エッセイの書き方のコツ(35):「近ごろ気になる言葉」 ― 2021年06月08日
近ごろ耳にするけれど、どうも気になる言葉や言い回しなど、ありませんか。
今、各地の教室で、このテーマで書いてもらっています。
私が気になるのは、今まで「人の流れ」と言っていたところに使われる「人流(じんりゅう)」という言葉。耳障りで好きになれません。
新聞の見出しなどでは、字数が少ないほうが便利なのはわかりますが、早口でしゃべる必要のない記者会見で、東京都知事の小池さんが最初に言い出したように思います。「人流が減らない。人流を抑えたい」などという具合に。
なんとなく、粉塵の塵、つまり塵芥(ちりあくた)のチリを思い浮かべます。
人の流れをチリの集まりとは、いかがなものか。国民ひとりひとりの行動の集合体を、そんなふうに表現されて、あまり気持ちの良いものではありません。
そのうちに新語登録されて辞書に載るようになっても、私は使わないでしょう。
「まん延防止等重点措置」という言葉は、はじめのうちは「まん防」と略されるようになり、すぐに世間のひんしゅくを買いました。魚のマンボウみたいで間が抜けているとか、「ウー、マンボー!」と言いたくなるなど批判を浴び、きちんと「まん延防止」と使うようになりましたね。
ところで、「コロナ禍」という言葉、エッセイを書くときはもちろん、日々のメールでも、使わない日はないように感じます。
これを「コロナ禍」と書くか、「コロナ下」と書くか。
エッセイ仲間の泰子さんは、そこが気になって、自身のホームページ「エッセイ工房」に、考察する記事を書きました。なかなか興味深く、参考にもなりますので、ぜひお読みください。
(彼女は2019年12月にエッセイ集を出版。その折に、私もブログ記事で紹介しています)
私はほとんど「コロナ禍」を使います。いくら「コロナ下」と書いても、そこに、わざわいがもたらすマイナス面の印象は拭えないと思えるからです。
そして、「エッセイ工房」の記事を引用すると、
「ウィキペディアの〈コロナ禍〉の解説によれば、新聞報道においては2020年4月に全国紙に登場したそうです」とのこと。
私自身はもっと早くから使っていたような気がして、自分のブログを調べてみました。
……ありました、4月19日の記事の最後のほうに。
朝日新聞の天声人語に登場したのが、4月20日だそうですから、私はそれよりもひと足(一日)早く使っていたのです。いつもぐずぐずしているうちに出遅れる私ですが、こればかりはちょっと自慢したい気分になりました。
ちょうど、パンデミック小説ばかり読んでいた時期だったので、「○○禍」という言葉に馴染んでいたのでしょう。
やはり、読書は語彙を増やすにはもってこい、なのかもしれませんね。そこもぜひご参考に!

渡辺えりさんのもう一つの言葉 ― 2020年07月24日
昨日のえりさんの記事で、もう一つ、心に響いたのは、次の一文でした。
マスクで表情の見えない時期だからこそ、言葉は前にもまして大事になってくる。
3日前のことが思い出されたのです。
仲間うちのエッセイの合評会に参加しました。アクリル板の仕切りもありませんから、皆マスクをしたままです。
合評会は、感想ばかりではなく、作品の気になる点を伝え、こんなふうに直してはいかが……と率直な意見を述べ合います。
そのとき、ふっと不安になりました。自分ではソフトな表情で伝えているつもりでも、口元を覆っていては相手に見えていないわけで、マイナスな印象を持たれていないだろうか。笑ってごまかすのは通用しない。その分、ついつい饒舌になっている気がしました。
同じことは、こうした書き言葉にも言えますね。
お互いに顔の見えない通信添削では、言葉を選び、言葉を尽くして伝えることに努めますが、それが本当に私の意図するとおりに伝わっているのかどうか。誤解されたり、まして読み手を傷つけたりしていないだろうか。いつも気がかりです。
先日の合評会では、じつはバッグの中にフェイスシールドを忍ばせていました。マスク以上に煩わしいので、結局付けずにすませましたが、やはり、これを付けてマスクを外せばよかった。今さらながらに思いました。
マスクをしていても、していなくても、言葉は大切です。
伝えたいことが、きちんと伝わるように、ときに表情の力を借りながらも、いつもその時その時にふさわしい、最善の言葉を選んでいきたいものですね。

年賀状の正しい書き方は? ― 2020年01月04日

明けましておめでとうございます
2020年
いつも私のブログをご覧くださり、どうもありがとうございます。
本年もどうぞよろしくお願いいたします。
今年こそは、もう少しブログの在り方を改善してみようと思います。少しずつ小さなリニューアルをしていくつもりです。
今年の目標の一つです。
今年も昨年同様、たくさんの年賀状を送り、そして頂きました。書くことをご指導する講師をしている手前、やはり頂戴する年賀状も多く、そうやすやすとメールやラインに移行していくわけにはいきません。
頂いた賀状の中には、思いがけない方が「ブログを見ていますよ」と書いてくださっていて、身の引き締まる思いがしました。
ブログを始めたころに比べたら、パソコンでのアクセスより、スマホで見てもらうほうが多いのではないでしょうか。具体的に実証できるわけではないけれど、世の中の流れからしても想像に難くありません。
とりあえずは、スマホで読みやすくすることを考えましょう。
ところで、暮れのテレビ番組で、お作法の先生が年賀状の正しい書き方を説明していました。
明けましておめでとうございます。
と書くのは、正しくないのだそうです。正しくは、このブログの一行目に書いたとおり「。」をつけない。この句点は、「文がここで終わり」という意味ですから、新年早々縁起でもない、ということになるわけです。
皆さんはご存知でしたか。
私は慣習的に、年賀状に限らず、由緒正しいお手紙には句読点が付いていないことに気づいていましたから、それに倣ってきました。しかし、
でも、昨年のブログの年頭のご挨拶にも、句点をつけてしまっていましたね。横書きのブログの文章だから、ということで、お許しいただきましょう。
ちなみに、「去年はいい年でしたね」などと使っていませんか。「去る」もやはり忌み言葉。「昨年」を使いましょう、とのことでした。
2020年が明るく良い年でありますように

「手元不如意」という言葉 ― 2019年08月24日

ご存じでしょうか、この言葉。
私が初めて知ったのは1年前、ある生徒さんの「詐欺にご注意」というエッセイの中に出てきたのです。
――高齢者を狙った振り込め詐欺が横行している。テレビニュースなどで、何百万もの額を取られたと聞くたびに、よくもまあそんな大金をお持ちで……と驚くばかり。わが家は高齢者の二人暮らしなのに、ちっとも電話がかかって来ない。きっと、お手元不如意が看過されているのだろう――
というものでした。
「不如意」なら知っています。思いのままにならないこと。
そして、「手元」とはつまり、お金のこと。手元のお金が思うようにならない、言い換えれば、懐が寂しいとか、持ち金が少ない、という意味だそうです。
わが家はお金持ちではなかったけれど、この言葉を両親から聞いたこともありませんでした。やはり、60代以下の世代ではあまり使われていないようです。
気をつけていたところ、80歳に近い女性がこう言うのを聞きました。
「手元不如意につき、受講をやめさせていただきます」
「お金がないので」などとあからさまに言わず、奥ゆかしさを感じました。
三浦しをんさんの小説『あの家に暮らす四人の女』の中にもありました。
――私は手もと不如意でカメラを持っておらず、悔しい思いをしました。――
離婚した父親が、わが子見たさにこっそり運動会を覗いた時のことを回想する。とはいえ、その後この父親は死んでしまい、現在はカラスとなってこの世に現れ、長々と独白するというユーモラスな内容です。そんな小説にはぴたりとくる雰囲気です。
若い人の間ではすでに知られていなくとも、何かの拍子にブレイクしそうな言葉だとは思いませんか。
2年ほど前に、「生まれる言葉、消える言葉」と題して、ブログ記事を書きました。その時に取り上げた「ほぼほぼ」は、ほぼほぼ定着した感があります。
この「手元不如意」も、「よみがえる言葉」となったら楽しいかもしれませんね。

800字エッセイ:「ですよねぇ」 ― 2019年08月14日
東京メトロの表参道駅に、オシャレなフードコートがあり、時々利用している。そこにはおいしいエッグタルトだけを扱っているブースがあるのだ。とくに出来立ては、本場ポルトガルで食べた味に近いので、懐かしさもひとしおだ。
ショーケースの向こうの若い女性店員さんに声をかけた。オバサンとしては本物を食べた自慢話のひとつもしたくなる。
「これ、おいしいのよね」
すると、明るい笑顔で、
「ですよねぇ」と返ってきた。
え? 私の笑顔が固まった。
共感してくれるのはうれしい。でも、私は客で、あなたは学生アルバイトかもしれないけれどお店側の人。ここはひとまず、「ありがとうございます」でしょ。
従業員の教育ができていないと思ってしまうのは、私だけ?
つい先日、息子がスマホを買い替えたいというので、二人で買いに出かけた。若手販売員君の流ちょうな説明に聞き入っていたが、ここでも、え? と耳を疑った。
「お返しスマホ」という料金割引があるという。それまでのスマホを返却した場合のことらしいのだが、客が返すのに、へりくだって「お返しします」と言わせるわけ?
それとも販売側が「お返し!」と命令口調なわけ?
どっちにしてもなんだか変なネーミング……。
「その言葉、おかしくないかしら」と、販売員君には言ってみたけれど、アハハと笑ってスルーされてしまった。
「ですよねぇ。上司に伝えておきます」と、ここでは答えてほしかったなぁ。

「半端ないって」どう思う? ― 2018年06月30日

サッカーワールドカップ、盛り上がってきました。
わが家もご多分にもれず、今週は寝不足状態が続いています。長男は職場で居眠りして、厳重注意のイエローカードをもらってしまいました。
(その母である私は、朝食後こっそり朝寝をしたなどと、口が裂けても言えません)


コロンビア戦で勝ち越し点を決めた大迫選手をたたえるあのフレーズ、
「大迫、半端ないって!」
が、私たちエッセイ仲間で、話題になっています。
どうしても気持ち悪いという人が多い。言葉遣いの問題です。
え、何が問題?と思う方は、きっとお若いのでしょう。
本来は、「半端ではない」というべきです。
話し言葉だとしても、「半端じゃない」となりますね。
それが、若い世代で簡略化されて、「半端ない」となった。
私個人としては、若ぶっているわけではないけれど、会話では使っていたような気がします。
現時点でも、今年の流行語大賞の有力候補となっているようですから、この先の決勝トーナメントでも大迫選手の活躍に合わせて、「半端ない!」が市民権を得る日が来るかもしれませんね。
言葉は、時代の流れの中で変容する生き物です。進化するか退化するかは、私たち現代人の使い方にかかっています。大切に育てなければなりません。
ところで、海外メディアでも大迫選手をめぐる「hampanai」という褒め言葉を紹介しているそうです。英訳すれば、awesome、incredible、つまり、すごい、すごくいい、というわけです。
かつて、「もったいない」がエコを象徴する言葉として世界に紹介されたように、こちらも海外進出するのでしょうか。
日本代表チームの健闘ぶりはもちろん、この言葉にも注目していきたいと思っています。

▲二子玉川駅の近くに並んでいた厚さ3センチの選手たち。
がんばれ、ニッポン!!

エッセイの書き方のコツ(31):「生まれる言葉、消える言葉」 ― 2017年05月15日
【お詫び】
最近、またスパムのコメントが多くなりました。
いずれも英文で、足のトラブルや靴の販売などに特化したサイトからのコメントです。
世界規模でサイバー攻撃が起きている昨今、それに比べたら実害はないのですが、やはり気持ちのいいものではありません。ときどき、コメントをシャットアウトしたり、また受け付けたりして、スパムを回避していますが、さほどの効果はないようです。
コメント欄が開かなくても、数日後には開けるようにしていますので、ご迷惑をおかけしますが、どうぞよろしくお願いいたします。


このたび、NHK学園の川柳講座が発行する『川柳春秋』という季刊誌に、「巻頭随想」を書かせていただきました。
「生まれる言葉、消える言葉」と題して、体験したエピソードを交え、持論を展開してみました。
日本には日本語評論家が一億人いると言われています。皆さんも一家言おありかもしれません。
日本語評論家としての皆さんは、どうお考えですか。
エッセイを書くときにも、その流行語がふさわしいかどうか、読み手にどう受け取られるか、ちょっと考えてみましょう。
使うか使わないかは、書き手の自由です。センスが求められます。
そして、「文は人なり」と言うがごとく、その選択にも、年齢、性別、人柄など、書き手の姿が垣間見えてくるのではないでしょうか。

おススメの本、又吉直樹著『火花』 ― 2015年07月26日

一部のマニアは快挙を喜んだでしょうけれど、私も含め、一般の人々はへえ!と驚いたにちがいありません。
お笑い芸人のコンビ「ピース」の又吉直樹さんが、7月16日に芥川賞を受賞しました。候補に挙がったというだけでニュースだったのに、本当に受賞してしまったのですから。彼の文才は本物だったようです。
本物かどうかぜひこの目で確かめたくて、さっそく読みました。
どこも書店では売り切れで、通販アマゾンでも在庫切れ。こういう時に便利なのは電子書籍です。データの売り切れはありえない。
ブログにも書いているように、私の愛読書といえば、もっかのところ西暦2000年からの直木賞受賞作品です。芥川賞作品も読むことは読みますが、はっきり言ってつまらないものもあり、途中でほうりだすこともあります。
直木賞は大衆文学で、芥川賞は純文学というくくりがあるからでしょうか。
そもそも、私が追求するエッセイといえば、読みやすくわかりやすいことが一番。芥川賞を敬遠してしまうのも無理もない、と自分で言い訳をするのですが。
『火花』も、つまらなかったらどうしよう、と心配しなかったわけではありません。それも、数ページ読んで杞憂に終わりました。
まず、文体がきちんとしている。若い作者にありがちな、カタカナ言葉やはやり言葉が少ない。意外だったというのは失礼ですね。
売れない芸人の「僕」と、先輩として尊敬し、あこがれる神谷さんという人物との関わりが、感情を抑えた筆致で淡々とつづられていきます。
時に、漫才の掛け合いのようなセリフのやり取りが続いて、無条件におもしろい。時に、的確な言葉を用いて丁寧に人物を描写し、リアリティを生みだしている。その混ざり具合が心地よいのです。
そして、いつも章の最後の一文で締めている。これが静かなリズムを生んでいます。全体としても、構築の上手さを感じました。
もちろん技巧的なことだけではなく、私がいいなと思うのは、表現というものに正面から向き合っていること。神谷さんは漫才について次のように話します。
「……平凡かどうかだけで判断すると、非凡アピール大会になり下がってしまわへんか? ほんで、反対に新しいものを端から否定すると、技術アピール大会になり下がってしまわへんか? ほんで両方を上手く混ぜてるものだけをよしとするとバランス大会になりさがってしまわへんか?」
まさに、芸術すべてに共通することかもしれませんね。お笑い芸人であれ、前衛芸術家であれ、表現者の苦悩はその辺りにありそうです。
また、神谷さんは漫才師のことを、こんなふうに説明します。
「……あらゆる日常の行動は全て漫才のためにあんねん。だから、お前の行動のすべてはすでに漫才の一部やねん。漫才は面白いことを想像できる人のものではなく、偽りのない純正の人間の姿を晒すもんやねん。……」
ここで私は、エッセイも同じだ、と思ったのです。
エッセイとは、その人自身が表れているもの。「文は人なり」です。巧みな文章力を持ったエッセイストだけが、優れたエッセイを書けるものではない。その人自身が魅力的でなければ、魅力的なエッセイは生まれない……
漫才も、小説も、エッセイも、自己表現の一つの手段に過ぎないことを、『火花』は改めて教えてくれました。
奇をてらわず、流行に流されず、自分を見つめ、生きることを真面目に見つめた好感のもてる小説でした。
まだまだ、ご紹介したいくだりはありますが、これから読む皆さんのために、このぐらいにしておきましょう。

エッセイの書き方のコツ(27):テーマは「育てる」 ― 2015年07月08日

この春、私が講師を務める通信エッセイ講座で、エッセイコンクールが行われました。テーマは「育てる」。
皆さんだったら、誰を、何を、「育てる」エッセイを書くでしょうか。
150編を超える参加があり、そのうちの半数は、やはり人間を育てる話です。子どもだったり、孫だったり、あるいは自分自身だったり。
妻が夫を家事メンに育てあげる、なんていうのもありましたが、一方で、熟年夫婦の夫が、妻に対する恋心をもう一度育てるというお話は、素敵でした。
子育てならほとんどの方が経験しているので、誰にでも書けそうではありますが、だからこそほかのエッセイとは違う何かがコンクールでは必要になります。例えば、ユニークな内容、独自の視点、洒脱な文章……といった強みがあれば、真っ向から「子どもを育てる」でも十分いけるでしょう。
人間以外というと、やはりペットや植物ですね。
その中に、子どもの頃、かわいがって育てた鶏を食べたという話が、2編もありました。戦後の食糧難を経験された世代の作品です。どちらのエッセイでも、生物の頂点に立つ人間が自然界の命をいただくことの意味を、親が子どもにきちんと教えています。胸に残る秀作でした。
テーマのあるコンクールでは、テーマがエッセイの主題に収まっていることが大事です。
どんなに感動的な話でも、テーマからそれてしまっては得点にはなりにくい。最後にこじつけたようにテーマの言葉が添えられているだけでは、その言葉がなくても成り立つようなもので、これも主題に収まっているとは言いがたい。テーマをいつくしんで書かれているか、その作品のいわば山の部分にテーマが感じられるか、というあたりが審査されるのです。
公募のエッセイコンクールなどもありますから、ぜひ、皆さんも挑戦してみてください。
ちなみに、今回最優秀賞を受賞した作品は、アメリカの若者の話です。エリート教育を受けた青年が、原爆投下された当時の日本の状況について深い知識を持ち、原爆の正当性を語る父親を冷静に批判した。日本でも自国の戦争と平和を考え、自らの考えを発信できる世代を育てなければならない、というものでした。
「時間的にも空間的にも、そしてテーマとしても、奥行きの深い作品」という審査委員長のコメントがありました。


エッセイの書き方のコツ(25):この課題、ご一緒に書きませんか。 ― 2015年02月07日
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私が所属するエッセイの勉強会で、次のような課題でエッセイを書くことになりました。次回23日までに仕上げて、無記名で提出し、その日の会でコンテストをするのです。
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・書き出しの1行の中に、「扉を開けると」という文言を入れること。読み方は「とびら」「と」「ドア」のいずれでも構わない。
・字数800字以内。
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さあ、この課題が出た日から、いつも以上にアンテナを高く張り巡らせて、ネタ探しです。
面白いことに、探し始めたとたん、テレビからも、友人との会話からも、この言葉が出てきては、パッと明るく光るのです。
案外よく使っている言葉なのだな、と改めて感じました。
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ところで、本日第1土曜は、自主グループ「磯の綴り会」の活動日でした。
来月のエッセイのテーマの代わりに、この課題をメンバーにも出しました。
さてさて、どんなエッセイが集まるでしょうね。
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ブログをお読みの皆さんも、この課題でご一緒にショートエッセイを書いてみませんか。
私の作品は、23日以降、ブログで発表するつもりです。
もう、ほぼ出来上がりました。あと2週間、推敲を重ねていきます。
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