南フランスの旅のフォトエッセイ:⑨シャガール美術館へ2024年08月28日

 

ステファニーさんのガイドツアーが終わって、ディナータイムにはまだ少し時間があったので、シャガール美術館まで送ってもらいました。

 


マルク・シャガールは、1887年、ロシアのユダヤ人の家庭に生まれます。画家を志して美術学校に通い、20世紀になると、芸術家の集まるパリへ。

しかし、世の中は第二次世界大戦のただなか、ユダヤ人である彼はナチスの迫害を受け、アメリカに亡命するのです。

戦後、フランスに戻ると、フランス国籍を取得。ニース郊外のサン・ポール・ド・ヴァンスに居を構えます。


やがて、当時の文化大臣アンドレ・マルローと親交を持つようになり、パリのオペラ座の天井画制作を依頼され、1964年に完成させました。

私はもう何年も前のこと、パリを訪ねた時、どうしてもシャガールの描いたその天井画が見てみたいと思った。でも見学のチャンスがなく、頼み込んで楽屋の小さな窓から、こっそりと覗き見させてもらったことがありました。いつ、誰と、どうして……はもう記憶にないのですが、シャガール独特のふわふわしたブルーの色調が、重厚な建造物の一部となっているのが垣間見えました。


また、1966年には17点に及ぶ『聖書のメッセージ』の連作も、フランス国家に寄贈しています。

マルローは、この連作をはじめとしたシャガールの作品を展示する国立美術館を造ることに尽力し、1973年、ニースのこの地に建設したのです。

その後もシャガールは1985年に亡くなるまで、この美術館に作品の寄贈を続けたそうです。

 

 

さてその日、チケット売り場で入場券を買おうとすると、

「本日は無料です」

と言われました。ほとんどの作品が、どこかの町か外国か、展覧会にお出かけ中で、少ししか残っていないそうで……。

なんという不運でしょうか。それでも「館内に入ることはできる」というので、入りました。



 

小ぢんまりとしたコンサートホールの壁面にはステンドグラスがあり、ステージに置かれているのは、彼の絵が施されたグランドピアノです。このピアノの音色からは、画家の魂が響いて聞こえるのかもしれませんね。

 

さらに、『聖書のメッセージ』の大作がずらりと並び、残り時間が少なくて、心残りでした。本当に無料では申し訳ないくらい。こんなにたくさんの大作に会えるなんて、不運どころかラッキーだったのでしょう。どの絵も、2メートル、3メートルという大作なのです。


▲「人類の創造」


▲「楽園」 
縦が2メートル、横が3メートルほどの大きな絵です。


▲「アブラハムと三人の天使」

この絵はどこかで見たような……と思いました。それは私が持っている手のひらサイズの小さなカードでした。

この絵は15世紀にロシア人の画家が描いたもので、ロシアには古くからイコンという宗教画の歴史があり、シャガールもその影響を受けているといわれています。三人の天使の顔の向きも似ているし、テーブルについているというのも同じ。画家はきっとこの絵から着想を受けたのでしょう。

彼が描いたのは、旧約聖書の創世記のお話です。後ろの青い服の男性がアブラハムで、左の女性が妻のサラ。夫は100歳、妻90歳の老夫婦なのに、天使たちは「来年男の子を授かる」と神のお告げを伝えるシーンです。

私が持っていたカード。ルヴリョフというロシア人画家による「三位一体」。▼



▲「イサクの犠牲」

神様のお告げのとおり、1年後にサラは男の子を生み、お告げに従って、イサクと名付けます。それがこの絵の横たわる人物です。神様はアブラハムの信心を試すために、「イサクをいけにえとして捧げなさい」と言われます。(なんということを!) しかし、アブラハムは神を恐れ、神に従うのです。最愛の息子を薪の上に寝かせ、その胸にナイフを突き立てようとした瞬間、天から「わかった、もういい。何もするな」という声が聞こえてきて、イサクの命は助かったのでした。

アブラハムがどれほど苦しみ、そして、安堵したことか。赤く燃えるような血の色が、アブラハムの心からにじみ出ているような絵です。

 

まだまだ他にもありましたが、

「閉館の時刻です!」というアナウンスに、追い立てられるように展示室を後にしました。


 ▲出口のそばには、「青のバラ」という名のステンドグラス。


広い敷地に緑あふれる庭も、木陰の小さなカフェも、次の機会にはゆっくり立ち寄りたいと思いました。▼

 


             【⑩エズ村】に続く


南フランスの旅のフォトエッセイ:⑧サン・ポール・ド・ヴァンス村のフォトアルバム2024年08月17日


マティスの礼拝堂を見た後、最後に訪れたのがサン・ポール・ド・ヴァンスという村でした。小高い丘の上にあって、古代ローマ時代から中世にかけては要塞として何度も城壁が築かれたそうです。

やがて19世紀になると、温暖な気候や景観のすばらしさから、多くの人が訪れるようになり、芸術家や作家たちも住みつくようになりました。

マルク・シャガールもそのひとり。20年もここで暮らし、村の墓地に葬られています。(残念ながら、お墓参りはできませんでした)

ちなみに元フジテレビアナウンサーの中村江里子さんも、この村出身の男性と結婚し、ここの教会で挙式をしたそうです。

石畳の坂道、階段、古い石造りの壁も家も、たくさんの植物や花たちをまとって、とてもオシャレなたたずまい。ため息が出ました。
そんな写真をご覧いただきましょう。


城壁のトンネルをくぐって、村の中へ。石畳まで美しい。


芸術家の村らしく、アートを扱う店も多くみられました。



わきの階段を下りると、遠くの景色も見下ろせます。


ブーゲンビリアも花盛り!




写真屋さんの壁には、ピカソの写真パネルのほかにも、スティーブ・マックイーン、アラン・ドロンなど、往年のスターたちが飾ってありました。懐かしい。



この水道のお水は飲めます。



専属モデルのHiromiさん(笑) ジャスミンの咲き誇る家の前で。


入り口の広場まで下りてきました。


白い日よけの下には、たくさんの出店が並びます。


▲自分でこしらえた手芸品のかずかずを売る女性。

ステファニーさんによると、フランス人は手作りを高く評価するので、買い手は値切ったりしないそうです。鉢カバーを買おうかと迷ったけれど、なにしろ円安でユーロが最高値の頃だったので、思い留まりました。


広場のカフェで、クロックムッシューを食べました。写真も撮らずに食べてしまいましたが、パンもチーズも、ガツンとくる美味しさでした。

ステファニーさんの著書を持参して、カフェのテーブルでサインをしてもらいました。

Merci beaucoup!



南フランスの旅のフォトエッセイ:⑥ニースの浜辺のサプライズ2024年07月26日

 

ニースに着いた翌日は、ステファニーさんのガイドで、念願のマティスのロザリオ礼拝堂を訪ねて、早くも旅の目的を果たすことができ、満たされた気分でした。

そして、夜はコート・ダジュール初のディナー。Hiromiさんとふたり、ステファニーさんお勧めのレストランで、地元のロゼワインとともに美味しい料理を満喫。それは、また次回に書きましょう。

 

ところで、コート・ダジュールというのは、南フランスの地中海沿いで、とくに美しい海岸があり、温暖な気候から保養地になっている地域のこと。ある作家が『ラ・コート・ダジュール』という小説を出版したことから、この呼び名が定着したとか。日本語に訳せば、「紺碧海岸」ですね。

地理的にいえば、プロヴァンス=アルプ=コート・ダジュール地域圏の中にあり、私たちには、プロヴァンスという名もよく聞くので、はて、その違いはというと、これまたよくわからない。大ざっぱに言えば、神奈川県の海岸沿いのおしゃれな地域を「湘南」と呼ぶようなものでしょうか。

そのコート・ダジュールの中心的な都市のひとつがニースです。

 

夕食後、ほろ酔いで店を出ても、まだまだ明るい。気持ちのいい風に吹かれて、ニースの浜辺をそぞろ歩きました。ホテルのカーペットの模様と同じような石ころの浜が広がっています。泳いでいる人もいれば、男女混合でサンドバレーに興じる若い人たちもいる。日本人はほとんど見かけません。


夜の8時過ぎの浜辺▼


男女混合でサンドバレーを楽しむ人たち▲

 

ふと見ると、男の人が砂の彫像を作っています。腹ばいになった犬の形をしている。彼のアートにチップを上げようと、コインを探しました。

と、その時、



「これ、何犬ですかね」と、後ろから男の人の声。しかも日本語の。

「え?」と驚いて振り向くと、サングラスをかけたイケメン風の男性が立っている。「ええーっ?」と、2度びっくり。どう見ても、フランス人です。

「今、日本語、しゃべりましたよね。日本人には見えませんけど……」とHiromiさんが思わず尋ねました。



「僕はニースに住んでいるフランス人。名前はトマといいます。日本語を勉強して、日本でも何年か暮らしたことがあるんですよ」

「あら、私も昔は外国人のための日本語教師をしていたんですよ」と話すと、興味を持ってくれたらしい。

「僕は日本語を忘れないために、日本人と会話がしたいんですけど、お時間があれば、ちょっとお茶でも飲みませんか」と、流ちょうな日本語で、ナンパされたのです。もちろん、断る理由など何もない。あとはホテルに帰って寝るだけ。息子ほどの年の男性に誘ってもらえるなんて、旅先のうれしいハプニング。Hiromiさんも異論はなさそうで、ふたりでトマ君についていきました。

 

浜辺に面した明るいテラスで、ハーブティーとソッカというお好み焼きのひとくちサイズのようなニース名物をご馳走になりました。



彼は、日本ではディオールやヴィトンなどのモデルの仕事をしていたと言います。たしかに背も高くてルックスもいい。その写真も見せてくれました。

「でも今は、いずれニースで日本そばの店を持ちたいので、そのための準備中なんですよ」と話す。


「今日はどこかに出かけましたか」と聞かれたので、ステファニーさんのガイドであちこち連れて行ってもらった話をすると、

「ステファニーならよく知っていますよ! ぼく、同級生でした」

「えええーっ!」と、3度目のびっくり。地元の高校で一緒に日本語を学び、パリの大学でも一緒だったというのです。ニースはなんと狭いのでしょうか。

最初はちょっと警戒したけれど、ステファニーさんに連絡してみればすぐわかること。トマ君の言うことを信用しよう、とちょっとほっとしました。

ステファニーさんからも聞いてはいましたが、高校の日本語の授業では、漢字を何百と覚えさせられ、読み書きをきっちりと学んだそうです。だからこそきちんとした日本語を話せるのだろうと推測できました。彼らにとって日本語をマスターする難しさは、教師だった立場からもよくわかるのです。

トマ君、見かけと違って、意外と真面目でひたむきなのかもしれない、と見直したのでした。

 

「明日はママの誕生日だから、お寿司をご馳走するんだ」と彼が言ったとおり、翌日には、お寿司の写真と、はつらつとしたママとのツーショットが届きました。

彼には黙っていたけれど、じつは私は、彼のママと同い年。ニースにもう1人の息子ができたような気がして、なんだかうれしくなりました。

 

ステファニーさんからも、メールが来ました。

「ニースでトマ君に会ったのですか? あまりにも偶然でびっくりです、笑」

 

かつては一期一会だった旅の出会い。今はSNSで簡単に繋がることができます。世界は小さくなり、私の世界は広がっていく。

ときどき、2人の投稿を見ては、「いいね♡」を送ったり、コメントを書いたり。

またいつか、ニースに行くことも、彼らと日本で会うことも、もう夢ではなくなりました。

 

     (⑦に続く)


南フランスの旅のフォトエッセイ:⑤Hotel Beau Rivage2024年07月15日


ニースで3泊したのは、Hotel Beau Rivage (ホテル・ボー・リヴァージュ)という4つ星ホテルでした。

Beau Rivageとは、フランス語で「美しい海岸」という意味です。その岸辺に建つホテルだという自負があるのでしょう。旧市街からも近く、立地条件の良さは抜群です。


 

ホテルの廊下には、リアルな小石模様のカーペットが。▲

 

このホテルには、もうひとつ、すごい歴史がありました。それを知らずに予約してもらっていたのですが……。

1917年に、アンリ・マティスは初めてニースにやって来た。その時に泊まったのが、このホテルだったのです。しかも、それはクリスマスの日だったそうで、寒くて暗いパリから、暖かな陽の光が満ちているはずのニースへ、明るい希望を抱いてやって来たことでしょう。がしかし、運悪くひと月も雨が降り続いたとか。

その107年後、私たちは同じホテルにチェックイン。宝くじに当たった気分です。

きれいにリフォームされて、当時の面影はないのかもしれませんが、ロビーにも朝食をとるレストランにも、マティスのポスターや複製画がたくさん飾られていました。


 


 こうした旅の魅力が膨らむ情報をくれたのが、町田陽子さん。私たちの旅にとって、ステファニーさんと並ぶもう一人のキーパーソンです。

このシリーズ「南フランスの旅のフォトエッセイ」のプロローグとして、出発前日の6月3日に書いた記事「南フランスへ」の中でも、著書とともに紹介しています。

とくに今回のシリーズは、彼女がJAL機内誌SKYWARDに載せた「南フランス アンリ・マティスの光」という記事を参考にさせていただきました。プロのライターのメリハリが利いた文章も魅力のひとつ。ぜひお読みください。

WEBマガジンで読むことができます)



さて、その美しい海岸で、サプライズに遭遇します。

次回、お楽しみに。 

    

(⑥に続く)


南フランスの旅のフォトエッセイ:③マティスのロザリオ礼拝堂へ2024年07月04日

 

そもそも、私がこのマチスの礼拝堂の存在を知ったのは、昨年の夏、東京でのマティス展でした。その展示と動画を見た時、ここへ行きたい。次にヨーロッパへ行くなら、この教会のある南フランスへ。そう思ったのでした。

 

▲昨年のマティス展で購入したA5サイズのクリアファイル。見開きにポケットもあり、今回の旅ではバッグに入れて便利に持ち歩いていました。

 


礼拝堂のステンドグラスを透した光が美しいのは午前中、とりわけ冬の11時ごろだ、とマティス自身も言っていたそうです。ステファニーさんに朝早く出発してもらったのですが、ヴァンスの街に着いた頃にはあいにくの曇り空になっていました。


▼まず、道路わきに車をとめると、屋根から伸びた細くて華奢な十字架が目に入ります。向こうの黄色い建物はドミニコ修道会のものです。

 

▼道路と反対側に回ると、庭があり、ブーゲンビリアが咲き、ブドウ棚の葉も茂っていました。見晴らしがよい丘の中腹に位置することがわかります。


▲ここが入り口。憧れのチャペルにはるばるやって来たことに胸ときめかせながら、足を踏み入れたのですが、中に入ると、まず礼拝堂の手前にあるのは、美術館のような展示スペース。2016年に訪れる人々のために設けられたのだそうです。チャペルの中は撮影禁止なので、ここでたくさんの写真を撮りました。

そして、ようやくその奥へ。


(▲上2枚の写真は、絵はがきを写したもの)


それは小さな礼拝堂で、50人も入れば満席になりそうな椅子が並んでいる。奥まった位置には別の椅子が並び、それはシスター(修道女)たちの座る場所だそうで、祭壇は、一般の人びととシスター席の両方に向くように、斜めに据えてありました。

祭壇の背後には、何かの植物の絵のステンドグラスが……。切り絵をモチーフにしたその柄をよく見ると、黄色いのは葉ではなく花で、ネイビーの部分が楕円形の葉だと気づきました。そう、サボテンです。そういえば教会の庭にも同じ形のサボテンがありました。

(▲これも絵はがきです)


▲サボテンのステンドグラスの外には、本物のサボテンが負けじと大きく茂っていました。

 

横の壁には、天井まで届きそうな細い窓がいくつも並び、ステンドグラスには、ネイビーと黄色の大胆で鮮やかな切り絵の葉が、コバルトグリーンを背景に描かれています。「生命の木」と呼ばれているそうで、ここから日が差し込めば、天国のような光に満ちた空間が生まれるのでしょう。

▼これは、展示スペースにある写真。作者マティスが写っています。


白いタイルの壁には、晩年のマティスが好んだシンプルな黒い線で描かれた聖母子像や、十字架の道行きの絵がありました。

下の写真は、その聖母子像の下絵を描いているマティスの写真です。



 

この「十字架の道行き」というのは、キリストが死刑判決を受けてから、十字架を担って歩き、三度倒れ、十字架にはりつけにされて死に、墓に葬られるまでの14の場面を描いたもの。一般的に教会では、それぞれの14枚の絵が礼拝堂の壁に順を追って掛けられているのですが、マティスはコンパクトに一枚の絵に収めています。

ステファニーさんは、私が「道行き」という言葉を使ったことに耳をとめ、その日本語を確認していました。ガイドとして、今なお日本語のブラッシュアップを心がける姿勢に頭が下がります。


 

マティスは晩年、がんに侵されます。その療養中に献身的な看護をしてくれた女性がいたのです。話し相手でもありモデルとしても、画家に尽くしました。やがて彼女がドミニコ会の修道女となり、会のための礼拝堂を作りたいと望んでいることを知り、マティスは自分にやらせてほしい、と申し出ました。そして、4年の歳月をかけて、彼の芸術のすべてを注ぎ込んで完成させたのだそうです。

その3年後、彼は天に召されました。

ピカソもシャガールも、芸術を通して深い親交があったはずなのに、彼の葬儀に姿を見せなかったといいます。マティスがロザリオ礼拝堂を請け負ったことに嫉妬し、その出来栄えにも嫉妬したのかもしれません。

そんな人間臭いエピソードが、聖なる場所である礼拝堂に絡んで語られる。じつにおもしろいと思いました。

光に満ちたニースの空、風、海、植物たち。そしてこの地にやってくる芸術家たちの人間模様。何もかも神様は微笑みながら見ておられる。マティスのことも、やさしく天国に迎え入れたことだろうと、ひそかに想像してみました。

 

マティスが亡くなったのは、私の生まれた年。それもほんの2ヵ月前だったのです。ここまでやって来たのはたんなる偶然だとわかっていても、日常を離れた旅先で、不思議な巡りあわせを感じました。


                (④に続く)

 


南フランスの旅のフォトエッセイ:②ルノワール美術館へ2024年06月26日


 

マイ・コート・ダジュールのサイトに問い合わせをし、何回もメールのやり取りをして、6時間のチャーターツアーをステファニーさんにお願いすることに決めました。ニース近郊のルノワール美術館、マチスのロザリオ礼拝堂、サンポール・ド・ヴァンス村の3ヵ所を、彼女の運転する車で巡ります。



夜遅くニースのホテルに着いた翌朝、青空が私たちを歓迎してくれました。

海沿いの道路をステファニーさんが運転する大きなベンツで走っていきます。「イギリス人の遊歩道」と呼ばれる海辺の道を、たくさんのジョガーが走っていきます。気持ちよさそう!



最初に訪れたのは、カーニュ・シュル・メールという小高い丘の上にあるルノワール美術館。

ルノワールは、モネと並んで日本人にはなじみ深い印象派の画家です。40代からすでにパリの画壇では認められた存在になっていましたが、晩年、リウマチを患い、医師から温暖な南仏で療養することを勧められ、この地にやってきました。



1907年には、広いオリーブ畑の敷地を買い取り、この家を建てました。現在は遺品が展示されて、美術館として利用されています。



ルノワールの身を包んだケープ、ステッキやベル、けん玉もありました。

彼の絵具箱、イーゼル、腰かけた車いすも、部屋の中に並んでいます。




ルノワールは、妻のアリーヌと、3人の男の子に囲まれ、また、たくさんの弟子たちも出入りする賑やかなサロンのような家で、幸せな晩年だったのではないでしょうか。

私はかつて、ルノワールのふやけたような女性の絵Pardon! 失礼 は、あまり理解できませんでした。でも、最近はようやくわかりかけてきたような気がします。光を分解して、たくさんの色遣いで描かれた人物像は、その人の内面まで浮かび上がらせる。ルノワールが愛情を注いだ家族も、愛らしい子どもたちも、生き生きとして見えるのは、そのせいかもしれません。




女性用の日傘や帽子とともに、「大水浴図」の絵が▲



ルノワールの部屋の鏡を使って、3人の記念写真をカシャリ。▲

左がステファニーさん、右がHiromiさん。



広い庭には、オリーブの木や菩提樹も、今なおルノワールの描いた景色がそのままに残され、遠くの旧市街の街並みも、大きくなった木々のはるか向こうに見ることができました。▼



▲彼が描いた農家の倉庫も当時のまま。


 ルノワールの遺品をたくさん目の当たりにして、彼が生きて絵を描いた空間にいることが、なんとも不思議な気持ちでした。

昨日までは、私は日本にいたのに……、今は20時間近くかけてやって来た南フランスの丘で、地中海からのさわやかな風に吹かれている。夢を見ているのかも、とちらりと思ったのでした。


                  (③に続く)



南フランスの旅のフォトエッセイ:①ステファニーさんとの出会い2024年06月21日

 

201910月にクロアチア旅行をした後は、翌年の1月から新型コロナのパンデミックが始まり、海外旅行はおあずけとなりました。

昨年20235月にようやくコロナが5類移行となり、いろいろなことが解禁となり、私もコロナ以前の暮らしに戻れると期待したのでしたが……。

7月には遅ればせながらコロナに感染したり、夏にはぎっくり腰にやられて動けなくなったり……。同じころに義姉が脳出血で倒れ、入院中の義姉と、実家に一人残された高齢の義母との2人の世話をすることになったり……と、のんきに旅行どころではない難題が立ちはだかりました。

それも何とか落ち着いてきて、今年こそはいざヨーロッパへ。その希望をかなえるべく、ひそかに計画を進めたのでした。

 


まずはガイドブックを見つけようと立ち寄った本屋さんで手にしたのが、『ニースっ子の南仏だより12ヵ月』でした。フランス人の女性が日本語で書いた本! かつて日本語教師をしていた私としては、それだけで興味津々です。

著者のステファニーさんは、高校生の時に日本語を学び始め、さらにパリの大学で勉強を続け、日本にも何度か留学したことで、読み書きもでき、流ちょうな日本語が話せるようになっていったのです。彼女の努力と、日本語への愛情のたまものにほかなりません。

こうして、その稀有な能力を生かし、日本人のための観光ガイドとして地元ニースで活躍してきました。この15年間、毎年ほぼ400人の日本人を案内しているとか。今ではマイ・コート・ダジュールという会社の代表であり、結婚して2人の男の子の母親でもあるという、スーパーレディなのです。

 

この本と出合えて、ラッキーでした。

私は、若いころからフランスが好きで、パリへは何回も訪れていますが、なぜか南仏に足を延ばしたことはありません。でも、昨年、東京で開催されたマチス展で、マチスが最後に手がけた南仏のロザリオ礼拝堂のことを知り、ぜひそこに行ってみたいと思ったのです。

今度の旅は、南仏へ行こう。

手がかり、足がかりは、ステファニーさんにアクセスすることから始まりました。

 

そして旅の道連れは、前回のクロアチアでも一緒だったHiromiさん。

彼女はすでに昨年、コロナ解禁後にイギリス旅行をしていましたが、初めての「南仏の旅」に心が動いたと言って、付き合ってもらえることになりました。

                             (②に続く)


▲菩提樹の木の下で、左がHiromiさん、右がステファニーさん。


南フランスへ2024年06月03日



 

明日から、5年ぶりの海外旅行に出かけます。

行き先は、オリンピックで賑やかしそうなパリを避けて、南フランスを訪ねます。

 

★『ニースっ子の南仏だより12カ月』ルモアンヌ・ステファニー著

★『南フランスの休日 プロヴァンスへ』町田陽子著

 

この2冊に導かれて、旅の計画が出来上がっていきました。

ニースと、アヴィニョンで、それぞれの著者にお世話になる予定です。

 

帰国したら、少しずつ、旅のフォトエッセイをブログに載せていけたら、と思っています。

それでは、行ってまいります❣

 


ロングエッセイ:「アー友とアートを見にいく」2024年04月09日

 

所属するエッセイグループでは、毎年1回、会誌を発行しています。各メンバー1編のエッセイを掲載します。1編の長さは冊子の2ページから4ページまで。字数にして1600字から3400字までとなっています。3400字で書くチャンスはめったにないので、今回もその長さに挑戦しました。

長いですが2編分だと思って、最後までお読みいただければ幸いです。

 

 

 ** アー友とアートを見にいく **

 

大学時代、西洋美術史を専攻した。キリスト教文化に始まって、ルネッサンスを経て、印象派やピカソに至るまで、西洋の芸術を追い求めた。歴史、哲学、美学など、新しいことを学ぶ興味は尽きなかった。

当時、同じ学科に属し、同じ美術部で油絵を描いていたC子は、私のアー友第1号だ。アート好きの友達を、私はこう呼んでいる。当時から2人で絵画展に足を運んだものだ。卒業後、人並みに結婚し、転勤や子育てに追われる時期を過ぎると、一緒にヨーロッパに出かけて、教室のスクリーンで見た絵画や建築の本物を、感激しながら見たこともあった。それぞれ埼玉県の大宮と神奈川県の川崎に住み、北と南から都心に出かけていっては芸術鑑賞をし、その後の食事でおしゃべりに花を咲かせるというのが最近のパターンだ。ある日のこと、

「クリムトやモネもいいけど、ここまでくると、その先を見たくなるよね」

「だから今、現代アートがおもしろいのよねー」と、2人の意見が一致した。

 

昨年の秋、3年に1度の国際芸術祭を開催中の直島(なおしま)へ出かけた。誘ってくれたのは2人のアー友。同じマンションに住む子育て仲間だったのが、今では趣味や旅行を一緒に楽しむ気のおけない友人たちだ。

直島は、穏やかな瀬戸内海に浮かぶ小さな島。およそ30年前、ベネッセの初代社長が、ここで壮大なプロジェクトを立ち上げた。その名も「ベネッセアートサイト直島」。自然豊かな島と、そこで暮らす人々と、人間の作り出すアートとがコラボして共生する特別な場所を生み出そうというのだ。長い年月をかけていくつものホテルや美術館ができ、周辺の島にもプロジェクトは広がっていった。

四国の高松港から船に乗る。船が接岸する前から、港に黒い水玉模様の大きな赤いカボチャが見えた。おなじみ草間彌生さんの作品だ。島のシンボル的存在で、来訪者を迎えてくれる。

着いたその日、夕刻にオープンするカフェのテラス席で、スパークリングワインのグラスを傾けながら、金色の太陽が海の向こうに沈んでいくのを見つめていた。それもまた一幅の絵のようだった。

宿泊するベネッセハウスは、ホテルと美術館とが一体化したような造りだ。コンクリートむき出しの壁や廊下やホールのあちこちに、現代アートが姿を見せる。夕食後にはそれらを巡る解説ツアーに参加した。

現代アートは、芸術の概念を打ち破るところから始まるのだから、四角い額縁などに収まってはいない。断崖で海風にさらされ続けた写真パネル。アリたちが巣作りをして模様を増やしていく砂絵。がれきを鉛の板でくるんだ巻き物の積み重ね。しゃべり続ける3人のロボット……。言葉では描写しきれない意味不明の作品たちだ。

解説者はわかりやすく謎解きをしてくれる。作品群の大きなテーマは、時の表現だという。たしかに、経年劣化した画材や、海辺の古木にも時が宿る。季節の移ろい、年月の流れのなかで形を変えていくのだ。

「なるほど……。よくわかるね」と、私たちは解説を聞いて、芸術鑑賞ができた気分でうれしくなる。

翌日は町に出て、芸術祭の「家プロジェクト」を楽しんだ。使われなくなった古い家屋を、著名なアーティストが芸術作品に変えているのだ。古民家がよみがえり、畑の中にオブジェが立ち、世界中から観光客が押し寄せる島で、お年寄りたちも元気に活躍している。日焼けしたバスの運転手さんはかなりのお年だが、狭い道もビュンビュンと走る。

「芸術のことはよくわかんないけどな」とつぶやいて、くしゃっと笑った。芸術祭に理屈はいらないのだ。島興しにも一役買っている。

 

 

直島の旅を終えて、現代アートがわかった気になったけれど、別の作品と向き合うと、やっぱりわからない。うーん、と考え込んでしまう。そんな時、ある友人から、1冊の本を薦められた。

『目の見えない白鳥さんとアートを見にいく』。タイトルを読んだだけでも衝撃的だ。一体どういうこと? 

白鳥さんは、50代の全盲の男性。幼い時から「あなたは目が見えないのだから、人の何倍も努力しなさい」と育てられた。やがて、盲学校の寄宿舎に入って身辺自立の訓練を受け、マッサージ師の資格も取る。「障害があって大変」「かわいそう」と言われることに疑問を持ちながら、白杖を頼りにどこへでも出かけていき、コンサートを楽しんだり、鉄道ファンになったり、〈普通〉の人に近い行動をとるようになっていく。

そして、彼女ができた。目の見える彼女が、ある時、「美術館に行きたい」と言った。デートにぴったりだ、と喜んで、白鳥さんは美術館を初体験。デートの楽しさと相まって、美術館がお気に入りの場所となる。盲人らしくないからこそ美術館に行ってみたい。持ち前の反骨精神だ。かくして白鳥さんは、見たい美術展があると自分で電話をかけては、盲人が鑑賞するという前例のない美術館の扉を、一つひとつ開いていったのである。

この本の著者は、川内有緒さんというノンフィクション作家だ。彼女の友人を介して白鳥さんと出会い、3人で美術鑑賞に出かけるようになった。まず、作品の前で目の見える2人がコメントする。何が描いてあるのか。どんな印象か。思いつくままに言葉を交わす。ときどき白鳥さんも質問を挟む。ありきたりの解説より、2人にもわからないことがあったり、意見が食い違ったりするほうがおもしろい。2人のやりとりの息遣いまでもが、白鳥さんにとっての絵画鑑賞となるのだという。

ある時、絵画の遠近法の話になった。「遠くにあるものは大きいビルでも、手前にある小さなリンゴに隠れてしまう」という説明を受ける。すると白鳥さんが叫んだ。

「えー、隠れるってなに? わかるけど、わからない!」

これを読んだ私は、頭をガツンとやられたようなショックを受けた。以前、自閉症の長男についてのエッセイで、自閉症の理解の難しさに言及し、「視覚障害を理解するにはアイマスクを付ければいいが、自閉症はその手段がない」と書いたことがある。なんと不遜だったことか。安易だったことか。健常者がアイマスクを付けたとしても、見える記憶がある限り、けっして全盲の人と同じにはなれないのだ。大きな間違いに気づいた。

川内さんは言う。どんなに一緒に絵を見たとしても、同じものを感じることはできない。たとえ見えても見えなくても、人間はみなひとり。そばにいて、一緒に絵を見て、そして一緒に笑っていられたらそれでいいのだ、と。

  

この本を紹介してくれたのは、独身時代、職場の同期だったK子だ。私がさっさと退職した後も、馬が合うのかずっと友達でいる。子育てが終わってから、彼女は都内の美術館で、見学に来る子どもたちの相手をするボランティアを続けている。ある日、彼女の美術館にも白鳥さんがやって来て、アテンドをしたそうだ。

そんなわけで、K子も私のアー友だ。美術館を巡る旅に2人で出かけることもある。やっぱりアー友と一緒がいい。この3年間はコロナ禍のせいで、1人旅も多かった。1人の自由や気楽さを満喫しながらも、背中合わせの緊張感や、気持ちを分かち合えない寂しさが付きまとった。

ちなみに、私は草間さんのカボチャが大好きだけれど、K子は「見ただけで気持ちが悪い」と顔をしかめる。私は思わず吹き出してしまう。

それでいい。そこがいいのだ。

 

20239月 記】


☆直島の旅のフォト☆

 

▼直島の港に鎮座する草間さんのカボチャ。中に何人も入れるほど、大きい。


▼夕日を眺めながら、乾杯。


▼おしゃべりを止めない3人。


▼床から天井まで積み上げられた鉛の巻き物。年月を経て、だんだんつぶれてきて、天井に隙間が生じている。


▼壁のドル紙幣は、横1メートルほどのパネルに入った砂絵で、アリたちがせっせと通り道を伸ばしていく。


▼「町プロジェクト」の作品の一つ。もとは歯科医の家だったもので、吹き抜けには巨大な自由の女神が立ち尽くしている。


▼隣の島の女木島(めぎじま)には、海辺に帆の付いたピアノがあった。音は鳴らないけれど、風を受け、日を浴びながら弾く真似をすると、心の中に音楽が広がる。


▼川内有緒著『目の見えない白鳥さんとアートを見にいく』。ぜひ読んでいただきたい、オススメの本でもあります。



おススメの「山下清展」2023年08月03日


新潟県長岡市では、昨日と今日、長岡まつりの花火大会が開催されています。

昭和20年の長岡空襲で亡くなった方1,488名の鎮魂の花火です。

まだ実際に見たことはありませんが、一度訪れたいと思っています。

 

昨日、テレビのニュースの映像で思い出したのが、この絵はがきです。



 今年4月に、滋賀県の琵琶湖のほとりにある佐川美術館を訪ねました。

そこで、「生誕100年 山下清展―100年目の大回想」という壮大な展覧会を見て、感動して買い求めたのでした。この写真からは、これが貼り絵だとはわからないでしょうね。花火の線は、1本ずつこよりにしたものが貼られている。緻密な手作業に驚きました。山下画伯の人生と、その芸術品のかずかずに、圧倒される思いでした。

 

展覧会は巡回して、現在は東京都新宿区のSOMPO美術館で開催中です。

私も期間中に行くことができれば、ぜひもう一度見たい。

皆さんも、ぜひどうぞ。

 

もう1枚買ったのは、ペンで描いてから水彩画に仕上げた「パリのエッフェル塔」。

パリを訪れた画伯が、どれほど心を動かされたことか、と想像に難くありません。



私も、今年こそはまたフランスに行きたいと、切れていたパスポートを改めて申請したところでした。でも、悲しいかな、わけあって私のパリは遠のきました。

せめて、この元気が出る絵はがきを飾って、またチャンスがありますようにと祈っています。

 

▼佐川美術館は、まるで琵琶湖の水面にたたずむような趣がありました。










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