新しい春が来た!2017年04月09日



かつての私にも、春にはたくさんの人生の節目があった。卒業や入学、転勤など、自分自身のことばかりではなく、結婚後は夫や子どものことで、春はいつも忙しかった。

それがなくなってきたのはいつごろからだろう。気がつくと、年度末の忙しさも、別れの切なさも、4月の新しさも、感じることが少なくなっていた。

 

今年の春は、変化の春にしよう。新しくしよう。願いを込めてそう思った。

 

1週間ほど前、胃カメラの検査を受けた。あまりに胃の不調が続き、いよいよ心配になってきたのである。

胃カメラは初めてではない。大人になり、いらいら、くよくよすることの多い私が、ストレスを胃で受け止めるようになってからは、何回もお世話になっている。

しかし、今回の医師は、鼻から挿入することを勧めた。これは初体験。痛いのでは……と怖気づいた。

 

言うまでもないのだが、胃はストレスでダメージを受けやすい。

1年前の母の入院、手術、その後の介護……。毎日、毎日、毎日、そばに住む私には大きなストレスとなってのしかかってきた。

親の介護は、物理的、時間的な負担だけではなく、精神的な負担があまりにも大きい。実の娘だからこそ、遠慮なく言いたいことを言う母。母のわがままを聞き入れてあげないのは、冷たい娘だからだろうか。残り少ない時間を、なぜ安らかに過ごさせてあげられないのか。ことあるごとに、自分を責めてしまう。

でも、私にも家族があり、仕事があり、自分の人生がある。

そのせめぎ合いに苦しむのだ。かくして、胃の痛む日が増えていく。

 

内視鏡には、胃の表層に櫛でひっかいたような赤い筋が何本も写っていた。

「気苦労が多いもので……」と言うと、

「まさにその痕ですね」と医師。

しかし、重篤な病気ではなさそうで、いくぶんほっとした。

胃痛が完全に消えたわけではないが、気にしないで大丈夫だ、と医師は薬を処方するでもなく、つれなかった。

 

介護がいつまで続くのか、見通しを立てることはできない。それはタブーだ。

ならば、他のストレスを少しでも軽くするほかはないだろう。

 

そこで、思い切って仕事の断捨離をした。

一時期は5つも抱えていたエッセイ教室を3つに減らす。そして、NHK学園の通信エッセイ講座の専任講師も、職を離れることにした。

これで、仕事は半分になったといえる。

 

自由な時間が増えた。少なくとも、月に7日はフリーになる。

さて、何をしようか。新しく何かを始めようか。

まずは、のんびり、ゆったり、考えることからだ。自分のための時間の使い道に、楽な気持ちで思いを巡らす。

胃に優しく、そしてなんと贅沢なひとときだろうか。

  

  

 


ダイアリーエッセイ:結婚式前夜2017年01月20日


明日は、娘の結婚式と披露宴が行われる。

入籍も、新居への引っ越しも、新郎新婦の前撮り撮影も、すべてすんで、一人娘の結婚というイベントは、いよいよ明日がグランドフィナーレだ。

この日まで、本人同士で何でも決めてきたことだから、親の出番はほとんどなかった。

 

私はせいぜい、新婦の両親としての衣装を整える。

それも終わった。二人とも、床屋さんと美容院にも行ってきた。

息子二人の正装の用意もできた。

黒いスーツに白いワイシャツ、白いネクタイ。黒い靴下と革靴。

男の子の衣装は味気ない。

間違えないように、胸のポケットには名前のメモを差し込んだ。抜かりなく。



 

そして、この二人がカノジョを連れてくる日があるのだろうか、と思う。

これが最初で最後のわが家の結婚式かも……?

 

娘たちは式場で最終準備を進めていた。

最後まで、もめていることもあるようで、心配は尽きないけれど、人生の旅はこれから。一歩離れて、あたたかく見守ってやらなくては。





 

ダイアリーエッセイ:22年目の今年も2017年01月17日




22年前の早朝、「淡路島で大きな地震が起きたらしい」とその一報を聞いたのは、産科のベッドの上だった。空腹と、点滴の針の痛みと、ニュースの恐怖とで、一瞬ふらっと貧血状態になったのを今でも覚えている。

陣痛が始まって夜中に入院。結局、次男が生まれたのは翌18日だった。

 

入院中、どのテレビからも、地震のすさまじさを物語る映像ばかりが映し出されていた。

同じ病室に、横倒しになった高速道路のすぐそばに実家がある、という人がいた。幸い家族は無事だったけれど、里帰り出産していたら、今ごろどうなっていたか……、と話していた。

退院後も、育児のかたわらで、泣きながら報道を見続けた。

6434人が亡くなり、私は一つの命を授かった。その現実を想いながら。

 

だから、次男の誕生日は、阪神淡路大震災の記憶の節目とともにあって、どちらも忘れることはない。

 

……と、私は毎年のように、年の数だけ増やして、ほぼ同じことを書いている。思いは変わらないし、変わってはいけないと思うのだ。




 

 

ダイアリーエッセイ:花嫁の母の“べっぴん”2016年12月23日

 

娘の結婚式までひと月を切った。

忙しさのなかで17センチ四方のリングピローを作り続けてきた。結婚式で、二人の指輪を結びとめておくためのものだ。

今日、ようやく仕上がった。




 

今年7月のこと。手芸用品の店でこのキットを見つけたとき、母に作ってもらえたら、とひらめいた。胃がんを患い、入院手術を経てようやく退院できたのに、すっかり生きる気力を失った93歳の母。それまでは、手先が器用で洋服を作ったり編み物をしたりしていたのだ。そんな母が、せめて孫娘のために……と、手芸ごころを取り戻してくれたらしめたもの。だめもとでもいいからと、買ってきたのだった。

しかし、結局母は、封を開けることもないまま、3ヵ月が過ぎた。

そうだ、私が作ってみよう。刺繍なら経験がないわけではない。開けてみれば、必要な材料もすべてそろっているし、作り方も書いてあるし、何とかなるだろう。

そう思い立ってからも、なかなか時間が取れない。

 

12月になってしまった。気持ちばかりが焦る。

ドキドキしながら麻の生地にはさみを入れたのを手始めに、ちくちくと針を刺し、ビーズを通し、リボン刺繍をほどこしたりして、完成をめざした。

 

手を動かしながら、子どもたちの小さいころを思い出していた。私もよく洋裁をしたっけ。子供服の作り方の本を買って、兄妹おそろいの生地で半ズボンとスカートをこしらえたり、イニシャルの刺繍を入れたり……。同じ焦げ茶の小花模様で、娘はベスト、私はマタニティワンピースを作ったこともあった。捨てられず、今も押入れの奥で眠っている。

 

私は「門前の小僧」だった。物心ついた時には、すでに母がミシンをかけたり編み機を動かしたりするそばで遊んでいた。私の服は下着から学校の制服にいたるまで、すべて母の手作りだった。

小学校で手芸部に入り、中学の家庭科ではパジャマを縫った。どうしてもわからないところは、母が教えてくれた。

家を離れ、自分が子供服を縫うころには、母がそばにいなくても、気がつくと母の手つきをまねて、要領よくこしらえていたのだった。

 

洋裁も手芸からも遠のいて久しい。

そして今、母が作れなくなった小さな手芸品を、私が代わりに作っている。

何十年という歳月を想いながら。

 

おりしも、NHKの朝の連続ドラマは、子供用品店「ファミリア」の創始者のお話。あまり好みのドラマではないのだが、毎朝ケチをつけながらもついつい見てしまう。

「下手でも思いを込めて作ったもの、それがべっぴん」

子どもを残して逝ったヒロインの母親の言葉が、心にしみた。

 

私も、娘のために、“べっぴん”を仕上げることができた。

達成感とともに、いろいろな想いが込み上げて、思いがけず涙がこぼれる。

今から泣いていたら、式の当日はどうなることやら……。

 

 



ただいま臨時休眠中2016年10月05日


先週の金曜日、朝から風邪気味で、夕方から熱が出ました。測るたびに上がっていきます38度を軽く超えました。翌日も下がるどころか、頭痛がひどく、39度まで上がりました。

鎮痛解熱剤を呑むと、カッと汗をかいて熱は下がる。でも頭痛は消えず。薬が切れるころには、また熱が8度超え。

結局、5日間ものあいだ、その状態でした。インフルエンザでもこれほど長引いたことはないのに。

医者に診てもらい、血液検査もしましたが、ただの風邪でしょう、とのことでした。

 

原因は、わかっています。母の入院から7ヵ月、長引くストレスフルな日々に、とうとう体が悲鳴を上げたのでしょう。

母の世話をする生活にも慣れてきたので、先月からは以前のように自分の時間を楽しむことを少しずつ増やしてきました。その時だけ気持ちは軽くなっても、やはりハードスケジュールであることには変わりない。ストレスがなくなることもありません。


 


医者からはたくさんの薬を処方してもらいました。

でも、なによりも、並木エッセイ会のMさんから届いたメールの言葉を、実感として受け止めています。

「何もせず、ただゆったりした呼吸で、体が持っている治癒力を引き出してください」


この5日間、三つのエッセイ教室と、二つの個人的な約束をキャンセルしました。とくにお教室の皆さまには、ご迷惑をおかけして、本当に申し訳ありませんでした。

 

明日は、母の外来予約の日で、病院へ連れて行かなくてはなりません。皆さんから「無理しないように」と、あたたかい言葉をいただきますが、それも哀しいかな無理なのですね。

本日をもって休眠終了。まだ頭痛は治りませんが、明日からまた元気になって、動き回れますように。

 

 




ダイアリーエッセイ:舞台『CRESSIDA(クレシダ)』を観る2016年09月24日

 

世田谷線始発駅の三軒茶屋。その駅舎にくっつくように、小さな劇場がある。その名もシアタートラム。20年ほど前に造られたそうだが、レトロなデザインが、この町の雰囲気に溶け込んでいる。この辺り一帯は、小さな商店街がひしめき合っていて、まだまだ昭和の匂いが立ち込めているようだ。

世田谷線も、以前は玉電と呼ばれ、渋谷からチンチン電車が走る路線だったのである。私の祖父母が、玉電若林駅の近くに住んでいたので、子どもの頃は、よくチンチン電車に乗って出かけたものだ。

 

劇場の客席は200余り。私の席はほぼ中央の前から8列目だった。

いかにも演劇業界人的なお客さんが多い。私の2つ前の席には、フジテレビの笠井アナがいた。




 

舞台は、1600年代ロンドンのとある劇団のお話。かつては名優として活躍した老人シャンクは、今は若手の演劇指導を手掛けている。演じるのは平幹二朗さんだ。平さん自身は、82歳で今なお現役。長いセリフを覚え、ろうろうと発声し、軽やかに動き回る姿は、とてもそのお年には見えない。

 

当時のイギリスの演劇は、日本の歌舞伎界同様、女優は存在しなかった。女性の役は「少年俳優」が務めた。スティーヴンというその複雑な役どころを浅利陽介さんが演じる。現代日本の俳優が、女性役を務めた400年前の少年俳優という役を務めるのである。さぞや難しいことだろう。

彼は、NHK大河ドラマ『真田丸』で、秀吉の甥の小早川秀秋を演じていた。気弱な性格から、関ヶ原の戦いでは豊臣側を裏切ってしまう。スティーヴンもどこか似たような感じの少年で、色白でやさしい目をした彼の持ち味が生かせていると思った。

当時の「少年俳優」には、男色や同性愛のような一面もあったらしいが、明るくコミカルに描かれて、森新太郎氏の演出のうまさなのだろう。

 

スティーヴンは、シャンクの細かな演劇指導を受けて「少年俳優」として磨かれていく。この場面が素晴らしい。声の出し方、高低、強弱から、体の向き、手の上げ下げにいたるまで、シャンクは手本を見せてはスティーヴンにやらせてみる。芝居の中のワンシーンなのか、平さんが浅利さんに演技をつけているのかわからなくなるほど真に迫っていた。いや、文字どおり、スティーヴンの浅利さんは、シャンクを通して平さんから学び取るものが多かったにちがいない。

やがて、シェイクスピア作『トロイラスとクレシダ』のヒロイン役を演じて、拍手喝さいを浴びた。だが、シャンクは気に入らない。キスの場面で顔を赤らめたといってなじる。スティーヴンが、自分が教えた型どおりの「少年俳優」としてではなく、彼自身の内から湧き出るような演技で勝ちえた喝さいだった。そのことに、シャンクは気づいた。自分が教えてきた「少年俳優」の演技など要らなくなる。時代が動いていくのを悟ったのだ。いずれ女性も舞台に上がる日が近いことを予感する。

そして、彼が天に召されていくところで、幕は下りた。

 

名俳優の圧巻の演技は言うまでもない

難しい役どころを見事に演じきった若手俳優の浅利さんにも、拍手!

生の声でセリフが響き、飛び散るつばも汗も見える客席で、ただただ役者の芝居に引き込まれていた3時間。なんと贅沢な楽しみだろうか。





 


ダイアリーエッセイ:「山の日」に2016年08月12日

 

写真は、20141月に、富士山をバックに家族そろって撮ったものです。

一日遅れになりましたが、「山の日」の大事なご報告です。

 



娘が「山の日」に入籍しました。

今年から新しく始まる祝日が、新しい夫婦にはふさわしい。

そして、毎年仕事が休みだから、忘れずに祝うことができる。

そんな理由で、入籍の日に決めたそうです。

 

そもそも、初めて娘から彼氏の存在を聞かされたのは、一年前の夏、独り暮らしを始めるという引っ越しのさなかでした。母親の勘で、なんとなくそんな気がしていました。引っ越しのどさくさに紛れるように告白されて、やっぱりね、と思ったものです。

そして、今年になって、彼氏からもきちんと「ご挨拶」の言葉を聞きました。

 

ところが、平成生まれのふたりは、仲人も結納も釣書も、言葉さえ知らないというのですから、びっくり。

結婚という人生の一大イベントの段取りも、昭和の世代とは隔世の感あり。

同棲(これも死語ですね)⇒入籍⇒家族顔合わせ⇒挙式⇒新婚旅行は未定、

というのですから、その「順不同」ぶりに、またまたびっくり。

私がショックを受けたことさえ、娘にはショックだったようですが、ふたりがよく話し合って決めたことに反対はできません。平成生まれには親の世代とは違った新しい常識があって当然です。親の価値観を押し付けたところで、娘たちの将来の幸せは、ふたりで築いていくものです。

 

娘は、すでに高校生のときに、わが家から同じマンションの4軒離れた母の所で寝泊りするようになりました。そして、昨年の独り暮らしへの旅立ち。

思えば、なんと上手に少しずつ親元から離れていってしまったことでしょう。娘のやさしさだったのかもしれません。

「お父さん、お母さん、27年間お世話になりました」と三つ指ついて挨拶することもなく……。あ、これは私でさえしませんでしたけど。

 

私も、27歳のときに、M君と、某月11日に結婚しました。

娘も、同じ27歳で、M君と、11日に結婚したのです。

きっと幸せになれるでしょう!

 

先月には、5人家族最後の旅行をしてきました。楽しい思い出が残りました。

そして、「山の日」には、娘のいない4人家族で、山ではなく、海へ行っていました。寂しさを紛らわせたかったのかもしれません。

でも、娘がわが家から出ていくのではなく、新しい家族を連れて来てくれるのだ、と思うことにしました。

 

「サエ、結婚おめでとう。末永く幸せになってね」

 

 



自閉症児の母として(30):「津久井やまゆり園」の事件に思う2016年07月31日


 

726日の朝のニュースで、戦慄が走りました。

ドイツのミュンヘンや、フランスのニースで起きた最近のテロ事件が頭をかすめます。今度は日本かと……。

しかも、わが家にとっては身近な、地元神奈川県の〈障害者施設〉での殺傷事件と聞いて、大きなショックでした。

 

それから毎日、報道を目にしない日はありません。この5日間で、事件の詳細や、容疑者のこと、社会の反応など、いろいろとわかってきました。

私の心の中には、あいかわらず最初のショックがもやもやと居座っています。

 

容疑者は、以前はこの施設の従業員であったけれど、精神障害で、しかも薬物反応が見られたという。いったんは措置入院させられても、また野放しになって、経過観察されていなかった。つまり、不幸が重なったような、きわめて特殊な犯罪です。

だからといって、今後はめったに起きることはないだろう、とは言い切れません。模倣犯罪が起きる可能性もあるだろうし、不安はぬぐえません。

ネットでの書き込みなど、容疑者を英雄視する声もあると聞いて、暗澹たる気持ちになります。

 

今朝のNHK「日曜討論」の番組のなかで、映画監督の森達也氏が、

「どんな事件にも特異性と普遍性がある」と述べていました。

今回の事件も、特殊ではあっても、容疑者の偏った思想を助長するような土壌が、社会の中に普遍的にあるのでは、と思うのです。

障害者も一人の人間であり、かけがえのない尊い命を持ち、幸せに暮らす権利を持っている。理屈ではわかっていても、社会にとっての邪魔者だという気持ちが、どこかに潜んでいるのではないでしょうか。

 

今月半ば、出生前診断で胎児に異常が認められた妊婦の94%が中絶を選択したという新聞記事がありました。それぞれに事情があるのはわかります。しかし、おおざっぱな言い方が許されるなら、障害児は不要という選択でもある。残念な結果です。

 

また、今回の事件で特殊な点は、犠牲者の氏名が公表されないことです。

事件後すぐに私は、長男を通して知り合った障害者はいないだろうかと、心配になりました。が、公表されないことを知り、がっかりしました。

もちろん、それは、この施設で生活していた障害者、その家族への配慮だということは納得できます。知られたくない、報道されたくない。そう思う家族もおられるでしょう。でも、その配慮は、健常者が残忍な事件に巻き込まれた場合も同じはず。けれども健常者は公表し、障害者は伏せておく。それこそ偏見につながるような気がして、違和感を覚えます。

 

どんなに重度の障害者であっても、家族にとってはかけがえのない子どもであり、身内であったことでしょう。それは、実名の報道に応じた家族の思いを読んでもわかります。

「〇田〇男さんが、被害に遭いました。ここで穏やかに暮らしていました」

私はそういう報道をしてほしい。被害者の体温が感じられるように、障害者といえども、かけがえのない人生を送っていたことが伝わるように。

 

しかし、理想はそうであっても、まだまだ世間に対して身内が障害者であることを隠さなくてはならない、恥じなくてはならない。それゆえ、障害者はひっそり暮らさねばならないという常識が根強いのも、わからないではありません。

少しずつその偏見が薄れていき、障害者に対する理解が深まることを望んでいます。この津久井やまゆり園では地域の人々との交流があるという記事に、少なからずほっとできました。

 

そもそも社会というものは、必ず障害者が存在するのが当たり前の姿です。その人たちを否定し、排除しようとする思想は、あまりに独善的で、社会人としての意識が低いのでは、と思います。

だからこそ、今回の事件には悲しみとともに、怒りを感じます。

 

亡くなられた方々のご冥福を心からお祈りします。

障害の二文字は地上に残したまま、空の上では自由に安らかに過ごすことができますように。

残された家族の方がたの悲しみが、少しでも癒される日が来ますように。




 


ダイアリーエッセイ:海の日に2016年07月18日



午前中、ひと休みしようとFacebookの投稿を見て、ああ、今日は休日なんだ、と気がつきました。

夫はいつもの休日出勤、長男は特別に休日出勤、いつもぐうたら引きこもりの次男まで、学習塾の夏期講習のバイトに朝から出かけていきました。

私はというと、いつになく静かなわが家で、原稿の締め切りに迫られて、パソコンに向かっていたのです。


 

今日は、海の日でしたね。

子どもが大きくなってからは、海は入って遊ぶものではなく、遠くから眺めるだけのものになりました。

でも、4年前の7月、若いころからヨットマンだった従兄が、葉山でヨットに乗せてくれたのです。船酔いは大丈夫かと、初体験にひやひやしながらも、娘と出かけていき、最高の海のひと時を過ごしました。

船酔いの心配は杞憂に終わり、まるで波の一つにでもなったような心地よさでした。

2013年1月に、前年を振り返っての記事をアップしています

その時の写真です。



葉山沖

海の男たちが、タコを生け捕った。

潮風に乾杯!



 

昔の写真を眺めていたら、ふっと潮の香りがしたような気がしました。

ええ、ほんとうに。香りの記憶は、失われないものですね。

……素敵です。


 





兄へ贈る「レクイエム」2016年07月06日

 

今朝、「自分は今から死んでいくのだ」という夢を見ていた。

93歳の母のそばで、ずっと世話をしてきたからだろう。健康を害して、以前とはずいぶん違ってきた母を見ていると、現実に「その時」は遠くないのだ、と覚悟を迫られているような気分になる。

だからあんな夢を見たに違いない、と思っていた。でもそうではないと、今気がついた。

 

 


私は、兄、姉、弟の4人きょうだいで育った。わが家はカトリックで、さほど熱心ではなかったが、子どもたちは幼児洗礼を受け、土曜の午後は教会学校に通わされた。弟が小さいころは、5つ上の兄、3つ上の姉と、3人で行くことが多かった。

「かけっこで競走して行こうぜ」

兄が言い出す。後れを取るのは目に見えているから、私はいやだ。でも、いやとは言えない。すぐ手が出る怖い兄だ。

「後ろのほうから、スタートしてやるよ」

と、いっぱしの兄貴ぶりを見せる。私は少しだけ前に立たされ、その後ろに姉、遠くに兄。よーいドンで走り出す。どんなに懸命に走ったところで、いずれ兄にも姉にも抜かされていくのだ。私を抜かすときの、あごを突き出して得意満面な兄の顔といったら……。

教会学校に着くと、お聖堂(みどう)が見渡せる中2階に上がって聖歌の練習をする。子どもたちはオルガンの前に並んだ長椅子に腰かけ、白い模造紙に手書きされた楽譜を見ながら歌う。ほとんど子供向けの聖歌だったが、私はどんな歌もすぐに覚えてしまった。「大きな声で歌いましょう」と先生の言うとおりに、大きな声で歌う。

ところが、家に帰ると、姉が言うのだ。

「ひとみは、大きな声で歌うから恥ずかしい」

そこで次の週には、口パクで歌う。でも、すぐにまた、先生の「大きな声で……」の合図で大声を張り上げる。だれもいない、いえいえ、神様だけが聞いているお聖堂に私の声は響き渡り、それはそれは気持ちがよかった。

 

そんな私が小学5年生のとき、兄は誕生日のプレゼントにレコードを買ってくれた。

「これが青春だ」という青春ドラマの主題歌で、私の大好きな布施明が歌っていたものだ。喜ぶ私を見て、兄は何も言わず、にたにたとするばかり。

翌年には同じ布施明の「恋」を買ってくれた。兄貴風を吹かせることができて、ご満悦だったにちがいない。

いつもいばり散らし、気に入らないと暴力をふるうくせに、機嫌のいいときだけ、別人のようにやさしくてお調子がよくなるのだ。彼の気分次第で、わが家の空気は左右される。だから、兄のことはあまり好きになれなかった。

 

兄は小さいときから病弱だったという。

長じても心配をかけ続けた。何年もかかって大学は出たものの、仕事は長続きせず、一人暮らしも続かない。ずっとこのまま私が世話をしていくのかしら……と母が諦めかけたころに、教会関係の紹介でお相手が見つかり、結婚。子どもも一人授かった。

人並みに家庭を持ったけれど、健康にはついぞ恵まれなかった。父が前立腺がんで亡くなった翌年には、父と同じがんが発覚。さらに、心臓の異常も見つかり、手術を受けて人工弁を入れた。

そして今から5年前、東日本大震災の年の7月、あっけなく逝ってしまった。体の自由が利かなくなっていた兄は、夜明けの浴室で、溺死したのだった。

 


 

次男の学校の保護者会には、母親たちの聖歌隊がある。6年前の11月、学内のチャペルで鎮魂歌(レクイエム)の演奏会を聴いた。カトリックでは、11月は「死者の月」とされ、亡くなった人々を悼む月である。友人に誘われるまま、その日を機会に、私も聖歌隊に入った。もう、大きな声で歌って非難されることはない。

それにしても、まさか1年後に自分の兄のために歌うことになるとは……。神様だけがご存じだったのである。

 

翌年11月、その時が来た。20名ほどの聖歌隊で歌うのは、ガブリエル・フォーレ作曲の「レクイエム」。この曲は、たびたび転調したり、半音上がったり下がったりする。まして私のパートはメゾソプラノで、ほとんど主旋律ではないからさらに難しい。新人の私は、自宅のピアノで音取りをしながら、独り特訓をした。

当日本番、黒いスーツに身を包み、手元の楽譜と指揮者の指先だけを交互に見つめながら歌う。音程もラテン語の歌詞もまちがえないようにと、そればかりに集中した。

なんとか歌い終わって、ほっとする。

最後に、司祭である校長が言われた。

「皆さんの歌声は、チャペルの天井高く昇って、神様のもとに届いたことと思います」

円形の小さなチャペルは、ドーム型の天井が高く、音響効果もすばらしい。天井の中央には明かり取りの丸窓がある。その向こうから、そばかす顔の兄が、にたにたと笑いながら覗いているような気がした。

突然、ぽろぽろと涙がこぼれた。

 

 



今日76日は、兄の命日だったのだ。しかも兄は、今の私と同じ年齢で亡くなっている。

今朝の夢は、それを知らせてくれたのではないだろうか。

 

 



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