【まだ終わっていない! 子どもたちの3.11】2021年03月16日

 

以前にもご紹介してきた被災地の子どもたちを支援するNPO法人マザーリンク・ジャパン。代表を務める寝占理絵さんとは、東松島を復興支援するグループで知り合いました。現在は、陸前高田に拠点を置いて活動しています。

6年前には、私が愛車オデッセイを2号から3号に買い替える時、それまでの2号を譲って、陸前高田で使ってもらっています。

20131211日から、数回にわたってブログ記事にしました)

マザーリンクでは、不登校の子どものためのフリースクールを創るプロジェクトを進めていますが、まだまだ資金が必要で、寄付を募っています。


 

寝占さんからのメッセージ: 

あの日から不登校の子どものためにフリースクールを創りたい

Yahoo!募金『僕らの学校を創ろう!プロジェクト』


3.11の被災地で不登校・引きこもりになった子どもたちを救う」……そんな未来を一緒に共有しませんか?

東北の被災地域では津波の影響で、PTSDなどで不登校や引きこもりが震災前の5倍に増えました。10年経った今でも学校に行けないままの子どもたちが大勢います。大切な子ども時代を丸ごと10年間失っている、そう思うと居たたまれない気持ちになります。今でも宮城県の不登校率は全国ワースト1位です。

ほとんどの親が諦めムードです。それでも、私たちは諦めません。私たちはどうしても、こういった子どもたちを見捨てることができません。それが、10年も東北の支援を続けている理由です。

 

今、私たちはフリースクールを創る資金を募るため、4度目のクラウドファンディングに挑戦しています。

ご無理のない範囲で、ご寄付と情報のシェアをお願いできたら助かります。詳しくはこちらをご覧ください。

Yahoo!募金 僕らの学校を創ろう!プロジェクト


どうかマザーリンクにお力をお貸しください。

何とか3月中に2000万円を目指したいと考えています。

これまでのご寄付は「フリースクール建設費の特定資産」として、国にも届け出をし、きちんと積み立ててあります。今回のご寄付をそれに追加し、コロナ終息前に、本校舎の建築を進めたいと思っています。

全国各地で災害が起きたり、コロナウイルスの影響で身動き取れなかったりして、カメのような歩みとなっていますが、それでも私たちは諦めません。

皆さま、どうか、支援の輪を一緒に広げてください。

皆様のお気持ちが、東北の子どもたちに届きますように。

 


ブログをご覧くださっている皆さま、私からもよろしくお願いいたします。
ご無理のない範囲で、ご協力いただければ幸いです。


残り27日、ご支援お願いします!2019年07月09日

 

NPO法人マザーリンク・ジャパンの代表を務める寝占理絵さんは、岩手県陸前高田市に拠点を置いて、東日本大震災の被災者のために、今なお支援活動を続けています。おもに、一人親家庭や、学校に行けない子どもたちのために尽力されています。

 

これまでにも、ブログで何回か紹介してきました。(ボランティアのカテゴリー

彼女と知り合いになったのは、私が20122月から復興支援のお手伝いをさせてもらっていた時のこと。2013年には、わが家の車を買い替える時、それまでの愛車を引き取ってもらったこともありました。


寝占理絵さんと、かつての愛車ジョニーのツーショット。▲

 

現在、マザーリンクでは、クラウドファンディングを利用して、心の傷を負った被災地の子どもたちの学校づくりの資金を募っています。

子どもたちの3.11は、まだ終わっていません。 東北の被災地では不登校の子どもが5倍になったそうです。そして、8年たった今でも、学校に行けないままの子どもたちが大勢いるのです。



Ready forというクラウドファンディングのサイトをご覧になり、ぜひ、皆さまの温かいお気持ちを、寄せてあげてください。子どもたちの将来に、光をともしてあげてください。


私からもお願いいたします。

お友達とレストランでランチ1回分。ちょっと美味しいワイン1本分。家族のためのケーキひと箱……そのぐらいからでももちろん結構です。お心を寄せていただけるだけでもうれしいのです。

 



訃報 津川雅彦さん2018年08月09日


 

俳優の津川雅彦さんが亡くなりました。

 

6年前の2012220日のブログ記事に、津川さんと一緒に撮った写真を載せています。

▼写真中央の銀色のパンツの男性が津川さんです。



 

ひょんなことから知り合った若い女性の友人に誘われて、東日本大震災の復興応援プロジェクトに参加しました。その大勢の仲間たちと、数回にわたる宮城県東松島市の物産展のお手伝いをさせてもらったのです。津川さんも、そのプロジェクトに協力をしてくれていました。

今でも、当時のボランティア仲間たちとは友人として繋がっています。縁もゆかりもなかった東松島にも、かけがえのない友達がたくさん出来ました。

2012年の物産展をお手伝いした体験は、私の大きな宝物となったのでした。

 

だからこそ、津川さんの訃報を聞いた時には、本当にショックでした。

 

6年前に実際にお目にかかった津川さんは、相変わらずダンディで、白いおひげもカッコよく見えるほど、はつらつとしていました。少し前までおばさまたちを虜にする色男の代表格だったのですから。

ところが、愛妻家で知られる津川さんだからこそ、今年4月に朝丘雪路さんが亡くなった時にはすっかり悲しみに打ちひしがれた様子で、ご自身も肺を患っているとか、鼻からチューブを入れた痛々しい姿でした。

6年前との変わりように、大丈夫なのだろうかと心配になったものでした。

 

亡くなる当日まで、食欲もあり、仕事にも意欲的だったそうです。

さみしがり屋の奥様が呼ぶ声が聞こえて、ふっとそちらに行きたくなってしまったのかもしれませんね。

ご冥福をお祈りいたします。




続々・ジョニーからの伝言2015年04月16日

マザーリンク・ジャパンへのご支援、どうもありがとうございます!
おかげさまで本日、支援してくださった方の数は110名になり、目標の100万円を超えたそうです!

寝占理絵さんからも感謝の声が届きました。

 

今朝起きたらご支援者がちょうど100名に達していました~♪♪

本当に励まされる思いでいっぱいです。

ここ数日低迷していたのに昨夜から急に伸びました。何があったのでしょう?? どちらにしても本当に嬉しいです♪♪

 

きっと、このブログの読者の皆さんのご支援ですね!?

彼女に代わって、私からもお礼申し上げます。どうもありがとうございます。

今後は陸前高田だけでなく、大船渡、気仙沼でも同様のパソコン教室を立ち上げて支援活動を繰り広げたいとのこと。

「本当の目標は300万円です!」

  

411日発売の「週刊東洋経済」に、彼女の記事が載りました。

シングルマザーの想像を絶する実態が語られています。

 



寝占さんの支援活動など詳しい情報は、READYFOR? のサイトでご覧になってください。現在の資金支援状況もわかります。

https://readyfor.jp/projects/3714/detail

文字どおり私財をなげうって活動を続ける彼女を、これからも応援していきます。

皆さんも温かいご理解とご支援、どうぞよろしくお願いいたします。





続・ジョニーからの伝言2015年04月12日

201312月に、3回にわたって愛車ジョニーの話を書きました。

私のパートナーともいえる愛車オデッセイを3代目に買い替えるにあたり、2代目オデッセイ(通称ジョニー)の第2の人生が決まるまでの物語でした。

アフリカ行きの夢はかないませんでしたが、被災地の陸前高田にもらわれていき、今も元気に活躍しています。

ジョニーと一緒に写っているのが、新しい持ち主となった寝占理絵さんです。

彼女は、NPO法人マザーリンク・ジャパンを立ち上げ、陸前高田を拠点にして、おもにシングルマザーへの支援活動を続けています。

被災地の母子家庭では、食料や生活用品にも事欠いているそうで、それらを運び込むお手伝いも、ジョニーはさせてもらってきました。

また、仮設住宅で暮らす子どもたちは、学校も被害にあったりして遠くまで通わなくてはならない。そのための送迎は母親にとって大きな負担だし、仕事の時間にも支障が出る。おのずと、いい条件の仕事には就けない……。

そこで、寝占さんは、こうしたシングルマザーたちがよりたしかな収入の仕事に就けるよう、パソコン教室を開催する計画を立てました。

今回、クラウドファンディングを利用して、その活動資金を集めています。

目標額は100万円。512日までに達成しないと、決済されずに0円になってしまいます。現時点では8割が集まっていますが、あと少しの皆さんの支援が必要です。

クラウドファンディングのことや、今回の寝占さんの活動計画など詳しい情報は、READYFOR? のサイトでご覧になってください。

https://readyfor.jp/projects/3714/detail

同じ母親であるお友達の皆さん、美味しいランチの1回分でもいいので、ぜひぜひ、ご協力をお願いします!

 

それから、かつて私のジョニーに乗ったことのある方、それも何かのご縁でしょう。ご支援をどうぞよろしくお願いいたします!





ふたたび・ジョニーからの伝言2014年04月08日

なみなみジョニー

覚えておいででしょうか。

ジョニーというのは、以前の愛車のニックネームで、ベージュ色の7人乗りオデッセイのこと。

昨年の12月、車の買い替えで、10年乗っていたジョニーとさよならすることになりました。とはいえ、まだ車はきれいで、走行距離はわずか35000キロ。なのにディーラーに渡せば下取り価格もつかず、廃車になるという。もったいない。

そんなとき、偶然が重なって、第2の人生をアフリカで過ごす話が浮上したのです。ケニアの貧村で献身的な支援活動を続けている塩尻さんのもとで、救急車代わりの足となって走る……。

ところが、ジョニーがケニアを走るには、大きな壁がありました。8年を超える車の持ち込みは禁止という法律があったのです。塩尻さんがあらゆる手段を検討したものの実現不可能という結論に至ったのでした。

その後、ご縁があって、ジョニーは東北の被災地で活躍する道が開かれました。今も仮設住宅の子どもたちを乗せて走っていることでしょう。

でも、車を必要とされていた塩尻さんは、どうなるのだろうか……。ずっと心配していました。

 詳しいいきさつは、以下の記事に書いています。ご興味のある方は、ぜひお読みください。

2013127日:「私の愛車がアフリカの大地を走る!の夢

20131211日:「愛車がアフリカを走る!の夢は、形を変えて……

20131213日:「ジョニーからの伝言

 

 

塩尻さんが車を探していると知って、ほかにも行動を起こした方がいました。映画『うたごころ』の榛葉監督です。

この映画は、震災直後からの南三陸を舞台にしたドキュメンタリー映画で、2011年版と2012年版、私は2編の上映会に足を運び、監督の講演とあわせて深い感銘を受けました。

榛葉さんは、中古車を扱う企業に話を持ちかけて賛同を得たのです。

この春、神戸港から一台の中古車が、ケニアの塩尻さんのもとに輸送されていきました。

そして、榛葉監督自身も現地におもむいて取材し、毎日放送のテレビ番組を制作。先月、関西圏で放映されましたが、インターネットでも同じ動画を見ることができます。

ケニアの子どもたちの現状、そこで支援活動をする塩尻さん一家、中古車寄贈の様子など、「中古車、未来を走る」という4編の短い動画ですので、ぜひぜひご覧になってください。

私個人の力では、どうにもなしえなかったことを、榛葉さんはその行動力で実現させてしまった。おそらく、多くの方がたの協力あってのことだったと思います。

本当にうれしいかぎりです。

 





ジョニーからの伝言2013年12月13日


ジョニーの背中

今、僕は、冷え込む夜の東北道を、北へ向かってひた走っているところです。
これまでの小柄なhitomiドライバーではなく、見知らぬ男性の運転で。
無事に陸前高田に到着するように祈っていてください。

さて僕は、ケニアの塩尻さんのもとへは運んでもらえなかった。
ケニアには、8年規制という法律があって、車体がどんなにきれいでも、走行距離が短くても、製造から8年以上たった車は持ち込めないそうです。
僕は10歳でした。

いまなお塩尻さんはオンボロカーに乗り続け、救急車を必要とされています。
現地の人々、とくに子どもたちのため、教育や医療活動を献身的に続けている彼には、なかなか新車を買い入れる余裕はないのでしょう。
これを読んでくださる皆さん、8歳以下の車をお持ちの方で、塩尻さんの支援活動のために提供してもいいという方、ぜひぜひご連絡ください。

ジョニーからの伝言でした。

先日、塩尻さんのことを紹介した記事に、あるコメントが届きました。アメリカに住む日本人女性からです。
彼女は大学時代にスワヒリ語を勉強していて、ケニアに留学することになりました。ところが直前になって、ケニア分校では学生がマラリアで亡くなり、分校は閉鎖。結局彼女はケニアへは行けなかったのですが、在校生の話によると、そのとき亡くなった学生が助からなかったのは、救急搬送の車がなく手遅れになったからだそうです。日常的に車両の管理が悪かったということでした。
塩尻さんのもとにも良い状態の車が届くように、と彼女も祈っています。

私は、はっとしました。
ジョニーの第2の人生が決まったからといって、これで終わりではなかった、と。
ケニアとしては、少しでも車社会の環境を整えるためにも8年規制はやむを得ないのかもしれません。
皆さん、ジョニーの伝言、どうかよろしくお願いします。

塩尻さんがケニア事務所の所長を務める〈アフリカ児童教育基金の会ACEF〉の活動の様子を、以下のサイトでご覧ください。
https://sites.google.com/site/afrikachildreneducationfund/home

エイズ感染孤児のための施設「希望の家」の子どもたち。



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愛車がアフリカを走る!の夢は、形を変えて……2013年12月11日

さて、愛車ジョニーの話の続きである。

塩尻さんはとても喜んでくれた。
さっそく受け入れ態勢を整えるべく、費用を調べて手続きを開始したいとのことだった。しかし、それから2週間たっても返事が来ない。
「アフリカ時間」で進んでいるんですよ、と仲介者に言われて納得。急がせてはいけないと思った。

その数日後、届いた返事は、哀しい現実だった。
ケニアには、8年規制というのがあって、8年以上たった車を持ち込むことは法律で禁止されているのだそうだ。ジョニーは製造から10年になる。
それでも塩尻さんは、隣国のタンザニアかウガンダでナンバー登録し、そこからケニアに持ち込むことはできないか、と考えた。ところが、それもまた月々の手数料がかかる。輸送費、税金、今後の諸費用などを合わせると、莫大な資金が必要になることがわかったという。アフリカは国によって様々な規制が多く、外国からの支援を難しくしていると聞く。
塩尻さんは、涙をのんで、私の申し出を断念せざるを得ないという結論に至ったのだった。

ジョニーがもう2歳若ければ、塩尻さんのところに行けたかもしれないのに。
彼がアフリカを疾走する夢は、ついえた。
残念のひとことだった。

ジョニーの運転席


しかし、神様の仕掛けは、ここで終わらなかった。
「じつはタイミングよく、もう一人、車を探している人がいるんですよ」

そう言ってくれた仲介者の男性を、ここで紹介しておきたい。
彼、師岡さんと知り合ったのは、昨年、銀座で行われていた東北復興支援の東松島物産展で。チーム東松島の中心となって活躍していて、ボランティアに初めて足を運んだ私にも、わかりやすく復興支援の心構えを話してくれた。

彼は、震災の復興支援だけでなく、それ以前からボランティアの意識が高く、
human note というゴスペルシンガーズのメンバーとしても活動している。歌を通して社会活動を繰り広げ、アフリカ支援にも出向いて、ケニアで塩尻さんと知り合ったのだった。

サラリーマンであり、家庭を持ち、男の子の父親として保護者会にも参加する。みずから「サラリーマン社会活動家」の肩書を名乗っている。
人呼んでスーパー・サラリーマン・モロさん。
ピュアで人間愛に満ちた精神の持ち主、甘いマスクと穏やかな口調の癒し系……と言ったらほめすぎだろうか。

モロさんが見つけてくれた、もうひとつのジョニーの身の振り方。それは東北の被災地で活躍することだった。
そして、ジョニーを譲り受けたいというもう一人の人物というのは、岩手県陸前高田を拠点に支援活動を続ける、私の知っている女性だったのである。以前にも、チャリティバザーの物品を運んだり、養護施設の子どもたちの送り迎えをしたりして、ジョニーがお手伝いさせてもらったことがあるのだ。

またしても、偶然が微笑んだ。

今度こそ、話はとんとん拍子で進み、ジョニーは彼女のもとにもらわれることになった。別れの日、ガソリンスタンドできれいに掃除をし、ガソリンを満タンにして、都内の彼女の家に運転していった。

ガソリンスタンドのおにいさんたちが、丁寧に掃除をしてくれた。
ジョニーと私の最後のツーショット。


名義変更も済み、あさって13日、ボランティアのドライバーが運転して、いよいよ陸前高田へと旅立っていくという。

さよなら、ジョニー。10年間、ありがとう。
被災地の人々に寄り添って、第2の人生(車生?)を、元気に走り抜いて!

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かくして、わが家はニュー・オデッセイを買い入れました。
母の乗り降りは、少し楽になったようです。


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旅のフォトエッセイ:東松島へ(7)~続 あの店・この人~2013年07月03日



ゴローさんと一緒に写っている長身の男性が、太田さん。
東松島でお世話になったもう一人のナビゲーターである。
銀座での物産展のときには、チーム東松島を引き連れてやってきていたのだが、じつは千葉県出身で、震災の半年後に東松島に赴いたのだという。かつては青山や新宿にあるトレンディなインテリアショップで店長を務めていたこともある、というからなおさら驚く。
東松島の復興に向けて、何をしたらいいのか。それを見極め、具体化していく。彼のビジネスの能力がそんなところに生かされたのだろう。
「僕は、自分がボランティアだと名乗ったことは一度もない」
それが太田さんの矜持かもしれない。
彼が多くの信頼を得ているからこそ、彼に案内されていく先々で、娘と私が過分なおもてなしを受けたのだ、と思っている。
ケーキのジュリアンさんにも、相栄商店の高志さんにも、マルヤ鮮魚店のゴローさんにも……。

彼の愛車アウディで、あちこち案内してもらった。


太田さんのおかげで、ここでも初対面の店長に歓待を受けた。
牡蠣小屋、海鮮堂。奥松島の野蒜(のびる)という地域にある。


昨年の物産展のときに親しくなった慶子さんという女性から、この牡蠣小屋のチラシをもらった。彼女は関東の人だが、復興支援の活動を続けている。
「あっちに行ったら、ぜひ寄ってあげてね」
今回はその約束を果たしたくて、太田さんに連れていってもらったのである。
店長は、「慶子さんには、とても世話になっているんです」と言って、私たちにごちそうしてくれる、という。彼女の代わりでいいのだろうか。

恐縮してしまった。でも、ありがたくごちそうになった。

まずは、大粒の牡蠣を選んで、ざざっと鉄板にあけて……

O157の被害が出てからは、保健所からのお達しで、かならず、ふたをして蒸し焼きにしなくてはならなくなったそうだ。

待つこと5分。ふたを開けると……

片手に軍手をして殻を持ち、片手にナイフを持ってこじ開ける。ちなみに私たちは、親子そろってのサウスポー。

店長は、カメラを向けても顔を伏せてしまう。
「写真は魂を吸い取られるから、困る」という。東北の男性はシャイである。



一口食べると、濃厚な牡蠣の味が広がった。なんて美味しいのだろう。
今まで食べてきた牡蠣は何だったの? 
何も味付けはしないが、臭み、苦みはまったくない。ただただ、豊かな海の味。
こんなふうに殻付き牡蠣を鉄板で焼いて食べたのは初めてだ。またしても、人生のヨロコビが増えた。

店長、ごちそうさまでした。
慶子さん、太田さん、ありがとうございました。

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野蒜は本当に被害の大きかった地域です。
がれきだけは片付いたものの、まだまだ復興には程遠い印象です。それでも、去年に比べたら、お客さんが増えた、と店長は言っていましたが……。
慶子さんに代わって、お願いします。
皆さんも、ぜひ奥松島の海鮮堂へお出かけください。
このバケツ1杯で1,500円という良心的な価格。
都会では味わえない本物の牡蠣の美味しさを、ぜひどうぞ。

                            (もう少し続く)

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旅のフォトエッセイ:東松島へ(6)~あの店・この人~2013年06月19日


そもそもの出会いは復興支援のための「チーム東松島物産展in銀座」だった。
月に一度、美味しいものが銀座に運び込まれて、それを販売するお手伝いをしてきた。
だからおのずと、その生まれ故郷、生み出してきた人々に、興味を抱くようになる。
物産展に関わる人たちが、Facebookでつながる。毎日たくさんの情報がもたらされる。
こうして、私には縁もゆかりもなかった土地が、特別の場所に変わっていったのだった。


「東松島あんてなしょっぷ まちんど」。早い話、この町のよろず美味しいもの屋さんだ。
ここの商品も、銀座で販売してきた。そして、店員のゆきさんとも親しくなった。

ゆきさんと娘、すぐに仲良しになる。

娘と写っているのがゆきさん。
長身を生かしたバレーのエースだけあって、宝塚の女優さんみたいで、かっこいい。
しかも、お店の商品のことは、じつにきめ細やかに説明してくれるので、美味しいものは彼女に聞けば間違いない。まちんどのカリスマ店員なのだ。

オレンジ色のまちんど&ブルーのあごら

そのお隣の店「あごら」は、地元の食材で美味しいものを食べさせてくれるお食事処。
清美さん、千佳子さん、ゆきさんと5人で楽しくお昼ご飯。



娘は海鮮丼、私はお隣の石巻市の特産、えごま豚のメンチカツ定食をいただく。
メンチカツは、期待どおりに美味しかった。
さらに、意外な美味しさにうれしくなったのが、白いご飯! シャキッと甘くて、噛むほどに味が出る。
「私たち、いつも美味しいお米を食べてるのよ」と、清美さんがにこっと笑った。
そういえば、生協で予約購入しているわが家のお米も、宮城産だ。

ゆきさんは、毎日Facebookに「今日のまかない」をアップしている。
この日は、その本物をまのあたりにして、ちょっとカンゲキ!

物産展のときに、甘党の私が熱心に販売したのは、ジュリアンのお菓子。


地元産の米粉を使ったマドレーヌや、名物ずんだ餅ならぬ「ずんだ大福」。和洋ミックスの味がなんともいえず美味。甘党を満足させるだけの、妥協のないきっぱりとした甘さ。これがまた安心な美味しさのだ。


トトロやクロスケのケーキがかわいくて、買って帰りたいけれど、写真で持ち帰っただけ。

小柄なマダムには銀座でもお目にかかった。

マダムの3倍はありそうなご主人には、初対面。パティシエはシャイなのである。

ケーキも珈琲もごちそうになり、店頭には並んでなかったのに、奥から出してきた「ずんだ大福」まで、おみやげにたくさん頂戴してしまった。
本当にごちそうさまでした。
(日持ちのきく焼き菓子は、たくさん買って帰りましたので、あしからず)

さて、昼間は甘党、夜は日本酒党の私、物産展ではこちらのお酒も熱心に宣伝販売に努めてきた。
「がんばっぺ!大曲浜」
この日本酒は、仮設住宅の一角に店舗を構える相栄商店の店長、高志さんのオリジナル。


ダンディな彼は、代々続く酒屋さんでありながら、大曲浜の漁師さんでもあり、しかも名スキーヤーときている。
この日、さりげなく袋に入れて、渡してくれたのがこの2本。
ごちそうさまです! これからも、がんばっぺ、大曲浜の皆さん……!

そして、もう一人、忘れてならないマルヤ鮮魚店のゴローさん。

いつも穏やかな笑みを浮かべて、物静かな雰囲気からは、荒海に漕ぎ出していくイメージはないのだが、もとは遠洋漁業の漁師さんだったという。わが子の誕生を機に陸に上がった。漁師ならではの味を、このたくましい腕で作り出す。
イカの塩辛、イカの一夜干し、漬け牡蠣、漬け魚、殻つきの牡蠣ポン(パックのままレンジでチンできるスグレモノ!)、などなど。
物産展でも何度かご一緒した。口数が少ないのは、頭のなかでいつも、美味しいアイデアと、面白いことを考えているらしい、とわかってきた。

私たちが食事の後、訪ねていくと、
「そうか、腹いっぱいなのか……」
と言いながらも、火をおこし、冷蔵庫からホタテの串刺しを出してきて、焼いてくれた。



正直に告白すると、私はあまり貝類を得意としない。ホタテもしかりだった。
しかし! 黒コショウだけでの味付けで、こんなに美味しいとは……!
ホタテが、こんなに美味しい食べ物だったとは……!
人生のヨロコビがまたひとつ増えた。ゴローさんに出会えてよかった! 心底そう思った。


コーヒーまでいれてもらって、本当に、ごちそうさまでした!!
牡蠣ポンは、宅配便で送ってもらい、わが家でも大好評だったことはいうまでもない。

ちなみに、彼の本名は康さん。なぜ、ゴローなのか。
「今度、教えてやる」とニヒルに言ったきり、いまだに教わっていない。


~あの店・この人~ さらに続きます。
次回も、とっておきの、もじどおり垂涎の写真をご覧いただきます。乞うご期待。

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お知らせです。
のり工房矢本、ジュリアン、マルヤ鮮魚店など、ご紹介してきた東松島の美味しいものたちが、ネット通販で手に入るようになりましたよ!
「復興デパートメント」プロジェクトは、ふるさと東北の息吹を感じられるさまざまなモノたち、東日本大震災で被災し、復興を目指す人びとの手による商品を紹介しています。
その中の「東松島フロア」はこちらです。ぜひ、お買い求めください!
http://fukko-department.jp/higashimatsushima/



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