ダイアリーエッセイ:彼岸花に出会って ― 2023年09月23日
脳卒中で倒れた77歳の義姉と、突然一人になった102歳の義母。二人の心配を抱えていることは、8月24日に書いたとおりです。
2か月たった今なお、夫の実家とリハビリ病院に車を走らせる日も多い。記録的な猛暑に負けないようにいつも以上に気をつけながら、ぎっくり腰の治療にも通いながら、仕事も休まないようにと、目の回る毎日です。
昨日は、稲城教室の日でした。残暑厳しい強烈な日差しを浴びながら、車で向かいました。軽い昼食をとろうと、稲城市内のスタバの駐車場に車を入れたとき、その奥の梨畑に目が留まり、思わず声が出ました。
「ああー、咲いてる!」
フェンス越しに、オレンジがかった赤色の彼岸花がたくさん咲いていたのです。
そうだ、彼岸花の季節だ。明日は秋分の日だもの。
あでやかな彼岸花に思いがけず出会ったことよりも、この花のことをすっかり忘れていた自分に、驚きました。
彼岸花は、毎年この日を忘れずに、ちゃんと開花する。今年は例年にない日照り続きで、お米も野菜も不作のニュースばかり見ていたのに……。彼岸花はすごい。強い日差しを受けて、輝いて見えました。
季節の移ろいさえも、うわの空だったこの夏、ひと群れの彼岸花が、秋の訪れに気づかせてくれた。もうすぐ涼しい季節が、間違いなくやってくる。
そんな当たり前のことがうれしくて、もう少しがんばれそうな気がしてきたのでした。
ダイアリーエッセイ:起震車で震度7を体験! ― 2023年09月03日
毎年、9月の防災の日の前後に、私の住むマンションの管理組合では、防災訓練を実施しています。
これまでにも、煙の充満した中を歩くとか、担架でけが人を運ぶ方法、LEDや消火器の扱い方など、実際に体験してきました。
関東大震災から100年目の今回は、初の起震車です。
30年以内に南海トラフ地震が起きる可能性が70パーセント。私たちは命を守るために、備えなければなりません。
その揺れの強さを体験しておけば、実際に起きた時に、少しは冷静でいられたらという思いがありましたが……
大きなトラックの荷台のサイドが開くと、手すりの付いたスペースがあります。その中に4人ずつ上っていき、手すりにつかまります。
「危ないですから、しっかりつかまっていてください! 気分が悪くなったら、手を挙げてくださいね。すぐに止めますから」
ますます緊張します。胸がドキドキしてきます。
スピーカーから、緊急地震速報が流れます。
「チャラリン、チャラリン……、強い揺れが来ます!」
あの音を聞いただけで不安がこみあげてくる。そして、揺れだす。横にゆさゆさだけではなく、突き上げるような揺れも加わって、遊園地の絶叫型のゴンドラが上下左右に揺れるかのよう。少しずつ揺れが激しくなって、壁の震度計の数字が震度7を表示すると、すごい揺れ!
必死でしがみつかないと、とても立ってはいられません。
これが室内だったら、扉が開いて飛び出した食器や、壁に飾った額や、いろいろなものが頭上に飛んできそうです。わが家の食器棚の上のつっかえ棒はとっくに折れるか外れるかしてしまいそう。
腰かけていたら、椅子ごと転げたことでしょう。
でも、最初から40秒で終わることを知っていますから、気持ちはどこか楽だったはずなのに、それでも、かなりの恐怖を味わい、起震車から降りた後も、猛暑のせいもあって、頭がふらふらしました。
マンションの住民、希望者全員が終わったあとの解説では、
「東日本大震災では、この揺れが3分続きました。さらに、関東大震災では、10分も続いたのです」
とてもいい経験になりました。
今回はVRのようなアイテムは使いませんでしたが、それでも十分、地震の恐ろしさを体験できました。
危ないものは部屋に置かない。いざ揺れだしたら、どこでどのように身を守るか。できる限りの備えをしておこうと思いました。
皆さんも、機会があればぜひ、体験してみてはいかがでしょうか。
▲動画ではないのでわかりにくいのですが、揺れている最中。みな必死で手すりにしがみついています。(右端が私)
ダイアリーエッセイ:WBC準決勝を見て ― 2023年03月21日
WBCの頂点を目指す侍ジャパンの戦いを、1次ラウンドからすべて、テレビの前に貼りついて見てきた。
大谷選手も、一躍人気者になったヌートバー選手も、もちろん目が離せないのだけれど、中でも気になったのは、絶不調に苦しむ村上選手の姿だった。
彼を見ていて、ある記憶がよみがえってきたのだ。
小学6年の時のことだ。学年全員で横浜市の体育大会に出場することになって、その練習を続けていた。競争ではなく演技のひとつに、4段の跳び箱を跳び越えていく種目がある。どのグループも一人ずつ同じ速さで進んでいけばいいのだ。
それが、なぜか急に跳べなくなった。
お転婆の私は、4段どころか5段も6段も跳べていたのに、跳び板まで走っていって手をつくと、ふっと固まってしまう。何度やってもどうしても跳べない。
「そのうち、また跳べるようになるから」と、先生は苦笑いでスルーしてくれて、跳び箱の横を走りぬけるしかなかった。
そして大会当日、私はどうなったか。
ないのだ、その日の記憶が。ないところを見ると、きっと跳べなかったのだろう。屈辱の記憶だからこそ、抹消してしまったのだと思う。
さて、本日の侍ジャパンVSメキシコの戦い。あいにく家族もいないし、朝からビール片手にというわけにもいかない。それでもドキドキしながら孤独な応援を続けた。
4回表に3点も先制点を取られて、なかなか返せない。ようやく吉田選手の3ランホームランで同点に持ち込んでも、次の回でまた1点取られてしまう。
村上選手の不調は、準々決勝で2回のヒットを放ち、復調したかに見えた。が、今日もやはり不調気味で三振が続く。
彼がわが子のようでもあり、遠い日の自分のようでもあり、バッターボックスに立つたびに、今度こそ、今度こそと祈り続けた。
1点差で迎えた9回裏、もう後がない。彼は日本中のファンの祈りを受けて、ついにタイムリーにヒットを放ち、サヨナラ勝利を決めることができたのだ。
その瞬間、滂沱の涙が止まらなくなる。よかったね~、村上選手!
打順が回ってきたことも、その時に打てたことも、村神様はいたのかもしれない。でも、彼を信じた監督、不調な彼を支えてきたチームメンバー全員、応援し続けてきたファンのすべてが、神様となったのだと思う。
「岸田首相、本日ウクライナ電撃訪問」のニュース速報も入るなか、侍ジャパンの勝利と村神様の復活に酔いしれたひとときだった。
明日の決勝もがんばれ、侍ジャパン!
女王陛下の葬儀 ― 2022年09月20日
昨晩は、エリザベス女王の葬儀を見続けました。
もう40年以上前ですが、半年ほどロンドンで英語学校に通っていたことがあります。
学校のお仲間とウェールズ地方を旅行した時に、女王陛下をお見かけしました。帽子もコートもピンクの装いでした。
誰かが「ピンクパンサーみたい!」と言うので、私たちは笑いました。当時人気のあったアニメのキャラクター。それほど親しみを持っていたのでしょう。
その時、写真を撮ったはずだけれど、今は押し入れの奥にしまい込まれており、もっか肩痛持ちの私、探すのは諦めました。
手元にある女王陛下は、この50ポンド紙幣。
これは2008年、娘とロンドンに行く時に両替したもので、当時1ポンドが200円でしたから、約1万円なり。というわけで、日本の壱万円札と並べてみました。
今後、紙幣の女王も、切手の女王も、少しずつチャールズ国王に交代していくとのこと。ちょっと残念です。このお札は、次のイギリス旅行で使おうと思っていたのですが、大事にしまっておくことにします。
遠い国の私でさえ、遠い昔の思い出を忘れずにいるのですから、ましてイギリス国民にとって、女王陛下は身近で特別な存在であり、悲しみは深いことでしょう。
最後のお別れをするために、ウェストミンスター宮殿まで何時間もかけて行列に並んだという国民の気持ちが、よくわかります。これこそが本当の国葬だと思いました。
女王は、天国のフィリップ殿下のおそばにいらしたのです。悲しいけれど、安らかな気持ちでお見送りするしかありませんね。
イギリスという大国を70年の長きにわたって統治してきた偉大な君主であり、国民に慕われたチャーミングでやさしい母のようなエリザベス女王に、改めて敬意を抱きます。
どうぞ安らかにお眠りください。
長崎の原爆の日に ― 2022年08月09日
77年前の夏、8月6日に広島に原爆が投下され、さらに9日には長崎にも投下されました。
毎年、夏休みやお祭りなど、浮かれることの多い8月は、その一方で、戦争と平和について考える大切な時期でもあります。
特に今年は、ロシアがウクライナを攻撃するという現実の戦争が起きてしまいました。核を手放したウクライナを、核によって威嚇するという卑劣な手段で、ロシアは侵攻を続けています。
日本も、他人ごとではありません。「核兵器の使用がもはや杞憂ではなく、今ここにある危機だ」と、長崎市の田上市長も、今日の式典で述べていました。
日本は、世界唯一の被爆国として、その立場をはっきりさせ、核廃絶のための努力を続ける責任があります。まずは核兵器禁止条約に批准してから、核保有国に核軍縮を働きかけていかなければ。
長いこと、広島を訪ねたかった。初めて原爆投下された地に立ってみたかったのです。ようやく、この5月、悲願がかないました。
77年前のその日と同じように快晴で、広島の平和公園は、きれいに手入れをされた薔薇や緑が美しく、かつての惨状を想像することはできませんでした。
原爆ドームだけが時間の止まった芝居のセットのように、そこに佇んでいました。
日本のカトリック教会は、広島原爆の日の8月6日から長崎の9日を経て、終戦記念日の15日までの10日間を「平和旬間」としています。これらの出来事を深く記憶に留め、平和について考え、平和を祈り、平和のために行動することを求めています。
ダイアリーエッセイ:明日はきっと晴れ ― 2022年05月06日
昨年、母を見送った頃の疲れが、今頃になって出てきたのか、ここのところ体調を崩し、体中が悲鳴を上げています。
せっかく友人が誘ってくれて3月に入団したコーラスも、どうしても続けられずに、悩んだあげく断念。がっくりの気分です。
こうなったら、とことん健康回復に努め、アンチエイジングに精を出すことにしよう。転んではただでは起きまい、と決めました。
今日も、整形外科のリハビリへ。1時間も待たされましたが、その間にたっぷり読書ができました。
そして、帰りには息をのむようにきれいな夕焼けに出会うことができました。
明日はきっといい天気。私にも明るい未来がきっと来るはず……!
そう思えた夕暮れの一瞬でした。
ダイアリーエッセイ:次男の卒業 ― 2022年03月29日
昨日は次男の大学の卒業式でした。
27歳にもなる息子の個人情報ではありますが、私は母親としての胸の内を吐露します。
彼は2年の頃に、ある挫折を味わい、「大学をやめたい」と言いだした。しかし、ここでそれを許したら、この先どんなことでも嫌になるとすぐに諦めるようなことになりかねない、と思った。休学はいいけれど、とにかく大学だけは卒業しよう。そう説得しました。それが息子のためだと思ったからです。
その後、コロナのせいでリモート授業一色になって、彼はまたもつまずいた。当時は、もし卒業までこぎつけたら、合格発表を見に来た日のように、私はうれしくて泣いてしまうだろうと思っていました。
最終的に、1年休学し、在籍期限の8年間を過ごし、合計9年かかって卒業が決まりました。
でも本人はとくにうれしそうではない。やっと足かせが取れてせいせいした……ぐらいの気分のようです。
だからか、私もなぜかあまり喜べない。馴染めない場所に通わせ続けて、本当にこれでよかったのかな、と思えてきます。
いや、これでよかった、と思える日が必ず来る。ここで学んだことがきっと生かされる日が来る。そう信じ続けよう。就職もせず、やりたいことをとことんやって、フリーランスで生きていく彼を、これからも見守っていこう、と新たな覚悟をしました。
昨日の卒業式は、保護者はコロナのため出席できず、本人は出席もしたくない。私は独りでキャンパスの写真を撮りに行きました。満開の桜の下、晴れやかな卒業生や保護者が大勢いるなか、ちょっと寂しかった……。
今日は、ゼミの食事会があるそうで、スーツを着て大学に行くというので、またとない写真撮影のチャンスとばかり、またキャンパスへついて行きました。
一日遅れですが、ようやく記念の写真が撮れたのでした。
次男にとっては大学卒業、私にとっては子育て卒業の記念すべき一枚です。
この大学には、わが子二人、姉と弟が大変お世話になりました。
私は来年もまた、思い出の桜を見に来ましょう。
ダイアリーエッセイ:娘はふたたび大空へ ― 2022年02月27日
朝から雲一つない真っ青な空が広がる。
娘は、東京勤務の夫に見送られて、ふたたび上海へと向かう。
彼女を乗せた飛行機が飛び立つ時刻、私はひとり空を仰いだ。
コロナ禍の収束が見えない今、次に会えるのは何年先だろうか。
今回は日本で1週間、上海で3週間の隔離が必要とされた。重責の仕事に就く身で、そうたびたび許されることではないだろう。
さらに、この一時帰国の間に、彼女の夫のロンドン勤務が決まった。
娘が数年後に長期休暇をもらえる時には、帰る先は日本ではない。夫のもとに向かうのだ。二人にとっての〈わが家〉は、もう日本にはなくなるということだ。
いずれはそんな日が来ることぐらいわかっていたはずなのに。
娘と同じ志を持つパートナーと二人、海外に羽ばたいていくことを、応援してきたはずなのに。
先日来、まさかのロシアのウクライナ攻撃に、憤りを覚え、胸を痛めている。
一昨日のテレビで、ウクライナ人女性のインタビューを見た。
彼女は日本在住で、彼女の母親はウクライナで暮らしている。母親とはSNSで連絡が取れているという。
「大丈夫、怖くない、と母は言うけれど、その表情には恐怖しかない」
彼女は流ちょうな日本語で語り、涙をぬぐった。
明日は我が身などと思いたくはない。
戦争でなくても、災害や、今回のようなパンデミックで、互いに何が起きてどうなるか、未来のことはわからないのだ。
娘が、また遠くなった。
その思いが募るばかりで、まだ何の覚悟もできていない。
元気でいるようにと、祈るほかはない。
そして、ウクライナの人々に平和が戻るようにと祈っている。
ダイアリーエッセイ: お帰り! ― 2022年02月17日
今月の初め、上海に単身赴任していた娘が、1年ぶりに帰国した。もちろん、一時帰国。まだ数年は今の職場に勤務する。
コロナの隔離期間が国内でも短縮されたばかりで、帰国者の娘も、自宅で8日間だけ隔離となった。不要不急の外出さえしなければ、食品の買い出しなどは自由だという。会社からもその間はリモートワーク中として認められ、同様にリモートワークの夫と、久しぶりの「共働き」という水入らずを楽しんでいたことだろう。
そんなわけで、娘と会えたのは、帰国して10日目のことだった。
都内の地上40階のレストランで、あいにくの雨の夜景を眺めながら、ちょっと豪勢なディナーを楽しんだ。上海では、住まいは21階、職場も40階だそうで、わが娘ながら、高層ビルが似合っているような気がしてくる。
本来なら、まずは実家に帰ってきてもらって、わが家の手料理をご馳走したいところなのだが、あいにく次男が卒論と格闘中。提出期限を目前にしてナーバスになっているので、やむなく外食にしたのだった。
娘が帰宅したらみんなで飲もうと、大事にとっておいた美味しいお酒を手みやげにして行ったのに、なんと上海みやげを東京の自宅に忘れてきたというのだから、相変わらずの娘だ。かえってちょっとホッとする。
思えばこの1年、娘の不在の間に、母を見送ることになった。その時にも娘がいなくて寂しいと感じることはなかったのに、ほかの人から「娘がそばにいない」ということを指摘されて初めて、孤独を意識して辛くなったものだ。
この晩の食事の席は、どちらも夫婦連れだったので、母娘の親密な会話ができず、心残りではあった。
さて、昨日のこと、もう一人帰ってきた。長男である。
グループホームの利用者の一人が、通所先に陽性者が出て、濃厚接触者になってしまった。抗体検査では陰性だったけれど、5日間は隔離の必要があり、グループホームに滞在することになるという。
連絡を受け、その間、長男は自宅に戻ることにした。何の準備もないまま、職場から急きょ自宅に帰ってきたのである。
よりによって、次男の卒論提出日に、にぎやかな長男のご帰還とは……。次男はあと数時間で締め切りだというのに、まだ最後の詰めに取り組んでいる最中だ。
長男は、今回の帰宅の事情をきちんと理解できているようで、次男のことも「大事な勉強中だから」と言うと、いつもの大きな声を出さないように努力してくれた。
弟のほうも、急な帰宅の兄に、いやな顔ひとつしない。それどころか、長男がゲーム機の充電器がなくて困っていると、卒論執筆を中断して、自分の充電器をきれいに拭いて貸してくれた。やさしい弟だ。
いつもはめったに会話もしないような兄弟でも、やっぱり血のつながった家族なのだ、と思うと、つかの間のほっこり気分を味わった。ナーバスになっているのは、この私だけかも。
さてさて、そんなふうに誰からも大事にされてきた次男は、大学8年目にようやく卒論に手が届いた。幼い頃から、なんでも時間のかかる子ではあった。
コロナ感染が広まると、大学はリモート授業になり、朝寝坊、宵っ張りが当たり前になる。コロナ禍の弊害で、そういうケースが多いとは聞くが、息子もご多分に漏れず、すっかり昼夜逆転していた。
しかし、この1週間ほどは、提出締め切り時刻が文字どおり秒読みになってくると、数時間の仮眠をとるだけで、パソコンに向かい続けた。彼の得意とするラストスパートだ。
提出当日。締め切り時刻の17時が過ぎてしまうと、気が気でない私は、息子の部屋の前でただおろおろ。ついに、30分も過ぎた頃、ようやく卒論のアップロードが終わった、と知らされる。それでも私は、大丈夫だろうか、ちゃんと受け入れてもらえるのだろうかと、安心できないまま今日を迎えた。
本日、リモートでの発表も無事に終え、及第点をもらったという。
やれやれ……。親としても感無量だ。長い長い8年間の忍耐が、ようやく報われようとしている。ひとまず大きな節目を迎えられそうだ。
もっとも、次男の社会人としての人生は、これから始まるのだ。手放しで喜ぶわけにはいかない。
この子も、いつか「お帰り!」と出迎える日が来るまで、もうしばらく親の心配は続きそうである。
ダイアリーエッセイ: ワクチン接種2回目 ― 2021年07月17日
先月、接種1回目のことを書きました。せっかくなので、記録として、2回目も書こうと思います。そして、皆さんのご参考になれば……。
2回目接種も自衛隊による東京大規模接種センターで、7月14日12時が接種予約の日時。1回目の接種から4週間と5日目です。
前日の夕方になって、母の暮らすホームからの電話を受けました。
母の健康診断の結果がよくないので、明日病院に連れて行ってほしい、という内容でした。今後の治療や入院などに、家族の意思確認が必要となるからです。
さあ大変。息子を送り届ける車中でしたが、その帰りの買い物もやめて、急いで帰宅。まず予約の変更が可能かどうか、調べることにしました。
2回目の接種をあまり先に延ばしてしまうと、効果が薄れるという説も聞いたことがあります。せっかくの接種を無駄にしたくはない。とはいえ、母の容態も気になります。
接種センターの予約票には、「2回目予約の変更は、Web上でキャンセルせず、窓口に連絡を」とあったので、すぐに窓口に電話をしました。
「2回目接種は、28日から38日後の間に受ける必要がある」と書いてあって、私の場合は7月20日までに受けなくてはなりません。
しかし、てきぱきとした女性の声で、「今、空いているのは一番早くて27日以降ですね」と言われてしまいました。
さあ、困った。どうしたものかと迷っていると、「何かご事情がおありですか」と聞かれたので、正直に答えました。
すると、「それでは、予約担当にお電話をお回ししますので、ご希望の日にちや時間帯がありましたら、3つほどお知らせください」と言ってくれたのです。この先、仕事の予定も入っているので、明日の遅い時間帯を第一希望にして、伝えました。
しばらくすると、電話の向こうから「予約係です」と、こんどはおっとりとした男性の声が聞こえました。窓口の女性から私の情報を受け、話はすべて通じていました。
「明日の遅い時間がよろしければ、18時か18時30分ではいかがでしょう」
ああ、よかった!
「何時ごろなら来られそうですか」
「病院の診察ですので、まったく見当もつきません。遅い時間のほうが確かだと思います」
「じゃあ、18時30分にしましょうね。以前の予約は、こちらでキャンセルしておきます」
「ありがとうございます! 本当に、助かりました」と、お礼を言うと、
「たいへんですねぇ」とねぎらいの言葉までかけてもらったのです。
事務的ではない、温かい言葉でした。
翌日、梅雨明け間近の東京は、18時を過ぎても明るく、さわやかな風が吹いていました。1回目より来場者も少なく、座ったと思うとすぐに移動。どんどん進んでいきます。
いよいよ接種のブースに入ると、待っていた打ち手は、細身の白衣の女医さんでした。口調もやさしく、針をちくりとさして、すーっと液を入れていく感じ。痛みは前回の半分以下です。
打ち終わったところで、思わず「1回目はとても痛かったですけど」と言うと、
「では、腫れたのではありませんか」と申し訳なさそうに聞かれました。まるで、今回は大丈夫ですよ、と言われたかのように思えて、ホッとして帰ってきました。
さすがは自衛隊、危機管理能力が高いのはもちろん、国民への奉仕の気持ちが伝わってきました。私が直接自衛隊のお世話になったのは、このワクチン接種が初めてのことです。この接種センターを選んでよかった、今回もそう思ったのでした。
さてさて、副反応はいかに。身構えていました。
翌朝は、頭痛と気分の悪さに見舞われ、さっさとカロナールを飲み、横になりました。夕方から、37度台の発熱。倦怠感は募りますが、頭痛は消えています。もう一度カロナールを飲むと、熱だけは下がるのですが、薬が切れてくるとまた上がります。
結局、翌々日の朝も熱があって、その日の午後からのエッセイ教室の仕事はキャンセルせざるをえませんでした。ところが、その夜には、薬が切れても熱が上がらず、頭痛も不快感も解消していました。接種からほぼ48時間後で、副反応が収まったというわけです。
もし、最初の予約どおりに、正午にワクチン接種を受けていれば、何とか午後からのエッセイ教室に出向くことができたのかもしれません。リモートではなく、久しぶりの対面の教室だったのに、残念です。お教室の方々にもご迷惑をおかけしました。ごめんなさい。
そうそう、やさしい女医さんの注射は、予想どおり期待どおり、あまり痛みが残らずに、3日目の今日、あるのはかゆみだけでほぼ治っています。
高齢者 発熱したと 自慢顔(静岡県・鈴木貞子)
7月17日付け 朝日新聞 朝日川柳より
ところで、母の容態は、差し迫ってどうのというわけではありません。また来週の検査結果で、今後の治療を決めることになりました。それよりも、ほとんど口をきかず、反応がないことが心配になりました。コロナ禍で、家族が会いにも行けず、施設のイベントもなく、刺激のない生活を送っているせいかもしれませんが……
ワクチン接種が終わった今、これからは母の心配を抱えることになりそうです。