「会いたい人リスト」2020年01月06日



昨年のお正月に、「会いたい人リスト」というのを作りました。

著名人とかアイドルとかではありません。文字どおり、会っておしゃべりしたい人のリストです。

年賀状をいただいて、「今年こそ会いましょう」と書いてくださる人のなんと多いことでしょう。私も、暮れにしたためる賀状に、同じように書いて送っています。

本心からそう思っているのに、そのうち何人の人と再会を果たしているでしょうか。いつのまにか社交辞令のようになってしまって、また次の年にも同じ文言を書いている……。

これではいけないと思いました。それには、わけがあります。

 

もう10年ほど前のこと。

高校時代の同級生が、リンパ腺のがんに侵されていました。自然療法を選び、都会を離れて空気のきれいな土地で、ご主人と暮らしていました。

「遊びに来て」

彼女は、近くの温泉場を紹介するチラシを同封して、手紙をくれました。

私たちはいつ行こうかと相談するのですが、

3月は忙しいから」

「ゴールデンウィークが終わったらね」

などと、みんなの事情が合わず、なかなか日取りが決まりません。

そうこうしているうちに、彼女は帰らぬ人となったのでした。

自分一人でも行けばよかった。大きな悔恨は、今も私を責め立てるのです。

 

 

昨年のリストには、8人の名前を書きました。

そのうち、年内に会えたのは、4人だけ。

今年はその残りの4人に、新たに数名を加えて、リストを作りました。

なるべく早く、連絡を取りましょう。

それは、今これを読んでいるあなたかもしれませんよ。

その節はどうぞよろしく。




ダイアリーエッセイ:クリスマスリースの思い出2018年12月25日

 


クリスマスリースを23日になってようやく飾りました。

 

思い出すのは、地方の社宅のアパートに住んでいた30年も前の昔のこと。

玄関のドアの外に、ちょっと奮発して、銀座のソニープラザで買ってきた綺麗なリースを飾りました。

ところが、23日して気付いたら消えていたのです。あちこち捜しましたが、どこにもありませんでした。

あれ、盗まれた? それとも誰かのいたずら?

いずれにしても、クリスマスに他人の物を? それを自分の家に飾ってうれしいの?

その誰かの心の中を想像すると、背中が寒くなるようでした。

 

それ以来、リースはいつも屋内に飾ります。飾るたびに、今でもその誰かのことを思います。

せめて、いっときでも私のリースが誰かの心を温めたのだったらそれでいいわと思ったり、もしかしたらサンタさんが、恵まれない子どもたちのためのプレゼントが足りなくなって、持って行ってしまったのかも……などと、絵本のお話のようなことを空想したりするのです。


 

昨晩は長男を連れて、夜半のクリスマスミサに行ってきました。

北風が吹いてとても寒かったけれど、リースのように丸い月が美しく輝いていました。


皆さん、メリークリスマス☆☆☆❣





  


ダイアリーエッセイ:誕生月2017年12月03日

 


早くも12月になりました。

師走に忙しいのは当たり前で、私は午年の講師、走りまくります。

 

さらに12月は、私が誕生日を迎える月。

まずはあっちのお店、こっちの企業から、「すてきなバースデープレゼント」と称して、割引やポイント追加のお知らせがたくさん舞い込みます。これをラッキー!と思って買い物していたら、誕生月貧乏になること請け合い。それでも、せっかくだからと、財布と相談しながら、ちょっとだけ安くなる買い物を楽しむこともあり、心浮き立つ忙しさです。

 

昨日は、同じマンションの仲良し4人組で、まだ早いのだけれど私の誕生日を祝ってもらいました。

毎年、この日はどこかのイルミネーションを見に行きます。今年は、渋谷の代々木公園ケヤキ並木の「青の洞窟」。




点灯時刻の17時に間に合うように出かけて、待つこと数分。すっかり暗闇に目が慣れた頃、突然青い光が頭上から降ってきて、それはちょっと衝撃の一瞬でした。




光沢のあるシートを敷いて、水面が光を反射しているかのように見せる工夫がされているのですが、残念ながら人が多くて、そこまでは……。


 


冬の空気が冷えて冴えわたり、空には綺麗な月が浮かんでいます。

ケヤキの枝越しに見あげれば、まるで青く光る細い指が、真珠の粒を摘まもうとしているようでした。



 

その後は、地元に帰ってきて、地元には珍しくおしゃれなレストランで、フランス料理をいただきます。

自家製ハムのパテも、お魚のポアレも、どれもリッチで大満足。

バースデープレートには、小さなオルゴールの生演奏まで付いています。

そして、これも毎年恒例、仲間から手作りのバースでカードをもらいます。

この一年間の写真が満載で、メッセージにはこの年を振り返っての出来事や、温かい励ましの言葉がつづられているのです。



 

12月は、年をとるのはいやだけれど、毎年こうやって、やさしくて楽しい仲間がいて、美味しい幸せがあれば、何歳になろうともうれしいものです。


自宅までの帰り道、長い坂道を歩きながら、

「いつか、みんなで認知症のグループホームに入ろうね」

などと、冗談とも本気ともつかない未来を語り合いながら、最後は笑い転げて終わる私たちでした。





ダイアリーエッセイ:魔のクリスマス!?2015年12月26日


クリスマスはいかがお過ごしでしたか。

平日とはいえ、クリスマスイブの午後9時を回った街はひっそりしていましたから、きっと皆さんはご家族と暖かい夜をお過ごしだったのかもしれません。

私のイブは毎年恒例、母と長男を乗せて、近くの教会で夜のミサにあずかり、帰りは、これまた恒例、母へのプレゼント、深夜の街を走り回ってイルミネーションを見せてあげました。

行きは綺麗な月が見えていたのに、帰りはポツポツと降ってきましたが、暖かな夜でした。 


昨日25日は、38年ぶりのクリスマス&満月というスペシャルコラボだったそうですが、私の住む辺りでは雲が切れず、見ることは叶いませんでした。

 

そして、私はといえば、朝、激しい頭痛とともに目覚め、立っていることもできず、頭痛薬を飲んでも効かず、結局夕方まで寝ていました。

それだけ眠れるということが、そもそも異常です。超多忙な師走を走り終えないうちに、赤信号でダウンしてしまったようです。

 

思い起こせば1年前の1225日にも、高い熱を出し、翌日にはインフルエンザとの診断を受けたのでした。

どうも私のクリスマスには、病魔が潜んでいるのでしょうか。

 

もっとも今年のわが家は、早々と19日のうちに、クリスマス&ひとみ誕生祝いのディナーを、シェフが腕によりをかけて用意してくれました。ボリューム満点のオードブル、チーズキッシュ、カブのシチューなどなど。

大好きなグリューワインのプレゼントもありました~♡

リフォーム業者が出入りする予定があり、早く済ませてしまったのが幸いしたのでした。






 

そうはいっても、この25日はシェフが不在。もう一度薬を飲むと、なんとか快方に向かったので、ハンバーグやサラダなど、家族4人分のいつもの夕食をこしらえました。

わが家特製のハンバーグは、たくさんの美味しいパンの耳を入れたり、隠し味を何種類も加えたり……。しかもちょうど大きな満月のように、ひと塊にしてオーブンで焼いてしまいます。今では自称「おふくろの味」。

息子たちはこれを切り分けると、ご飯に載せてハンバーグライスにして食べています。

 

昼間、あんなにたくさん眠ったのに、夜はいつもどおりに眠れました。

あまり忙しすぎないで、少しはのんびりしなさい、というやさしい神様のお告げだったのかもしれない、と思います。

天使の輪10人分でしめつけられているような頭痛でしたから……





 



2000字エッセイ:ロクマルの呪い2015年04月19日

322日の「じつは、私……」は、じつは〈続く〉となっていました。

その続きを書かないままでしたが、続編の内容を混ぜ合わせて、2000字のエッセイにリメイクしてみました。

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ロクマルの呪い

好きなスポーツは、と聞かれたら、スキーです、と答えてきた。

始めたのは大学生のときで、札幌に住む叔父の家に泊まりこむと、従兄たちが手取り足取り教えてくれて、気分よく滑りを覚えた。

その後も、学生仲間でスキーに出かけた。安い宿を予約し、スキー板を担いでは電車や夜行バスに乗りこみ、ゲレンデに繰り出したものだ。その仲間には、未来の夫となる人もいた。楽しくないわけがない。

子どもができてからは長いブランクもあったが、末っ子が5歳になったころ、思い切って家族5人でスキーへ。夫婦の夢だった。子どもたちはスキースクールで手ほどきを受け、大人は懐かしい雪の感触を堪能した。

数年たったころ、スキーウェアを新調した。イタリア製で光沢のある抑えめの赤が素敵だ。値は張ったが、「還暦まで着るから」と宣言して買ったのだった。

しかし、子どもが3人もいれば、受験やら就職やら、スキーどころではない年が続く。ひと段落すると、こんどは腰痛に悩まされる。

去年あたりからそれも治った。また行きたいなあ、と思っていたところに、一回りも年上の従姉からスキーの誘いが舞い込んだ。

が、すぐには飛びつけない。6年のブランクは怖い。ふだんから運動らしいことはやっていない。うれしい反面おおいに悩む。

結局は日程の都合がつかず、スキー場の間近で地震が起きたこともあって諦めたのだが、それと入れ代わるように、札幌雪祭りの旅に誘われて出かけた。そのとき、雪の中の寒さが妙に心地よく、「私、氷点下ハイよ」などと言っては子どものようにはしゃいでいた。

帰ってくると、今度は娘からスキーの誘惑が。すっかり雪に魅せられていた私は、とうとうスキー決行の計画を立ててしまった。

それでも不安がつきまとう。体が動くだろうか。けがをしないだろうか。この年になってスキーだなんて、無謀すぎるだろうか……。

昨年の暮れに、還暦を迎えた。女優の夏木マリさんが、60歳をロクマルと言っていたので、私もマネしてみたが、あまり市民権を得ていないらしく、友人たちにはきょとんとされた。呼び名がどうであれ、60の大台に乗ったことはゆるぎない事実なのだ。

半年前から、憂うつでたまらなかった。50代半ばまでは、ただ明日が今日になって昨日へと移っていくように、誕生日が来て、59歳が60歳に切り替わるだけだ、と高をくくっていた。でも、現実はあなどれなかった。

この冬は初めてインフルエンザにかかった。それ以外に3度も風邪を引いた。体のあちこちが痛むようになった。医者には、変形した関節は治らないと言われる。

さらに、3つ年上の女性から、とどめを刺された。

「還暦になると、今までかからなかった病気になったり、けがをしたりするから、気をつけなさいね」

まるで呪いの言葉だ。冗談じゃない。

泥縄で筋トレのスクワットをせっせとやっていたら、ふとひらめいた。

そうだ、「まだスキーをする」んじゃなくて、これから「シニアスキー」というスポーツを始めるのだ、と考えればいい。娘と二人旅なら気遣いはいらない。たっぷり休憩を取り、絶対無理をしなければ大丈夫だろう。

やっと気持ちが楽になった。

そして、予言どおり、赤いちゃんちゃんこ代わりに赤いスキージャケットを着ることができた。3月はじめの越後湯沢は暖かく、快適な春スキーとなった。

自転車と同じで、ひとたび体が覚えた滑り方は忘れないものだ。とはいえ、頭では覚えていても体がいうことをきかないかもしれないから、慎重に、慎重に……。ちょっとでも疲れると、娘をゲレンデに残して、ロッジでひと休み。でもビールは飲まない。ほろ酔い滑走はみずから禁止。ここで怪我でもしたら、「年寄りの冷や水」と笑われてしまう。

23日、最後まで上級コースには近づかなかった。なだらかな斜面でのんびりゆったりの滑りを、鼻歌まじりで楽しんできた。

何度も転んだし、筋肉痛にはなったけれど、けがひとつないまま帰宅。やれやれ、呪縛を解き放つことができた。来年は従姉と一緒に滑りに行こう、と思った。

ところが、帰宅して2日目、ビルの廊下で転んだ。ぺったんこのブーツを履いていたのに、かかとが斜めに着地してツーッと滑った。次の瞬間、左ひざをガツンと着いた。まさか、こんなところで転ぶなんて……。骨折はなかったが、青あざが10日たっても消えなかった。

あ、これかぁ……。

 




じつは、私……2015年03月27日

ずっと迷ってきた。

言うべきか、いや黙っていたほうがいいのか。

 

これは2009年の2月初め、受験日で学校が休みの次男と二人、越後湯沢でスキーをした時の写真だ。

別にペアルックで赤いジャケットを着ているわけではない。息子のはたまたま、長男が紺色、次男が赤を色違いで買ったまで。

私のは、便利なポケットがたくさんついていて、着やすく、深みのある赤が気に入った。イタリア製で少々お値段は張ったけれど、思い切って買った。

「還暦まで着るから」と言い訳をして。

今から6年前のことだ。

 

その翌年あたりから、私は腰痛が出たり、子どもたちの受験があったりで、スキーどころではなくなった。

それでも数年がたち、身辺が落ち着いてくると、治らないかとあきらめていた腰痛も治った。また行きたいなあ、と思っていたところに、スキーへの誘いが舞い込んだ。

……が、すぐには飛びつけない。6年のブランクは怖い。ふだんから運動らしいことはやっていない。うれしい反面おおいに悩んだ。

 

結局は、日程の都合がつかず、断ることになったのだが、36日のブログに書いたように、それと入れ替わるように、札幌雪祭りの旅に誘われて出かける。

帰ってくると、今度は娘からスキーの誘惑が。すっかり雪に魅せられていた私は、とうとうスキー決行の計画を立てた。

 

それでも、不安がつきまとう。体が動くだろうか。怪我をしないだろうか。この年になってスキーだなんて、無謀すぎるだろうか。

ふと、思った。そうだ、「まだスキーをする」んじゃなくて、これから「シニアスキー」というスポーツを始めるのだ、と考えればいい。

娘と二人旅はなんといっても気楽だ。たっぷり休憩を取り、絶対無理をしなければ大丈夫……。やっと気持ちが楽になった。

 

そして、気がつけば私は60歳。

みずからの予言どおりに、赤いちゃんちゃんこ代わりに、赤いスキージャケットを着ることになったのである。

 

冒頭、迷っていたのは、年齢を明かすべきか否かということ。

迷っているうちに、立ち止まったまま動けなくなってしまった。カンレキという言葉にこだわっていたのだ。

でも、カミングアウトしないことには、次へ進めない。

はい、私はカンレキです。生まれ変わったつもりで、どうぞよろしく。

                            〈続く〉



白い寒さにハートがふるえ……2015年03月06日

先月、札幌の雪まつりに出かけました。

夕方ホテルにチェックイン。カバンに詰めてきたあらゆる防寒グッズを身につけて、街に繰り出したのは午後5時。

まずは、人が入れるほどの超特大の氷のジョッキがお出迎え!


祭りの雪像はライトアップされて、たくさんの人でにぎわっていました。

上の写真は、ご存じ「スター・ウォーズ」のダース・ベイダー。世界初、ルーカス・フィルム公認です。

前々日の雨で一部が解けたと言われていましたが、いやいやどうして、大迫力でした。

下の写真は、ほぼ原寸大の春日大社。

夜は、精巧なプロジェクション・マッピングのショーが行われ、すばらしかったです!


日が落ちて暗くなり、時折、雪が降ってきます。スノーブーツを履いていても、油断をすると滑って転びそうな足もと。

気温はどんどん下がっていき、天気予報どおりマイナス10度だったかもしれません。とにかく寒かったです。

立ち並ぶスポンサーの出店で、ホットウィスキーやグリューワインを飲んでも、10分後には車の運転もできそうなほど、酔いが飛んでしまう。それほどの寒さです。

 

ところが、寒くなればなるほど、なんだか楽しくなってきました。

「氷点下ハイ」などと、チューハイのような名前を付けて大はしゃぎ。観光客ならではの楽しさであり、ここに暮らす人々にとっては厳しい環境であることはわかっているのですが。

寒いと、発熱を促して体がふるえだすように、私はまずハートがふるえて熱を帯びる。楽しい気分が高揚してくる。結局は動き回って体温が上がり、寒さから身を守っているだけなのかもしれない。

氷点下ハイの理由も、そんなところでしょう。

雪の降る街角にソフトクリーム屋さんを見つけて駆け寄って食べました。あまり冷たく感じられなくて不思議な美味しさでした。

 

でも、若いころには、こんなふうに書いたこともありました。

「冬至生まれの私の心には、いつもどこかで雪が降っている……」

おのれの心の冷たさを持て余し、言い逃れていた。肯定していたかったのかもしれません。


翌日は、小樽の雪明かりの路を歩きました。

雪深い街に、たそがれが忍び寄るにつれて、雪にしつらえられた手作りの明かりが浮かび上がる。静謐な美しさでした。

その翌朝は、支笏湖畔の氷濤まつりへ。

氷点下ハイを言い訳にして、年がいもなく氷の滑り台で笑い転げては、日ごろのストレスをおおいに発散してきました。

そして今度は、白い寒さにひかれて、スキーへ。

5年ぶりです。滑り方は体が覚えているでしょうから心配はないけれど、ギプスでもはめて帰ってきたら、年寄りの冷や水、とお笑いください。

シニアスキーを始めるつもりで、行ってきます。




節分の夜の気がかりは2015年02月03日


いつからこんなに流行ってきちゃったんでしょうね、恵方巻き。

どうもあの食べ方が好きになれません。(お上品ぶっているのではなく、歯が悪くてそれができない負け惜しみですけど)

わが家は、1200年以上も歴史があるという豆まきを、毎年欠かしません。

自閉症の長男は、毎年恒例の行事はきちんとやりたがるのです。

今年も長男が、体に似合わない小さな声で「おにはそと……」とつぶやいては、夜の庭に向かってパラパラとまきました。

以前は、節分の夜にはあちこちから「鬼は外!」の元気な声が聞こえてきたものですが、それもなくなりましたね。まかれっぱなしの豆が問題になったりして、お寺や神社だけの行事になってきているのでしょうか。

豆をまいた後は、年の数だけ福豆を食べます。

ところが、今年は大変な事態になりました。

家族みんなで食べ始めたら、福豆が足りないのです。

毎年、5粒ずつ消費量が増える計算なのに、今年は小さな袋を買ってしまったのかもしれません。

というわけで、子どもたちにはきちんと食べさせて、私は22歳も若返って食べ終えました。全部食べたらお腹をこわしかねないから、ちょうどいい。

でも、福も減ってしまうかな……




エッセイの書き方のコツ(24):テーマで書いてみたら2015年01月27日

エッセイを書くとき、自由に書くほうが好きですか。

それとも、あらかじめ決められたテーマで書くのがお得意でしょうか。

公募エッセイでは、後者のほうが断然多いですね。趣旨がはっきりしているからでしょう。

私の教室で、何を書いたらいいのかわからない、書くことが見つからない……、などの声があるときには、課題としてテーマを定めて書いてもらいます。

エッセイのお勉強のあとは、楽しいランチパーティ。

ちょっと季節外れなお話でごめんなさい。

先月の湘南エッセイサロンでのことです。

いつもは自由な内容で書きますが、たまにはテーマで書いてみましょうか、ということになりました。ちょうど12月ですから、「クリスマス」というテーマにしてみました。

海外暮らしを経験したメンバーも多く、バラエティに富んだクリスマスが読めるのでは、という思惑もありました。

はたして、ドイツやアメリカのクリスマス、日本でも昭和初期から現代にいたるまで、十人十色のクリスマスがつづられて、読むだけで幸せ気分が満ちてくるようです。

「この思い出を、初めて文章にしました」

「懐かしくて、書いていて楽しかったです」

作者の皆さんの感想でした。

写真は、レープクーヘンというドイツのお菓子。ドイツのクリスマスには欠かせないとか。


そんななかで、Tさんは、70年にわたるクリスマスを一気につづりました。進駐軍のクリスマスにあこがれて、父上にツリーを作ってもらった子ども時代の思い出から、お子さんたちのためにサンタの代役を必死で務めた楽しいエピソード、さらにお孫さんたちが聖誕劇をする話にいたるまで、盛りだくさんです。

ところが、Tさんは、朗読した後、ほんの少し険しい顔をして、こう言われたのです。

「楽しい思い出を書いたつもりだったのですが、こうして読んでみると、別の思いが湧いてきました。戦後の私たちは、アメリカにしてやられたなぁ、と……」

当時はなぜあれほどアメリカにあこがれたのだろうか。アメリカの真似をして、どんどん取り入れてしまったけれど、今になってみれば、日本には日本のすばらしいところがあるはずなのに、もったいないことをしたような気がする……と語りました。

言葉は多少違うかもしれませんが、そのようなコメントだったと私は解釈しています。

テーマを与えられて、初めて書いたからこそ、大事なことに気づいた。

それが、エッセイを書く意味ではないでしょうか。

この日のエッセイサロンで、改めてその思いを強くしたのでした。

 書いて初めて見えてくる真実があります。

 心の底に言葉という光を当てて、初めて形になる思いがあります。

 だからエッセイを書くのかもしれません。

      ――エッセイ集『なしのはな 第2号』あとがきより

ときにはテーマで書いてみませんか。

知らなかった自分を発見できるかもしれません。



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