と。
この本を紹介してくれたのは、独身時代、職場の同期だったK子だ。私がさっさと退職した後も、馬が合うのかずっと友達でいる。子育てが終わってから、彼女は都内の美術館で、見学に来る子どもたちの相手をするボランティアを続けている。ある日、彼女の美術館にも白鳥さんがやって来て、アテンドをしたそうだ。
そんなわけで、K子も私のアー友だ。美術館を巡る旅に2人で出かけることもある。やっぱりアー友と一緒がいい。この3年間はコロナ禍のせいで、1人旅も多かった。1人の自由や気楽さを満喫しながらも、背中合わせの緊張感や、気持ちを分かち合えない寂しさが付きまとった。
ちなみに、私は草間さんのカボチャが大好きだけれど、K子は「見ただけで気持ちが悪い」と顔をしかめる。私は思わず吹き出してしまう。
それでいい。そこがいいのだ。
☆直島の旅のフォト☆
▼直島の港に鎮座する草間さんのカボチャ。中に何人も入れるほど、大きい。
▼夕日を眺めながら、乾杯。
▼おしゃべりを止めない3人。
▼床から天井まで積み上げられた鉛の巻き物。年月を経て、だんだんつぶれてきて、天井に隙間が生じている。
▼壁のドル紙幣は、横1メートルほどのパネルに入った砂絵で、アリたちがせっせと通り道を伸ばしていく。
▼「町プロジェクト」の作品の一つ。もとは歯科医の家だったもので、吹き抜けには巨大な自由の女神が立ち尽くしている。
▼隣の島の女木島(めぎじま)には、海辺に帆の付いたピアノがあった。音は鳴らないけれど、風を受け、日を浴びながら弾く真似をすると、心の中に音楽が広がる。
▼川内有緒著『目の見えない白鳥さんとアートを見にいく』。ぜひ読んでいただきたい、オススメの本でもあります。
GO, GO, GO!の旅(4)フォトエッセイ:広島・ヒロシマ ― 2023年05月18日
3回までで止まっていましたが、まだまだ続行。1年前の旅のフォトエッセイです。
ご存じのように、明後日19日から3日間、広島サミットが開催されます。
そのことをまったく知らない1年前に、広島を訪れ、サミットの会場となるグランドプリンスホテル広島にも1泊しました。
振り返って、当時の写真をアップします。
広島には行きたい、とずっと思っていました。
世界で初めて原爆投下された街を実際に訪ねたい。2019年にはローマ教皇でさえ、はるかバチカン市国から訪問しています。その地を私も訪ねたいと思ったのです。
もう一つの理由は、映画「ドライブ・マイ・カー」のロケ地でもあるということでした。
高知でレンタカーを借り、翌朝出発。しまなみ海道を北上しながら、300キロの道のりを走破して、広島までやってきました。
夕方4時に広島市に入ると、まっすぐ向かった先は、広島市環境局のごみ処理工場でした。正式名称は、中環境事務所。
映画のなかで、ドライバーのみさきが、妻を亡くした家福をこの場所に連れていき、案内するのです。巨大なごみ処理機の無機質なオートメーション、きらきらしたガラス張りの吹き抜け、海面まで下りていく階段……。
映画の印象的なシーンが目の前に広がりました。
夕方のその時刻には、もう機械は動いていませんでした。人もまばらで、気持ちの良い風が吹き抜けます。
海に釣り糸を垂れる人もいれば、草原に愛犬を走らせる人もいました。
映画では、みさきが家福に説明していました。
「原爆ドームと平和記念公園内の原爆死没者慰霊碑を結ぶ線は〈平和の軸線〉と呼ばれています。この工場の建物は、その線を塞がず海まで延びるように設計されているんです」と。
この映画は、ひとことでいえば、傷ついた二人の再生と出発を描いたもの。平和を祈る場所から吹いてくる風は、再生の場所を通り抜け、海へと旅立っていく。
そして、素敵な市民の憩いの場所でもありました。
宿泊したグランドプリンスホテル広島でも、映画のロケが行われました。
広島市南端にある宇品(うじな)島の海沿いに、背の高い四角いビルがひときわ目立っています。
庭先にはヤシの木や、真っ赤なブラシツリーが咲き誇っていました。
ロビーの壁には、映画ロケの様子が写った写真パネルが並んでいました。
▲原爆資料館。昨年は高校生たちが熱心に見入っていました。今年は、バイデン大統領も訪問するとのこと。
さらに、平和公園から歩いて、幟町(のぼりちょう)教会へ。
この教会は、世界平和記念聖堂と呼ばれ、みずからも被爆したドイツ人神父の尽力によって1954年に献堂されたカトリック教会です。外観は重厚な造りですが、内部はステンドグラスが美しく、原爆で犠牲になった人々の追悼と慰霊のため、世界の平和を祈るためにふさわしい聖堂でした。
いよいよ明日、原爆投下された世界でたった一つの地、ヒロシマに、核を投下した国の大統領も、核保有国の首脳たちも、集まってきます。
どのような共同声明が発表されるのか、期待を持って注目したいものです。
旅のエッセイ: 旅するアートか、アートする旅か ― 2023年04月25日
私の趣味はと聞かれたら、いくつもあるけれど、小説を読むことと、美術を鑑賞することの2つは、必ず答えに入るだろう。それをダブルで提供してくれるのが、原田マハさんだ。
作家としても数かずの賞を受賞しているし、美術館のキューレーターをしていたくらいだから、芸術にも造詣が深い。天は二物を与えるのだ、といつも思ってしまう。
マハさんにはアートを題材にした小説もたくさんあるが、今手にしているのは、『原田マハの名画鑑賞術』という本。文字どおりハウツーものだ。
「日本は世界的に見ても美術館大国」と、帯には書いてある。
本書では、日本の美術館が所蔵する18人の芸術家の作品を取り上げて、鑑賞している。
この本を図書館で借りて読み始めたのは、3月上旬のこと。
ちょうどその頃、夫と名古屋に1泊する予定があり、そこで何をしようかと計画をしているところだった。
タイミングよく、この本が大きなヒントをくれた。愛知県美術館にグスタフ・クリムトの絵があるというのだ。この美術館の場所をグーグルマップで調べてみると、なんと滞在予定のホテルから歩いても10分とかからない距離にあるではないか。決まりだ。
私は彼をクリムトさまと呼ぶ。大ファンである。40年前からの筋金入りのファンだというのが、私の自慢である。金を用いたモザイク模様の中に写実的な人物が描かれていて、官能的な肢体やまなざしで、見る者を引きつけてやまない。あやしい魅力がたまらないのだ。
本書で紹介されている彼の絵は、「人生は戦いなり(黄金の騎士)」。
写真からわかるのは、騎馬に乗り、鐙(あぶみ)を踏んで直立する騎士が横向きに描かれていることぐらいだ。その絵のディテールや質感がすばらしいと書いてあるのに、残念ながら8cm四方の写真からは見てとれない。
これはもう、行って本物の絵を見るしかない。
この本は半分まで読んで図書館に返却した。自分で購入して手元に置こうと思ったのだった。
さて当日、名古屋到着後、ホテルにチェックインしてから美術館に出向いた。広い道路、広い歩道、大きなケヤキ並木は新緑が光り、根元の花壇には、黄色いチューリップと水仙が満開で美しい。
愛知県美術館は、愛知芸術文化センターの10階と8階にある。エレベーターを昇っていくと、吹き抜けの天井からぶら下がるような大きな作品が展示されている。人間に見えたり、鳥にも見えたり……。
休館かと思うほど、がらんとしている。平日だからか。事前に公式サイトも覗いてきた。今、企画展はなく、常設展のみだそうだ。
受け取ったチケットの半券には、クリムトさまのくだんの絵があった。やはりこの美術館の〈売り〉なのだろう。もうすぐ会えるのだ。
とはいえ、この絵を目指して一目散などという、はしたないまねはしたくない。現代美術の作品を一つずつ丁寧に見ていく。広い展示室が続く。絵画もあれば、彫刻や立体作品もある。説明がないと首をひねりたくなるようなものも。
訪れる人の少ない展示室で、近くにいたひとりの男性にふと目をとめた。背が高く、ウェーブした長めの黒髪、黒ずくめの服。後ろ姿からも日本人ではないとわかる。作品の解説にスマホを近づけているところを見ると、翻訳アプリを利用しているのだろうか。横顔を向けると、その白さにドキリとした。まるでギリシャ彫刻のようだ。どこの国の人だろう。この室内の、どの作品よりも美しいと思った。
夫はとっとと先の部屋を覗いて、どこに消えたかと思ったら、廊下のソファに座っていた。
どうもおかしい。近くにいたスタッフに、チケットの絵の場所を尋ねた。
「今はヨーロッパで展示のために、ここにはないんです」とのことだった。
何年も前に、かの地から日本にやってきた絵画は、現在帰省中だったのだ。ホームページを見ても、気がつかなかった。
改めて、ページを開いてみる。そのお知らせは、「新着情報」を昨年7月までスクロールしてやっと見つけた。せめてトップページにそれを貼り付けておいてくれたら、落胆することもなかったのに。
しかたない。仕切り直しだ。また絵が帰国したときに、見に来よう。お楽しみ期間が増えたと思えばそれもまた楽し。
▲愛知県美術館のチケットの半券。手のひらサイズの小さなものです。
さらにもう一つのアートの話。
この本のクリムトの次の章には、エゴン・シーレの絵が紹介されていた。
折しも、東京では「エゴン・シーレ展」が都美術館で開催中。
10年前、彼の大きな展覧会を見た時、かなりの衝撃を受けた。クリムトさまの弟子でもあり、嫌いではないのだが、いかんせん、その時の重さと暗さが忘れられず、たださえ病院通いの重く暗い気分のこの時期に、わざわざ見に行きたいとは思わなかった。
本書に載っているのは、「カール・グリュンヴァルトの肖像」という人物画で、豊田市美術館所蔵とある。同じ愛知県だ、名古屋ついでに行ってみようか。
しかし、電車を乗り継いでいくと、名古屋からでも1時間半を要するらしい。残念ながら諦めた。
こうして、本書の中の2点のアートにそっぽを向かれたのだった。
ところが。
名古屋に行った後、友人にこの本を見せると、パラパラとめくって、
「この絵も、シーレ展にあったよね」とつぶやいた。
「えー! そうなの? 名古屋から豊田に行かなくて正解だったのね」
その日のうちに、シーレ展のチケットを予約。最終日の3日前だった。
▲エゴン・シーレ展で買ったえはがき「カール・グリュンヴァルトの肖像」。
かくして、今度こそは会えた。まぎれもなくマハさんの本の写真で見た絵だ。小さな写真と違って、グリュンヴァルト氏が、ほとんど等身大に描かれた縦長の堂々とした作品だった。
愛知県豊田市から、わざわざ上野の山へやって来てくれてありがとう。
マハさんは解説で、次のような言葉で、この絵を語っている。
「グリュンヴァルトの本質的なもの、内面を引き出して描くことこそが、おそらく表現したかったことではないか。(中略)シーレはやりきった。素晴らしい。この肖像画は歴史的なもの」
これまでの肖像画の常識は、本物よりも見栄えがするように、偉そうに見えることが大事だった。しかし、そんな既成の価値観を打ち破ってこそ、芸術なのだ。
マハさんの鑑賞術を読んでからシーレの絵と向き合ったことで、別の見方ができたような気がする。今回はさほど重さも暗さも感じなかった。
才能ある一人の若者が、作品を生み出し、仲間と交わり、信仰を持ち、恋をし、そして28歳の若さで病に倒れて死んでいく。かけがえのない人生の、命の、はかりしれない重さ。私は、それだけを背負って、片道1時間の旅を終えた。
まるで、クリムトに会えなかった代償のように、彼の弟子に会えた。不思議な出会いだった。
私のサッカー観戦物語 ― 2022年12月09日
2022年、日本ではサッカーワールドカップがいつにない盛り上がりを見せた。日本代表チームがEグループのリーグ戦で、優勝経験のあるドイツとスペインの強敵2チームを、見事に倒してしまったのだから。
地元川崎でも、鷺沼サッカークラブから輩出した選手が、4人も代表に選ばれて、鷺沼の交差点には、「鷺沼から世界へ!」という青い垂れ幕が光っていた。
そして、いよいよ決勝トーナメントの初戦、クロアチアとの対決に臨んだのだった。
私の脳裏をよぎったのは、22年前のスペイン戦だった。シドニー五輪で見たスペイン対カメルーンのサッカー決勝戦だ。
まだ13歳だった自閉症の長男が、「僕の夢はシドニーオリンピックを見に行くことです」と卒業アルバムに書いたのを見て、彼を連れてオリンピック観戦ツアーに参加したのである。観戦種目の一つに、サッカー決勝戦があった。ツアーとはいえ自力で移動し、メンバーたちの席もばらばらだ。サッカーの知識などほとんど持ち合わせないのに、今のように便利なスマホもない時代。目の前で生の戦いが始まっても、実況アナウンスも解説もない。ところがラッキーなことに、隣の席に一人旅の日本人青年が座った。彼はサッカーに詳しく、笛が鳴ったり試合が中断したりするたびに、わかりやすく説明してくれた。
後方の席にはスペインの旗を掲げた一団がいて、「エスパーニャア!」と大声で応援している。しかし、試合運びがスペイン優勢に傾くと、どよめくようなブーイングがスタジアムに湧き起こる。観客のほとんどは、カメルーンを応援しているようだ。
「強い国じゃないのに、ここまで来たからでしょう」と青年は言った。
カメルーンはその応援を力にして、PK戦のすえ、優勝してしまったのだった。
2年後の2002年、日韓W杯が開催される。Jリーグファンの長男のために、抽選に応募して、日本で行われる決勝トーナメントの観戦チケットを手に入れる。その日を楽しみにしていた。
開催国日本は、予選を戦わずにグループリーグから参戦となる。忘れもしない6月4日の夜、初戦の相手は強国ベルギー。格上のチーム相手に、日本は2対2で引き分け、勝ち点1を得た。ビール片手にテレビの前で応援をしていたわが家も、すっかり浮かれ気分になった。
とその時、父のいる病院から電話がかかった。
「もう間に合わないかもしれません」
長いこと入院し、覚悟はしていたが、昼間見舞ったときはいつもと変わらない様子だったから、安心していたのだ。母とタクシーで病院に駆け付けると、父はすでに霊安室に安置されていた。
かくして、サッカーどころではなくなった。せっかくゲットした試合のチケットも、サッカー好きの友人に譲った。息子のおみやげにと買ってきてくれたのは、クロアチアのユニフォーム。赤いチェック柄が鮮やかで素敵だった。まさか20年後の決勝トーナメントの初戦相手になろうとは、想像もしなかった……。
今回の観戦は、おみやげのユニフォームをお尻に敷いて座ろうか、裏返しに着て応援しようか、などと悩んだ。
もし、クロアチアの相手国が日本ではなかったら、私はまちがいなくウェアを着て応援しただろう。
コロナのパンデミックが起きる直前、2019年の秋、クロアチアを旅行した。この国は、第二次世界大戦後にチトー大統領が打ち立てたユーゴスラビア社会主義連邦に統合されたのだが、やがて大統領が亡くなると、あちこちで内紛が勃発し、ユーゴは崩壊していく。クロアチアにも独立運動が起こり、1991年、独立を宣言する。その後も旧ユーゴ軍の砲撃を受け、多くの死者が出て、世界遺産も危機に陥ったという。初めに訪れたドブロブニクは、「アドリア海の真珠」と言われるほど美しい街だったが、ここにも内戦の傷痕が残っていた。
ちょうど独立記念日には、国立自然公園まで出かけた。片道2時間の送迎を依頼した車のドライバーは、30代ぐらいのチョビ髭の若者。無口だったが、日本からのお菓子をプレゼントすると照れるように笑った。
「今日は独立記念日で祝日なんでしょう?」と問いかけても、
「だからって、僕には関係ない」と答えた。何もめでたくないよ。そんな印象を受けた。戦争で被った有形無形の傷が、まだこの国に暗い影を落としているように思える。車窓からは、サッカーで遊ぶ子どもたちが見えた。
先日の新聞に、クロアチアの中心的選手ルカ・モドリッチの生い立ちについて書かれていた。内戦の爆撃で、彼の大好きな祖父も犠牲になったという。貧しい暮らしの中でも、両親は彼をサッカー選手に育て上げたそうだ。
不幸な歴史が、クロアチア代表の精神的な強さを培ってきたのだと思う。前回の大会では準優勝に輝いた。
さて、日本との一戦はどうなることか。少し複雑な思いで、夜中遅くまで実況中継を見届けた。
そして4年後、さらに成長して世界に挑んでほしい。こんどこそ、新しい景色を見せてくれると信じている。
旅のエッセイ:ルーツを訪ねて 前編 ― 2022年11月24日
ルーツを訪ねて
「ひとみが生まれたのは、神戸のすずらん台という所。すごく田舎だったわ」
私の生まれた土地について、母から聞いていたのはそれだけだった。父の転勤で神戸に住んだのだが、生後半年で東京に移ってきたので、記憶はまったくない。ほかにも聞いたかもしれないが、覚えているのはそれだけだ。
昨年母が亡くなった。今になって、もっといろいろと聞いておけばよかった、話をすればよかったという思いが募ってくる。
すずらん台に行ってみよう。大阪で開催されるコンサートを聴きに行くついでに、神戸まで足を伸ばしてみよう。そうだ、ルーツを探す旅だ。……ふと思い立ったのだった。
神戸は新婚の頃に夫と訪れて以来40年ぶりで、右も左もわからない。とはいえ、今は交通系アプリや地図さえあれば、ひとり旅だろうと安心してどこへでも行けるのである。
コンサートの翌朝、大阪のホテルを出て、JRで神戸へ。車窓からは、ビルの向こうに六甲山の緑が間近に迫って見える。東京界隈では見慣れない景色だ。
午前中に神戸三宮のホテルに到着。荷物を預け、市営地下鉄に乗る。途中の谷上駅で神鉄有馬線に乗り換え、いよいよ目指すは鈴蘭台駅だ。降り出しそうな曇天の下、電車は北へ向かう。
高校生の時、大阪出身の同級生に、
「すずらん台って知ってる? 今でも田舎なの?」と尋ねたことがある。
「ベッドタウンとして開発されて、人気があるよ」と聞いて、なぜかうれしかった。
しかし、電車はうっそうとした山の緑に飲み込まれるように走っていく。トンネルを出たり入ったり。ちょっと不安がよぎる。
トンネルを抜けてたどり着いた鈴蘭台駅は、新しそうなビルの中だった。上の階は神戸市北区の区役所になっている。外へ出てビルを見上げると、ビルの壁面には緑の植物が植えてある。駅前のバスロータリーにも、手入れの行き届いた花壇がたくさん並んでいる。東京近郊のどこかの町にありそうな、エコでこぎれいな今どきの〈駅と区役所のコラボ〉といった感じだ。
区役所に入り、地域の歴史が知りたい、と尋ねてみたが、若い職員は首をかしげるばかり。でも、現在の北区の様子がよくわかった。この地域は、神戸の軽井沢とも言われているそうで、夏は涼しく、有名な有馬温泉もある。住宅地もあり、里山には農園があり、牧場や養蜂場があり、ビール工場まであり、土地の食材を使った古民家の食堂もあり……と、かつての「すごく田舎」は様変わりして、楽しめるエリアとなっているらしい。
「神戸市北区で休日さんぽ」というパンフレットをもらった。カラフルで写真もたくさん。地域の魅力があふれている。次回はこれを片手に、誰かと遊びに来たい、と思った。
小雨が降り出した。傘をさして、駅の近くを歩く。平日とはいえ、人の往来は少ない。チェーン店のイタリアンレストランや調剤薬局など、わが町にあるのと同じで、親しみを感じてひとりで笑った。
「のぼり屋」という地元のお店らしい和菓子屋さんがあったので、入ってみた。季節の栗を使った最中やお饅頭が美味しそう。
店の一角にモノクロの写真が並べてある。古い歴史がありそうだ。平屋の店舗の写真には、「昭和28年創業当時」と説明が添えてあった。
なんと、私の生まれる前の年だ。だったら、甘党の母はきっとこの店に立ち寄ったのではないだろうか。私の筋金入りの甘党も、この店にルーツがあるにちがいない。想像が膨らんで、やっと旅の目的が少しだけ果たせたような気分になった。
私のほかにお客さんもいなかったので、50代ぐらいの女性の店員さんに声をかけた。じつは……と、私が鈴蘭台にやって来たわけを聞いてもらった。
「私が生まれて最初に食べたあんこは、のぼり屋さんのお饅頭かもしれませんね」
「あら、きっとそうですよ」
ふたりで笑った。旅先で見知らぬ人とおしゃべり。ひとり旅はこれが楽しい。母はよく、そんな私を、「すぐお友達になっちゃうのね」とあきれたものだった。
店員さんの話では、創業当時の店は町内の別の場所にあったそうで、この店舗は平成6年の大震災の後に、ここに新しく建てられたのだという。
鈴蘭台にちなんで鈴音(すずね)最中という名の、可愛らしい鈴の形の和菓子をおみやげに買って、店をあとにした。
午後からはオシャレな神戸、旧居留地の辺りを散策して、夕方から港の花火見物へ。
コロナ禍で3年ぶりに開催されるのは、5日間にわたって毎晩10分間だけという規模の小さな打上げ花火だ。それでも、生まれ故郷の神戸で、たったひとりで傘をさしながら見上げる花火が、とても美しくて切なくて、涙が出そうだった。
(後編に続く)
☆ 旅のフォト ☆
▼大阪で開催されるコンサートというのは、藤井風くんのスタジアムライブ。ガンバ大阪の本拠地、吹田パナソニックスタジアムで、初めての開催だそうです。半端なく♪♡でした。
▼神鉄有馬線は、森の深い緑に飲み込まれるかのように走ります。
ビルの中の鈴蘭台駅は想定外。▼
改札を出て最初に目に飛び込んできたのは、わが家から徒歩1分にもあるレストランの看板。あら、ここにもできたのね、と思わず苦笑い。
▼駅の外観。ビルの壁面に植物。
▼のぼり屋。
▼鈴音最中。
▼神戸開港の歴史を物語る地域は、レトロモダンなオシャレな街。旧居留地38番館。
パティスリー トゥーストゥースで、ひとりランチ。スパークリングワインのミニボトルも注文して、デザートにはコーヒーとエクレアも。▼
ライトアップされた大丸神戸店。▼
小雨に煙る夜のメリケンパークで打ち上げられた花火。動画で撮ったのに、このブログではアップできなくて残念です。▼
旅のフォトアルバム:京都の旅のハイライト ― 2022年10月26日
前回の投稿記事が9月24日。もう1ヵ月以上もご無沙汰でした。
どうかしたのかなと覗いて心配してくださった皆さま、どうもありがとうございます。〈旅の秋〉を忙しく満喫中です。
前回の投稿を書いた翌週、京都に行きました。
テーマは「秋の味覚を楽しむ」。
と言いながら、洋菓子のモンブラン。
抹茶のお菓子で有名な、マールブランシュの本店で、この季節ならではの栗を使ったプレミアムなモンブランをいただきました。
まず、3種類のブランデーから一つチョイスします。味に詳しくはないので、いちばん高そうなVSOPにしました。
それを目の前で刻んだ栗に混ぜ、さらにマロンクリームを絞ってくれるのです。(動画でお見せできないのが残念!)
お味のほどは、言わずもがな。ほっぺたを落としてきました。
夜には、この季節最後の川床料理を堪能しました。
この日は、昼間は暑いほどだったけれど、京都でも奥深い貴船神社の辺りは涼しく、さらに川の流れるその上に床を設けているのですから、天然のクーラーです。
料理には氷の器が使われていたり、盆の上に塩を粉にして流れる水の絵を描き、焼いた鮎を泳がせたりと、涼を呼ぶ演出も見事です。
クーラーのない時代から昔の人たちは、こんなふうに涼しさを味わう工夫をしていたのだ、と実感しました。
終盤になると、熱燗も冷え、ひざ掛けをお借りしたほどでしたが、こちらのお味も舌鼓を打ちました。
さて、今月の旅は二回。
すでに大阪・神戸の旅は終わり、もう一つ、瀬戸内海の直島へ。
明日から、行ってきま~す!
GO, GO, GO!の旅(3)フォトエッセイ:しまなみ海道をゆく ― 2022年09月06日
いつか、しまなみ海道をドライブしてみたい。私の小さな夢でした。
これまで長距離ドライブといえば、子どもの小さい頃に、よく夏の信州方面に出かけました。
10年前に北海道をレンタカーで走ったことは、ブログにも書きました。
2014年には「東北ドライブ1000キロの旅」も決行。
次はぜひ、海の上を……と思っていたのです。
ちなみに「しまなみ海道」というのは、広島県尾道市から、愛媛県今治市を結ぶ全長約60キロの自動車専用道路。途中、向島・因島・生口島・大三島・伯方島・大島の6つの島々を通り抜けています。(▼地図は、るるぶのガイドブックを写させていただきました)
私のしまなみ海道ドライブは、四国側から始まります。
高知から北上して海岸沿いに出れば、しまなみ海道から中国地方に渡れる、と簡単に考えていました。間違いではないけれど、初めての土地で、けっして近い距離ではありません。
そこで、事前に計画を立てました。
グーグルマップで、だいたいの道順と距離を確かめ、時間を計って、食事や休憩などの行動予定を決めていきます。
高知から目的地の広島まで、ざっと300キロ。長距離ドライブを体験してきたとはいえ、残念ながら加齢による衰えや、視力の低下も気になります。ハンドルを握るのは、すべて私。事故でも起きない限り、夫はナビ係。いつものことです。
しかも、レンタカーは乗り慣れた愛車ではなく、HondaのFitという小型車。ナビにも意外とくせがあるので、いつものような快適運転は望めないかもしれない。……見た目と違って気の小さい神経質な私です。
というわけで、あちこち見て回ろうなどと欲張らずに、ゆとりを持ってドライブスケジュールを立てたいとは思うのです。しかし、広島には、できれば夕方までに到着して、平和記念資料館に閉館前に入りたい。翌日は世界遺産の宮島まで足を伸ばしたい。厳島神社を見て、昼食にはカキとあなご飯を食べるお店まで決めていました。(やっぱりあちこち欲張っていましたね)
「干潮の時には歩いて鳥居まで行けるよ」との友人の勧めで、干潮時刻をネットで調べてみました。すると、あろうことか、鳥居は現在修繕中で白いシートに覆われていることが発覚! 出発の2日前でした。やむなく宮島行きは断念。
ということは、幸か不幸か、神社の神様のご配慮か、しまなみ海道を渡って広島にたどり着くのは、急がなくてもよくなり、とても気が楽になりました。
宮島へは、次の機会にぜひ!
そんなわけで、旅の2日目。いつもの時間までぐっすりと眠り、朝食をたっぷりと食べ、ホテルを出ました。
高知城を横目に、高速入口へと走ります。地元のドライバーなら慣れた道でも、余所者にはどうもわかりにくい。歴史のある街というのは、そんなものかもしれません。
ちょっと予定時刻をオーバーしましたが、いざ四国横断自動車道に入ると、前後に車がほとんど見えないほど。すいすいと走ります。
四国横断道の名のとおり、高知から北上し、瀬戸内海を目指します。海沿いの四国中央市で松山自動車道に入り、こんどはほぼ真西に向かいます。そして、小松からふたたび北上して今治へ。地図上では三角形の二辺を通る進み方ですが、整備された自動車道を行くほうが結果的には早いわけで。
ここまで約150キロ。3時間で来ました。
これも友人のおススメの、来島(くるしま)海峡サービスエリアで一休み。最初に渡る来島海峡大橋が目の前に見えるのです。
▼うっすらと靄がかかっていますが、これから渡っていく来島海峡大橋が見えます。
▲レモン味のソフトクリーム。私はソフトクリームに目がないので、旅先では必ずと言っていいほど食べます。真冬の雪降る中でも食べます。今回も、ご当地フレーバーでエネルギーチャージは完ぺき。
最初の橋、来島海峡大橋を走ります。前にも後ろにも車がいないなんて、平日とはいえ、関東近辺の観光地では見られない景色。写真の画像が今一つさえないのは、天気が悪いのではなく、車窓越しに夫がさえないデジカメで撮ったからなのです。運転しながら写真撮影ができたらいいのに……。
予定では、最初に渡る大島で、亀老山展望公園に立ち寄って橋を見下ろす壮大な絶景を眺めるつもりでしたが、ドライブがあまりに快適なので、そこには寄らず、次の目的地を目指すことにしました。
4つ目の島、生口島(いくちじま)です。
▼大三島(おおみしま)から生口島へと向かう多々羅大橋。
生口島に上陸、耕三寺(こうさんじ)というお寺の広い駐車場に車を止めます。
今回の相棒、HondaのFit。よく走ってくれて、かわいい。▼
▲境内には蓮の植わった鉢が、ずらっと並んでいます。昼下がりには咲いていません。
ここもまた、友人の勧めで、耕三寺がおもしろいというので、行ってみたのです。
この寺は、昭和の半ばごろに、耕三寺耕三という名の大阪の実業家が、浄土真宗のお寺を建立したのが始まりだそうです。かなりのお金持ちでいらしたようで、東西の美術品や文化財などをたくさん集め、それらを博物館として公開することにしたとか。
金ぴかなお堂や、地下に掘られた長い洞窟には、興味がわきませんでしたが、白亜の大理石でできた「未来心の丘」は、国内ではなかなかに珍しいスポット。小径も階段もベンチも、そびえたつモニュメントも、すべてが真っ白な大理石で出来ているのです。
日本人の彫刻家が手掛けたというその広さは5000平方メートル。小高い丘をすっぽり覆うほどの大理石は、イタリアで採掘され、コンテナ船で運ばれたそうです。どれほどの費用が掛かったことか、お寺の財力はいかばかりか……と、観光客の私は俗な思いに駆られてしまいますが、瀬戸内海の青さ、空の青さ、そして白い石のコントラストは、たしかに印象的でした。
▲八百屋さんの店先のポストはレモン色!
これから渡っていく生口橋が見えてきました▼
▲青いのはフロントグラスの色。
生口島を離れ、尾道でようやく本州に到着。途中、休憩を取りながら、ひたすら広島まで西方向にどんどん走っていきます。
広島のビル群が見えてきた時には、ようやくホッとできました。
午後4時ごろ、無事300キロを完走!
うん、まだまだいけそう。
2012年、始めたばかりのブログに、8月の北海道の旅を、7回シリーズで載せています。写真も選りすぐりで、旅のアルバムを一緒に楽しんでいただけたらうれしいです。
カテゴリ一覧の「北海道の旅」をクリックしても選択できるのですが、ブログの設定上、新しい順、つまり7回目が最初に出てきてしまいます。
1回目からお読みいただけるよう、以下に一つずつリンクを貼りましたので、ぜひご覧ください。
2012年09月02日 旅のエッセイ: 突然ですが、北海道へ。
2012年09月04日 旅のエッセイ: 「トマム?」から「トマム!!」へ (1)
2012年09月05日 旅のエッセイ: 「トマム?」から「トマム!!」へ(2)
2012年09月08日 旅のエッセイ:ドライブin富良野(1) ―
2012年09月16日 旅のフォトエッセイ:ドライブin富良野(2)
2012年09月23日 旅のフォトエッセイ:ドライブin富良野(3)
2012年10月07日 旅のフォトエッセイ:旭山動物園
長崎の原爆の日に ― 2022年08月09日
77年前の夏、8月6日に広島に原爆が投下され、さらに9日には長崎にも投下されました。
毎年、夏休みやお祭りなど、浮かれることの多い8月は、その一方で、戦争と平和について考える大切な時期でもあります。
特に今年は、ロシアがウクライナを攻撃するという現実の戦争が起きてしまいました。核を手放したウクライナを、核によって威嚇するという卑劣な手段で、ロシアは侵攻を続けています。
日本も、他人ごとではありません。「核兵器の使用がもはや杞憂ではなく、今ここにある危機だ」と、長崎市の田上市長も、今日の式典で述べていました。
日本は、世界唯一の被爆国として、その立場をはっきりさせ、核廃絶のための努力を続ける責任があります。まずは核兵器禁止条約に批准してから、核保有国に核軍縮を働きかけていかなければ。
長いこと、広島を訪ねたかった。初めて原爆投下された地に立ってみたかったのです。ようやく、この5月、悲願がかないました。
77年前のその日と同じように快晴で、広島の平和公園は、きれいに手入れをされた薔薇や緑が美しく、かつての惨状を想像することはできませんでした。
原爆ドームだけが時間の止まった芝居のセットのように、そこに佇んでいました。
日本のカトリック教会は、広島原爆の日の8月6日から長崎の9日を経て、終戦記念日の15日までの10日間を「平和旬間」としています。これらの出来事を深く記憶に留め、平和について考え、平和を祈り、平和のために行動することを求めています。