自粛の日々につづるエッセイ:「空港ピアノ」 ― 2020年08月13日
外出自粛の日々は、期待したようには終わってくれない。また今月もいくつかの予定が消えていった。
猛暑の夕方は雷が鳴る。用心のためパソコンの電源を切り、テレビの前でアイロンかけを始めた。作業をしながら見るのはBSNHKの人気番組「空港ピアノ」の録画。
ステイホーム中にはコロナのニュースをよく見るようになった。そんな折、偶然出会ったのがこの番組だった。一度でとりこになり、それ以来、毎回録画している。当然、コロナ以前に作られた番組の再放送だ。

世界各地の空港のロビーや、駅や街角の一角に、ピアノが置かれる。小型の定点カメラが付いている。通りすがりの人たちが、足を止めては弾き始める。
画面のテロップで、曲名と作曲者や、演奏者の簡単なプロフィールが流れる。手短なインタビューのシーンもある。ピアノを奏でるのに国境はなく、老若男女、職業もさまざまだ。
演奏の合間には、その都市の映像と音ともに、歴史や特色などが字幕で紹介される。BGMもナレーションもない。
ある日の空港で、髭もじゃの男性が、つたない指遣いで「エリーゼのために」を弾いた。ピアノの勉強を始めて3か月。貧しかった子どもの頃にこの曲を聞いて、なんと美しいメロディだろう、いつか自分も弾いてみたい、と思っていた。ようやく夢に手が触れた。最近女の子が生まれ、エリーゼと名付けた、と語った。彼のエピソードは、まるで小説のように私の心に刻まれる。
自分にピアノを教えてくれた母は、10歳の時に亡くなった。ピアノを弾くと、母を感じる、とつぶやく若い女性もいた。
ほろ酔いで「男と女」を奏でる老婦人。
ときどきこの場所に来て練習するという近所に住む労働者。
幼いわが子を膝にのせて弾く母親もいれば、並んで連弾する恋人たちもいる。
コーラス隊を引っ提げて演奏を楽しむ先生、仲間とともにセッションを始めるミュージシャンたち……
プロのピアニストが、音楽は人生だと言う。
コンピューターのプログラマーが、音楽は言語だと言う。
若いカップルが、音楽は喜びだと笑う。
演奏が終わると、人々はまた旅を続けるために去っていく。
そして、ひとときの静けさをかき消すように、そこにあるがままの喧騒が聞こえてくる。行きかう足音、ロビーのカフェの物音、空港内に響くアナウンス、飛行機のエンジン音……。
画面のこちら側の私は、ふっと切なくなって、涙が込み上げる。外出自粛の日々だから、目を背けていたつもりだけれど、失われたものが何か気づいてしまった。
私は旅がしたい。あの場所に身を置いてみたいのだ、と。
終戦記念日によせて ― 2020年08月15日
75年前のこと。8月6日に広島、9日には長崎に原爆が落とされ、日本は15日に敗戦を迎えました。
8月は、戦争と平和について考え、のちの世代に平和の尊さをしっかりとつないでいく時期でもあります。
現在の日本も新型コロナウィルスと戦っているとはいえ、まったく異質の、人為的な長い戦争のなかで、300万人以上の犠牲者を出したという事実だけをみても、比べようもない愚かな戦いだったのです。
私は戦争を知らない世代ですが、先輩がたから多くのことを学びました。
辛い思い出を書き留めたエッセイも、たくさん読んできました。
「戦争体験を書いてください」とお願いもしてきました。
さて、先日8月9日の朝日新聞に掲載されたエッセイをご紹介します。
(クリックすると拡大します)
ご記憶の方もおいででしょう。私のエッセイ仲間、河崎啓一さんの投稿です。「感謝離」のエッセイが大反響を呼び、本まで出版してしまったという90歳の男性です。
掲載の翌日、彼から届いたメールは、こんなつぶやきで締めくくられていました。
「あの日を振り返ってみれば、私は中学2年生。叔父の出征を大喜びする軍国少年でした」
90歳の彼が今、かみしめている万感の思い……。深く静かに、私の胸にもしみてくるようでした。

エッセイの書き方のコツ(34):「プレバト‼」から学んで ― 2020年08月23日
「プレバト!!」という番組をご存じでしょうか。
俳句、水彩画、生け花などなど、タレントたちが意外な才能を発揮して創り上げる作品を、著名な講師が査定をして、順位をつけるというものです。
「俳句がおもしろいのよ」と、友人に勧められて、ようやく見るようになったのは、昨年3月に長男がグループホームに入居してからのこと。彼はテレビ番組へのこだわりが強く、家族が見たい番組を自由に見ることができなかったのです。
番組の俳句の師匠は、和服の着こなしも板についた夏井いつき先生。梅沢冨美男氏をオッチャン呼ばわりして毒舌を吐く先生だけれど、俳句のほめ方けなし方には温かみがあり、評も解説もじつに的確で、ほれぼれします。いっぺんにファンになりました。
昨年の夏の番組で、作者の男性が誰だったかは忘れましたが、こんな句が出ました。お題は、屋外の水飲み場の蛇口の写真で一句。
1000本ノック浴びし日のレモン水
高校生の時に野球部員だった作者が、夏休みの練習を思い出して詠んだとか。しごかれた後に飲んだレモン水がおいしかった。作者は青春を振り返ります。
それを夏井先生は、こう直しました。
1000本ノック浴びし日のありレモン水
どう変わったかおわかりでしょうか。
高校時代のレモン水が、2文字増やしただけで、現在の手元のレモン水となりました。
「レモン水」は夏の季語です。
先生は、「季語の鮮度を保つのも大事」と言われました。
つまり、昔の思い出だけをまとめたら、季語のレモン水はセピア色。でも、手元にあるレモン水は冷たくて酸っぱい。生唾ゴックンとなりそうなほど、フレッシュな季語となって光っている。
そこから思い出が手繰り寄せられて、時間的にも奥行きが出る句となるのですね。
エッセイも同じだと思いました。
例えば、子どもの頃の雷の思い出をつづったエッセイ。「蚊帳の真ん中に寝れば大丈夫だからと言われた」。今ごろになって、なぜこれを書くのか、その動機が知りたくなってきます。
「今日は午後から雷が鳴りだして、……」のような現在の視点から書いてあると、今の作者の不安感や恐怖感が、子どもの頃の思い出をよみがえらせたのだ、と納得がいきます。
このようなエッセイの定型として、まず、現在のことを書いて、過去にさかのぼって思い出をつづり、また現在に戻って終わる、というものがあります。この構成を、私たち仲間内では「サンドイッチ型」と呼んでいます。サンドイッチのように、過去を現在で挟むわけです。
時間の流れがわかりやすいように、時制が替わる部分に一行空けを使うといいですね。
現在(一行空け)過去(一行空け)現在
たった17文字の俳句と、600字でも2000字でも字数の調節可能なエッセイとは、まったく別の文芸だと思われがちですが、日本語を用いて、日本人の普遍的な感動を表現するという点では、同じではないでしょうか。
夏井先生の切れ味の良い講評を聴きながら、エッセイとの共通点を発見しては、そんな思いを強くしています。

▲私も勉強しています。