ゴッホの「夜のカフェテラス」を見てきました! ― 2025年11月22日

今年8月4日の記事、「南フランスの旅のフォトエッセイ:⑳ゴッホの地で」の中で、この絵のことを書きました。
晩年のゴッホが暮らした地を訪れたことをアップしようと思っていた矢先に、思いがけないニュースに出合ったのです。
「夜のカフェテラス」
「アルルの跳ね橋」
オランダのクレラー・ミュラー美術館が所蔵するゴッホの代表作であるこの2点が、「大ゴッホ展」と称して2025年から28年にかけて、神戸、福島、東京の順に、日本国内を巡回するということでした。

現在、「大ゴッホ展」は9月20日から神戸市立博物館で始まっており、その「夜のカフェテラス」も公開されています。
今月、大阪に出向く用事があったので、そのついでに神戸元町まで足を延ばしました。来年5月の東京開催を待たずに、一足早くこの絵を見るために。
そこで、昨年のプロヴァンスの旅の話に戻ります。
ヴィラモンローズのご主人ダヴィッドさんには、自家用車でプライベートツアーもお願いしていました。目的のひとつは、ゴッホが暮らした場所、アルルに連れて行ってもらうこと。
ゴッホは1988年に、パリからアルルに移り住みました。
「この地は、明るい日差しが降り注いで、まるで日本のようだ」
そう言って喜んだのでした。まだ訪ねたこともない日本なのに、浮世絵などの美術作品から強い印象を受けていたのでしょう。
確かにプロヴァンスの日差しは強烈。湿気の多い日本の日差しとは少し違うように感じますが、冬は寒くて暗い天気が続くパリからやってくれば、その明るさだけでも解放されたような心地になったにちがいないと想像できます。
ゴッホはクリスチャンとしての信仰も厚く、繊細で、人との交わりが上手ではなかった彼は、少しずつ精神を病んでいきました。それでも、弟テオのような数少ない理解者の支援を受けて、貧しい暮らしの中、多くの作品を生み出していったのでした。
現在もアルルのフォルム広場にあるカフェは、修復されて、ゴッホが絵に描いた当時のように復元されている、と聞いていたし、照明の下で賑わう写真も見たことがあるのです。そこに案内してもらうのを楽しみにしていました。
ところが、行ってみると、店は閉じられたまま、放置されていました。
ダヴィッドさんの話では、店はひと儲けしようとたくらんだ人たちの手から手に渡り、今は営業停止状態だとのこと。国家の大切な遺産として、なぜきちんと保存に努めないのか、と彼も憤慨していました。私も同感でした。
憧れてきたカフェは、よこしまな人たちの思いが通り過ぎた跡地のようで、がっかりでした。

さらに、ネットでいろいろと調べてみたところ、ゴッホが描いた実在したカフェは、第二次世界大戦で破壊されたという説がありました。
その後、2000年代の初めに、ゴッホの代表作を基に、店を再現しようと企てる実業家たちが現れる。店は、「カフェ・ラ・ニュイ(夜のカフェ)」として、現在の広場に生まれ変わった。ゴッホの絵を細部まで再現したカフェは、ユネスコの世界遺産にも登録されて、観光客で賑わったらしい。
しかし、経営者たちの脱税行為が明らかになり、処分を受け、営業停止になるという残念な結末を迎えたということでした。
ゴッホの描いたカフェが、その後にたどった運命を想うと、複雑な思いにかられます。それでも、とにかく絵を見てみよう、そう決心して神戸へ、市立博物館の展示室へと向かいまいした。
▼神戸市立博物館の玄関前には、開場時刻の1時間前から行列が。

思ったよりも小さな絵です。
電燈の明るみを黄色で表し、テラスの壁も天井も、きらめくように黄色い。そこへやって来る人たちも、すでにテーブルを囲んでいる客たちも、白い衣装のウェイターを中心に、細かく生き生きと描き込まれています。
濃紺の空には、星々。まるで青白い花びらを付けたように描かれているのは、星の瞬きを表現したかったのでしょうか。

もっと見たい。いつまでも見ていたい。
……と思うのですが、開館前から大勢の人が並んで待っていたのです。この絵の前のスペースには、写真を撮る人、鑑賞する人の位置がロープで区切られ、移動を強いられます。写真を撮った後は、何度も場所を往復して、鑑賞しました。
絵を見ているうちに、後年このカフェを再現したいと思った人の気持ちがわかるような気がしました。
ゴッホは、フォルム広場にイーゼルを立て、夜の闇の中で、この絵を描いたそうです。妹への手紙にも、「夜の絵を現場で描くのはとても楽しい。現場で直接描いてよかった」と書いているとか。
その楽しさが、絵を見る人にも伝わってくるのでしょう。
この絵を見ていると、昨年の旅の途中、忘れられた祭りの跡のようなカフェの前にたたずんで、寂しい歯がゆい思いに浸ったことをいやおうにも思い出していました。
と同時に、確かにあの場所は、この絵を模したものだったと感じます。
この絵を愛した人たちが、オマージュのようにあのカフェを作ったのではないか。あれは、ゴッホが見つめた本物ではない。逆に、このゴッホの絵を見つめた人々の思いが結晶している。ゴッホの絵の力、名作の力が働いている。それだけで十分なのでは。
ゴッホの楽しさがこの絵に込められて、それを見た多くの人を幸せにして、後世に名作として残されていく。名作はこの絵であり、この絵こそが真実。それだけで十分なのではないか。
東京からはるばる関西に赴いて、自分なりの結論が出せました。
1年前のもやもや気分はようやく消え去り、カフェテラスの黄色い輝きに満たされたような気分になっていました。



★ちなみに、「アルルの跳ね橋」が日本にやって来るのは、2027年6月。また神戸から巡回するそうです。
旅のエッセイ:「ランスを訪ねて 後編」& ランスのフォトアルバム ― 2025年11月01日
ランスを訪ねて 後編

フジタ礼拝堂は、小さな一軒家ぐらいの大きさの石造りの建物で、正面の玄関の真上に、ふたつの鐘と、てっぺんには風見鶏がついている。なんともかわいらしい。内部に椅子などはなく、四方の壁に、目の高さから天井まで、びっしりと壁画が描かれていた。
キリストの生涯をモチーフにしたフレスコ画で、つややかに光を放っている。衣のひだも、人々の表情も、生き生きとこまやかな描写だ。
十字架上のキリストに祈りをささげる群衆の中に、メガネの自画像が描き込まれているのを見つけた時、なぜか涙が出そうになった。彼はこの地下に埋葬されているのだ。
予想をはるかに超えたすばらしさ。ずっと見続けていたい。そう思いながらも、どこか現実感がない。この地を訪れたいとずっと思い続けて、ようやくその夢がかなったのに、まさに夢の中にいるような気がした。

▲キリストの生誕

▲シャンパンの生産地にふさわしく、ブドウの房を持ち、ブドウの樽に腰掛ける聖母とキリスト。背景にはぶどう畑や大聖堂が見える。聖母が樽の上に腰掛けるという構図を描くにあたって、彼はきちんと教皇の許可を得たといわれている。

▲最後の晩餐。この絵が描かれたドームの下に、1968年に亡くなった藤田とともに、2009年に亡くなった妻も眠っている。

▲キリストの磔刑図、その群衆の一人として、自身の姿が描かれている。
刺激に満ちた一日だった。暑さのせいもあり、帰りの車内ではうとうとしているうちにパリに着いた。ホテルの部屋に戻った時、はっとした。かぶっていた帽子がない。車の中に置き忘れたのだろうと思い、サトカさんにメールをした。
ところが、車内にもないという。彼女は翌朝すぐに、最後に訪問した礼拝堂に連絡してくれて、そこに置いてきたことがわかった。入口脇のデスクでパソコンに向かう男性がいた。彼が職員なのだろう。「こちらで保管しておきます」とのこと。私はすでにパリをたって南仏に来ている。取りに行くのは無理だし、送ってもらうほどの物でもない。カンカン帽の形で、ぐるりとリボンがついたベージュ色の麦藁帽。去年の南仏旅行のために買い、愛用した思い出の帽子ではあった。
でも、しかたない、諦めよう。むしろ藤田と同じ場所に眠っていると思えば、ちょっとうれしいではないか。

▲置き忘れる前日、パリのエッフェル塔とともに自撮りした帽子。
ところが、後日談が生まれた。
帰国して10日後、サトカさんから、次のようなメールが来た。
ふたたび仕事でフジタ礼拝堂を訪ねると、たまたま居合わせた女性が、ランス市の美術館全体を管理する団体の幹部の人だった。そこで、私の忘れ物の一件を話してみると、
「忘れ物はお送りしましょう。送料はランス市が負担します」
と言われたというのだ。
さっそく、その団体に宛てて、私の住所を書いたメールを送ると、1週間後に返信が来た。
「夏休みの時期なので少し時間がかかりますが、かならずお送りします」
待つこと2ヵ月。美術館のパンフレットと一緒に、緩衝材の付いた大きな封筒に入って、私の帽子が帰ってきた。少しつぶれて、日に焼けている気がした。

メルシーボク! 一人の観光客の小さな忘れ物を、わざわざ航空便で送ってくれるなんて……と、私のフランス愛はまたまた大きく膨らんだ。
サトカさんの細やかな気遣いにも、感謝したい。
旅のエッセイ:「ランスを訪ねて 前編」& ランスのフォトアルバム ― 2025年10月31日
ランスを訪ねて 前編
画家の藤田嗣治は、古き良き時代のパリで活躍した。第二次世界大戦を経て、晩年にはフランスに帰化して永住。さらにカトリックの洗礼を受ける。
彼の名前を知ったのは、私が子どもの頃だ。白髪頭に大きな鼻と口、ロイド眼鏡の奥の鋭い眼光が、私の父によく似ていた。さらに父は絵が好きだったこともあって、私は藤田になんとなく親近感を抱いてきた。
藤田は最晩年、自らの集大成として、設計から壁画まで手がけた小さなチャペルを造った。今はその場所に眠っている。それがフランス北東部のランスという古い町だった。
コロナ禍が明けたら、いつかランスを訪ねてみたい。ずっとそう願っていたら、今年の夏、チャンスが訪れた。パリから日帰りでランスへ行こう。TGV(フランスの新幹線)なら片道1時間で行ける。とはいえ、初めてのTGVだし、1人旅だし、駅の周辺は危ないという情報ばかり気になるし、心配は募る。
ネットで調べているうちに、「ロコタビ」という旅行者に対するサービスを提供する会社を見つけた。海外に住む日本人が登録し、通訳、運転、案内などなど自分にできることを提示して、有料で提供するものだ。旅行者がその中から自分に合うサービスや人物を選び出し、そのサイトを通して交渉し、料金を支払う。サービス提供者はロコさんと呼ばれる。
最初は駅から同行してもらうつもりだった。しかし、ロコさんの分の移動費も食費もこちらが負担しなくてはならず、なんだかばかばかしい気がした。「ひとみさん」という名の女性にご縁を感じたのだが、日程の折り合いがつかず、やめた。
TGVは諦めて、専用車でパリのホテルからランスまで連れて行ってもらうサービスを利用することにした。ドライバー兼ガイドのロコさんは、サトカさんという日本人。私と同年代で経験豊富な人のようだ。メールのやり取りをして、こちらの希望を伝えておいた。
一番の目的は、フジタ礼拝堂と、彼が洗礼を受けたランスの大聖堂。そして、ランスといえはシャンパーニュ地方の中心地なので、有名なワイナリーも覗いてみたい……。
6月25日、朝8時。さとかさんはホテルのロビーで待っていた。私と同じぐらい小柄で、年齢不詳に見える。大きなワンボックスカーの運転も、どこかおっとりしている。彼女は東北出身で、ご主人は日本通のフランス人だという。

私の希望をよく理解したうえで、彼女がアドバイスをくれた。有名な大手のワイナリーでは、高い見学料を払っても、フランス語の説明だけだったり、試飲できるのはほんのグラス一杯だけだったりするそうだ。
「それよりも、私が懇意にしているワイン農家にご案内させていただくのはいかがでしょうか。家族ぐるみでワイナリーを経営していて、毎年のように優秀賞を受賞しているのです。間違いなくおいしいシャンパンが試飲できますよ、もちろんすべて無料で」
この地に詳しいサトカさんにお任せするのが一番だと思い、連れて行ってもらった。
聞いていたとおり、シャンパーニュ地方は本当に心が洗われるような地域だった。白い雲が浮かぶ空と、なだらかな丘には緑色のワイン畑が広がっている。畑の脇に咲く赤いバラは、良質なブドウが実る土壌の証だそうだ。ときどき「シャンパーニュ」と書かれたブドウの絵のおしゃれな看板に出合うけれど、道路には車も人影も少ない。






そんな一角にある広い敷地のワイン農家シャルパンティエ家の中庭に到着。四十代ぐらいの女性が現れて、大きな倉庫に案内してくれた。中は寒いほどで、たくさんの装置や機械が並んでいる。ここでシャンパンが作られるのだ。彼女はこの家のお嫁さん。フランス語でひとつひとつ丁寧に工程を説明し、それをサトカさんが通訳してくれる。私1人のために。
解説を聞いた後は、明るい部屋に通され、お待ちかねのシャンパンの試飲タイムだ。辛口のブリュット、甘口のセック、ドゥミセック、アッサンプラージュ……などの言葉も教わって、いっぱしのシャンパン通になった気分を味わう。どれもこれもおいしく、至福のひとときだった。



その後、ランスのノートルダム大聖堂を訪ねた。パリの大聖堂をまねて作られたというが、パリより一回りも大きく圧巻だった。思いがけずシャガールのステンドグラスがあって感激する。堂々として美しかった。


昼食は、セレブなレストランのテラス席。雄大なブドウ畑が見渡せる。その名もベルヴュー(美しい眺め)というレストラン。料理はおいしかったはずだが、とにかく快晴の空の下、テラスのパラソルも役に立たないぐらい暑くて、アスパラガスの前菜も、魚料理の濃厚なソースも、その味をよく覚えていない。サトカさんは遠慮してか、お豆のポタージュしか注文しなかった。
このレストランがあるのは、国王やナポレオンも滞在したという由緒あるホテルだったが、7年前にリニューアルされて、ラグジュアリーホテルに生まれ変わったとか。一流のシェフの手による料理だったのに、とても残念。




街中には、ポメリー、ヴーヴ・クリコなど、有名なシャンパンの会社が建ち並び、お城のような建物が目を引く。


▲ポメリー社の門を抜けると、子どもの遊園地のような公園や、おとぎの国の建物が見えてくる。ワインの瓶で作った大きなタワー、その後方、背丈よりも高いビーター(料理用の撹拌機)、巨大じょうろなど、大人でも楽しい。浜松のスイーツバンクを思い出した。
夕方、最後に向かったのが、G.H.マム社。以前から藤田と親交があったそうで、その敷地内に、フジタ礼拝堂はあった。
▼G.H.マムの中庭。


(後編に続く)
大阪万博に行ってきました! ― 2025年10月01日
絵文字が使えるなら、汗マークを10個ぐらい並べたい。
9月15日からの3日間、超猛暑と大混雑の大阪万博で、ひたすら忍耐の時間を費やしてきました。



どこにも予約は取れないままでしたが、なんとかなる、なんとかしようという気構えで、万博見物の先輩がたの教えに従って準備を整えていきました。
まずは暑さ対策。日傘や帽子はもちろんのこと、教えてもらったクールおしぼりを首に巻いたり、持参した栄養ゼリーを並びながら飲んだり……。それでもじっと並んでいるだけで、顔から汗がしたたり落ちるのです。
体力維持に一番役立ったのは、万博の5人に1人は利用している感じの携帯チェア。高さが7センチから45センチまで調節可能で、行列中にちょっと腰かけて、またちょっと前進という動きには他のどの椅子よりも便利だったと思います。
さらに、背の低い私は、この椅子を30センチくらいの高さにして上に立ち、人込みの後ろから、ショーを見ることができた時には、椅子のありがたみを実感しました。重さ1キロあるのですが、夫が持ち歩いてくれて助かりました。(夫のありがたみも実感)


初日、夕方から、暮れなずむ空や、ライトアップされていくパビリオンを眺めながら、2時間並んで憧れのフランス館に入りました。
さすがはフランス、美の表現、センスの良さには言うことなし。





手すりの向こうに広がるパリの夕暮れをバックに、ダンスのパフォーマンス。じつは手すりは実物ですが、その向こうはスクリーン上の映像です。
迫力満点で魅了されました。動画をご覧いただけなくて残念。

夜間のライトアップでは、パビリオン全体がフランス国旗のトリコロールに色が刻々と変化していくのです。夕闇に浮かび上がる様を、大屋根リングの上から眺めて楽しみました。

翌日は、人気のアメリカ館へ。パビリオン外壁のスクリーンには、次々と合州国の映像が映し出されていて、並びながらそれを眺めていたので、あまり飽きませんでした。ときどき、トランプ大統領が、来場者に挨拶をする映像もありました。
内部では、月ロケットに乗って旅に出るというディズニーランドのアトラクションのようで、それなりに楽しめたのでしたが、しかし、この宇宙はみんなのものだ……というメッセージで締めくくられ、大統領の政策との食い違いが気になって、ちょっとしらけましたね。映像で挨拶までしてもらっていたのですが……。




▲われらがヒーロー、アメリカで大活躍のショーヘイ君の映像もありました。

そして3日目。
ここまで訪ねてきたのだから、最高の展示だといわれているイタリア館にも挑戦しようと決心。前夜9時からのドローンショーも諦めて、早めに宿に帰り、翌朝の出陣に備えました。
結局入場したのは午前9時半ごろで、しかも夫が自信満々で間違った方向に突き進んだおかげで、すでに6時間待ちの行列ができていました。それでも今日はここにすべてを掛ける覚悟でしたから、最後尾に付きました。
幸い、列は大屋根リングの下にくねくねと出来上がっていて、比較的涼しい場所。すぐ横でお笑い吉本のステージが賑やかでした。ときどき夫と交代で列を離れ、空腹を満たしたり、みゃくみゃくのマスコットを買ったりして時間つぶし。
6時間待った話をすると、「その間、何をしていたの?」とよく聞かれるのですが、他の予約を取ろうと、ひっきりなしにスマホを操作していました。結局どこも取れませんでしたが。
夕刻4時過ぎにようやく館内に入った時には、もうそれだけで達成感を味わいました。
待たされたから余計に素晴らしく感じるのかもしれませんが、聞きしに勝る豪華な展示でした。
中でも、感銘を受けたのは、カラヴァッジョの「キリストの埋葬」。写実的な手腕、光と影を用いた感情の表現。17世紀初めに描かれた彼の最高傑作と言われています。縦3メートルの大きな絵で、いつまでも見ていたいと思いました。▼


▲ミケランジェロの彫刻「復活のキリスト」は、たくましいキリスト。


ルネサンス期の画家ティントレットの描いた「伊東マンショの肖像」▲
天正遣欧少年使節の一人です。使節団の少年たちの数奇な運命は、原田マハの小説『風神雷神』にも書かれていて、興味深く感じました。また、7年前にポルトガルを訪れた時に、彼らが演奏を聴いたといわれる大きなパイプオルガンも見たことがあります。
ちょっと松下洸平に似ている気がして、当時でもイケメン日本人だったのかなと……、おっと、それはおばさんの独りごと。でも、いっそう身近に感じられたのは本当です。

さてさて、400年も昔の少年使節団ほどではないけれど、大変な思いをして、万博に行ってみました。誰のための、何のための、万博なのだろう。税金から大枚をはたいて、にわか作りのお祭りを開催して、本当に意味があるのだろうか。長時間炎天下で待たされながら、思ったことでした。

イタリア館で、目玉の一つとされていた展示に、レオナルド・ダ・ヴィンチの直筆の素描や文章がありました。さすがにガラスケースに入っていて、大勢の人が順番を待っている。もちろん私も並んだけれど、スタッフは叫ぶのです。
「立ち止まらないでくださーい。歩きながら見てください! 写真撮影は歩きながらお願いします!」
チラ見しかできず、そんな写真を撮るぐらいなら、今ならいくらでもネットを駆使した映像で、自宅に居ながらにして鑑賞できるでしょうに。
自分の目で実際に見ることのほうが、そんなに大事?
楽しみながらも、なんだかな~と首を傾げたくなることもあった万博でした。
ともあれ、お疲れさま!

南フランスの旅のフォトエッセイ:㉓エピローグ ― 2025年08月11日
☆ご参考までに
プロローグとして出発前日に投稿した記事は、「南フランスへ」。
https://hitomis-essay.asablo.jp/blog/2024/06/03/9689926
帰国後に始めたシリーズ初回は、「南フランスの旅のフォトエッセイ:①ステファニーさんとの出会い」。
https://hitomis-essay.asablo.jp/blog/2024/06/21/9694865

☆ヴィラモンローズ
ダヴィッドさんと陽子さんご夫妻には、本当にお世話になり、ありがとうございました。
また、いつか日本でもお会いできたらうれしいです。
ご夫妻は、毎年シーズンオフの冬場には、日本に拠点を移して、アンティークやブロカントの仕事もされています。
ブロカントというのは、美しく愛すべき中古品といったらいいでしょうか。フランスには、長年使われてきた食器、道具、家具などを大切にして愛用するという文化が根づいており、新しい芸術を生み出す一方で、古いものにも価値を見出してきました。
お二人から、じかにその文化を感じとることができたことも、価値ある旅の記憶となりました。


笑顔がとても魅力的な町田陽子さん。リビングルームの窓辺で。▲
☆ルモアンヌ・ステファニーさん
彼女は、11月に2冊目の日本語の著書を出版する予定だそうです。
その際に来日されるとのことで、お会いできるのを楽しみにしています。
彼女の会社マイコートダジュールのサイトはこちらです。

▲ステファニーさんの一冊目の著書にサインをしてもらいました。

ルノワールの家で、3人を鏡に写してカシャリ!▲
帰国してしばらくは、Hiromiさんも私も、旅行で留守をした分、忙しい日々を送っていて、会う機会もありませんでした。
そんなある時、共通の友人から、こんな話を聞きました。
「Hiromiさんに会って、南フランスの旅行はどうだった、と聞いたら、『過去一だった!』と言っていたわ」と。
私も同感!
楽しく、おいしく、美しく、ちょっぴりスリリングで、過去最高の海外旅行でした。
1年以上もかかった、23回にわたる「南フランスの旅のフォトエッセイ」シリーズを、ようやくこれでお開きといたします。
根気よく見にきてくださった皆さま、どうもありがとうございました。
あらためて、心から感謝申し上げます。
感想やご意見など、コメント欄にお書きいただければ幸いです。

南フランスの旅のフォトエッセイ:㉑続・ゴッホの地で ― 2025年08月05日
アルルではほかにも、ゴッホが自分の耳を切り落とした時に入院したアルル市立病院の跡地を訪れました。


▲病院の入り口には「HOTEL DIEU(神様のホテル)」と書かれているのです。そのわけは、あからさまに「病院」と掲げるよりも、少しでもおだやかな心持ちで門をくぐれるように、という患者へのやさしい気づかいだったのだろう、とダヴィッドさん。


かつての市立病院は、現在は図書館、店舗などが入った総合文化センターになっています。その中庭は、ゴッホの描いた絵「アルルの病院の中庭」を再現した美しい憩いの場所となっているのです。
その名も「エスパス・ヴァン・ゴッホ」と呼ばれ、市民や観光客の姿がありました。
その後も、不幸なことに、ゴッホの病状は回復を見せず、悪化していくばかりでした。
アルルから20キロほど離れたサン・レミ・ド・プロヴァンスにあるサン・ポール・ド・モーゾール修道院の療養所に移り、1年間の療養生活を送ります。



この建物にも行ってみました。12世紀に建てられた修道院ですが、17世紀にはすでに精神病院として使われていたといいます。
鉄格子の窓や、粗末な鉄のベッドのある個室など、粗末ではありましたが、精神病院の役割を担っていたことがうかがえます。



▲ひまわりの生花を持つゴッホの像。
ゴッホが歩いた廊下。▼

ゴッホが触ったにちがいない階段の手すり▼



再現されたゴッホの部屋▼






とはいえ、今でも静かな田園地帯の一角にあります。降り注ぐ日差しの下の糸杉、果樹園や畑、働く農民たち、咲き誇る花々、夜には星空、月夜などなど、ゴッホは絵の題材に困ることはなかったのでしょう。湧き上がる創作意欲に次々とキャンバスに向かっていったに違いありません。
彼は滞在した1年の間に、約150点もの絵を描いたそうです。
もともと熱心なクリスチャンだったゴッホは、かつての修道院という場所で、修道女たちの世話を受けて、聖書の中の話を題材にした絵も描いています。神から授かった才能が、平和な環境の中で存分に花開いていったことが、ひしひしと伝わってきました。
都会からも人々からも離れたこの地で、一人の天才が数多の作品を遺してくれたことを、静かな感動とともに理解できたのでした。
ここまで訪ねてきてよかった。こんどははっきりとそう思いました。


9月に神戸から始まる「大ゴッホ展」は、「夜のカフェテラス」、「アルルの跳ね橋」などの名画に、日本で出合えるまたとないチャンスです。ぜひ、観にいくことにします。
ゴッホの名画ゆかりの地が、後から作り上げられたものであっても、それは後世の人びとの熱意の表れだと思いましょう。皆、ゴッホを想い、作品を感じていたいだけなのですね。
私も同じようにゴッホを追い求める一人のファン。
本物のゴッホを楽しみにしています。
(「大ゴッホ展」の公式サイトはこちら)
南フランスの旅のフォトエッセイ:⑳ゴッホの地で ― 2025年08月04日
今回は、晩年のゴッホが暮らした地を訪れたことをアップしようと思っていた矢先、思いがけないニュースに出合いました。
「夜のカフェテラス」
「アルルの跳ね橋」
オランダのクレラー・ミュラー美術館が所蔵するゴッホの代表作であるこの2点が、2025年から27年にかけて、神戸、福島、東京と、日本国内を巡回するそうです。
複雑な思いにかられて、もう1週間も書きあぐねていました。

昨年の旅で、ヴィラモンローズのご主人ダヴィッドさんには、自家用車でプライベートツアーもお願いしていました。目的のひとつは、ゴッホが暮らした場所、アルルに連れて行ってもらうこと。
ゴッホは1988年に、パリからアルルに移り住みました。
「この地は、明るい日差しが降り注いで、まるで日本のようだ」
そう言って喜んだのでした。まだ訪ねたこともない日本なのに、浮世絵などの美術作品から強い印象を受けていたのでしょう。
確かにプロヴァンスの日差しは強烈。湿気の多い日本の日差しとは少し違うように感じますが、冬は寒くて暗い天気が続くパリからやってくれば、その明るさだけでも解放されたような心地になったにちがいないと推測できます。
クリスチャンとしての信仰も厚く、繊細で、人との交わりが上手ではなかった彼は、少しずつ精神を病んでいきました。それでも、弟テオのような数少ない理解者の支援を受けて、貧しい暮らしの中、多くの作品を生み出していったのでした。
「夜のカフェテラス」
美術の教科書にも載っているような、誰でも知っている絵画の一つです。

アルルのフォルム広場にあるカフェは、修復されて、ゴッホが絵に描いた当時のように復元されている、と聞いていたし、照明の下で賑わう写真も見たことがある。そこに案内してもらえるというので、とても楽しみにしていました。

ところが、行ってみると、店は閉じられたまま、放置されていました。
ダヴィッドさんの話では、店はひと儲けしようとたくらんだ人たちの手から手に渡り、今は営業停止状態だとのこと。
国家の大切な遺産として、なぜきちんと保存に努めないのか、と彼は憤慨していました。私も同感でした。
憧れてきたカフェは、よこしまな意思が通り過ぎた跡地のようで、がっかりでした。ここで撮った写真の私は、作り笑いをしています。(とてもアップできません)
さらに、ネットでいろいろと調べてみたところ、ゴッホが描いた店は、フォルム広場ではなく、別の広場にあったのが第二次世界大戦で破壊されたという説もありました。
その後、2000年代の初めに、ゴッホの代表作をもとに店を再現しようと企てた実業家たちが現れる。店は、「カフェ・ラ・ニュイ(夜のカフェ)」として、現在の広場に生まれ変わった。ゴッホの絵を細部まで再現したカフェは、ユネスコの世界遺産にも登録されて、観光客で賑わったらしい。
しかし、経営者たちの脱税行為が明らかになり、処分を受け、営業停止になるという残念な結末を迎えたということでした。
「アルルの跳ね橋」
これも、ゴッホの代表作。アルルの水路にかかるラングロワ橋。水辺で洗濯する女性たち。明るいブルーとイエローのコントラストで描かれて、明るくのどかな絵です。

ゴッホが描いた橋も、第二次世界大戦で破壊されてなくなっています。これは、離れた場所にかかっていた、似たような跳ね橋を、ここに移築したとのこと。近くに、彼の絵を載せた案内板が置かれていました。▼


辺りには何もない。少しばかりの木立と、空き地と、誰も住んでいない家がぽつんとあるだけ。絵の中の橋は、白く輝いて見えるのに、実際には朽ち果てる寸前の動かない橋。人けのない場所で、曇りがちだったせいか、こちらもまた、絵の明るい雰囲気とは程遠いものでした。
それでも、ここでゴッホが描いたのだ、と思えばいいのでしょうか。
それとも、係員のいるカフェスタンドや、土産物のひとつでも扱う小屋があればよかったのでしょうか。
私も正直なところ、よくわからない。
ただ、ダヴィッドさんに聞いた話が、心を暗くするのです。
この辺りに、一人きりでやって来る観光客が、狙われるのだとか……。

さてさて、期せずして来日するという2点の絵を、私はどう観るのでしょう。どう観たらいいのでしょう。
はるばるアルルまで訪ねていって、落胆を持ち帰ったなんて、意味がなかった? 行く必要はなかった? そうは思いたくない。
アルルではほかにも、ゴッホが入院した市立病院の跡地や、アルルから20キロほど離れたサン・レミにある修道院の療養所なども訪ねました。
その暮らしの中で、彼は素晴らしい作品を描き続けているのです。
新シリーズの予告です! ― 2025年06月15日
いつまでも続いて、終わりが見えない「南フランスの旅のフォトエッセイ」ですが、予定では、あと4回ぐらいで最終回としたいと思っています。
終わらないうちから、次の予告をさせてください。
(というより、シリーズがちっとも続かない言い訳かも……)

今年の2月7日に、この写真をアップして、「招かれて」というエッセイを載せました。本当に、この絵に招かれるように、鳥肌に導かれるように、カヨさんと二人でニースに行くことになったのです。
彼女は一足早く、今はイタリアに滞在中で、6月26日にニースで落ち合うことにしました。
私はといえば、ニースへは直行便がなく、どうせパリを経由するならば、パリにも寄っていこう、と思いたちました。一人旅には慣れているし、大丈夫よ……と軽く考えてしまったわが身の浅はかさ。慣れている一人旅は日本国内のこと。ヨーロッパで一人旅をしていたのは、まだ怖いもの知らずだった20代の頃のはず。あの頃の私と今の私とは別人だというのに。体力も知力も判断力も順応力も、何もかもが違っているのに。
考えれば考えるほど、だんだんと不安が募ってくる。夜も眠れないし、体調不良の日が増えて……。
でも、もう後へは退けません。ここでへこたれてなんかいられない。
本を買い込んだり、ネットを駆使したりして、情報を手に入れ、パリの一人旅の計画に没頭し始めました。がんばれ、私。
そうそう、パリを訪れたいと思ったのは、5年前に火災に遭ったノートルダム大聖堂が昨年12月に復活したからです。ぜひ見に行きたいと思っていました。
そして、もう一つ、コロナ禍が終わったら、パリ近郊のランスの町も訪ねたい。画家の藤田嗣治が晩年を過ごした町で、彼はフジタ礼拝堂を作り、そこに埋葬されています。フジタの絵も好きですが、彼のロイドメガネの風貌が亡き父に似ているので、親しみを感じてもいました。
ランスは、シャンパンで有名なシャンパーニュ地方にあります。
そこで、はたと気がついたのが、この絵。

カヨさんに譲ってもらったこのアート作品は、ミュシャのリトグラフをプリントしたもので、貴族の男性が着飾った女性二人にシャンパンを注いでいます。エドシック社というシャンパン会社のために描かれたポスターでした。
今はわが家の玄関に飾ってあります。よく見ると、右下にReimsと書かれている。ライムではなく、ランスと読む地名だったのです。
この絵もまた、私を招いている気がして、鳥肌が立ちました。
かくして、偶然が出会いを生み、二人の夢をかなえようとしています。
次のシリーズは、この旅をつづるつもりです。
それでは、6月22日、古希の大冒険に行ってまいります!

1200字のエッセイ:「招かれて」 ― 2025年02月07日
「夫が出張なので、来月の20日か21日に、拙宅にいらしていただこうかな」
と、カヨさんからラインが来た。昨年の11月のことだ。
「わー、うれし過ぎるわ♡ だって12月21日は、私の誕生日。それも70の大台に乗っちゃうのよ。きっと神様のプレゼントね」
「わーい、ばっちりね。ぜひいらして。なんと、私は今日が誕生日!」
偶然が重なるお招きに、鳥肌が立った。
カヨさんとはもう5年以上のお付き合いなのに、なにかと共通点があることがわかってきたのは、ごく最近になってからだ。はじめは、地域の小さな集いで顔を合わせて仲良くなった。年の頃もほぼ同じ。スリムな体にジーンズ姿が似合って、雰囲気はおだやかでおっとりとしている。
ひょんなことから、私がエッセイを書いていることがばれ、彼女も出版社に勤めるライターだったというので、おしゃべりが弾んだ。
さらに、私がアートを見にあちこち旅行する話をすると、カヨさんが言った。
「私の母がずっと画廊をやっていたの。もう高齢になって、6年前に店を閉じたのよ」
それも、おもにミュシャを扱う画廊だったという。女性をきらびやかに装飾した絵が、世紀末のパリで人気を博したアーティストで、私は若い頃から大好きだったのだ。聞いただけで気絶しそうだった。
「まあ、そうだったのね。じゃあこんどわが家にいらして。いっぱいあるから」
そして、私の誕生日にお呼ばれは実現した。
カヨさんの住まいは、わが家から車で10分のマンションの6階。リビングに通されると、富士山も見えるというテラスからは、太陽の光があふれんばかりに注いでいる。
真っ白な壁にかかった絵に、まず目が留まった。意外にもミュシャではなく、シャガールだった。人魚と花束と、そして、カーブを描いたニースの青い海岸線。
私が歓声をあげると、カヨさんが言う。
「いいでしょう! さすがヒトミさんね」
私はこの夏、ニースに行ったばかり。すっかり魅了されて、「また行きたい」と、言い続けている。
カヨさんも、母上がアートの買い付けにパリに出かける時には、たいていお供でついていった。ひと仕事終えてニースで骨休めをしたことはあったけれど、まだよく知らないので、「ぜひまた行きたいの」と言う。
シャガールが手がけたその絵は、ニースの観光局が発足した当時、ポスターとして描かれたものだ。
「ニース、太陽、花」というフランス語も、シャガールの手書きの文字が躍っている。

南フランスの旅のフォトエッセイ:⑨シャガール美術館へ ― 2024年08月28日
ステファニーさんのガイドツアーが終わって、ディナータイムにはまだ少し時間があったので、シャガール美術館まで送ってもらいました。

マルク・シャガールは、1887年、ロシアのユダヤ人の家庭に生まれます。画家を志して美術学校に通い、20世紀になると、芸術家の集まるパリへ。
しかし、世の中は第二次世界大戦のただなか、ユダヤ人である彼はナチスの迫害を受け、アメリカに亡命するのです。
戦後、フランスに戻ると、フランス国籍を取得。ニース郊外のサン・ポール・ド・ヴァンスに居を構えます。
やがて、当時の文化大臣アンドレ・マルローと親交を持つようになり、パリのオペラ座の天井画制作を依頼され、1964年に完成させました。
私はもう何年も前のこと、パリを訪ねた時、どうしてもシャガールの描いたその天井画が見てみたいと思った。でも見学のチャンスがなく、頼み込んで楽屋の小さな窓から、こっそりと覗き見させてもらったことがありました。いつ、誰と、どうして……はもう記憶にないのですが、シャガール独特のふわふわしたブルーの色調が、重厚な建造物の一部となっているのが垣間見えました。
また、1966年には17点に及ぶ『聖書のメッセージ』の連作も、フランス国家に寄贈しています。
マルローは、この連作をはじめとしたシャガールの作品を展示する国立美術館を造ることに尽力し、1973年、ニースのこの地に建設したのです。
その後もシャガールは1985年に亡くなるまで、この美術館に作品の寄贈を続けたそうです。

さてその日、チケット売り場で入場券を買おうとすると、
「本日は無料です」
と言われました。ほとんどの作品が、どこかの町か外国か、展覧会にお出かけ中で、少ししか残っていないそうで……。
なんという不運でしょうか。それでも「館内に入ることはできる」というので、入りました。


小ぢんまりとしたコンサートホールの壁面にはステンドグラスがあり、ステージに置かれているのは、彼の絵が施されたグランドピアノです。このピアノの音色からは、画家の魂が響いて聞こえるのかもしれませんね。
さらに、『聖書のメッセージ』の大作がずらりと並び、残り時間が少なくて、心残りでした。本当に無料では申し訳ないくらい。こんなにたくさんの大作に会えるなんて、不運どころかラッキーだったのでしょう。どの絵も、2メートル、3メートルという大作なのです。

▲「人類の創造」

▲「楽園」
縦が2メートル、横が3メートルほどの大きな絵です。

▲「アブラハムと三人の天使」
この絵はどこかで見たような……と思いました。それは私が持っている手のひらサイズの小さなカードでした。
この絵は15世紀にロシア人の画家が描いたもので、ロシアには古くからイコンという宗教画の歴史があり、シャガールもその影響を受けているといわれています。三人の天使の顔の向きも似ているし、テーブルについているというのも同じ。画家はきっとこの絵から着想を受けたのでしょう。
彼が描いたのは、旧約聖書の創世記のお話です。後ろの青い服の男性がアブラハムで、左の女性が妻のサラ。夫は100歳、妻90歳の老夫婦なのに、天使たちは「来年男の子を授かる」と神のお告げを伝えるシーンです。
私が持っていたカード。ルヴリョフというロシア人画家による「三位一体」。▼


▲「イサクの犠牲」
神様のお告げのとおり、1年後にサラは男の子を生み、お告げに従って、イサクと名付けます。それがこの絵の横たわる人物です。神様はアブラハムの信心を試すために、「イサクをいけにえとして捧げなさい」と言われます。(なんということを!) しかし、アブラハムは神を恐れ、神に従うのです。最愛の息子を薪の上に寝かせ、その胸にナイフを突き立てようとした瞬間、天から「わかった、もういい。何もするな」という声が聞こえてきて、イサクの命は助かったのでした。
アブラハムがどれほど苦しみ、そして、安堵したことか。赤く燃えるような血の色が、アブラハムの心からにじみ出ているような絵です。
まだまだ他にもありましたが、
「閉館の時刻です!」というアナウンスに、追い立てられるように展示室を後にしました。

広い敷地に緑あふれる庭も、木陰の小さなカフェも、次の機会にはゆっくり立ち寄りたいと思いました。▼

【⑩エズ村】に続く