南フランスの旅のフォトエッセイ:⑤Hotel Beau Rivage2024年07月15日


ニースで3泊したのは、Hotel Beau Rivage (ホテル・ボー・リヴァージュ)という4つ星ホテルでした。

Beau Rivageとは、フランス語で「美しい海岸」という意味です。その岸辺に建つホテルだという自負があるのでしょう。旧市街からも近く、立地条件の良さは抜群です。


 

ホテルの廊下には、リアルな小石模様のカーペットが。▲

 

このホテルには、もうひとつ、すごい歴史がありました。それを知らずに予約してもらっていたのですが……。

1917年に、アンリ・マティスは初めてニースにやって来た。その時に泊まったのが、このホテルだったのです。しかも、それはクリスマスの日だったそうで、寒くて暗いパリから、暖かな陽の光が満ちているはずのニースへ、明るい希望を抱いてやって来たことでしょう。がしかし、運悪くひと月も雨が降り続いたとか。

その107年後、私たちは同じホテルにチェックイン。宝くじに当たった気分です。

きれいにリフォームされて、当時の面影はないのかもしれませんが、ロビーにも朝食をとるレストランにも、マティスのポスターや複製画がたくさん飾られていました。


 


 こうした旅の魅力が膨らむ情報をくれたのが、町田陽子さん。私たちの旅にとって、ステファニーさんと並ぶもう一人のキーパーソンです。

このシリーズ「南フランスの旅のフォトエッセイ」のプロローグとして、出発前日の6月3日に書いた記事「南フランスへ」の中でも、著書とともに紹介しています。

とくに今回のシリーズは、彼女がJAL機内誌SKYWARDに載せた「南フランス アンリ・マティスの光」という記事を参考にさせていただきました。プロのライターのメリハリが利いた文章も魅力のひとつ。ぜひお読みください。

WEBマガジンで読むことができます)



さて、その美しい海岸で、サプライズに遭遇します。

次回、お楽しみに。 

    

(⑥に続く)


南フランスの旅のフォトエッセイ:④Hiromiさんのナイスアイデア2024年07月12日

さて、話は1日前に戻ります。


 

6月4日の朝6時に家を出て、空港バスで成田へ。

1120発のオランダ航空でアムステルダムへ。現在はロシア上空を飛べないので、北極海上空を飛んでいるようでした。13時間かかって到着。

スキポール空港で乗り継いで、ようやくニース・コートダジュール空港に到着したのは、現地時間の2225です。東京は、時差7時間、翌朝の525着となり、自宅からここまで24時間近くかかったことになる。まあなんと長旅だったことでしょう。早くホテルで眠りたい……。

空港からホテルまでは、夜も遅い時間なので、日本で旅行会社の送迎車を手配してきました。

 

ところが、着いた時にお迎えらしき人がいない。待てど暮らせど、現れない。予約手配をしてくれたHiromiさんが、問い合わせ用のアプリをダウンロードして、電話をかけようにもなぜか通話ができないのです。

小さな空港ロビーから、ほとんどの利用客は姿を消していきます。30分たってもらちが明かず、客待ちをしていたタクシーでホテルに向かうことにしました。

一見怖そうなドライバーがたむろしています。その中のひげ面の1が、私たちを見つけて、当然乗るだろう、と目で合図をされました。フランスのタクシーは問題ないとは聞いていたので、勇気を出して乗ることに。

 

スーツケースをトランクに入れてもらって、「Hotel Beau Rivage」と告げると、すぐ走り出しました。

「英語を話しますか」と聞くと、「あまり上手じゃないけど」と言いながら、おしゃべり好きなフランス人らしく、いろいろ彼のほうから質問してきました。

最初の質問は、「どこから来ましたか」。

日本だと答えると、「日本に行きたい!」と急にテンションが上がりました。彼の友人も日本を旅して、とてもよかった、おもしろかった、と彼に薦めたそうです。30代か40代ぐらいの彼にとって、日本はアニメやゲームの聖地なのでしょう。彼は「ワンピース」などのマンガ本を読み、彼の息子たちはポケモンやマリオなどのゲームで遊んでいるとか。

そんな楽しい会話をしているうちに、あっというまにホテルに到着。スーツケースを下ろしてもらい、料金とわずかなチップを渡すと、さっさと車に戻ろうとした彼を、私たちは引き留めました。

「日本のおみやげを渡したいから、ちょっと待って」

Hiromiさんがスーツケースの中から取り出したのは、ポケモンのキャラクターが描かれているスナック菓子と、「きのこの山」。

「日本のお菓子です。お子さんたちと食べてね」

彼はびっくりして、そして、とてもうれしそうな笑顔で「サンキュー!」と言ってくれました。



Hiromiさんは前回のクロアチア旅行でも、「チップと一緒に渡すと喜ばれるのよ」と言って、ポッキーとかハッピーターンとか、日本のお菓子をたくさん買い込んできてくれたのです。実際に、彼女がお菓子を渡すと、こわもてのドライバーさんがみな一様に顔をほころばせるのでした。

今回の旅でも、「私に任せて!」と大量に持ってきてくれていました。

 

到着早々の空港で見舞われたアクシデントだったけれど、Hiromiさんの機転で、こんなにステキな笑顔に出会えたのです。まさに、災い転じて福となす。

後日、送迎車を予約した旅行会社からは丁重なお詫びのメールが届き、全額返金となりました。

                  (⑤に続く)


南フランスの旅のフォトエッセイ:③マティスのロザリオ礼拝堂へ2024年07月04日

 

そもそも、私がこのマチスの礼拝堂の存在を知ったのは、昨年の夏、東京でのマティス展でした。その展示と動画を見た時、ここへ行きたい。次にヨーロッパへ行くなら、この教会のある南フランスへ。そう思ったのでした。

 

▲昨年のマティス展で購入したA5サイズのクリアファイル。見開きにポケットもあり、今回の旅ではバッグに入れて便利に持ち歩いていました。

 


礼拝堂のステンドグラスを透した光が美しいのは午前中、とりわけ冬の11時ごろだ、とマティス自身も言っていたそうです。ステファニーさんに朝早く出発してもらったのですが、ヴァンスの街に着いた頃にはあいにくの曇り空になっていました。


▼まず、道路わきに車をとめると、屋根から伸びた細くて華奢な十字架が目に入ります。向こうの黄色い建物はドミニコ修道会のものです。

 

▼道路と反対側に回ると、庭があり、ブーゲンビリアが咲き、ブドウ棚の葉も茂っていました。見晴らしがよい丘の中腹に位置することがわかります。


▲ここが入り口。憧れのチャペルにはるばるやって来たことに胸ときめかせながら、足を踏み入れたのですが、中に入ると、まず礼拝堂の手前にあるのは、美術館のような展示スペース。2016年に訪れる人々のために設けられたのだそうです。チャペルの中は撮影禁止なので、ここでたくさんの写真を撮りました。

そして、ようやくその奥へ。


(▲上2枚の写真は、絵はがきを写したもの)


それは小さな礼拝堂で、50人も入れば満席になりそうな椅子が並んでいる。奥まった位置には別の椅子が並び、それはシスター(修道女)たちの座る場所だそうで、祭壇は、一般の人びととシスター席の両方に向くように、斜めに据えてありました。

祭壇の背後には、何かの植物の絵のステンドグラスが……。切り絵をモチーフにしたその柄をよく見ると、黄色いのは葉ではなく花で、ネイビーの部分が楕円形の葉だと気づきました。そう、サボテンです。そういえば教会の庭にも同じ形のサボテンがありました。

(▲これも絵はがきです)


▲サボテンのステンドグラスの外には、本物のサボテンが負けじと大きく茂っていました。

 

横の壁には、天井まで届きそうな細い窓がいくつも並び、ステンドグラスには、ネイビーと黄色の大胆で鮮やかな切り絵の葉が、コバルトグリーンを背景に描かれています。「生命の木」と呼ばれているそうで、ここから日が差し込めば、天国のような光に満ちた空間が生まれるのでしょう。

▼これは、展示スペースにある写真。作者マティスが写っています。


白いタイルの壁には、晩年のマティスが好んだシンプルな黒い線で描かれた聖母子像や、十字架の道行きの絵がありました。

下の写真は、その聖母子像の下絵を描いているマティスの写真です。



 

この「十字架の道行き」というのは、キリストが死刑判決を受けてから、十字架を担って歩き、三度倒れ、十字架にはりつけにされて死に、墓に葬られるまでの14の場面を描いたもの。一般的に教会では、それぞれの14枚の絵が礼拝堂の壁に順を追って掛けられているのですが、マティスはコンパクトに一枚の絵に収めています。

ステファニーさんは、私が「道行き」という言葉を使ったことに耳をとめ、その日本語を確認していました。ガイドとして、今なお日本語のブラッシュアップを心がける姿勢に頭が下がります。


 

マティスは晩年、がんに侵されます。その療養中に献身的な看護をしてくれた女性がいたのです。話し相手でもありモデルとしても、画家に尽くしました。やがて彼女がドミニコ会の修道女となり、会のための礼拝堂を作りたいと望んでいることを知り、マティスは自分にやらせてほしい、と申し出ました。そして、4年の歳月をかけて、彼の芸術のすべてを注ぎ込んで完成させたのだそうです。

その3年後、彼は天に召されました。

ピカソもシャガールも、芸術を通して深い親交があったはずなのに、彼の葬儀に姿を見せなかったといいます。マティスがロザリオ礼拝堂を請け負ったことに嫉妬し、その出来栄えにも嫉妬したのかもしれません。

そんな人間臭いエピソードが、聖なる場所である礼拝堂に絡んで語られる。じつにおもしろいと思いました。

光に満ちたニースの空、風、海、植物たち。そしてこの地にやってくる芸術家たちの人間模様。何もかも神様は微笑みながら見ておられる。マティスのことも、やさしく天国に迎え入れたことだろうと、ひそかに想像してみました。

 

マティスが亡くなったのは、私の生まれた年。それもほんの2ヵ月前だったのです。ここまでやって来たのはたんなる偶然だとわかっていても、日常を離れた旅先で、不思議な巡りあわせを感じました。


                (④に続く)

 


南フランスの旅のフォトエッセイ:②ルノワール美術館へ2024年06月26日


 

マイ・コート・ダジュールのサイトに問い合わせをし、何回もメールのやり取りをして、6時間のチャーターツアーをステファニーさんにお願いすることに決めました。ニース近郊のルノワール美術館、マチスのロザリオ礼拝堂、サンポール・ド・ヴァンス村の3ヵ所を、彼女の運転する車で巡ります。



夜遅くニースのホテルに着いた翌朝、青空が私たちを歓迎してくれました。

海沿いの道路をステファニーさんが運転する大きなベンツで走っていきます。「イギリス人の遊歩道」と呼ばれる海辺の道を、たくさんのジョガーが走っていきます。気持ちよさそう!



最初に訪れたのは、カーニュ・シュル・メールという小高い丘の上にあるルノワール美術館。

ルノワールは、モネと並んで日本人にはなじみ深い印象派の画家です。40代からすでにパリの画壇では認められた存在になっていましたが、晩年、リウマチを患い、医師から温暖な南仏で療養することを勧められ、この地にやってきました。



1907年には、広いオリーブ畑の敷地を買い取り、この家を建てました。現在は遺品が展示されて、美術館として利用されています。



ルノワールの身を包んだケープ、ステッキやベル、けん玉もありました。

彼の絵具箱、イーゼル、腰かけた車いすも、部屋の中に並んでいます。




ルノワールは、妻のアリーヌと、3人の男の子に囲まれ、また、たくさんの弟子たちも出入りする賑やかなサロンのような家で、幸せな晩年だったのではないでしょうか。

私はかつて、ルノワールのふやけたような女性の絵Pardon! 失礼 は、あまり理解できませんでした。でも、最近はようやくわかりかけてきたような気がします。光を分解して、たくさんの色遣いで描かれた人物像は、その人の内面まで浮かび上がらせる。ルノワールが愛情を注いだ家族も、愛らしい子どもたちも、生き生きとして見えるのは、そのせいかもしれません。




女性用の日傘や帽子とともに、「大水浴図」の絵が▲



ルノワールの部屋の鏡を使って、3人の記念写真をカシャリ。▲

左がステファニーさん、右がHiromiさん。



広い庭には、オリーブの木や菩提樹も、今なおルノワールの描いた景色がそのままに残され、遠くの旧市街の街並みも、大きくなった木々のはるか向こうに見ることができました。▼



▲彼が描いた農家の倉庫も当時のまま。


 ルノワールの遺品をたくさん目の当たりにして、彼が生きて絵を描いた空間にいることが、なんとも不思議な気持ちでした。

昨日までは、私は日本にいたのに……、今は20時間近くかけてやって来た南フランスの丘で、地中海からのさわやかな風に吹かれている。夢を見ているのかも、とちらりと思ったのでした。


                  (③に続く)



南フランスの旅のフォトエッセイ:①ステファニーさんとの出会い2024年06月21日

 

201910月にクロアチア旅行をした後は、翌年の1月から新型コロナのパンデミックが始まり、海外旅行はおあずけとなりました。

昨年20235月にようやくコロナが5類移行となり、いろいろなことが解禁となり、私もコロナ以前の暮らしに戻れると期待したのでしたが……。

7月には遅ればせながらコロナに感染したり、夏にはぎっくり腰にやられて動けなくなったり……。同じころに義姉が脳出血で倒れ、入院中の義姉と、実家に一人残された高齢の義母との2人の世話をすることになったり……と、のんきに旅行どころではない難題が立ちはだかりました。

それも何とか落ち着いてきて、今年こそはいざヨーロッパへ。その希望をかなえるべく、ひそかに計画を進めたのでした。

 


まずはガイドブックを見つけようと立ち寄った本屋さんで手にしたのが、『ニースっ子の南仏だより12ヵ月』でした。フランス人の女性が日本語で書いた本! かつて日本語教師をしていた私としては、それだけで興味津々です。

著者のステファニーさんは、高校生の時に日本語を学び始め、さらにパリの大学で勉強を続け、日本にも何度か留学したことで、読み書きもでき、流ちょうな日本語が話せるようになっていったのです。彼女の努力と、日本語への愛情のたまものにほかなりません。

こうして、その稀有な能力を生かし、日本人のための観光ガイドとして地元ニースで活躍してきました。この15年間、毎年ほぼ400人の日本人を案内しているとか。今ではマイ・コート・ダジュールという会社の代表であり、結婚して2人の男の子の母親でもあるという、スーパーレディなのです。

 

この本と出合えて、ラッキーでした。

私は、若いころからフランスが好きで、パリへは何回も訪れていますが、なぜか南仏に足を延ばしたことはありません。でも、昨年、東京で開催されたマチス展で、マチスが最後に手がけた南仏のロザリオ礼拝堂のことを知り、ぜひそこに行ってみたいと思ったのです。

今度の旅は、南仏へ行こう。

手がかり、足がかりは、ステファニーさんにアクセスすることから始まりました。

 

そして旅の道連れは、前回のクロアチアでも一緒だったHiromiさん。

彼女はすでに昨年、コロナ解禁後にイギリス旅行をしていましたが、初めての「南仏の旅」に心が動いたと言って、付き合ってもらえることになりました。

                             (②に続く)


▲菩提樹の木の下で、左がHiromiさん、右がステファニーさん。


南フランスへ2024年06月03日



 

明日から、5年ぶりの海外旅行に出かけます。

行き先は、オリンピックで賑やかしそうなパリを避けて、南フランスを訪ねます。

 

★『ニースっ子の南仏だより12カ月』ルモアンヌ・ステファニー著

★『南フランスの休日 プロヴァンスへ』町田陽子著

 

この2冊に導かれて、旅の計画が出来上がっていきました。

ニースと、アヴィニョンで、それぞれの著者にお世話になる予定です。

 

帰国したら、少しずつ、旅のフォトエッセイをブログに載せていけたら、と思っています。

それでは、行ってまいります❣

 


「ちょんぼり」という言葉 さらにその後……2024年05月10日

昨日の午前中こと、近所のスーパーの野菜売り場で親しい友人と一緒になりました。ふたりで品定めしながら、かごに入れていきます。

「ソラマメかー。でもこの値段は高いよね」と彼女。

「さやむいたら、中身はちょんぼりだものね」と私。

「そうそう、そのちょんぼり……」と、いつもブログを読んでくれている彼女が思い出したように言いました。「チョンボリチョロリ、っていう歌があったよね。こぶたのしっぽ、チョンボリチョロリ、チョンボリチョロリ、チョンボリチョロリ……っていうの」

「ああ、そういえば!」

この言葉について、初の謎解きのヒントです。

でも、ほんとうにそのとおりの歌詞なのか、半信半疑で帰宅して、すぐにネット検索すると……ありました、ありました。

古いアメリカ民謡で、歌詞は中山知子さんという童謡詩人が翻訳していました。

くだんの歌詞は2番で、1番は「おんまはみんな パッパカはしる……」で、曲のタイトルも「おんまはみんな」というものです。

さらに調べてみました。訳した中山さんは三重県生まれですが、日本女子大学を卒業されているので、おそらく東京の暮らしが長い方だと思われます。

また、森鴎外や岡本かの子の著作でも使われているということなので、方言というよりも、時代性、つまり、大正世代の話し言葉か、くだけた表現のようなものだったのではないでしょうか。私の母も、中山知子さんも、同世代です。

これもまた、古い言葉として消え去っていく運命なのか……と思うと、ちょっと寂しい気持ちになりました。

ところが、検索を進め、ウィキペディアを調べていくと、この歌は2012年の保育士試験課題曲に取り上げられたと書いてある。まだまだ幼児教育の教材として現役で歌われているようで、ちょっとうれしくなりました。

また、中山さんの訳詞の2番「こぶたのしっぽ」は英語の歌には登場しないのです。中山さんのおかげで「ちょんぼり」が、生きながらえることになったと言えそうですね。


さらに、昨日の夜になって、もうひとり、同じヒントをくださった方が現れました。ニケさん、コメントありがとうございます。

コメントくださったのはもちろんのこと、同じ日に同じヒントをもらった偶然がおもしろくて、これは次の記事に書こう!と思わずにはいられませんでした。


……と、ここまで書いたところで、1歳児の母親である姪っ子からLINEが来ました。新情報。この歌「おんまはみんな」は、公文の童謡CDに収録されているとのこと、これでこの歌は安泰ですね。歌い続けられていくことでしょう。

母から譲り受けた「ちょんぼり」、私も普及に努めることにします。

 








ロングエッセイ:「最後の愛車」2024年05月04日

         

私が運転免許を取ったのは、結婚した年だった。費用は家計費からねん出して取得すればいい、と学生時代から考えていて、そのとおり実行した。夫は免許を持ってはいても、運転はあまり好きではなさそうだ。そのせいか、私の運転に協力的で、助手席に座り、文字どおり私の運転助手となった。

子どもが生まれると、車のある暮らしは何かと便利だった。しかし、その必要性がはっきりしたのは、長男が2歳半の頃。息子は自閉症という障害があり、いわゆる多動児で親と手をつなぐのも嫌がり、勝手にどこかへ行ってしまう。買い物も、通院も、遊びに行くのも、チャイルドシートから降ろすとベビーカーに乗せ、どこへでも出かけたものだ。

子どもが2人に増えても、リトラクタブルライトの付いたスポーティブな車の後部座席に、チャイルドシートを2つ並べて子どもたちを乗せる。それを見た友人から、「ミスマッチねー」とあきれられたこともあった。カーナビなどない時代、高速道路の出入り口を事前に頭に入れておいたり、膝の上に地図を広げたりしては、あちこち走りまわった。

家族で旅行をする時には、全行程ドライバーは私で、到着後の子どもの世話や食事のしたくは夫の役目。この分業はスムーズだった。

そして、子どもが3人になった頃、ワンボックスカーが主流になり、7人乗りのホンダ・オデッセイを選んだ。大きい分、パワフルで運転しやすく、見晴らしもいい。車内も広く快適だ。オデッセイはほぼ20年にわたって3台乗り替えた。その頃にカーナビという画期的な道具が生まれ、これさえあれば地の果てまでも運転していける気がして、うれしかった。

オデッセイ2代目の時に、初めて希望のナンバーが付いた。お気に入りの曲、桑田佳祐の「波乗りジョニー」をもじって、ナミナミ、つまり7373にした。

ところで、車をゆりかご代わりにして育った長男は、毎年発売になる自動車ガイドブックをいつからか買い続けていて、さすがに車に詳しい。また、近くのホンダカーズの担当者とも仲良くなり、行くたびに新しいホンダ車のカタログやミニカーをもらい、コレクションしている。ディーラーとは、もう30年以上のお付き合いだ。他社の車に目を向けることもなくホンダ車ひとすじのわが家は、いいお客さんだろう。薦めるでもなく売りつけるでもなく、こちらの言い分、気持ちをすべて肯定して受けとめてくれる。気がつくと、魔法にかかったように買いたくなっているのだ。

 

時は流れ、家族旅行の機会も減り、わが家の車は7人乗りである必要がなくなってきた。とはいえ、オデッセイの走りの良さは捨てがたい。そこで買い替えたのが、やはりホンダのヴェゼル。SUVと呼ばれる、走りを楽しむスタイリッシュな車だ。長男は発売当時から、街中で見かけると、「ヴェゼルだ!」と指さした。私も次に買い替えるならこれ、と決めていた。これが最後の愛車になるだろう。BGMはもっぱらサザンだから、ナンバーは12ヵ月サザン、1233とした。

ところが、である。買ってから2週間目に、夫と紅葉の軽井沢に出かけた。もう少しで到着という辺りで、ディスプレーに赤い警告が出て運転中止を余儀なくされたのだ。驚いて緊急連絡をすると、レッカー車がやって来て、新車ヴェゼルはあえなく修理工場に運ばれて行ってしまった。まる1日かけて検査をしたが異常は見つからず、コンピュータ内部にも原因は見当たらなかったという。別の車に交換してもらうこともできず、問題のない安全な車だと信じて乗り続けるしかなかった。幸いその後は、同じ警告が出ることはなかった。

さらなるショックは、半年もたたないうちにやってきた。ヴェゼルのフルモデルチェンジが発表されたのだ。担当者は「営業にも知らされなかったんです」と、とぼける。それがわかっていれば、新型車発売まで待ったのに、と悔やまれた。

新型ヴェゼルはあまりにも斬新なスタイルで、いかつい顔が好みではない。とはいえ、皮肉なことに、この新車のCMで流れる曲「きらり」を歌う藤井風にはどんどん惹かれていく。旧型ではあってもヴェゼルに乗って彼の歌を聴くことは、最高にクールな時間だった。それでも、ドライブ中にすれ違う新型車は、気になってしかたがない。

やがて、気がつくとテールゲートに何かをぶつけられたようなへこみができていた。私がぎっくり腰で歩けなくなり、医者に行くため運転を任せると、夫は2年ぶりの運転で、やはり前方のバンパーを激しくこすった。

愛車の傷は、私の心の傷となっていく。3年後の初回車検のおり、「新型に買い替えようかな」と軽い気持ちで呟くと、

「今、納車は1年先ですよ」とのこと。世界的な半導体不足で、自動車業界も厳しい状況にあるのだ。とても1年は待てないと、買い替えの件はあっさり撤回した。

 

「新型ヴェゼルの納期は3ヵ月程度になりました」

と、その半年後の定期点検の時に、担当者が言う。消えたはずの買い替えの気持ちが、また膨らみ始める。

夫は「運転するのは僕じゃないから」と、にこにこ笑っているだけで何も言わない。ただ、2人とも新型ヴェゼルがすっかり目になじんで、「いいねー」「いいよねー」と、気に入っていることだけは共通していた。

それでも買い替えをためらう最大の理由は、なんといっても年齢的なこと。今年の年末には古希を迎える。腰が痛い、ますます目が悪くなったと言いながら、新しい車が扱えるようになるのだろうか。ブレーキとアクセルを踏みまちがえたりしないだろうか。

その迷いは、試乗することで解決した。運転操作はほぼ今の車と同じ。ナビの画面は今の倍はあるし、メーターの表示も大きい。ちょっとでも物体に接近しすぎると警告音が鳴る。片足を上げればセンサーが反応してテールゲートが開く……。むしろ高齢ドライバーに優しい車ではないか、と夫も私も納得した。

そうだ、古希のお祝いに買うことにしよう。あと5年間、ドライブを楽しめればいい。ヴェゼル2号の色は「プレミアムサンライトホワイト・パール」。日の光で微妙に変化する上質な白い色。愛車人生で初の白だ。ちなみに、10台目のホンダ車である。

もうひとつの言い訳。私は長男の子育てで、車に大いに助けられた。便利だっただけでなく、好きな音楽を聴きながらひとりでドライブすれば、つらいことからも解放されるような気分に浸れた。そうやって苦難の日々を乗り越えてきたのだ。私にとって、かけがえのない相棒であり必需品だったといえる。長男は車とセットで授かった、と言ったら神様に笑われるだろうか。

ナンバーは、1231。今度こそ、これが最後の愛車となる。


        ▼さよならしたヴェゼル1号。


▼最後の愛車、ヴェゼル2号。

 

 


「ちょんぼり」という言葉 その後は……2024年05月01日


ご無沙汰しています。

314日にこの言葉についての記事を載せてから、早くも1ヵ月半がたちましたが、調査の進展は、残念ながらあまりありません。

結論からいうと、私の造語というか、オリジナルな言葉だったのかもしれない。それでも夫は「その言葉を知っている」と言うので、やはり神奈川方言なのでは、と思うのですが、神奈川の友人からはことごとく、「そんなの知らない」と笑われてしまう。

諦めずに、もう少しリサーチを続けます。「私も使うわよ」と言ってくれる人が現れるまで。


ところで、4月のはじめに、京都と奈良の桜を求めて出かけました。外人観光客であふれかえっている京都では、人込みを避け、平安神宮の非公開エリアに入場しましたが、こちらも残念ながら、咲いているのはほんのちょんぼりでした。

 



ロングエッセイ:「アー友とアートを見にいく」2024年04月09日

 

所属するエッセイグループでは、毎年1回、会誌を発行しています。各メンバー1編のエッセイを掲載します。1編の長さは冊子の2ページから4ページまで。字数にして1600字から3400字までとなっています。3400字で書くチャンスはめったにないので、今回もその長さに挑戦しました。

長いですが2編分だと思って、最後までお読みいただければ幸いです。

 

 

 ** アー友とアートを見にいく **

 

大学時代、西洋美術史を専攻した。キリスト教文化に始まって、ルネッサンスを経て、印象派やピカソに至るまで、西洋の芸術を追い求めた。歴史、哲学、美学など、新しいことを学ぶ興味は尽きなかった。

当時、同じ学科に属し、同じ美術部で油絵を描いていたC子は、私のアー友第1号だ。アート好きの友達を、私はこう呼んでいる。当時から2人で絵画展に足を運んだものだ。卒業後、人並みに結婚し、転勤や子育てに追われる時期を過ぎると、一緒にヨーロッパに出かけて、教室のスクリーンで見た絵画や建築の本物を、感激しながら見たこともあった。それぞれ埼玉県の大宮と神奈川県の川崎に住み、北と南から都心に出かけていっては芸術鑑賞をし、その後の食事でおしゃべりに花を咲かせるというのが最近のパターンだ。ある日のこと、

「クリムトやモネもいいけど、ここまでくると、その先を見たくなるよね」

「だから今、現代アートがおもしろいのよねー」と、2人の意見が一致した。

 

昨年の秋、3年に1度の国際芸術祭を開催中の直島(なおしま)へ出かけた。誘ってくれたのは2人のアー友。同じマンションに住む子育て仲間だったのが、今では趣味や旅行を一緒に楽しむ気のおけない友人たちだ。

直島は、穏やかな瀬戸内海に浮かぶ小さな島。およそ30年前、ベネッセの初代社長が、ここで壮大なプロジェクトを立ち上げた。その名も「ベネッセアートサイト直島」。自然豊かな島と、そこで暮らす人々と、人間の作り出すアートとがコラボして共生する特別な場所を生み出そうというのだ。長い年月をかけていくつものホテルや美術館ができ、周辺の島にもプロジェクトは広がっていった。

四国の高松港から船に乗る。船が接岸する前から、港に黒い水玉模様の大きな赤いカボチャが見えた。おなじみ草間彌生さんの作品だ。島のシンボル的存在で、来訪者を迎えてくれる。

着いたその日、夕刻にオープンするカフェのテラス席で、スパークリングワインのグラスを傾けながら、金色の太陽が海の向こうに沈んでいくのを見つめていた。それもまた一幅の絵のようだった。

宿泊するベネッセハウスは、ホテルと美術館とが一体化したような造りだ。コンクリートむき出しの壁や廊下やホールのあちこちに、現代アートが姿を見せる。夕食後にはそれらを巡る解説ツアーに参加した。

現代アートは、芸術の概念を打ち破るところから始まるのだから、四角い額縁などに収まってはいない。断崖で海風にさらされ続けた写真パネル。アリたちが巣作りをして模様を増やしていく砂絵。がれきを鉛の板でくるんだ巻き物の積み重ね。しゃべり続ける3人のロボット……。言葉では描写しきれない意味不明の作品たちだ。

解説者はわかりやすく謎解きをしてくれる。作品群の大きなテーマは、時の表現だという。たしかに、経年劣化した画材や、海辺の古木にも時が宿る。季節の移ろい、年月の流れのなかで形を変えていくのだ。

「なるほど……。よくわかるね」と、私たちは解説を聞いて、芸術鑑賞ができた気分でうれしくなる。

翌日は町に出て、芸術祭の「家プロジェクト」を楽しんだ。使われなくなった古い家屋を、著名なアーティストが芸術作品に変えているのだ。古民家がよみがえり、畑の中にオブジェが立ち、世界中から観光客が押し寄せる島で、お年寄りたちも元気に活躍している。日焼けしたバスの運転手さんはかなりのお年だが、狭い道もビュンビュンと走る。

「芸術のことはよくわかんないけどな」とつぶやいて、くしゃっと笑った。芸術祭に理屈はいらないのだ。島興しにも一役買っている。

 

 

直島の旅を終えて、現代アートがわかった気になったけれど、別の作品と向き合うと、やっぱりわからない。うーん、と考え込んでしまう。そんな時、ある友人から、1冊の本を薦められた。

『目の見えない白鳥さんとアートを見にいく』。タイトルを読んだだけでも衝撃的だ。一体どういうこと? 

白鳥さんは、50代の全盲の男性。幼い時から「あなたは目が見えないのだから、人の何倍も努力しなさい」と育てられた。やがて、盲学校の寄宿舎に入って身辺自立の訓練を受け、マッサージ師の資格も取る。「障害があって大変」「かわいそう」と言われることに疑問を持ちながら、白杖を頼りにどこへでも出かけていき、コンサートを楽しんだり、鉄道ファンになったり、〈普通〉の人に近い行動をとるようになっていく。

そして、彼女ができた。目の見える彼女が、ある時、「美術館に行きたい」と言った。デートにぴったりだ、と喜んで、白鳥さんは美術館を初体験。デートの楽しさと相まって、美術館がお気に入りの場所となる。盲人らしくないからこそ美術館に行ってみたい。持ち前の反骨精神だ。かくして白鳥さんは、見たい美術展があると自分で電話をかけては、盲人が鑑賞するという前例のない美術館の扉を、一つひとつ開いていったのである。

この本の著者は、川内有緒さんというノンフィクション作家だ。彼女の友人を介して白鳥さんと出会い、3人で美術鑑賞に出かけるようになった。まず、作品の前で目の見える2人がコメントする。何が描いてあるのか。どんな印象か。思いつくままに言葉を交わす。ときどき白鳥さんも質問を挟む。ありきたりの解説より、2人にもわからないことがあったり、意見が食い違ったりするほうがおもしろい。2人のやりとりの息遣いまでもが、白鳥さんにとっての絵画鑑賞となるのだという。

ある時、絵画の遠近法の話になった。「遠くにあるものは大きいビルでも、手前にある小さなリンゴに隠れてしまう」という説明を受ける。すると白鳥さんが叫んだ。

「えー、隠れるってなに? わかるけど、わからない!」

これを読んだ私は、頭をガツンとやられたようなショックを受けた。以前、自閉症の長男についてのエッセイで、自閉症の理解の難しさに言及し、「視覚障害を理解するにはアイマスクを付ければいいが、自閉症はその手段がない」と書いたことがある。なんと不遜だったことか。安易だったことか。健常者がアイマスクを付けたとしても、見える記憶がある限り、けっして全盲の人と同じにはなれないのだ。大きな間違いに気づいた。

川内さんは言う。どんなに一緒に絵を見たとしても、同じものを感じることはできない。たとえ見えても見えなくても、人間はみなひとり。そばにいて、一緒に絵を見て、そして一緒に笑っていられたらそれでいいのだ、と。

  

この本を紹介してくれたのは、独身時代、職場の同期だったK子だ。私がさっさと退職した後も、馬が合うのかずっと友達でいる。子育てが終わってから、彼女は都内の美術館で、見学に来る子どもたちの相手をするボランティアを続けている。ある日、彼女の美術館にも白鳥さんがやって来て、アテンドをしたそうだ。

そんなわけで、K子も私のアー友だ。美術館を巡る旅に2人で出かけることもある。やっぱりアー友と一緒がいい。この3年間はコロナ禍のせいで、1人旅も多かった。1人の自由や気楽さを満喫しながらも、背中合わせの緊張感や、気持ちを分かち合えない寂しさが付きまとった。

ちなみに、私は草間さんのカボチャが大好きだけれど、K子は「見ただけで気持ちが悪い」と顔をしかめる。私は思わず吹き出してしまう。

それでいい。そこがいいのだ。

 

20239月 記】


☆直島の旅のフォト☆

 

▼直島の港に鎮座する草間さんのカボチャ。中に何人も入れるほど、大きい。


▼夕日を眺めながら、乾杯。


▼おしゃべりを止めない3人。


▼床から天井まで積み上げられた鉛の巻き物。年月を経て、だんだんつぶれてきて、天井に隙間が生じている。


▼壁のドル紙幣は、横1メートルほどのパネルに入った砂絵で、アリたちがせっせと通り道を伸ばしていく。


▼「町プロジェクト」の作品の一つ。もとは歯科医の家だったもので、吹き抜けには巨大な自由の女神が立ち尽くしている。


▼隣の島の女木島(めぎじま)には、海辺に帆の付いたピアノがあった。音は鳴らないけれど、風を受け、日を浴びながら弾く真似をすると、心の中に音楽が広がる。


▼川内有緒著『目の見えない白鳥さんとアートを見にいく』。ぜひ読んでいただきたい、オススメの本でもあります。



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