「ちょんぼり」という言葉 さらにその後…… ― 2024年05月10日
昨日の午前中こと、近所のスーパーの野菜売り場で親しい友人と一緒になりました。ふたりで品定めしながら、かごに入れていきます。
「ソラマメかー。でもこの値段は高いよね」と彼女。
「さやむいたら、中身はちょんぼりだものね」と私。
「そうそう、そのちょんぼり……」と、いつもブログを読んでくれている彼女が思い出したように言いました。「チョンボリチョロリ、っていう歌があったよね。こぶたのしっぽ、チョンボリチョロリ、チョンボリチョロリ、チョンボリチョロリ……っていうの」
「ああ、そういえば!」
この言葉について、初の謎解きのヒントです。
でも、ほんとうにそのとおりの歌詞なのか、半信半疑で帰宅して、すぐにネット検索すると……ありました、ありました。
古いアメリカ民謡で、歌詞は中山知子さんという童謡詩人が翻訳していました。
くだんの歌詞は2番で、1番は「おんまはみんな パッパカはしる……」で、曲のタイトルも「おんまはみんな」というものです。
さらに調べてみました。訳した中山さんは三重県生まれですが、日本女子大学を卒業されているので、おそらく東京の暮らしが長い方だと思われます。
また、森鴎外や岡本かの子の著作でも使われているということなので、方言というよりも、時代性、つまり、大正世代の話し言葉か、くだけた表現のようなものだったのではないでしょうか。私の母も、中山知子さんも、同世代です。
これもまた、古い言葉として消え去っていく運命なのか……と思うと、ちょっと寂しい気持ちになりました。
ところが、検索を進め、ウィキペディアを調べていくと、この歌は2012年の保育士試験課題曲に取り上げられたと書いてある。まだまだ幼児教育の教材として現役で歌われているようで、ちょっとうれしくなりました。
また、中山さんの訳詞の2番「こぶたのしっぽ」は英語の歌には登場しないのです。中山さんのおかげで「ちょんぼり」が、生きながらえることになったと言えそうですね。
さらに、昨日の夜になって、もうひとり、同じヒントをくださった方が現れました。ニケさん、コメントありがとうございます。
コメントくださったのはもちろんのこと、同じ日に同じヒントをもらった偶然がおもしろくて、これは次の記事に書こう!と思わずにはいられませんでした。
……と、ここまで書いたところで、1歳児の母親である姪っ子からLINEが来ました。新情報。この歌「おんまはみんな」は、公文の童謡CDに収録されているとのこと、これでこの歌は安泰ですね。歌い続けられていくことでしょう。
母から譲り受けた「ちょんぼり」、私も普及に努めることにします。


「ちょんぼり」という言葉 その後は…… ― 2024年05月01日
ご無沙汰しています。
3月14日にこの言葉についての記事を載せてから、早くも1ヵ月半がたちましたが、調査の進展は、残念ながらあまりありません。
結論からいうと、私の造語というか、オリジナルな言葉だったのかもしれない。それでも夫は「その言葉を知っている」と言うので、やはり神奈川方言なのでは、と思うのですが、神奈川の友人からはことごとく、「そんなの知らない」と笑われてしまう。
諦めずに、もう少しリサーチを続けます。「私も使うわよ」と言ってくれる人が現れるまで。
ところで、4月のはじめに、京都と奈良の桜を求めて出かけました。外人観光客であふれかえっている京都では、人込みを避け、平安神宮の非公開エリアに入場しましたが、こちらも残念ながら、咲いているのはほんのちょんぼりでした。


「ちょんぼり」という言葉 ― 2024年03月14日
先日の会でのこと。私のエッセイは、老人ホームに入居した義母の様子をつづったもので、その中にこんな一文がありました。
……(義母は)一ヵ月の献立表を虫メガネでくまなくチェックしては、今日のは大したことはなかった、ちょんぼりだった、などと批評をする。……
すると、あるメンバーから、
「ちょんぼりって、なあに? ちょっぴりとは違うの?」
という疑問が投げかけられたのです。ほかのメンバーも、同じように「?」という顔をします。「しょんぼり、でもないの?」と言う声も。
私のほうこそ、びっくり! 私が日常的に使う言葉を、長いお付き合いのみんなが知らない、と言うのですから。
「お義母さんはどちらのご出身?」
夫の家族も、私の両親も、戦前から東京で暮らしてきました。どこかの方言とも思えません。
逆に、合評のメンバーも、ほぼ同じような言語環境のはずですが……。
夫に尋ねたところ、
「ああ、お父さんは鎌倉の出身だったから、神奈川県の方言かなぁ」
そう言えば、私の両親は転勤族で、茅ケ崎と横浜に移り住み、50年近く神奈川県民でした。
どうやら夫の説が正解かもしれません。
ちなみに、広辞苑では、「ちょんぼり」は「『ちょんびり』に同じ」とあり、「ちょんびり」を引くと「少しばかり。ちょっぴり」とある。
でも、微妙に違う気がします。
つまり、合評でコメントされたように、「少ししかなくて、しょんぼりするような気分」を含んでいる。ちょっぴりで、しょんぼり、というわけです。
だからこそ、食べ物に使うことが多いようです。
「お釜にはご飯がちょんぼりしか残っていない」
「箱ばかり立派で、中のお菓子はちょんぼり」という具合に。
贈り物、お祝い金などにも、謙遜の気持ち、申し訳ない気持ちを込めて、
「ちょんぼりだけど、もらってね」のように使える気がします。
さてさて、これをお読みくださった皆さん、「ちょんぼり」を知っていましたか。
使っているならば、あなたも神奈川県民でしょうか??

今日は、ホワイトデー。画像はfreepikからお借りしました。
ほぼ2000字のエッセイ:直木賞を読む ― 2023年06月02日

油絵を習っているという友人に聞いた話だ。彼女の絵の先生は、
「本物を見なさい。展覧会に行ったら一等賞の絵だけ見ればよい」と言うのだそうだ。
絵に限らず、文章も同じではないか。一等賞の文章を読もう、できればおもしろいものを、といつも思っていた。ある時、はたとひらめいた。そうだ、直木賞受賞作がいい。大衆文学の一等賞だ。エッセイの上達のためにも、ちょうどいいのではないか。
そこで私は、柄にもなく目標を打ち立てた。10年ほど前のことだ。
《西暦2000年から現在までの直木賞受賞作を読破する》
昭和10年に文藝春秋社が始めたこの賞は、著名な作家陣10名ほどが選考にあたり、毎年7月と1月、その半年間に発表された小説の中から選ばれる。受賞作2作品のこともあるし、該当なしのこともある。
ところで、私の目標はなぜ2000年からなのかというと、それには理由がある。1999年上半期の受賞作に、かつて読み始めたのだがどうしても読み進むことができずに投げ出した作品があったのだ。佐藤賢一著『王妃の離婚』。3分の1まで頑張ってみたけれど、何がおもしろいのがわからないままギブアップしてしまった。これを課題図書としないための年代設定だった。
それから3年ほどで目標は達成できた。それ以後も継続中で、新しい受賞作を欠かさず読んでいる。この1月に発表された2作を読み終えて、合計58冊、すべて読破し続けている。
それにしても『王妃の離婚』は、なぜそれほど相性が悪かったのだろう。謎を解くためにも、再挑戦してみようかと思うこともある。
私のもくろみどおり、読破した一等賞の作品はどれも本当にすばらしい。おもしろい。裏切られることはない。
なんといっても、読書の幅が広がった。自分で思うに、私は何事にもあまり好奇心旺盛ではない。この目標がなかったら、自分から手を伸ばすのはたいてい、お手軽な恋愛小説とか、のめり込んでしまうような推理小説とか、できれば舞台は現代で、リアリティがあって共感しやすいもの……といったところだった。知らないジャンルは避けてきた。
そんな私が、戦国時代だろうと明治時代だろうと、異国の物語だろうと未知なる生業の物語だろうと、機械的にページを繰っては文字列を追い続ける。そのうちに、しっかりと小説の中に埋没して、胸躍らせながら楽しんでいる自分がいるのだ。みずから定めた目標は、期待以上に効果があった、と自画自賛している。
ところが、である。2年前の受賞作『テスカトリポカ』佐藤究著。これにはまいった。初めて選考委員を恨んだ。なぜこれが受賞作なのかと。
おどろおどろしい古代遺跡の一部のような表紙も、一度では覚えられないタイトルも、古代アステカ文明の神様らしい。舞台は1990年代のメキシコから始まり、日本、ジャカルタにも及んでいる。麻薬密売組織の抗争。謎の密売人、闇の医師、プロの殺し屋たちの暗躍。古代文明の残虐ないけにえの儀式。巨額の資金が動く臓器売買という闇のプロジェクト……。最初から殺戮シーンが冷酷に克明に描かれ、物語が展開するにつれて、それらは狂気を増してエスカレートしていくのだ。
ちょうどその頃、朝日新聞デジタル版に、選考委員を退任した北方謙三氏のインタビュー記事が載った。彼は私の目標と同じ2000年以来の就任だったというから、選考の様子や印象的な作品など、話の内容がすべて理解できておもしろかった。
『テスカトリポカ』に関しては、選考委員の中でも意見が分かれたという。残忍な描写はともかくとして、子どもを犯罪に巻き込む場面を表現する必然性があるのかと、北方氏が選考会で疑問を呈したところ、「男って弱いのね。私は平気よ」と言われたそうだ。ちなみに、現在の選考委員は男性3名、女性6名という比率。残酷シーンにも冷静でいられる女性が増えたということか。しかも、彼女たちはそれをも含めたこの作品の文章力の高さ、小説としての優れた部分をきちんと見極めていたのだ。
この記事を読んで、目からうろこだった。私が負の感情ばかりにとらわれて、小説としてのおもしろさに思いが至らなかっただけだ。古代のいけにえの儀式を現代の犯罪によみがえらせるという奇抜な構想は、かなりの書物を読み、各地に足を運び、綿密な情報を集めたことだろう。佐藤究はすごい作家なのだ。気がつくと、結末を知りたくて、残酷シーンにおののきながらも、昼も夜も読み続けた。
これほどエネルギーを消費した読書はなかった。読んでよかったとはいまだに言えないけれど、とりあえず読了してノルマ達成できたことに安どする。
当初の目的「エッセイの上達のため」は二のつぎ、三のつぎだ。
さてさて次回の受賞作は、いかに。


エッセイの書き方のコツ(35):「近ごろ気になる言葉」 ― 2021年06月08日
近ごろ耳にするけれど、どうも気になる言葉や言い回しなど、ありませんか。
今、各地の教室で、このテーマで書いてもらっています。
私が気になるのは、今まで「人の流れ」と言っていたところに使われる「人流(じんりゅう)」という言葉。耳障りで好きになれません。
新聞の見出しなどでは、字数が少ないほうが便利なのはわかりますが、早口でしゃべる必要のない記者会見で、東京都知事の小池さんが最初に言い出したように思います。「人流が減らない。人流を抑えたい」などという具合に。
なんとなく、粉塵の塵、つまり塵芥(ちりあくた)のチリを思い浮かべます。
人の流れをチリの集まりとは、いかがなものか。国民ひとりひとりの行動の集合体を、そんなふうに表現されて、あまり気持ちの良いものではありません。
そのうちに新語登録されて辞書に載るようになっても、私は使わないでしょう。
「まん延防止等重点措置」という言葉は、はじめのうちは「まん防」と略されるようになり、すぐに世間のひんしゅくを買いました。魚のマンボウみたいで間が抜けているとか、「ウー、マンボー!」と言いたくなるなど批判を浴び、きちんと「まん延防止」と使うようになりましたね。
ところで、「コロナ禍」という言葉、エッセイを書くときはもちろん、日々のメールでも、使わない日はないように感じます。
これを「コロナ禍」と書くか、「コロナ下」と書くか。
エッセイ仲間の泰子さんは、そこが気になって、自身のホームページ「エッセイ工房」に、考察する記事を書きました。なかなか興味深く、参考にもなりますので、ぜひお読みください。
(彼女は2019年12月にエッセイ集を出版。その折に、私もブログ記事で紹介しています)
私はほとんど「コロナ禍」を使います。いくら「コロナ下」と書いても、そこに、わざわいがもたらすマイナス面の印象は拭えないと思えるからです。
そして、「エッセイ工房」の記事を引用すると、
「ウィキペディアの〈コロナ禍〉の解説によれば、新聞報道においては2020年4月に全国紙に登場したそうです」とのこと。
私自身はもっと早くから使っていたような気がして、自分のブログを調べてみました。
……ありました、4月19日の記事の最後のほうに。
朝日新聞の天声人語に登場したのが、4月20日だそうですから、私はそれよりもひと足(一日)早く使っていたのです。いつもぐずぐずしているうちに出遅れる私ですが、こればかりはちょっと自慢したい気分になりました。
ちょうど、パンデミック小説ばかり読んでいた時期だったので、「○○禍」という言葉に馴染んでいたのでしょう。
やはり、読書は語彙を増やすにはもってこい、なのかもしれませんね。そこもぜひご参考に!

渡辺えりさんのもう一つの言葉 ― 2020年07月24日
昨日のえりさんの記事で、もう一つ、心に響いたのは、次の一文でした。
マスクで表情の見えない時期だからこそ、言葉は前にもまして大事になってくる。
3日前のことが思い出されたのです。
仲間うちのエッセイの合評会に参加しました。アクリル板の仕切りもありませんから、皆マスクをしたままです。
合評会は、感想ばかりではなく、作品の気になる点を伝え、こんなふうに直してはいかが……と率直な意見を述べ合います。
そのとき、ふっと不安になりました。自分ではソフトな表情で伝えているつもりでも、口元を覆っていては相手に見えていないわけで、マイナスな印象を持たれていないだろうか。笑ってごまかすのは通用しない。その分、ついつい饒舌になっている気がしました。
同じことは、こうした書き言葉にも言えますね。
お互いに顔の見えない通信添削では、言葉を選び、言葉を尽くして伝えることに努めますが、それが本当に私の意図するとおりに伝わっているのかどうか。誤解されたり、まして読み手を傷つけたりしていないだろうか。いつも気がかりです。
先日の合評会では、じつはバッグの中にフェイスシールドを忍ばせていました。マスク以上に煩わしいので、結局付けずにすませましたが、やはり、これを付けてマスクを外せばよかった。今さらながらに思いました。
マスクをしていても、していなくても、言葉は大切です。
伝えたいことが、きちんと伝わるように、ときに表情の力を借りながらも、いつもその時その時にふさわしい、最善の言葉を選んでいきたいものですね。

年賀状の正しい書き方は? ― 2020年01月04日

明けましておめでとうございます
2020年
いつも私のブログをご覧くださり、どうもありがとうございます。
本年もどうぞよろしくお願いいたします。
今年こそは、もう少しブログの在り方を改善してみようと思います。少しずつ小さなリニューアルをしていくつもりです。
今年の目標の一つです。
今年も昨年同様、たくさんの年賀状を送り、そして頂きました。書くことをご指導する講師をしている手前、やはり頂戴する年賀状も多く、そうやすやすとメールやラインに移行していくわけにはいきません。
頂いた賀状の中には、思いがけない方が「ブログを見ていますよ」と書いてくださっていて、身の引き締まる思いがしました。
ブログを始めたころに比べたら、パソコンでのアクセスより、スマホで見てもらうほうが多いのではないでしょうか。具体的に実証できるわけではないけれど、世の中の流れからしても想像に難くありません。
とりあえずは、スマホで読みやすくすることを考えましょう。
ところで、暮れのテレビ番組で、お作法の先生が年賀状の正しい書き方を説明していました。
明けましておめでとうございます。
と書くのは、正しくないのだそうです。正しくは、このブログの一行目に書いたとおり「。」をつけない。この句点は、「文がここで終わり」という意味ですから、新年早々縁起でもない、ということになるわけです。
皆さんはご存知でしたか。
私は慣習的に、年賀状に限らず、由緒正しいお手紙には句読点が付いていないことに気づいていましたから、それに倣ってきました。しかし、
でも、昨年のブログの年頭のご挨拶にも、句点をつけてしまっていましたね。横書きのブログの文章だから、ということで、お許しいただきましょう。
ちなみに、「去年はいい年でしたね」などと使っていませんか。「去る」もやはり忌み言葉。「昨年」を使いましょう、とのことでした。
2020年が明るく良い年でありますように

「手元不如意」という言葉 ― 2019年08月24日

ご存じでしょうか、この言葉。
私が初めて知ったのは1年前、ある生徒さんの「詐欺にご注意」というエッセイの中に出てきたのです。
――高齢者を狙った振り込め詐欺が横行している。テレビニュースなどで、何百万もの額を取られたと聞くたびに、よくもまあそんな大金をお持ちで……と驚くばかり。わが家は高齢者の二人暮らしなのに、ちっとも電話がかかって来ない。きっと、お手元不如意が看過されているのだろう――
というものでした。
「不如意」なら知っています。思いのままにならないこと。
そして、「手元」とはつまり、お金のこと。手元のお金が思うようにならない、言い換えれば、懐が寂しいとか、持ち金が少ない、という意味だそうです。
わが家はお金持ちではなかったけれど、この言葉を両親から聞いたこともありませんでした。やはり、60代以下の世代ではあまり使われていないようです。
気をつけていたところ、80歳に近い女性がこう言うのを聞きました。
「手元不如意につき、受講をやめさせていただきます」
「お金がないので」などとあからさまに言わず、奥ゆかしさを感じました。
三浦しをんさんの小説『あの家に暮らす四人の女』の中にもありました。
――私は手もと不如意でカメラを持っておらず、悔しい思いをしました。――
離婚した父親が、わが子見たさにこっそり運動会を覗いた時のことを回想する。とはいえ、その後この父親は死んでしまい、現在はカラスとなってこの世に現れ、長々と独白するというユーモラスな内容です。そんな小説にはぴたりとくる雰囲気です。
若い人の間ではすでに知られていなくとも、何かの拍子にブレイクしそうな言葉だとは思いませんか。
2年ほど前に、「生まれる言葉、消える言葉」と題して、ブログ記事を書きました。その時に取り上げた「ほぼほぼ」は、ほぼほぼ定着した感があります。
この「手元不如意」も、「よみがえる言葉」となったら楽しいかもしれませんね。

800字エッセイ:「ですよねぇ」 ― 2019年08月14日
東京メトロの表参道駅に、オシャレなフードコートがあり、時々利用している。そこにはおいしいエッグタルトだけを扱っているブースがあるのだ。とくに出来立ては、本場ポルトガルで食べた味に近いので、懐かしさもひとしおだ。
ショーケースの向こうの若い女性店員さんに声をかけた。オバサンとしては本物を食べた自慢話のひとつもしたくなる。
「これ、おいしいのよね」
すると、明るい笑顔で、
「ですよねぇ」と返ってきた。
え? 私の笑顔が固まった。
共感してくれるのはうれしい。でも、私は客で、あなたは学生アルバイトかもしれないけれどお店側の人。ここはひとまず、「ありがとうございます」でしょ。
従業員の教育ができていないと思ってしまうのは、私だけ?
つい先日、息子がスマホを買い替えたいというので、二人で買いに出かけた。若手販売員君の流ちょうな説明に聞き入っていたが、ここでも、え? と耳を疑った。
「お返しスマホ」という料金割引があるという。それまでのスマホを返却した場合のことらしいのだが、客が返すのに、へりくだって「お返しします」と言わせるわけ?
それとも販売側が「お返し!」と命令口調なわけ?
どっちにしてもなんだか変なネーミング……。
「その言葉、おかしくないかしら」と、販売員君には言ってみたけれど、アハハと笑ってスルーされてしまった。
「ですよねぇ。上司に伝えておきます」と、ここでは答えてほしかったなぁ。

「半端ないって」どう思う? ― 2018年06月30日

サッカーワールドカップ、盛り上がってきました。
わが家もご多分にもれず、今週は寝不足状態が続いています。長男は職場で居眠りして、厳重注意のイエローカードをもらってしまいました。
(その母である私は、朝食後こっそり朝寝をしたなどと、口が裂けても言えません)


コロンビア戦で勝ち越し点を決めた大迫選手をたたえるあのフレーズ、
「大迫、半端ないって!」
が、私たちエッセイ仲間で、話題になっています。
どうしても気持ち悪いという人が多い。言葉遣いの問題です。
え、何が問題?と思う方は、きっとお若いのでしょう。
本来は、「半端ではない」というべきです。
話し言葉だとしても、「半端じゃない」となりますね。
それが、若い世代で簡略化されて、「半端ない」となった。
私個人としては、若ぶっているわけではないけれど、会話では使っていたような気がします。
現時点でも、今年の流行語大賞の有力候補となっているようですから、この先の決勝トーナメントでも大迫選手の活躍に合わせて、「半端ない!」が市民権を得る日が来るかもしれませんね。
言葉は、時代の流れの中で変容する生き物です。進化するか退化するかは、私たち現代人の使い方にかかっています。大切に育てなければなりません。
ところで、海外メディアでも大迫選手をめぐる「hampanai」という褒め言葉を紹介しているそうです。英訳すれば、awesome、incredible、つまり、すごい、すごくいい、というわけです。
かつて、「もったいない」がエコを象徴する言葉として世界に紹介されたように、こちらも海外進出するのでしょうか。
日本代表チームの健闘ぶりはもちろん、この言葉にも注目していきたいと思っています。

▲二子玉川駅の近くに並んでいた厚さ3センチの選手たち。
がんばれ、ニッポン!!
