おススメの本『月の立つ林で』2023年04月02日



 

昨年の9月におススメした『赤と青とエスキース』の著者、青山美智子さんの最新刊です。新聞広告を見て、すぐに図書館で予約しました。

 

読みやすくて、おもしろくて、おしゃれで、心優しくて。

この4つだけでおススメ条件は十分ではないでしょうか。

これだけで読んでみたいと思われたら、この続きは読まないほうがいいかもしれません。ネタバレでごめんなさい、という意味で。

 

①読みやすい。

設定は現代。子どもから高齢者まで、幅広い年齢層の登場人物たち。セリフも多く、言葉遣いもナチュラルで、こんなふうにさりげない文体でエッセイも書いてみたい、と思います。

 

②おもしろい。

5つの章立てで、ひとつの物語となっています。まるで短編集のようではあるのですが、そうではない。1章では脇役だった人物が、2章では新しく主人公として描かれる。1章の主人公は5章でキーパーソン的な端役としてちらりと出てくる……といった具合に、人物たちが現れては影を潜め、また現れて少しずつ物語の全体像が見えてくる。推理小説を楽しむようなおもしろさがあります。

その他にも、タイトルの一部「月」が、構成のうえでも、素材としても、天文学的にも、文学的にも、重要なテーマになっているのです。

さらに、お笑い芸人が必死でネタを考える場面では、笑ってあげたくなるし、今どきのアマゾンミュージックからポッドキャストを聞くなんて、今どきの新しさにも興味が湧きます。

 

③素材がおしゃれ。

手作りのワイヤーアクセサリーとか、切り絵アートとか、美しいものたちがイメージされて楽しめる。この著者は、物語の空間を情緒豊かに彩ることがとても上手で、惹かれます。

ほかにも、アイパッドでグーグルのポッドキャストをネット視聴するなどと、新しい現代のアイテムが持ち込まれ、しかも、若い人が高齢者に手ほどきをしているので、読み手もなるほど……と、置いてきぼりにならずにすむのです。

 

④心優しい。

とにかく癒されます。「誰かのために何かをしたい」と、主人公たちは皆思っているのですが、なかなかうまくいかない。傷つくこともある。それでも、誤解が解けて、本当のやさしさが通い合う。よかったなと心が温まるのです。

話が逸れますが、私は直木賞の作品を読むという自分なりの課題を持っています。最近は戦国時代の作品を続けて読みました。それ以外にも、あまりに殺戮シーンの多い作品は、読むのを休止中にしてしまっているのもあります。

そんな時に手にしたこの本、なんと穏やかでやさしいのだろうか。「癒し系」はべつに好みではない、と自覚していたはずなのに、しみじみと癒されて、読んでよかった、と思えました。

 

うららかな春爛漫。

とはいえ、出会いと別れの季節でもありますね。

疲れた夜には、読書もいいものです。

そんな時に、おススメの一冊です。


ダイアリーエッセイ:WBC準決勝を見て2023年03月21日

 

WBCの頂点を目指す侍ジャパンの戦いを、1次ラウンドからすべて、テレビの前に貼りついて見てきた。

大谷選手も、一躍人気者になったヌートバー選手も、もちろん目が離せないのだけれど、中でも気になったのは、絶不調に苦しむ村上選手の姿だった。

彼を見ていて、ある記憶がよみがえってきたのだ。

 

小学6年の時のことだ。学年全員で横浜市の体育大会に出場することになって、その練習を続けていた。競争ではなく演技のひとつに、4段の跳び箱を跳び越えていく種目がある。どのグループも一人ずつ同じ速さで進んでいけばいいのだ。

それが、なぜか急に跳べなくなった。

お転婆の私は、4段どころか5段も6段も跳べていたのに、跳び板まで走っていって手をつくと、ふっと固まってしまう。何度やってもどうしても跳べない。

「そのうち、また跳べるようになるから」と、先生は苦笑いでスルーしてくれて、跳び箱の横を走りぬけるしかなかった。

そして大会当日、私はどうなったか。

ないのだ、その日の記憶が。ないところを見ると、きっと跳べなかったのだろう。屈辱の記憶だからこそ、抹消してしまったのだと思う。

 

さて、本日の侍ジャパンVSメキシコの戦い。あいにく家族もいないし、朝からビール片手にというわけにもいかない。それでもドキドキしながら孤独な応援を続けた。

4回表に3点も先制点を取られて、なかなか返せない。ようやく吉田選手の3ランホームランで同点に持ち込んでも、次の回でまた1点取られてしまう。

村上選手の不調は、準々決勝で2回のヒットを放ち、復調したかに見えた。が、今日もやはり不調気味で三振が続く。

彼がわが子のようでもあり、遠い日の自分のようでもあり、バッターボックスに立つたびに、今度こそ、今度こそと祈り続けた。

1点差で迎えた9回裏、もう後がない。彼は日本中のファンの祈りを受けて、ついにタイムリーにヒットを放ち、サヨナラ勝利を決めることができたのだ。

その瞬間、滂沱の涙が止まらなくなる。よかったね~、村上選手!

打順が回ってきたことも、その時に打てたことも、村神様はいたのかもしれない。でも、彼を信じた監督、不調な彼を支えてきたチームメンバー全員、応援し続けてきたファンのすべてが、神様となったのだと思う。



 

「岸田首相、本日ウクライナ電撃訪問」のニュース速報も入るなか、侍ジャパンの勝利と村神様の復活に酔いしれたひとときだった。

明日の決勝もがんばれ、侍ジャパン! 




母を想う日々 6:あの頃の母に2023年03月08日

 

あの頃の母に

 

2月半ば、副甲状腺の腫瘍を摘除する手術を受けた。放置すると骨密度がますます下がっていくという。首元を横に5センチほど切開するのである。

手術当日は、おととし亡くなった母の、生きていれば100歳の誕生日にあたる。母が見守ってくれるだろう。そして私は母の長寿を受け継ぐにちがいない。心強い、と思った。

 

長引くコロナ禍にあって、患者が出入りする病院は、依然として厳しく感染防止対策がとられていた。面会は一切禁止。売店の買い物は原則ヘルパーが代行。食事時のお茶のサービスはなく自販機で購入する。

土日でも見舞い客のいない病棟は静かで、個室に入った私は、気楽なひとりの時間を過ごす。この時のために、タブレットに電子本を何冊も流し込んで持参していた。

その中の『重力ピエロ』には、兄弟の父親が明日手術だというくだりがあった。あら、私と同じ。それを読んでいたのが、ちょうど私の手術の前日だったのだ。結局、父親のがんは開腹したものの手の施しようがなく、息子たちが火葬場の空に父の煙が昇っていくのを見つめるシーンで終わる。私の腺腫は99パーセント良性だと言われているので不安はない。

 

翌日の手術は午後から。朝から飲まず食わずで、点滴を入れながら読書三昧となる。

次に読み始めたのは『夜に星を放つ』という短編集。昨年夏の直木賞受賞作で、著者の窪美澄さんは私の好きな作家だ。

物語に、死んだ母親が幽霊となって中学生の娘のもとに現れる話がある。またしても私と同じ? いや、私の場合は幽霊ではない。晩年の母ではなく、元気で私を支えてくれた若い頃の母を思い出しているだけだ。


40年近く前、私は結婚してまだ子どもができないうちに、片方の卵巣を摘出する手術を受けた。外出先で腹痛を起こし、救急車で外科に運ばれて、緊急の開腹手術だった。下半身だけの麻酔だったから、手術中の機器の音や、医師たちの会話もよく聞こえた。

「女の人ってのは、危ない橋を渡って生きてるんだなぁ」と一人の医師が呟く。卵巣の血管が切れて腹腔内に大出血していたらしい。手術の後に、「半日遅れていたら命はなかった」とまで言われた。

当時の母は、今の私よりも若く、毎日のように都心の病院まで見舞いに来てくれた。私は事の重大さをあまり意識しなかったが、母はどれだけ心配したことかと思う。母の心配は杞憂に終わり、その後3人の子を授かった。

 

なぜか2人の息子とともに、気持ちのよい草原にいる夢を見ていた。ああ、幸せな気分だ……。

「石渡さん、起きてください。終わりましたよ」

その日の手術は眠っている間にあっけなく終わった。しかし、目が覚めたとたん、首が圧迫されて傷が痛む。首をねじってはいけないと言われ、緊張して寝返りも打てず、苦痛の一夜を過ごした。

ふと、病室に若い頃の母が顔をのぞかせるような気がする。そんなバカな、と打ち消す。母にこのことを伝えようと思ったりして、またも苦笑する。麻酔のなごりか、小説の読みすぎか、あらぬ世界に引きずり込まれるかのようだった。それとも40年前にタイムスリップしたのだろうか。

晩年の母ではなく、あの頃の母に会いたいと思った。でも、もう母はいないのだ。母が亡くなってから初めて、寂しさをかみしめて泣いた。





ご報告のためのエッセイ:「姉からのLINE」2023年02月20日



2日前のこと、

「ご心配をいただきましたが、手術も無事終わり、経過良好で昨日退院してきました。これでまた普通の生活に戻れると思いきや、のどに大きな傷を抱え、術後からの頭痛が抜けず、まだまだ病人状態です。回復が遅いのは年のせい?!と落ち込んでいます」

「ひとみさんの口から落ち込んでると聞くのは、68年間で初めてよ」

私からの報告に、そんな返事をくれたのは3つ違いの姉でした。

意外でした。私はいつだって誰かに愚痴をこぼし、弱音を吐いては、励ましの言葉をもらって支えられてきたと思っていましたから。

そんなふうに突っ張っている妹だった? ……いやいや、これはいつもの姉流の励まし。達者な毒舌の裏が読めたら、ちょっとほろりとして、思わず涙ぐみました。姉の言葉はさらに続きます。

「私たちの母譲りの遺伝子は100歳生存可能なんだから、老年期前の必要なメンテナンス。7080代で脊椎やられている人もたくさんいるから、今のうちに手を打ててラッキーなのよ。

回復しない病気ではないので、ここは心を病まないように、好きな音楽でも聴いて乗り越えて!」

 

たしかに姉の言うとおりです。未来に向けての治療だと、自分でも納得して手術を選んだはず。回復には若い頃の何倍も時間がかかるのは仕方ない。ここで落ち込んでいないで、今日よりは明日、明日より明後日、少しずつ回復に向かうことを信じていましょう。

 

散歩を兼ねて、遠回りで買い物に出ると、久しぶりに通る道沿いの畑で、白梅が花を咲かせていました。これからは次々と花が開き、春はかならずやってくる。何も焦ることはない。そう思えました。

 


1200字のエッセイ: ユーミンと私の50年2023年01月19日


 

        

   ユーミンと私の50 

 

昨年来、ユーミン50周年の記事や広告が新聞に踊っている。

もう半世紀にもなるのだ……と、ある記憶がよみがえる。

 

彼女がデビューして間もない頃、私が通う大学の文化祭で、彼女のコンサートが開催されることになった。彼女の婚約者の松任谷正隆氏が、大学の卒業生だったからだ。まだ現役の学生で、ユーミンファンだった私たちサークル仲間は、コンサートの実行委員とかけあい、無料で見せてもらう代わりに、出演者の接待係を仰せつかった。

コンサートは古い校舎のホールで行われ、殺風景なステージで、彼女はつばの広い帽子をかぶり、当時流行りのパンタロンスーツという衣装で、ピアノを弾いて歌った。あぶなっかしい歌いっぷりは、レコードで聴いていたのと変わらなかった。

ユーミンほか、ハイファイセットなどの出演者とスタッフのために、私たちは楽屋で紅茶を入れてもてなす。屈強な男子学生が、校内をボディーガードのように連れて歩く。握手もサインもなし。

同年代のユーミンに対して有名人だという緊張感はなかったけれど、ティーカップを洗いながら、なぜかふと、彼女は私たちとは別格の女王様のように感じられたものだ。

 

そして、半世紀が過ぎた。今なお、ユーミンは正真正銘の女王様であり続けている。あの時、こっそりサインの1枚でももらっておけばよかった……。

彼女は、想像できないほどの努力をしてきたことだろう。でも、それを感じさせないところが、女王様らしいかもしれない。

私はといえば、松任谷氏と同じ大学卒の男性と結婚したけれど、ユーミンとは違って3人の子を授かった。子育てをしながら、仕事も、趣味も、それなりにがんばってきたつもりだ。

非凡と平凡。たしかに違いは大きい。

しかし、かけがえのないそれぞれの命を燃やして生きてきた50年という歳月に、ユーミンと私、何の違いもないのだ。それだけは胸を張って言える。







▲当時、たまにレコードを買うこともあったけれど、たいてい貸しレコード店で借りてきてはカセットテープにダビングして聴いた。そのカセットケースには、曲のタイトルを書き、さらに曲のイメージの絵や写真を雑誌から切り取って挟み込んで、カスタマイズしたものだ。

もうテープを再生する機器も手元にはない。それでも、レコード以上に捨てがたいテープたちなのである。


800字のエッセイ:「おめでとうございます!」2023年01月09日



昨年の春のこと、コロナが下火になったころ、友人たちと三島に1泊し、三島大社を訪れた。

社殿のそばに、錦の打掛姿の新婦と、紋付き袴の新郎がいた。でも結婚式ではなさそうだ。二人のほかに、地味なスタイルのカメラマンと助手らしき女性だけ。ああ、前撮りだ。

 

6年ほど前、娘夫婦も結婚披露宴とは別の日に、都内の公園で和装姿の写真を撮ってもらった。紅葉真っ盛りの季節で、赤い着物の娘はもみじの精のようだった。

通りすがりの人たちから声がかかる。

「きれいですね。おめでとうございます」

娘の幸せを願ってくれているのだ。「ありがとうございます」と答えながら、思わず涙ぐんだものだった。

その時から、どこかで新郎新婦に出会ったら私も祝福の言葉をかけてあげよう、と思っていた。

 

三島大社の慣れない衣装の二人は緊張しながらも、幸せそうに見えた。

「長引くコロナで結婚式もできなかったのね、きっと」

「やっと披露宴ができるようになったかな」

「記念写真だけですませるのかもね」

私たちオバサン組は、コロナ禍に愛をはぐくんできた見知らぬカップルについて、あれこれおせっかいな詮索に余念がない。

 

言葉をかけそびれているうちに、彼らは場所を替えるのか、どこかへ行ってしまった。

ホテルに戻ってくると、フロントにも和装の新郎新婦がいる。カウンターの背後の大きなガラス窓越しに、富士山がよく見えるのだ。

「あら、富士山をバックに前撮りね?」

 今度こそチャンスを逃すまいと、去りぎわの新郎に声をかけた。

「おめでとうございます!」

「ありがとうございます」と、事務的な返事。

すかさず隣にいた友人に突っつかれた。

「本物じゃないってば。モデルの撮影よ」

「……あ!」



 


▲このホテル14階の大浴場からの眺め。こんなふうに新幹線のホームの向こうに街が広がり、その向こうに富士山が姿を見せています。

 

ちなみに、今年のお正月には、富士山の夢を2回も見ました。

初夢のベストスリーは「一富士、二鷹、三なすび」。

いい年になりそうです。さてさて……?


新年のご挨拶2023年01月04日


ブログを覗いてくださっている皆さま、明けましておめでとうございます。

本年もどうぞよろしくお願いいたします。

いただいた年賀状で、思いがけない方、もう何年も会っていない方がブログを読んでくださっていることを知って、感激しています。ありがとうございます。

 

去年は喪中でしたので、新年の祝辞は控えましたが、2021年を振り返って22年の抱負を述べたのが、同じ14日でした。

さて今日も、2022年を振り返ってみますと、なんといっても、国内を旅したことと医者にかかったこと、その2本立てでした。

 

まず1本目。コロナ感染の波をかいくぐっては、ちょこちょこと近場の1泊旅行から、長くても3泊まで。数えたら10回。なんとまあよく出かけたことかと思います。

それぞれに記憶に残る旅でしたから、エッセイをつづり、ブログに写真とともにアップしていきたいと思いつつも、次の旅の準備や予習をしなくては……という具合で、なかなか時間が取れず、ブログがはかどりませんでした。

楽しみにしてくださっている方、ごめんなさい。今年もがんばって続きを書いていきます。

 

2本目は、前年に母を見送った疲れがどっと出たのか、体のあちこちに不具合が現れました。こちらも数えてみると、年間50回近くあれこれ通院をしています。

気がつくと、利き腕の左肩が痛んで、腕が上がらなくなりました。背中にも回りません。定評のある肩関節専門のドクターが、「五十肩というのは、日本だけの通称でね、本当は凍結肩というんです。これなら世界中どこへ行っても通用しますよ」と、60代の患者に慰めのような説明をしてくれました。

凍結肩は繰り返すそうで、私も3回目です。たしかに凝り固まってしまったような、ロックがかかったような状態が長引き、リハビリに通い続けました。

 

さらにそのクリニックで出会ったのが、骨粗しょう症専門のドクター。紹介してくれた大学病院での精密検査で、副甲状腺の異変が見つかり、来月には手術する運びと相成りました。

それについては前回、昨年1220日に詳しく書いたとおりです。

 

今年はここから始まります(ドラッグストアの名前みたいですね)。私の健康を取り戻す年になるでしょう。

 

コロナ禍も3年がたちました。

ようやく世の中の行動制限が解除され、マスク以外は3年前に戻ったような様相を呈しています。

しかし、3年間に被った目に見えない痛手はけっして軽くはないと思うのです。高齢者の立場からすれば、それは取り戻すことが難しいあまりに長い時間でした。

マスクを外して鏡を見れば、3年分老けた顔。ステイホームのおかげで弱った足腰……。おしもおされもせぬ年寄り感が押し寄せます。

 

いえいえ、マイナス面ばかりではないですね。

エッセイ仲間とリモートを活用して続けてきた勉強会は、外出するリスクも面倒もなく、時間節約にもなっています。作品を書き上げる励みにもなり、合評はもちろん、その後のおしゃべりもまた、えがたい情報交換です。

 

というわけで、ウィズコロナ&ウィズエッセイをモットーに、今年もまた、健康回復の治療と、コロナ感染の合間を縫って、あちらこちらに出かけていきたいと思います。そして、旅の話、本や映画の感想、自閉症の息子の話……などなど、書き留めていきます。

皆さま、お暇な折には、どうぞ覗きにいらしてください。

よろしくお願いいたします。

 


       ▲13日の青空と、ご近所の風見鶏



ご報告のためのエッセイ:「未来のために、今」2022年12月20日

 

病気の話は暗くなりがち。できればエッセイに書いたりブログに載せたりしたくない。ずっとそう思っていました。

でも、今回ばかりは、避けられません。治療のために、ご迷惑をおかけすることになるからです。きちんと説明ができるように、エッセイにしたためてみました。

ご理解いただければ幸いです。


 

     未来のために、今

 

還暦を過ぎた頃、健康診断で骨密度不足を指摘された。骨粗しょう症である。

治療を始めたが、月に一度の飲み薬は副反応で熱が出た。サプリに切り替えてウォーキングやジム通いを続けても、骨密度は一向に改善しない。それでも医師は、

「加齢とともに下降線をたどるのが普通です。減らないだけで良しとしましょう」と、計測のたびに繰り返した。

 

今年の春、人間ドックで高カルシウム血症だと言われた。骨密度が低いのは骨からカルシウムが溶け出しているからで、副甲状腺の異常が疑われるとのこと。

寝耳に水だった。副甲状腺がどこにあってどんな役割をしているのかも知らなかった。

 

その後、骨粗しょう症専門のドクターに診てもらった。骨密度47パーセントという低さに驚き、すぐ大学病院の内分泌内科に紹介状を書いてくれた。

副甲状腺は、喉の下に四つほど米粒大のものが並んでいる。そこから出るホルモンは、体内のカルシウムのバランスを調えるのだ。ところが、このホルモンが過剰に分泌されると骨のカルシウムをどんどん放出してしまう。副甲状腺機能亢進症と呼ばれ、骨密度の低さはそこに原因があるらしい。

 

病院ではたくさんの検査を受けた。喉元に超音波を当てると、4つのうちの1つが大きく腫れていることがわかった。さらに精度の高いシンチグラムという検査では、微量の放射性物質を注射して映像化し、腺腫を特定する。その腫瘍が悪さをしているのだ。

4つもあるんだから、1つ取ってしまえばいいんです」と、担当医はこともなげに言う。私は若い頃に、2つの卵巣のうち1つを摘出して一命をとりとめた。そのあとでも、ちゃんと3人の子を授かっている。人間の体はうまくできているのだ。

「何が原因で、腺腫ができたんでしょうか」

「それがわかればノーベル賞ものですよ。がんと同じです」

この腺腫のがんの確率はほんの1パーセント。映像を見てもまず良性だと聞いて、安心する。

 

骨折したこともなければ、何の自覚症状もない。それでも喉を切り裂く手術を受けるべきか。迷いはあった。

女優のアンジェリーナ・ジョリーは、乳がんの遺伝子を持ち、発症確率が高いので、両方の乳房を切除したという。そこまでの勇気は必要ない。

そして、万一手術の後、骨密度増加の効果が出なかったとしても、手術をしないまま、びくびくと行動にセーブをかけたり、ましてや手を突いただけでポキッ、くしゃみしただけでポキッとなったりするよりはずっといい。後悔だけはしたくない。

医学を信頼して手術を決めた。

 

病院に通い始めて半年、ようやく本格的な治療が始まる。

手術は来年213日に決まった。なんと、昨年亡くなった母の、生きていれば100歳の誕生日に当たる。

母の長寿を受け継ぐのだ。未来は明るいにちがいない。





私のサッカー観戦物語2022年12月09日



2022年、日本ではサッカーワールドカップがいつにない盛り上がりを見せた。日本代表チームがEグループのリーグ戦で、優勝経験のあるドイツとスペインの強敵2チームを、見事に倒してしまったのだから。

地元川崎でも、鷺沼サッカークラブから輩出した選手が、4人も代表に選ばれて、鷺沼の交差点には、「鷺沼から世界へ!」という青い垂れ幕が光っていた。

そして、いよいよ決勝トーナメントの初戦、クロアチアとの対決に臨んだのだった。

 

 

 スペイン戦のラスト1分という時、森保監督は29年前のドーハの悲劇が脳裏をよぎったという。

私の脳裏をよぎったのは、22年前のスペイン戦だった。シドニー五輪で見たスペイン対カメルーンのサッカー決勝戦だ。

まだ13歳だった自閉症の長男が、「僕の夢はシドニーオリンピックを見に行くことです」と卒業アルバムに書いたのを見て、彼を連れてオリンピック観戦ツアーに参加したのである。観戦種目の一つに、サッカー決勝戦があった。ツアーとはいえ自力で移動し、メンバーたちの席もばらばらだ。サッカーの知識などほとんど持ち合わせないのに、今のように便利なスマホもない時代。目の前で生の戦いが始まっても、実況アナウンスも解説もない。ところがラッキーなことに、隣の席に一人旅の日本人青年が座った。彼はサッカーに詳しく、笛が鳴ったり試合が中断したりするたびに、わかりやすく説明してくれた。

後方の席にはスペインの旗を掲げた一団がいて、「エスパーニャア!」と大声で応援している。しかし、試合運びがスペイン優勢に傾くと、どよめくようなブーイングがスタジアムに湧き起こる。観客のほとんどは、カメルーンを応援しているようだ。

「強い国じゃないのに、ここまで来たからでしょう」と青年は言った。

カメルーンはその応援を力にして、PK戦のすえ、優勝してしまったのだった。

 

2年後の2002年、日韓W杯が開催される。Jリーグファンの長男のために、抽選に応募して、日本で行われる決勝トーナメントの観戦チケットを手に入れる。その日を楽しみにしていた。

開催国日本は、予選を戦わずにグループリーグから参戦となる。忘れもしない64日の夜、初戦の相手は強国ベルギー。格上のチーム相手に、日本は22で引き分け、勝ち点1を得た。ビール片手にテレビの前で応援をしていたわが家も、すっかり浮かれ気分になった。

とその時、父のいる病院から電話がかかった。

「もう間に合わないかもしれません」

長いこと入院し、覚悟はしていたが、昼間見舞ったときはいつもと変わらない様子だったから、安心していたのだ。母とタクシーで病院に駆け付けると、父はすでに霊安室に安置されていた。

かくして、サッカーどころではなくなった。せっかくゲットした試合のチケットも、サッカー好きの友人に譲った。息子のおみやげにと買ってきてくれたのは、クロアチアのユニフォーム。赤いチェック柄が鮮やかで素敵だった。まさか20年後の決勝トーナメントの初戦相手になろうとは、想像もしなかった……。


今回の観戦は、おみやげのユニフォームをお尻に敷いて座ろうか、裏返しに着て応援しようか、などと悩んだ。 

もし、クロアチアの相手国が日本ではなかったら、私はまちがいなくウェアを着て応援しただろう。

コロナのパンデミックが起きる直前、2019年の秋、クロアチアを旅行した。この国は、第二次世界大戦後にチトー大統領が打ち立てたユーゴスラビア社会主義連邦に統合されたのだが、やがて大統領が亡くなると、あちこちで内紛が勃発し、ユーゴは崩壊していく。クロアチアにも独立運動が起こり、1991年、独立を宣言する。その後も旧ユーゴ軍の砲撃を受け、多くの死者が出て、世界遺産も危機に陥ったという。初めに訪れたドブロブニクは、「アドリア海の真珠」と言われるほど美しい街だったが、ここにも内戦の傷痕が残っていた。

ちょうど独立記念日には、国立自然公園まで出かけた。片道2時間の送迎を依頼した車のドライバーは、30代ぐらいのチョビ髭の若者。無口だったが、日本からのお菓子をプレゼントすると照れるように笑った。

「今日は独立記念日で祝日なんでしょう?」と問いかけても、

「だからって、僕には関係ない」と答えた。何もめでたくないよ。そんな印象を受けた。戦争で被った有形無形の傷が、まだこの国に暗い影を落としているように思える。車窓からは、サッカーで遊ぶ子どもたちが見えた。

先日の新聞に、クロアチアの中心的選手ルカ・モドリッチの生い立ちについて書かれていた。内戦の爆撃で、彼の大好きな祖父も犠牲になったという。貧しい暮らしの中でも、両親は彼をサッカー選手に育て上げたそうだ。

不幸な歴史が、クロアチア代表の精神的な強さを培ってきたのだと思う。前回の大会では準優勝に輝いた。

さて、日本との一戦はどうなることか。少し複雑な思いで、夜中遅くまで実況中継を見届けた。

 

  結果は、じつに悔しい惜敗ではあった。それでも、日本代表は素晴らしい戦いを見せてくれた。感謝の拍手を贈ろう。

そして4年後、さらに成長して世界に挑んでほしい。こんどこそ、新しい景色を見せてくれると信じている。 




   


旅のエッセイ:ルーツを訪ねて 前編2022年11月24日

 

   ルーツを訪ねて

 

「ひとみが生まれたのは、神戸のすずらん台という所。すごく田舎だったわ」

 私の生まれた土地について、母から聞いていたのはそれだけだった。父の転勤で神戸に住んだのだが、生後半年で東京に移ってきたので、記憶はまったくない。ほかにも聞いたかもしれないが、覚えているのはそれだけだ。

 昨年母が亡くなった。今になって、もっといろいろと聞いておけばよかった、話をすればよかったという思いが募ってくる。

 すずらん台に行ってみよう。大阪で開催されるコンサートを聴きに行くついでに、神戸まで足を伸ばしてみよう。そうだ、ルーツを探す旅だ。……ふと思い立ったのだった。

 神戸は新婚の頃に夫と訪れて以来40年ぶりで、右も左もわからない。とはいえ、今は交通系アプリや地図さえあれば、ひとり旅だろうと安心してどこへでも行けるのである。

 

 コンサートの翌朝、大阪のホテルを出て、JRで神戸へ。車窓からは、ビルの向こうに六甲山の緑が間近に迫って見える。東京界隈では見慣れない景色だ。

午前中に神戸三宮のホテルに到着。荷物を預け、市営地下鉄に乗る。途中の谷上駅で神鉄有馬線に乗り換え、いよいよ目指すは鈴蘭台駅だ。降り出しそうな曇天の下、電車は北へ向かう。

 高校生の時、大阪出身の同級生に、

「すずらん台って知ってる? 今でも田舎なの?」と尋ねたことがある。

「ベッドタウンとして開発されて、人気があるよ」と聞いて、なぜかうれしかった。

 しかし、電車はうっそうとした山の緑に飲み込まれるように走っていく。トンネルを出たり入ったり。ちょっと不安がよぎる。

 トンネルを抜けてたどり着いた鈴蘭台駅は、新しそうなビルの中だった。上の階は神戸市北区の区役所になっている。外へ出てビルを見上げると、ビルの壁面には緑の植物が植えてある。駅前のバスロータリーにも、手入れの行き届いた花壇がたくさん並んでいる。東京近郊のどこかの町にありそうな、エコでこぎれいな今どきの〈駅と区役所のコラボ〉といった感じだ。

区役所に入り、地域の歴史が知りたい、と尋ねてみたが、若い職員は首をかしげるばかり。でも、現在の北区の様子がよくわかった。この地域は、神戸の軽井沢とも言われているそうで、夏は涼しく、有名な有馬温泉もある。住宅地もあり、里山には農園があり、牧場や養蜂場があり、ビール工場まであり、土地の食材を使った古民家の食堂もあり……と、かつての「すごく田舎」は様変わりして、楽しめるエリアとなっているらしい。

「神戸市北区で休日さんぽ」というパンフレットをもらった。カラフルで写真もたくさん。地域の魅力があふれている。次回はこれを片手に、誰かと遊びに来たい、と思った。

 小雨が降り出した。傘をさして、駅の近くを歩く。平日とはいえ、人の往来は少ない。チェーン店のイタリアンレストランや調剤薬局など、わが町にあるのと同じで、親しみを感じてひとりで笑った。

「のぼり屋」という地元のお店らしい和菓子屋さんがあったので、入ってみた。季節の栗を使った最中やお饅頭が美味しそう。

店の一角にモノクロの写真が並べてある。古い歴史がありそうだ。平屋の店舗の写真には、「昭和28年創業当時」と説明が添えてあった。

なんと、私の生まれる前の年だ。だったら、甘党の母はきっとこの店に立ち寄ったのではないだろうか。私の筋金入りの甘党も、この店にルーツがあるにちがいない。想像が膨らんで、やっと旅の目的が少しだけ果たせたような気分になった。

私のほかにお客さんもいなかったので、50代ぐらいの女性の店員さんに声をかけた。じつは……と、私が鈴蘭台にやって来たわけを聞いてもらった。

「私が生まれて最初に食べたあんこは、のぼり屋さんのお饅頭かもしれませんね」

「あら、きっとそうですよ」

 ふたりで笑った。旅先で見知らぬ人とおしゃべり。ひとり旅はこれが楽しい。母はよく、そんな私を、「すぐお友達になっちゃうのね」とあきれたものだった。

店員さんの話では、創業当時の店は町内の別の場所にあったそうで、この店舗は平成6年の大震災の後に、ここに新しく建てられたのだという。

 鈴蘭台にちなんで鈴音(すずね)最中という名の、可愛らしい鈴の形の和菓子をおみやげに買って、店をあとにした。

 

 午後からはオシャレな神戸、旧居留地の辺りを散策して、夕方から港の花火見物へ。

コロナ禍で3年ぶりに開催されるのは、5日間にわたって毎晩10分間だけという規模の小さな打上げ花火だ。それでも、生まれ故郷の神戸で、たったひとりで傘をさしながら見上げる花火が、とても美しくて切なくて、涙が出そうだった。

 

          (後編に続く)

 

☆ 旅のフォト ☆

 

▼大阪で開催されるコンサートというのは、藤井風くんのスタジアムライブ。ガンバ大阪の本拠地、吹田パナソニックスタジアムで、初めての開催だそうです。半端なく♪♡でした。


▼神鉄有馬線は、森の深い緑に飲み込まれるかのように走ります。


ビルの中の鈴蘭台駅は想定外。


改札を出て最初に目に飛び込んできたのは、わが家から徒歩1分にもあるレストランの看板。あら、ここにもできたのね、と思わず苦笑い。


駅の外観。ビルの壁面に植物。


▼のぼり屋。


▼鈴音最中。


▼神戸開港の歴史を物語る地域は、レトロモダンなオシャレな街。旧居留地38番館。


パティスリー トゥーストゥースで、ひとりランチ。スパークリングワインのミニボトルも注文して、デザートにはコーヒーとエクレアも。


ライトアップされた大丸神戸店。


小雨に煙る夜のメリケンパークで打ち上げられた花火。動画で撮ったのに、このブログではアップできなくて残念です。


 

 


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