800字のエッセイ:「モヤモヤするバアバたち」 ― 2023年11月05日

モヤモヤするバアバたち
私の友人たちの多くは、子ども世代の子育てを手伝う日々を送っている。
たまに集まると、孫話で盛り上がる。
ある時、M子がこんな話をした。
娘が幼い孫たちに昼食を用意する時に居合わせた。
「お昼、何が食べたい」と娘。
「ラーメン!」と孫たち。
「わかった」と言って娘は、スーパーに食材を買いに行き、そして作り始めたという。
「娘は、子どもの自主性が育つから、と言うんだけどねぇ」とM子は首をかしげる。「私たちの子育て中は、子どもに聞いたりしないで、冷蔵庫にある材料で、栄養も考えて作って、はい食べなさい、と与えたよね」。
すると、今度はA子が話し始める。
嫁が2歳の孫娘を連れて泊まった時、パンをたくさん買ってきた。
嫁は孫に、「これ好きでしょ?」とパンをちぎって与える。「これもおいしそうだね」と別のパンを与える。すぐに2歳の胃袋はいっぱいになり、ごちそうさまとなる。
そして、残ったパンを嫁がゴミ箱に捨てた時は、さすがにA子の目が点になった。
「フードロスだけはいけないよね」
私たちは昔から「食べ物を残すな。粗末にするな」と言われてきた。
私たちの子育ての常識が子ども世代に通用しない。わが子の気持ちを大事にするのはわかるけれど、今のご時世、なんだかね……とみんなでモヤモヤする。
でも、私たちの子育てだって、親の世代からすれば「ちょっと変」だったことだろう。時代が変われば子育ても変わる。温かく見守ってあげなくては、と思う。「でもさ、絶対譲れないことだけは、きちんと説明してわかってもらおうね」と、みんなでうなずき合うのだった。

数字のメモリー ― 2023年10月21日
「シャラリーン!」
10月6日、見事な秋晴れのドライブ日和。1年ぶりに一時帰国をした娘を乗せて、湘南の海を目指していました。運転中に、ナビがなんとも軽やかでハッピーな音を発したのです。
初めて聞いた助手席の娘が、「なにこれ!?」とびっくり。
最近の車は安全のためにやたらと音を発しては警告してくれるのですが、これは警告ではなく、お知らせ音。
数キロ走ると、ふたたびシャラリーン!
今度はさすがに、娘が素早くナビ画面を読みました。
「もうすぐ記念距離メモリーです」
……と書いてあるかどうか、じつは私もさだかではない。1秒ほどしかそのお知らせが出ないので、読み終えないうちに消えてしまうのですね。
またもシャラリーン!
車の走行距離には、7777㎞という数字が出ていました。
その後は、お知らせ音は鳴らなくなりました。
3年前、初めてこの音を聞いたときは、私もびっくりしたものです。
なになに?? 画面に何か文字が……、と思っているうちに消えてしまう。これでは、思わずブレーキを踏みたくなって、事故を起こしかねないのでは、と心配になりました。
助手席の夫が「設定で鳴らないようにできるはずだよ」と言ったのでしたが、ちょっと考えてそのままにしました。こういう遊びごころ、嫌いではない。
それから10日ほどたって、またしてもシャラリーン!
今度は、後ろの席で、長男が「な、なんだ?」とびっくり。
この日は8000㎞の記念距離達成でした。
ところで、このブログのアクセス数も、今月1日に80,000回を記録しました。残念ながら、ジャストの写真を撮りそこないましたが、皆さまが覗いてくださるおかげです。
いつも、ご覧いただき、どうもありがとうございます♡

ちなみに、前回の記念メモリーは、2021年7月6日の70,000回でした。


陽子さんをしのぶエッセイ:『深夜特急6』 ― 2023年10月03日
8月26日に、親しかった友人が急逝しました。
エッセイグループの月例会で、ちょうど「本」というテーマが出されたので、惜別の意を込めて、このショートエッセイをつづりました。

『深夜特急6』
陽子さんとは、40年前に木村治美先生のエッセイ教室に足を踏み入れた初日に出会った。同期のよしみである。さらに、私の夫と誕生日も同じ、しかもひと回り年上で干支も同じだとわかって、「ご縁があるのよ、私たち」と言って親しくしてくれた。
40年の間にはいろいろなことがあった。彼女は胃がんを患っても全快し、家族の健康に気遣いながら生きた。私は3人の子を授かり、障害児を抱える子育てを続ける。何があっても、私たちはエッセイグループの仲間として、たしかな絆でつながっていた。
最近では、木村教室を去ったもうひとりの仲間と3人で、ワイン片手に食事をしながら、おしゃべりに花を咲かせるようになった。
コロナ大流行の前年だったろうか。私がポルトガル旅行をした話をすると、2人が沢木耕太郎の『深夜特急』は読んだか、と聞いてきた。彼が若いころに、香港から陸路ロンドンまで旅をした紀行文だという。
「旅の最後にポルトガルを訪れているから、ぜひ読んでごらん」
陽子さんはそう言うと、エッセイグループの月例会の時に、自分の文庫本を持ってきて貸してくれた。
私はちょうどそのころ、村上春樹のギリシャ滞在記を読んでいた。明るい音楽のようにリズミカルな春樹に比べると、沢木の本はどうも暗くて楽しく読み進めることができない。陽子さんには正直に伝え、返す約束をした。
その後、コロナ禍になり、会えなくなってしまった。「いつでもいいわよ」と言われ、送ることもしなかった。ようやくこの4月、手帳の「月例会」と書いた横に「陽子さんに返本」とメモをした。すると、それを見ていたかのように彼女からメールが来て驚く。
「『深夜特急6』をお持ちください。1から買い揃えたから、全集でとっておきたいので」
当日、お詫びの品も添えて、本は返した。
返さなければよかった。
旅の終わりの本を返さなければ、陽子さんは今でもこの世の旅を続けていたような気がする。


安らかにお眠りください、陽子さん。
ダイアリーエッセイ:彼岸花に出会って ― 2023年09月23日
脳卒中で倒れた77歳の義姉と、突然一人になった102歳の義母。二人の心配を抱えていることは、8月24日に書いたとおりです。
2か月たった今なお、夫の実家とリハビリ病院に車を走らせる日も多い。記録的な猛暑に負けないようにいつも以上に気をつけながら、ぎっくり腰の治療にも通いながら、仕事も休まないようにと、目の回る毎日です。
昨日は、稲城教室の日でした。残暑厳しい強烈な日差しを浴びながら、車で向かいました。軽い昼食をとろうと、稲城市内のスタバの駐車場に車を入れたとき、その奥の梨畑に目が留まり、思わず声が出ました。
「ああー、咲いてる!」
フェンス越しに、オレンジがかった赤色の彼岸花がたくさん咲いていたのです。
そうだ、彼岸花の季節だ。明日は秋分の日だもの。
あでやかな彼岸花に思いがけず出会ったことよりも、この花のことをすっかり忘れていた自分に、驚きました。
彼岸花は、毎年この日を忘れずに、ちゃんと開花する。今年は例年にない日照り続きで、お米も野菜も不作のニュースばかり見ていたのに……。彼岸花はすごい。強い日差しを受けて、輝いて見えました。
季節の移ろいさえも、うわの空だったこの夏、ひと群れの彼岸花が、秋の訪れに気づかせてくれた。もうすぐ涼しい季節が、間違いなくやってくる。
そんな当たり前のことがうれしくて、もう少しがんばれそうな気がしてきたのでした。


800字のエッセイ:「熱中症の記憶」 ― 2023年09月08日
もう60年近く前、小学校4年か5年の頃だったと思う。
体育の時間、強い日差しの校庭で、野球のバットの代わりに、ラケットを使うラケットボールをしていた。
ふと、「なんか、変」と感じた。目がよく見えない。見えてはいるのに、目玉がぐるぐるして視点が定まらないような感覚。周りの音も友達の声も聞こえているのだけれど、遠くの方から聞こえてくるみたい……。なんだかおかしい。
それでも並んで待ち、私の番になると、ボールを打って一塁の方に走った。記憶はそこで途切れる。
目が覚めた時は、保健室の白いベッドの上にいた。白衣の先生から、えんじ色の液体の入ったグラスを「はい、飲んで」と渡される。ごくりと飲むと、のどの辺りがかーっとした。
遠い遠い記憶だが、今でもしっかりと覚えている。
そして最近見たテレビ番組で、熱中症の症状として目が見えにくくなったり、聞こえが悪くなったりすることもある、という医師の話を聞いて、あれは熱中症だったのだと思った。当時は日射病という言い方をしていたけれど。
子どもはあまり自覚症状がなかったり、うまく訴えることができなかったりする。先日、熱中症で亡くなったお子さんのニュースには胸が痛んだ。
子どもの「なんか、変」を大人が素早くキャッチして助けてあげてほしいと思った。
それにしても、あのえんじ色の液体は何だったの?
今、私が大好きなアレだったのかな……

写真:vecstock/Freepik
ダイアリーエッセイ:起震車で震度7を体験! ― 2023年09月03日
毎年、9月の防災の日の前後に、私の住むマンションの管理組合では、防災訓練を実施しています。
これまでにも、煙の充満した中を歩くとか、担架でけが人を運ぶ方法、LEDや消火器の扱い方など、実際に体験してきました。
関東大震災から100年目の今回は、初の起震車です。
30年以内に南海トラフ地震が起きる可能性が70パーセント。私たちは命を守るために、備えなければなりません。
その揺れの強さを体験しておけば、実際に起きた時に、少しは冷静でいられたらという思いがありましたが……

大きなトラックの荷台のサイドが開くと、手すりの付いたスペースがあります。その中に4人ずつ上っていき、手すりにつかまります。
「危ないですから、しっかりつかまっていてください! 気分が悪くなったら、手を挙げてくださいね。すぐに止めますから」
ますます緊張します。胸がドキドキしてきます。
スピーカーから、緊急地震速報が流れます。
「チャラリン、チャラリン……、強い揺れが来ます!」
あの音を聞いただけで不安がこみあげてくる。そして、揺れだす。横にゆさゆさだけではなく、突き上げるような揺れも加わって、遊園地の絶叫型のゴンドラが上下左右に揺れるかのよう。少しずつ揺れが激しくなって、壁の震度計の数字が震度7を表示すると、すごい揺れ!
必死でしがみつかないと、とても立ってはいられません。
これが室内だったら、扉が開いて飛び出した食器や、壁に飾った額や、いろいろなものが頭上に飛んできそうです。わが家の食器棚の上のつっかえ棒はとっくに折れるか外れるかしてしまいそう。
腰かけていたら、椅子ごと転げたことでしょう。
でも、最初から40秒で終わることを知っていますから、気持ちはどこか楽だったはずなのに、それでも、かなりの恐怖を味わい、起震車から降りた後も、猛暑のせいもあって、頭がふらふらしました。
マンションの住民、希望者全員が終わったあとの解説では、
「東日本大震災では、この揺れが3分続きました。さらに、関東大震災では、10分も続いたのです」
とてもいい経験になりました。
今回はVRのようなアイテムは使いませんでしたが、それでも十分、地震の恐ろしさを体験できました。
危ないものは部屋に置かない。いざ揺れだしたら、どこでどのように身を守るか。できる限りの備えをしておこうと思いました。
皆さんも、機会があればぜひ、体験してみてはいかがでしょうか。

▲動画ではないのでわかりにくいのですが、揺れている最中。みな必死で手すりにしがみついています。(右端が私)
ダイアリーエッセイ:慶応高校、祝優勝! ― 2023年08月24日

第105回目の高校野球大会で、わが神奈川県の代表になったのは、慶応義塾高校。夫の母校です。
彼は、慶応高校から慶応義塾大学へと進みました。私も大学から慶応へ。同じ美術部の仲間たちと、六大学野球の早慶戦にもたびたび応援に行きました。
二人の結婚披露宴では、応援の時の赤と青のとんがり帽子をかぶせられ、応援歌の「若き血」を歌った思い出もあります。
今回の高校野球決勝戦は、特別な思いで、夫の家族みんなで応援していました。
夫の母は、現在102歳。一人息子が慶応に合格してからというもの、たいそうな慶応びいきとなり、慶応卒の人ならだれでも、セールスマンだろうと保険の外交員だろうと、「息子のお友達だからね」と言って、たくさん買ってあげたり、保険に入ってあげたりするほどでした。
今もとても元気で、頭も足腰もしっかりしています。77歳の義姉と、役割分担をきちんと決めて、都内で二人暮らし。義姉が買い物をして、母が料理をするという具合に。
ところが、今月初め、だれも予想していなかったことが起きました。
義姉が脳卒中で倒れてしまったのです。左半身に麻痺があり、現在もリハビリ病院に入院中で、退院後の生活は予断を許しません。
自分よりも先に娘が倒れた……。義母の心中を想像するだけで、私も胸がつぶれそうです。
これまで義姉のおかげで楽をさせてもらっていました。これからは、義姉のことはもちろん、義母の望むとおりの幸せな余生も、夫と私で支えてあげなくては、と思っています。
今回、慶応高校が107年ぶりの優勝を果たしたことで、とても明るい気持ちになれました。義姉はきっと大丈夫、回復する。希望を持ちました。
ちょうど、東日本大震災の直後、なでしこジャパンがワールドカップで優勝した時のように、私たち家族は大きな勇気をもらいました。
慶応高校の球児たち、本当におめでとう!
そして、ありがとう!


おススメの「山下清展」 ― 2023年08月03日
新潟県長岡市では、昨日と今日、長岡まつりの花火大会が開催されています。
昭和20年の長岡空襲で亡くなった方1,488名の鎮魂の花火です。
まだ実際に見たことはありませんが、一度訪れたいと思っています。
昨日、テレビのニュースの映像で思い出したのが、この絵はがきです。

そこで、「生誕100年 山下清展―100年目の大回想」という壮大な展覧会を見て、感動して買い求めたのでした。この写真からは、これが貼り絵だとはわからないでしょうね。花火の線は、1本ずつこよりにしたものが貼られている。緻密な手作業に驚きました。山下画伯の人生と、その芸術品のかずかずに、圧倒される思いでした。
展覧会は巡回して、現在は東京都新宿区のSOMPO美術館で開催中です。
私も期間中に行くことができれば、ぜひもう一度見たい。
皆さんも、ぜひどうぞ。
もう1枚買ったのは、ペンで描いてから水彩画に仕上げた「パリのエッフェル塔」。
パリを訪れた画伯が、どれほど心を動かされたことか、と想像に難くありません。

私も、今年こそはまたフランスに行きたいと、切れていたパスポートを改めて申請したところでした。でも、悲しいかな、わけあって私のパリは遠のきました。
せめて、この元気が出る絵はがきを飾って、またチャンスがありますようにと祈っています。
▼佐川美術館は、まるで琵琶湖の水面にたたずむような趣がありました。






ご報告のためのエッセイ:「グループBになる」 ― 2023年07月14日
*** グループBになる ***
遅ればせながら、いや、遅まきながら、いや、いまさらですが、ついに、とうとう……と、友人に近況を伝えるまくら言葉が決まらなくて悩んだ。
6月下旬のある日、翌日からの旅支度をしながら、のどが痛くなってきて、あらちょっとヤバいかな、と小さな不安が湧いた。友人と2人で、1泊2日、青森の美術館を訪ねるツアーに出かけるのだ。あわてて風邪薬を飲んだ。
翌朝5時過ぎに起きて、ぼーっとした頭で身支度を始めた。大丈夫そうだ。でも念のため熱を測ると、37.6度。ダメだ! ぼーっとしているのは早朝だからではなく、熱のせいなのだ。ああ、ドタキャンするしかない。すぐに友人にラインをした。
「残念だけど、お大事に。当日キャンセルだと旅費は戻ってこないかなぁ」と返事が。
仕方ない。よりによって出発の日に、と不運を嘆くばかり。かっくりしてふたたび眠りに落ちた。お昼ごろ目覚めると、熱は39度近くに上がっていた。出かけていたら、向こうで大変なことになったにちがいない。ドタキャンできてよかったのだ。今度は解熱剤を服用し、自宅にあったコロナの抗原検査キットを試してみた。陰性だったのでひと安心。今大流行の夏風邪だろう。
翌日、まだ熱は37度台。念のため、ふらふらしながらも近くのクリニックの発熱外来に出向いた。
受付にもアクリル板、待合室にも大きな透明なカーテンがひらひらしている。コロナが5類に移行しても、ここは時間が止まったままなのだ、と改めて思う。
狭い部屋の診察台に腰かけて、しばし待つと、青い防護服に身を包んだ男性の医師が、カーテンの向こうから現れた。数年前にできたクリニックで、初めて会う先生だ。
「インフルエンザとコロナと、両方一度に検査できるので、それをしましょうか」
穏やかな口調で言われ、「はい、お願いします」と答えた。
検査は、自分でやればいいので楽だった。鼻の奥を拭った検査棒を看護師に手渡し、スマホをいじっているうちに、ふたたび先生が現れて、検査キットの表示板を見せてひとこと、「コロナ陽性ですね」。
え、まさか……。
もう、世の中はどんどんコロナ前に戻ろうとしていた。デパートの入り口に並んでいた消毒液や体温測定器が消えている。カフェのアクリル板もなくなった。緊張してそれらを利用していたあの頃が懐かしくさえある。電車に乗ればノーマスクの乗客が半分以上も。コロナが消えたわけではないのに、もうだれも何も守ってはくれないのだと心細さを感じる。5類になってもコロナはコロナ。いやいや、もうかつての脅威はない。……本当にそうなのだろうか。
疑心暗鬼になりながらも、飲み会は復活する。家から駅まではマスクをしないで歩くようになった。
そんな矢先に、コロナにつかまったのだ。
クリニックからの帰り道、呆然としながらも思いめぐらす。それにしてもどこで拾ったのだろう。ここのところ連日出かけていたけれど、周りに怪しい人はいなかった。憶測をしても始まらないのが5類というわけか。
ほぼ毎日家にいる夫も驚く。「じゃあ、当然僕もうつってるな」と何やらうれしそうだ。
北側と南側の窓を開けて換気をよくした。私がリビングやキッチンに立ち入るときは手の消毒をする。家族3人マスク着用。私の食事は時間差で。あとはひたすら自分の部屋にこもる。3日間は熱が上がったり下がったりで、頭痛も咳もつらい。薬を飲んでは眠っていた。
食欲もなかった。おかゆに豆腐の味噌汁に卵焼き、プリンにヨーグルト。幼児食のようなご飯を一人で食べていると、夫がテーブルに来て食後のコーヒーを飲もうとする。
「うつりたいの?」
「あ、そうか」と、何を考えているのか、能天気なことよ。
ついにこちら側に来てしまった。グループAからグループBの人間になってしまった。そんなふうに感じた。
以前はある種の偏見を持って、感染した人たちを見ていたかもしれない。かつては命を落とすリスクも大きかった。グループBへは行きたくない。そう思っていた。
でも、いざこちら側に来てみれば、もうリスクもだいぶ小さくなって、のんきにエッセイなど書いている。症状も何度かかかったことのあるインフルエンザとほとんど変わらない。5類になった今でよかったのだ。見返りとして3ヵ月の免疫抗体がもらえることだし。
「遅まきながらコロナにやられました」
結局そんな文面でさらりと近況報告をした。すると、あれよあれよと体験談が寄せられて、グループBの人の多さに今さらながら気がつく。
発症から3週間が過ぎた。もうとっくに元通りの生活をしているのだが、のどのいがらっぽい不快感だけがなかなか抜けない。これが今回のコロナの特徴らしい。
「それに、ちょっと物忘れがひどくなったみたいで、後遺症かも?」
「それはコロナのせいじゃなくて、お年ゴロのせい」
予想どおりの答えが返ってきた。

800字のエッセイ:「母の日のユリの花」 ― 2023年06月22日
母の日のユリの花
わが家の36歳の長男は、知的障害があるのだが、家を出て障害者のためのグループホームに暮らし、週末だけ自宅に戻る。
2年前の母の日、彼はひとりで花屋に行ったらしく、帰ってくるとカーネーションの花束を差し出して、「母の日、おめでとう!」と言って手渡してくれた。予期せぬことに、私はびっくりして泣きそうになった。
でもそのあとで、花屋のレシートまで渡されたときは、苦笑してしまった。
1年前もカーネーションをもらった。そして今年は、たまたま夫も一緒に出かけて、花屋の店先で、「ママはユリが好きだよ」と教えたそうだ。
息子は「おお、わかった」と言って、大ぶりの白いユリの枝を一本買ってきてくれた。「わあ、ありがとう!」と受け取り、ガラスの花瓶にさして、リビングに飾った。
開いた花は見たこともないほど大きい。つぼみも3つ付いている。毎日1つずつ咲いて、濃厚な甘い香りが家中に立ち込める。この香りが好きなのだ。
花粉が服に付くと落ちにくいので、いつもならおしべを取ってしまうのだが、今回はそのままにしておいた。オレンジ色のおしべが目鼻口で、まるで白い顔が笑っているように見えて、なんだかおかしい。花のサイズも私の顔と変わらない。
そういえば息子が子どものころ、「ママの顔」の絵を描いたことがある。ピースマークみたいに、口は耳元まで延び、両目は半円を描いて笑っていた。息子にとって、ママはいつでもこんなふうに満面の笑みでいてほしいのだろうなあ、とつくづく思ったものだ。
子育ての日々はそうそう笑ってばかりはいられなかったけれど、これからはずっと、この花のような笑顔でいよう。息子はこんなに素敵な紳士に成長してくれたのだから……。
いつまでもつかわからない花のように、いつまで続くかわからない小さな誓いをこっそり立ててみるのだった。
