フォトエッセイ:花嫁の母として⑥ 最終回 ― 2017年02月28日
付き合い始めたと思ったら、二人で海外旅行。家族の顔合わせも、入籍さえも済まないうちに、一緒に住み始める。平成生まれの結婚は、なんとまあ順不同なことだろう。結納も釣書も言葉さえ知らず、「仲人って何をするの?」と聞いてくる。
昭和の常識は通用しないのである。
それでも、なんとか結婚式を挙げて披露宴を行うところまでこぎつけた。
花嫁の母親としては、できるかぎり抜かりなく準備をしてきたつもりだった。
子どもたちの受験時代が終わってからは受けたことのなかったインフルエンザの予防接種を早めに受けた。この時期おいしい牡蠣もご法度にした。
多忙な年末に、慣れない針を持って、リングピローも手作りした。
一人ひとりの礼装も、夫の貸衣装から息子たちの黒い靴下まで、すべて私が整えた。
そうやって、佳き日を迎え、グランドフィナーレともいうべき行事を、無事にお開きとすることができた。
心から喜び、ほっとしたのだった。

ところが、翌日からは、まさに祭りのあと。気持ちが沈んでくる。反省ばかりが頭をよぎるのだ。
控室でふざけてばかりいないで、母娘の最後のひと時にかけてあげる言葉はなかったのか。マスカラが落ちようが、鼻が真っ赤になろうがかまわずに、きちんと娘の結婚に心から向き合うべきではなかったのか。後悔の念にさいなまれた。
プロに頼めば、老け顔でもきれいに仕上げてくれるだろう、と期待していたメイクは、がっかりだった。和装の時のメイクがいつもと違うのはわかっているつもりだ。肌だけはシミを隠してきれいになったが、まるでびっくりタヌキのようで、鏡を見たくなかった。
花嫁ではないのだからメイクのリハーサルまではないにしても、いつもの自分のメイクの写真を見せて、それに近づけてもらうよう頼めばよかったのに。
でも、わかっていた。プロのメイクが映えないのは、年齢のせいなのだ。現実を突き付けられて、落ち込んだのである。
思い返すときりがない。
せっかく何日もかけて留袖の柄を選んで決めたのに、まともに写っている写真はなかった。誰かに頼んで、きちんと撮ってもらえばよかった。
何しろ当日は忙しかったのだから仕方ない、とは思うのだが。
娘は勤めを続けながら、忙しい日々、準備を続けてきたのだ。もっと私がしっかり補ってくればよかったのではないか。
数日は、そんな思いばかりでつらかった。
子どもたち3人で撮った写真を見ては、涙が出た。

それでも、日を追うごとに、少しずつ気持ちを切り替えていった。否定的な言葉で思い返してはいけないのだ、と。
たくさんの招待客と、主役の二人のために、やはり私は泣き虫でいるより、笑顔でいられて良かったのだ。それに、二度と着ないかもしれない黒留袖という正装になったのだから、メイクだって特別でいいではないか。
プロのカメラマンがたくさん写真を撮ってくれた中に、私の晴れ姿もきっと映っていることだろう。楽しみに待っていよう。
娘が自分と同じ年齢で花嫁になった。私もその分だけ年を重ね、人生を歩いてきたのである。こんなにきれいな花嫁姿を見せてもらって、母としてこれ以上の幸せがあろうか。
新郎新婦は、すでにお互い伴侶となって歩み始めている。よく話し合い協力して、二人の最初の大仕事を、この日に向けてがんばってきた。私は、ときには母としてのアドバイスも与えながら、二人をきちんと見守ることができたと思う。
挙式当日だけが結婚のすべてではないのである。
これから先もずっと、二人の一番の理解者となって、遠く近く、見守っていきたい。
また一つ、母としての新しいステージが始まる。
私らしく笑ったり泣いたりしながら、精いっぱいやっていこう。


皆さま、長い間お付き合いくださいまして、どうもありがとうござました。
このシリーズは今回でおしまいです。
フォトエッセイ:花嫁の母として⑤ ― 2017年02月18日

「花束もお手紙もやめてね。泣かせの演出は必要ないから」
娘には、準備の段階からそう言い渡してあった。
今まで出席した親戚の披露宴でも、テレビで見るよその人の映像でさえも、感動して泣いてしまう私だ。まして、自分がその立場になったら、爆泣き必至であろうから。
あれほど釘をさしておいたのに、やはりご多分に漏れず、披露宴の最後に、娘から大きな花束を手渡されてしまった。うれしくないはずはないのだが……。
さらに、手紙も読んでくれたのだった。
そこには、これまで育ててきたことへのたくさんの感謝の言葉があった。
「心配ばかりかけてごめんなさい」
「毎日お弁当を作ってくれてありがとう」
そして……
障害のある長男のせいで、娘がつらい思いをしないように、
「気づかってくれてありがとう」
もういけない。こみ上げる涙を何度も指先でぬぐった。
それでも、泣き虫の私にしては上出来だったと思う。せわしないながらも、披露宴のお客さまとともに、ちゃんと楽しむことができた。
帰りは、母を乗せてタクシーで帰路につく。イルミネーションが美しいみなとみらいの夜景を堪能しながら、晴れ晴れとした気分だった。

「おつかれさま!」
とにかく喉がカラカラ。冷えたビールがいつになく美味しいと思った。
花嫁から贈られたブーケは、ピンク色のバラ、大輪のガーベラ、オフホワイトのカーネーション。今までにも娘からは何度か花をもらったけれど、これが一番きれいで、一番せつない花束だった。

〈最終回に続く〉
フォトエッセイ:花嫁の母として④ ― 2017年02月14日

披露宴には80名ほどのお客さまが集った。
乾杯と同時にカーテンが開くと、部屋中の窓に港の景色が広がる。ため息と歓声が上がった。



お色直しのため退場のときに、娘はサプライズの計画があった。
私は前夜にその話を聞いて、恥ずかしがるのではと、ちょっと心配になったのだが……。
退場のエスコート役に、壇上から父方の祖母の名を呼んだのである。宴の席の最高齢だ。
姑は突然の指名に驚きながらも、新婦の元に出向いていき、涙を流して喜んだ。サプライズは大成功。
さらに、途中からは私の母も加わって、娘は95歳と93歳の2人の祖母と両手をつないで歩いた。「これで花嫁は100歳間違いなし」という声をかけられながら……!
私にもうれしいひとコマだった。



娘がお色直しで着替えたのは、みなとみらいにふさわしく、海をイメージしたというドレス。歩くとブルーの濃淡のひだが揺れて波のようにみえる。
とにかく、花嫁の母はじっと座ってはいられない。きれいでおいしそうな料理もワインも控え、二人のビデオが映されているのも横目で見るだけ。
娘がメモを書き込んだ座席表片手に、夫と二人でテーブルを回り、一人ひとりにお酌をしては挨拶をする。
娘の学生時代の友人たちには懐かしい顔もあり、私も再会を楽しんだ。かわいかった高校生の頃とは違って、すっかり大人の女性たちだ。結婚をさておいても、一番充実している年頃なのかもしれない、と思った。


こうして、あわただしく時は過ぎ、宴もお開きが近づいてくる。
さて、次は……
〈続く〉
フォトエッセイ:花嫁の母として③ ― 2017年02月04日
まだ、プロのカメラマンが撮影した写真やビデオは届いていない。
新婦の母は、とにかく忙しく、当日、カメラ代わりにiPad miniを持参して、ちょこちょこと写してはいたが、ろくな写真が撮れるはずもなかった。
前回、2月2日にアップした挙式の写真は、逆光で撮ったものを補正したせいで、新婦のドレスが赤みがかって見えるが、もちろん本物は純白のサテンだ。
(何人かの方から、「このドレス何色?」との質問を受けてしまいました)
1月20日「結婚式前夜」には、息子二人の正装の準備を書いた。
当日、式場で着付けてもらう私は、一足早く家を出たので、彼らが間違いなく支度をしてやって来るかどうか、そんなことまで気がかりだった。
でも、現れた二人を見てほっとする。
長男は、新しい革靴の履き心地もよさそうで、最近太り気味の次男は、用意した一回り大きなワイシャツもぴったりだ。きれいにひげも剃ってある。

すべてお開きとなって、夜、自宅に戻り、まずは缶ビールを開ける。
からからの喉に染み入るような冷たさが格別だった。
そして、朝から撮った写真を見てみる。
この写真を目にしたとき、涙がこみ上げて来て止まらなくなった。
三人だったきょうだいが、一人巣立っていったことを実感した瞬間だった。
〈続く〉
フォトエッセイ:花嫁の母として② ― 2017年02月02日
初めてこしらえたリングピロー。娘のために、娘の小さいころからのことを想いだしながら、ちくちくと縫い、仕上げていった。
昨年12月23日の「花嫁の母の“べっぴん"」で、写真とともにつづっている。
当日の結婚式では、介添えの女性が、うやうやしく捧げ持ってきた。
二人は、それぞれ相手のイニシャルに留めてあるリボンをほどき、指輪を手に取り、相手が差し出す薬指にはめる。
緊張してこちこちになっている新郎の指には、なぜかなかなか入らずに、参列者から失笑がこぼれたのもほほえましかった。

そして、誓いの言葉を二人で読み上げる。
「喧嘩をしたときは、お酒を飲みながら、よく話し合って……」
これには私も思わず笑ってしまった。きっと新婦の文案にちがいない。

ガラス張りのホールは、青い空が見え、日差しがあふれている。
ステージの右手にはチェロの生演奏、左手にはハープと女性歌手。Amazing Grace などの曲を、美しく澄んだ声で歌ってくれた。
祝福を贈るかのように、歌声に合わせて、庭の木々が風に揺れていた。

〈続く〉
フォトエッセイ:花嫁の母として① ― 2017年01月27日
前日は雪のちらつく曇天だったのに、翌朝目覚めると、抜けるような空に日の光が満ちていた。
横浜の馬車道駅から地上に出れば、みなとみらい地区は、真っ青な空と海と、踊るような風。
すべてが祝福してくれているようで、私も心が浮き立つ。

私が人の十倍泣き虫なのを知っている親しい友人からは、
「絶対泣いたらダメ。新婦の母は意外と注目されているのだから、泣いてメイクが落ちたりしないように。気持ちを強く持っていれば、大丈夫」
と、くぎを刺されていた。
彼女の言いつけを守り、泣かないという強い強い決意のもと、式場に足を運んだのだった。
とにかく、新婦の母は忙しい。
メイクとヘアブローは、鏡の前で同時進行。それが済むと、狭い個室で留袖の着付け。これも二人がかりだ。どのスタッフからも「本日はおめでとうございます」の挨拶を受ける。にこやかに丁寧にお礼を言う。もう、それだけで非日常の世界である。
打ち合わせはいっさい二人に任せていたので、前日や当日になって段取りを聞かされることも多かった。
私の支度が整うと、まず新郎新婦の控室へ。娘は、長いウェディングドレスのすそを丸め込むようにして、鏡の前に腰かけていた。ドレスは試着のときに見ているのだが、それでも、この日の晴れ姿を一目見ただけで、ぐっとくる。
涙は、ぐっとこらえる。
幸い、プロのカメラマンがいて、パシパシと撮り続けている。ビデオカメラも回っている。気持ちが緩むことはない。
「とても綺麗よ」と私が言うと、
「お母様に似て」とカメラマン。
「はい、そうですね!」と返して、笑いを買う。
泣かないためには、お笑いモードでいるしかない。
そして、私が紅筆を持ち、娘の唇に仕上げの紅を置く。
カメラを意識しながらも、緊張と、感激と……。二度とない、貴重なひとときだった。
新婦が父親にエスコートされてバージンロードを歩み始める前に、母親が新婦のベールを顔にかけるという小さな儀式がある。それはずいぶん前に娘に言われ、何でもやるわよ、と喜んで引き受けていた。
ところが、リハーサルのときに、スタッフから、
「その際、ひとことお声をかけてあげてください」
と言われたのである。
さて何と言おうか。頭の中には言葉がぐるぐる、胸ドキドキで考える。

(何を言ったかは、ヒミツ……)
もう感動で胸がいっぱい。お役目がすんで、列席者の最前列に座ると、早くも涙がこぼれてしまった。
それでも、二人の「人前(じんぜん)結婚式」をきちんと見届けなくては、と思いながら、涙をふいた。
〈続く〉
ダイアリーエッセイ:結婚式前夜 ― 2017年01月20日
明日は、娘の結婚式と披露宴が行われる。
入籍も、新居への引っ越しも、新郎新婦の前撮り撮影も、すべてすんで、一人娘の結婚というイベントは、いよいよ明日がグランドフィナーレだ。
この日まで、本人同士で何でも決めてきたことだから、親の出番はほとんどなかった。
私はせいぜい、新婦の両親としての衣装を整える。
それも終わった。二人とも、床屋さんと美容院にも行ってきた。
息子二人の正装の用意もできた。
黒いスーツに白いワイシャツ、白いネクタイ。黒い靴下と革靴。
男の子の衣装は味気ない。
間違えないように、胸のポケットには名前のメモを差し込んだ。抜かりなく。

そして、この二人がカノジョを連れてくる日があるのだろうか、と思う。
これが最初で最後のわが家の結婚式かも……?
娘たちは式場で最終準備を進めていた。
最後まで、もめていることもあるようで、心配は尽きないけれど、人生の旅はこれから。一歩離れて、あたたかく見守ってやらなくては。

ダイアリーエッセイ:花嫁の母の“べっぴん” ― 2016年12月23日
娘の結婚式までひと月を切った。
忙しさのなかで、17センチ四方のリングピローを作り続けてきた。結婚式で、二人の指輪を結びとめておくためのものだ。
今日、ようやく仕上がった。

今年7月のこと。手芸用品の店でこのキットを見つけたとき、母に作ってもらえたら、とひらめいた。胃がんを患い、入院手術を経てようやく退院できたのに、すっかり生きる気力を失った93歳の母。それまでは、手先が器用で洋服を作ったり編み物をしたりしていたのだ。そんな母が、せめて孫娘のために……と、手芸ごころを取り戻してくれたらしめたもの。だめもとでもいいからと、買ってきたのだった。
しかし、結局母は、封を開けることもないまま、3ヵ月が過ぎた。
そうだ、私が作ってみよう。刺繍なら経験がないわけではない。開けてみれば、必要な材料もすべてそろっているし、作り方も書いてあるし、何とかなるだろう。
そう思い立ってからも、なかなか時間が取れない。
12月になってしまった。
ドキドキしながら麻の生地にはさみを入れたのを手始めに、ちくちくと針を刺し、ビーズを通し、リボン刺繍をほどこしたりして、完成をめざした。
手を動かしながら、子どもたちの小さいころを思い出していた。私もよく洋裁をしたっけ。子供服の作り方の本を買って、兄妹おそろいの生地で半ズボンとスカートをこしらえたり、イニシャルの刺繍を入れたり……。同じ焦げ茶の小花模様で、娘はベスト、私はマタニティワンピースを作ったこともあった。捨てられず、今も押入れの奥で眠っている。
私は「門前の小僧」だった。物心ついた時には、すでに母がミシンをかけたり編み機を動かしたりするそばで遊んでいた。私の服は下着から学校の制服にいたるまで、すべて母の手作りだった。
小学校で手芸部に入り、中学の家庭科ではパジャマを縫った。どうしてもわからないところは、母が教えてくれた。
家を離れ、自分が子供服を縫うころには、母がそばにいなくても、気がつくと母の手つきをまねて、要領よくこしらえていたのだった。
洋裁も手芸からも遠のいて久しい。
そして今、母が作れなくなった小さな手芸品を、私が代わりに作っている。
何十年という歳月を想いながら。
おりしも、NHKの朝の連続ドラマは、子供用品店「ファミリア」の創始者のお話。あまり好みのドラマではないのだが、毎朝ケチをつけながらもついつい見てしまう。
「下手でも思いを込めて作ったもの、それがべっぴん」
子どもを残して逝ったヒロインの母親の言葉が、心にしみた。
私も、娘のために、“べっぴん”を仕上げることができた。
達成感とともに、いろいろな想いが込み上げて、思いがけず涙がこぼれる。
今から泣いていたら、式の当日はどうなることやら……。

ダイアリーエッセイ:「山の日」に ― 2016年08月12日
写真は、2014年1月に、富士山をバックに家族そろって撮ったものです。
一日遅れになりましたが、「山の日」の大事なご報告です。

娘が「山の日」に入籍しました。
今年から新しく始まる祝日が、新しい夫婦にはふさわしい。
そして、毎年仕事が休みだから、忘れずに祝うことができる。
そんな理由で、入籍の日に決めたそうです。
そもそも、初めて娘から彼氏の存在を聞かされたのは、一年前の夏、独り暮らしを始めるという引っ越しのさなかでした。母親の勘で、なんとなくそんな気がしていました。引っ越しのどさくさに紛れるように告白されて、やっぱりね、と思ったものです。
そして、今年になって、彼氏からもきちんと「ご挨拶」の言葉を聞きました。
ところが、平成生まれのふたりは、仲人も結納も釣書も、言葉さえ知らないというのですから、びっくり。
結婚という人生の一大イベントの段取りも、昭和の世代とは隔世の感あり。
同棲(これも死語ですね)⇒入籍⇒家族顔合わせ⇒挙式⇒新婚旅行は未定、
というのですから、その「順不同」ぶりに、またまたびっくり。
私がショックを受けたことさえ、娘にはショックだったようですが、ふたりがよく話し合って決めたことに反対はできません。平成生まれには親の世代とは違った新しい常識があって当然です。親の価値観を押し付けたところで、娘たちの将来の幸せは、ふたりで築いていくものです。
娘は、すでに高校生のときに、わが家から同じマンションの4軒離れた母の所で寝泊りするようになりました。そして、昨年の独り暮らしへの旅立ち。
思えば、なんと上手に少しずつ親元から離れていってしまったことでしょう。娘のやさしさだったのかもしれません。
「お父さん、お母さん、27年間お世話になりました」と三つ指ついて挨拶することもなく……。あ、これは私でさえしませんでしたけど。
私も、27歳のときに、M君と、某月11日に結婚しました。
娘も、同じ27歳で、M君と、11日に結婚したのです。
きっと幸せになれるでしょう!
先月には、5人家族最後の旅行をしてきました。楽しい思い出が残りました。
そして、「山の日」には、娘のいない4人家族で、山ではなく、海へ行っていました。寂しさを紛らわせたかったのかもしれません。
でも、娘がわが家から出ていくのではなく、新しい家族を連れて来てくれるのだ、と思うことにしました。
「サエ、結婚おめでとう。末永く幸せになってね」

ダイアリーエッセイ:フランス菓子のほろ苦さ ― 2015年09月13日
若いイケメン男性から、ピエール・エルメのマカロンを贈られた。
私の舌も瞳も、それはもうカラフルなハートマークがちかちか……。
マカロンは、洋菓子好きの私にとって、その中でもお気に入りだ。

しかも、この店のは、忘れられない味である。
昨年の夏、娘と二人でフランスに出かけた。パリに着いたその日、ピエール・エルメの店を目指していき、一つずつ買って、チュイルリー公園の池のほとりで、胸躍らせて食べたのだった。



ブルーの箱に並んだマカロンも、文句なしのおいしさだけれど……。
贈り主は、ほかでもない娘の彼氏である。
もう、娘と二人のパリは遠くなったということだ。
ちょっぴりほろ苦い味がした。
