フォトエッセイ:花嫁の母として② ― 2017年02月02日
初めてこしらえたリングピロー。娘のために、娘の小さいころからのことを想いだしながら、ちくちくと縫い、仕上げていった。
昨年12月23日の「花嫁の母の“べっぴん"」で、写真とともにつづっている。
当日の結婚式では、介添えの女性が、うやうやしく捧げ持ってきた。
二人は、それぞれ相手のイニシャルに留めてあるリボンをほどき、指輪を手に取り、相手が差し出す薬指にはめる。
緊張してこちこちになっている新郎の指には、なぜかなかなか入らずに、参列者から失笑がこぼれたのもほほえましかった。
そして、誓いの言葉を二人で読み上げる。
「喧嘩をしたときは、お酒を飲みながら、よく話し合って……」
これには私も思わず笑ってしまった。きっと新婦の文案にちがいない。
ガラス張りのホールは、青い空が見え、日差しがあふれている。
ステージの右手にはチェロの生演奏、左手にはハープと女性歌手。Amazing Grace などの曲を、美しく澄んだ声で歌ってくれた。
祝福を贈るかのように、歌声に合わせて、庭の木々が風に揺れていた。
〈続く〉
フォトエッセイ:花嫁の母として③ ― 2017年02月04日
まだ、プロのカメラマンが撮影した写真やビデオは届いていない。
新婦の母は、とにかく忙しく、当日、カメラ代わりにiPad miniを持参して、ちょこちょこと写してはいたが、ろくな写真が撮れるはずもなかった。
前回、2月2日にアップした挙式の写真は、逆光で撮ったものを補正したせいで、新婦のドレスが赤みがかって見えるが、もちろん本物は純白のサテンだ。
(何人かの方から、「このドレス何色?」との質問を受けてしまいました)
1月20日「結婚式前夜」には、息子二人の正装の準備を書いた。
当日、式場で着付けてもらう私は、一足早く家を出たので、彼らが間違いなく支度をしてやって来るかどうか、そんなことまで気がかりだった。
でも、現れた二人を見てほっとする。
長男は、新しい革靴の履き心地もよさそうで、最近太り気味の次男は、用意した一回り大きなワイシャツもぴったりだ。きれいにひげも剃ってある。
すべてお開きとなって、夜、自宅に戻り、まずは缶ビールを開ける。
からからの喉に染み入るような冷たさが格別だった。
そして、朝から撮った写真を見てみる。
この写真を目にしたとき、涙がこみ上げて来て止まらなくなった。
三人だったきょうだいが、一人巣立っていったことを実感した瞬間だった。
〈続く〉
フォトエッセイ:花嫁の母として④ ― 2017年02月14日
披露宴には80名ほどのお客さまが集った。
乾杯と同時にカーテンが開くと、部屋中の窓に港の景色が広がる。ため息と歓声が上がった。
お色直しのため退場のときに、娘はサプライズの計画があった。
私は前夜にその話を聞いて、恥ずかしがるのではと、ちょっと心配になったのだが……。
退場のエスコート役に、壇上から父方の祖母の名を呼んだのである。宴の席の最高齢だ。
姑は突然の指名に驚きながらも、新婦の元に出向いていき、涙を流して喜んだ。サプライズは大成功。
さらに、途中からは私の母も加わって、娘は95歳と93歳の2人の祖母と両手をつないで歩いた。「これで花嫁は100歳間違いなし」という声をかけられながら……!
私にもうれしいひとコマだった。
娘がお色直しで着替えたのは、みなとみらいにふさわしく、海をイメージしたというドレス。歩くとブルーの濃淡のひだが揺れて波のようにみえる。
とにかく、花嫁の母はじっと座ってはいられない。きれいでおいしそうな料理もワインも控え、二人のビデオが映されているのも横目で見るだけ。
娘がメモを書き込んだ座席表片手に、夫と二人でテーブルを回り、一人ひとりにお酌をしては挨拶をする。
娘の学生時代の友人たちには懐かしい顔もあり、私も再会を楽しんだ。かわいかった高校生の頃とは違って、すっかり大人の女性たちだ。結婚をさておいても、一番充実している年頃なのかもしれない、と思った。
こうして、あわただしく時は過ぎ、宴もお開きが近づいてくる。
さて、次は……
〈続く〉
フォトエッセイ:花嫁の母として⑤ ― 2017年02月18日
「花束もお手紙もやめてね。泣かせの演出は必要ないから」
娘には、準備の段階からそう言い渡してあった。
今まで出席した親戚の披露宴でも、テレビで見るよその人の映像でさえも、感動して泣いてしまう私だ。まして、自分がその立場になったら、爆泣き必至であろうから。
あれほど釘をさしておいたのに、やはりご多分に漏れず、披露宴の最後に、娘から大きな花束を手渡されてしまった。うれしくないはずはないのだが……。
さらに、手紙も読んでくれたのだった。
そこには、これまで育ててきたことへのたくさんの感謝の言葉があった。
「心配ばかりかけてごめんなさい」
「毎日お弁当を作ってくれてありがとう」
そして……
障害のある長男のせいで、娘がつらい思いをしないように、
「気づかってくれてありがとう」
もういけない。こみ上げる涙を何度も指先でぬぐった。
それでも、泣き虫の私にしては上出来だったと思う。せわしないながらも、披露宴のお客さまとともに、ちゃんと楽しむことができた。
帰りは、母を乗せてタクシーで帰路につく。イルミネーションが美しいみなとみらいの夜景を堪能しながら、晴れ晴れとした気分だった。
「おつかれさま!」
とにかく喉がカラカラ。冷えたビールがいつになく美味しいと思った。
花嫁から贈られたブーケは、ピンク色のバラ、大輪のガーベラ、オフホワイトのカーネーション。今までにも娘からは何度か花をもらったけれど、これが一番きれいで、一番せつない花束だった。
〈最終回に続く〉
フォトエッセイ:花嫁の母として⑥ 最終回 ― 2017年02月28日
付き合い始めたと思ったら、二人で海外旅行。家族の顔合わせも、入籍さえも済まないうちに、一緒に住み始める。平成生まれの結婚は、なんとまあ順不同なことだろう。結納も釣書も言葉さえ知らず、「仲人って何をするの?」と聞いてくる。
昭和の常識は通用しないのである。
それでも、なんとか結婚式を挙げて披露宴を行うところまでこぎつけた。
花嫁の母親としては、できるかぎり抜かりなく準備をしてきたつもりだった。
子どもたちの受験時代が終わってからは受けたことのなかったインフルエンザの予防接種を早めに受けた。この時期おいしい牡蠣もご法度にした。
多忙な年末に、慣れない針を持って、リングピローも手作りした。
一人ひとりの礼装も、夫の貸衣装から息子たちの黒い靴下まで、すべて私が整えた。
そうやって、佳き日を迎え、グランドフィナーレともいうべき行事を、無事にお開きとすることができた。
心から喜び、ほっとしたのだった。
ところが、翌日からは、まさに祭りのあと。気持ちが沈んでくる。反省ばかりが頭をよぎるのだ。
控室でふざけてばかりいないで、母娘の最後のひと時にかけてあげる言葉はなかったのか。マスカラが落ちようが、鼻が真っ赤になろうがかまわずに、きちんと娘の結婚に心から向き合うべきではなかったのか。後悔の念にさいなまれた。
プロに頼めば、老け顔でもきれいに仕上げてくれるだろう、と期待していたメイクは、がっかりだった。和装の時のメイクがいつもと違うのはわかっているつもりだ。肌だけはシミを隠してきれいになったが、まるでびっくりタヌキのようで、鏡を見たくなかった。
花嫁ではないのだからメイクのリハーサルまではないにしても、いつもの自分のメイクの写真を見せて、それに近づけてもらうよう頼めばよかったのに。
でも、わかっていた。プロのメイクが映えないのは、年齢のせいなのだ。現実を突き付けられて、落ち込んだのである。
思い返すときりがない。
せっかく何日もかけて留袖の柄を選んで決めたのに、まともに写っている写真はなかった。誰かに頼んで、きちんと撮ってもらえばよかった。
何しろ当日は忙しかったのだから仕方ない、とは思うのだが。
娘は勤めを続けながら、忙しい日々、準備を続けてきたのだ。もっと私がしっかり補ってくればよかったのではないか。
数日は、そんな思いばかりでつらかった。
子どもたち3人で撮った写真を見ては、涙が出た。
それでも、日を追うごとに、少しずつ気持ちを切り替えていった。否定的な言葉で思い返してはいけないのだ、と。
たくさんの招待客と、主役の二人のために、やはり私は泣き虫でいるより、笑顔でいられて良かったのだ。それに、二度と着ないかもしれない黒留袖という正装になったのだから、メイクだって特別でいいではないか。
プロのカメラマンがたくさん写真を撮ってくれた中に、私の晴れ姿もきっと映っていることだろう。楽しみに待っていよう。
娘が自分と同じ年齢で花嫁になった。私もその分だけ年を重ね、人生を歩いてきたのである。こんなにきれいな花嫁姿を見せてもらって、母としてこれ以上の幸せがあろうか。
新郎新婦は、すでにお互い伴侶となって歩み始めている。よく話し合い協力して、二人の最初の大仕事を、この日に向けてがんばってきた。私は、ときには母としてのアドバイスも与えながら、二人をきちんと見守ることができたと思う。
挙式当日だけが結婚のすべてではないのである。
これから先もずっと、二人の一番の理解者となって、遠く近く、見守っていきたい。
また一つ、母としての新しいステージが始まる。
私らしく笑ったり泣いたりしながら、精いっぱいやっていこう。
皆さま、長い間お付き合いくださいまして、どうもありがとうござました。
このシリーズは今回でおしまいです。