ノートルダム大聖堂の復活を祈って2019年04月18日

 


おとといの朝、ノートルダム大聖堂から火の手が上がる映像に、わが目を疑いました。

次々と送られてくる写真や動画のかずかず。高い尖塔が、その骨組みを炎の中に黒く浮かび上がらせ、やがてあまたの火の粉を撒き散らしながら、ゆっくりと二つに折れ、なすすべもなく崩れて落ちていく……。その様子には、さすがに涙が出ました。

初めて訪れたのは大学生の時。その後も何度となく訪ねたものでした。

 

フランス人にとってのノートルダム大聖堂は、日本人にとっての富士山のようなものだ、と言った人がいます。そうであれば、富士山のように永遠にそこにあり続けるはずだったのに。

世界遺産としての価値にとどまらず、今なおカトリックの信仰の場でもあります。パリ市民にとって、フランス人にとって、そして、私のような遠い国の外国人にとってさえ、心の支えでした。

 

でも私は、どのような形であれ、かならずや復元されることを信じています。

 

最近訪ねたのは、3年前の春でした。


▲ここがパリのゼロ地点。



パリへ飛び立つ直前の空港で、母が通うデイサービスの介護士さんから電話を受けました。

「お母さまは顔色もすぐれず、娘さんが外国旅行に行かれるので不安なのかもしれません」

今ここでそんなことを言われても……と途方にくれたのでした。

ところで、ノートルダムはフランス語で「われらの貴婦人」つまり、聖母マリアのこと。この大聖堂は、聖母マリアに捧げられて建立された教会です。母もまた、クリスチャンネームは聖マリア。つまりマリア様が母の守護聖人なのです。

パリに着いた翌日、ノートルダム大聖堂を訪ね、母の健康と長寿のためにキャンドルを灯して祈りを捧げました。



 ところが日本ではちょうどそのころ、母は病院で診察を受け、胃がんが見つかっていたのです。手術をしなければ、余命半年。私がその事実を知らされたのは、5日後に帰国した夜のことでした。

93歳という高齢でしたが、胃の3分の2を摘出する手術を受けました。その後の経過は順調で、若い人の何倍も時間はかかったものの、完全に回復することができたのです。

だから、あの大聖堂はきっと再建される。私にはそう思えます。今こそ、母を救ってくれたノートルダムのために、今度は私が祈りを捧げましょう。

 

しかも、悲劇が起こったのは、もうすぐイースターというこの時期でした。来たる日曜日が、イースター。つまり、キリストが十字架にはりつけになって亡くなり、3日後に復活した日にあたります。

そのことにむしろ明るい希望を感じるのです。大聖堂も、きっと復活を遂げるにちがいない、と。

キリストのように3日で復活は無理でも、すでに1日にして1000億円もの寄付が表明されているとか。また、再建に向けた募金活動も各方面で始まっています。世界中の人々の気持ちが、祈りが、悲劇を乗り越える大きな力となって、復活を実現させていくことでしょう。



3年前の内部の様子。美しいステンドグラス「バラ窓」なども、被害を受けたようです。







祭壇のあるこの辺り、昨日の映像では、屋根が焼け落ち、ステンドグラスも抜け落ち、床にがれきが積もっていました。十字架だけは同じところにありました。▲



 ▲セーヌ川クルーズをした時、船の上から大聖堂の裏側を撮りました。崩落した尖塔がそびえていました。




 



浜松で、新しいエッセイ教室2019年04月03日

  

新元号が発表になりましたね。

予想外だという声が多かった「令和」。ら行で始まる言葉は響きがきれいですし、慣れ親しんだ昭和の一文字もあって、私は好きです。

また、[成・令]と書くと、平和な時代が続く印象もある、と言う人もいました。なるほどそうですね。

私の友人の令子さんは、誕生日も新天皇と同じだそうで、「私の時代が来た!?」と喜んでいました。

 

そして、平成最後の新年度が始まりました。

皆さんは、何か新しいことを始める計画をお持ちでしょうか。

 

私は、今月から静岡県浜松市のSBS学苑で、「初めてのエッセイ」という講座を担当することになりました。

月に1度、第3水曜の午前中の時間帯です。

詳しくはSBS学苑のホームページをご覧ください。

通勤も幹線で、しい出会いを楽しみに出かけましょう。 

 



自閉症児の母として(60):シチリアのお皿のように2019年03月30日

 


この地域の桜が、今日にも満開を迎えようとしています。


3日前の千鳥ヶ淵。まだ五分咲きから七分咲きでした。)

 

ちょうど1年前の今ごろは、長男の問題に悩み、人知れず涙の日々が続いていました。(いずれ書く日も来るとは思いますが、今はまだ書かないでおきます)

それでも、いつもの友人たちと連れ立って、目黒川のお花見に行きました。



 

川沿いの道に、シチリア島の陶器を扱う小さなお店があります。

そこで目をとめたのが、このお皿。引き寄せられました。


 

思わず手に取って、思ったのです。

息子もこんなふうに明るく笑うお母さんが好きなのだろうな……。

もちろん買って帰りました。

 

それから1年、息子は家を出ました。

この1年間、宿泊訓練を積んで、息子なりにがんばってきました。

私はこのお皿のような笑顔になれたのでしょうか。まだわかりません。泣き笑いの顔をしているかもしれません。

少なくとも息子の問題は解消したように思います。

「長男の巣立ち」の記念として、今日、このお皿を飾りました。

 

どんなに障害を持っていても、成長しない子どもはいない。

私はいつでもそう思っています。

平成が終わって元号が新しくなるこの時に、私の子育ても一つの区切りを迎えて、新しい次のステージに移っていきます。

だから今、子育てに悩むお母さんたち、諦めないで。

かならず笑顔になれる日が来ますから。 

 

 



自閉症児の母として(59):グループホーム入所から1週間。2019年03月14日

 




一時帰宅の土曜日がやってきました。

8時半からのエレクトーンレッスンに間に合うように、平日よりも早く朝食を用意してもらって、ホームを出てきます。レッスンが終わるとその足で、自宅に戻ることになっています。


(ホームから駅へ向かう坂道。植え込みや並木があり、夏には木陰を作ってくれることでしょう。



「新生活は順調かい?」とは、誰あろう息子本人のセリフ。オーム返しは自閉症の得意技ですが、こんなふうに質問形式で自分の言いたいことを発することもあります。

「お洗濯、したの?」と、私が聞くと、「お洗濯した」とちょっと得意そう。お世話人の方に教わって、やっているとか。

表情も柔らかく、何の問題もなさそうな雰囲気で、まずはホッとしました。


(息子のエレクトーン。きれいに掃除をして、ヘッドホンも用意しました。▲)

 

先週、家を出た息子の後を追うように、3日後には息子の部屋のこのエレクトーンも、専門の運送屋さんのトラックで行ってしまいました。そして、エレクトーンの置かれていた場所にクリーナーをかけながら、突然ぽろぽろと涙がこぼれたのです。

息子は、毎日、家じゅうクリーナーをかけてくれていた。私が仕事でくたくたになって帰ってくると、玄関のドアの外までクリーナーの音が聞こえてきて、「ありがとう、モト君」と、感謝しながらドアを開けたものでした。

もう二度とあの日々は戻ってこない……そう思うと、たまらない喪失感に襲われたのです。

べつに、掃除をしてくれる人がいなくなったから悲しいのではありません。

思えば、31年間続けてきたあの子との暮らしを、たったの1ヵ月半で、あれよあれよという間に、あっけなく終わりにしてしまった。その日のために頑張ってきたはずなのに、なんともったいないことをしたのかと、悔やまれました。もっともっと別れを惜しめばよかった。もっともっと自立を喜んであげればよかった。もっともっと時間をかけて……。いえいえ、彼のためには、不安な時間を長引かせるより、早く新生活を始めるほうがいい、と考えての急な旅立ちだったはず……。

理屈はどうであれ、息子が出ていった日から、しんとした家にいると、朝な夕なに、何度となく涙がこみ上げます。私は自他ともに認める「人の10倍泣き虫」。ひさびさに寝た子を起こしてしまったのでした。

涙を止めるすべはないものか。このままでは、朝には私のまぶたがお岩さん状態になってしまう。なんとかしなくては。

とにかく週末になれば息子が帰ってくる。その時には、きっといつもの、こだわりの強い息子の吐く息が、あっという間に家じゅうに充満するだろう。その中で、私の感傷なんて嘘のようにかき消されてしまうにちがいない。

そうそう、きっと大丈夫。

 

案の定、息子は今までの土曜日と変わらずに、ルーティンをこなしていきます。みんなの食器を洗い、家じゅうにクリーナーをかけ、今日の新聞を私の部屋に届け、ソファにどかんとすわり、ゲームを始めます。

その合間にも、私の言葉づかいにチェックを入れたり、外出中の家族の行き先を確かめたり、天気予報の開始時刻になればパチンとテレビを付けたり、Jリーグの勝敗や対戦予定をいちいちアナウンスしてくれたり……。わが家は一転、賑やかなこと。一週間居なかったら、自閉症の息子のこだわりの多さが浮き彫りにされることに気づきました。

ちょうど、一匹のクモが見事な造形の巣を張って、その中でじっとしているように、息子もこだわりのネットを張り巡らせることで、安定して生活できるのです。長く一緒に暮らしてきた家族は、彼のネットにすっかり慣れて、気にならなくなっていたのでした。


 

息子は自分の部屋に入って、エレクトーンのあった場所ががらんとなっていることに、ちょっと感慨深そうに目をとめて、「エレクトーンは?」と言いました。これもまた、彼特有の表現。グループホームの自分の部屋に運ばれたことを再確認するかのように、質問してみるのです。

 

お風呂に入るとき、「週末用のパジャマはどこ?」と、息子が聞いてきました。

週末用と平日用。生活すべてをきちんと二つの枠組みに分けることで、新生活はつまずくことなくスタートできたようです。これから少しずつ新しい〈こだわりネット〉を作っていくのかもしれません。

 

私も見習わなくては。

あなたのいない平日の静かな時間をありがたく感じながら、有意義に過ごすことにしましょう。その代わり、掃除と食器洗いは、また私の仕事になりました。


 


自閉症児の母として(58):本日グループホームに入居しました!2019年03月03日

 


冷たい雨の中、自宅から車で30分、息子はグループホームに引っ越していきました。自立への大きな第一歩です。

雨降って地固まる。それを信じています。

 

このホームに決めた理由のひとつは、お世話をしてくださるスタッフに、障害児の保護者の方がたがとても多いことです。

今日も、いろいろ息子の生活習慣やこだわり、好き嫌いなどを伝えてきました。そのたびに、「そうそう、うちの子も」と分かってくれるのです。

きっとこの私の代わりを、実の母親以上に上手にこなしてくれるにちがいない。そんな安心感がありました。

 

夫と私とで、テレビを運び入れ、ゲーム機器を整え、インターネットに接続し、衣類もクローゼットに収納。息子はようやく落ち着きました。これで、第二のマイルームの完成です。しかも、これまでのマイルームより、微妙に広い!

まだ、エレクトーンだけは運んでいないので、ちょっと心配そう。今、業者の手配を急いでいるところです。


 

お仲間は、10代から30代までの6名。ご挨拶代わりの小さなプレゼントも用意して、それを入れる袋には、息子にひとこと書かせました。


 

私が選んだ品は、シャーペンです。なぜって?

「隣の部屋の住人」とかけて、「シャーペン」とときます。そのこころは?

「ノックすれば、出てきます」

おあとがよろしいようで……



不思議な照明の置いてある玄関▲

 

いよいよ私たちがホームを立ち去るとき、玄関ホールで見送ってくれた息子は、片手をあげて、ちょっと迷ってから、

「いってらっしゃーい!」

〈ただいま〉と〈いってらっしゃい〉、〈あげる〉〈もらう〉〈くれる〉は、自閉症の彼の一番苦手な日本語です。自他との区別や、互いの関係性が把握できないのです。


息子に、不安な表情は見られませんでした。

しばらくの間は、土曜の朝、エレクトーンのレッスンに行き、その足で自宅に戻ります。そして日曜の夕方、ホームに向かうことに決めました。毎晩8時に自宅に電話をする約束もしました。

彼いわく、「グループホームは平日用、マンションは週末用だ」。

さあ、新しい生活のスタートです。

 

雨の中を運転して帰ってきた私は、ほっとしたとたん、緊張がほぐれ、涙腺も緩んでしまいました。さみしい? いえいえ、そんなシンプルなことではなく、もっと大きな思いがこみ上げてきます。

思い起こせば、

「あなたのお子さんは自閉症です」

と診断を下されたのが平成元年のこと。そして、ちょうど平成が終わる今年、息子は巣立ちました。カレンダーをこよなく愛する自閉症の息子らしい……と、思わず泣き笑い。

でも、けっしてこれで終わりではありません。

私の自閉症児の子育ても、次の時代に移っていくのですね。



 

 


自閉症児の母として(57):グループホームに入所します!2019年02月27日

 


自閉症の長男は、ついに家を出て、グループホームに入所することになりました。自立への大きな第一歩を踏み出します。

 

息子が30歳の誕生日を迎えるころ、これから先の10年間はグループホームを目指してがんばろう、と目標を立てました。

私たち両親は高齢者の仲間入りも近い。いずれは年老いて自分たちこそ誰かの世話になりながら暮らしていくようになるかもしれません。いつまでもそんな両親のもとで過ごしていては、いよいよというときに、一番困るのは本人。親亡きあとの息子の暮らしを考えるのに、早すぎることはありません。

障害の状況や程度からして、いきなり自立と言うのは、やはり難しい。家を離れても、社会の支援は必要です。

 

そこで、このころからグループホームの見学を始めました。「百聞は一見に如かず」です。

また、ショートステイのできる場所を探し、宿泊体験を始めました。

20173月、障害者支援施設「桜の風」で、初めての1泊体験。その半年後には、「陽光ホーム」というグループホームで、そこに泊まりながら職場に通うという実地体験もしてきました。

両方を組み合わせて月に一度、1泊か2泊。それを2年間、続けてきたのです。大きな体験を積んで、彼にはたしかな自信になったはずです。息子にとっては、どれほど詳しく説明するよりも、体験が大きくものをいうことを、子育ての中でつかんできましたから。

 

それでは、どこのグループホームに入所できるのか。これもまた簡単ではなく、需要はあっても、まだまだ数は少ないようです。

支援センターの担当者にお願いして、どこかに空きが出ると知らせてもらい、何ヵ所か見てきましたが、どこも帯に短したすきに長し。ここぞというホームには出会えず、気長に構えていました。焦ることはありません。10年がかりの自立が目標です。

 

また、自立に向けて歩き始めたころは、ちょうど私の母が病気やけがで入退院を繰り返した時期と重なりました。午前中に息子のためのグループホームを見て、午後からは母の老人介護施設を見に行く、ということもありました。

私自身も、毎年インフルエンザにかかったり、骨粗しょう症の薬の副作用で体調を崩したりして、なんとも慌ただしい時期でした。

 

そんな日々のなか、息子が小学生のときから東京都世田谷区の施設で一緒に療育を受けてきたお仲間のうち、たまたま同じ川崎市内に住む二人が、同じグループホームに入ったのです。男性6名のためのオシャレできれいなホームで、厳しいルールもなく、楽しく過ごしているということでした。

息子にはまだハードルが高いだろうか。見学だけでもさせてもらおうか。

ためらったり迷ったり……。


▲玄関ホール。


みんなで食事をするダイニング▲と、その食器棚▼

 

私の背中を押してくれたのは、主治医の精神科のドクターでした。障害者福祉にも詳しく、20歳のときからお世話になっている先生です。

息子がいま抱えている問題を解消するためにも、まずは家を離れて生活環境を大きく変えること。課題があっても、できることできないこといろいろとあっても、それをひっくるめて社会に託していけばいい、戻れる家があるうちに。そう言ってドクターは励ましてくれました。

 

思い切って、くだんのホームに電話を入れてみると、なんと2名の空きがあると言うではありませんか。事はとんとん拍子に進み、すぐに見学、そして34日の体験をさせてもらい、晴れて本日、契約を交わしてきました。数日後には、入居です。

電話をかけた日から一ヵ月半の早さですが、ご縁とはそんなものかもしれません。機は熟していたのでしょう。


▲息子が入ることになった部屋。家具付きです。

オシャレなラグやクッションまで置いてあります▼


 

息子本人は、「ぼくは自立しますよ」と言ったり、「3月から新生活のスタートです」とテレビのCMまがいの言葉を口にしたり、心躍らせているようで、ほっとしています。

もちろん、手放しで喜んでばかりもいられません。うまくいかなくて戻ってくることも視野に入れて、家から巣立つのです。親は、社会の支援と手を組んで、これからの自立を見守っていくという、新体制のスタートです。

息子にも、親にも、新しい春がやって来ます。

 

このホームの良さは、見かけだけではありません。

それは、また後日、ご報告したいと思います。お楽しみに。





 



自閉症児の母として(56):「うちの子に限って、どうして……」2019年02月06日

 


今日は、東京都の発達障害者支援センターで行われた支援員のための研修会で、障害児の母として、お話をさせていただきました。

この支援センターは、息子がお世話になっている社会福祉法人「嬉泉」が都の委託を受けて運営しており、その関係で、毎年私にお呼びがかかります。

 

おもに子どもたちの支援をしている方がたが対象なので、長男が幼いころの子育てを振り返ります。話す時間は40分。話したいことは山とあって、全部話したら明日の朝までかかるでしょう。

毎年、少しずつ変えてみたり、最近気づいたことを加えたりしますが、いつも必ず話していることがあります。

 

息子が3歳から通った「めばえ学園」の女性の園長先生は、いわば母親たちの教育係で、たくさんのことを教えてくれました。

息子の障害がわかった頃は、「うちの子に限って、どうして……」と私もずいぶん思いました。子どもたちから見えないように、台所の片隅にうずくまって泣くこともありました。

ある日、園長先生が私たちにこんな話をしてくれたのです。

「現在、自閉症児は1000人に1人の割合で生まれると言われています。皆さんが苦労して自閉症のお子さんを育てているからこそ、ほかの999人のお母さんはフツウの子育てを楽しんでいられる。つまり、皆さんは、1000人の代表となって自閉症児を育てているんですよ」

ああ、私たちは代表なんだ。選ばれたんだ、神様に。そう思えました。

その時から、私は吹っ切れたのです。「うちの子に限ってなぜ」と思うことはなくなったのでした。

神さまに選ばれたプライドを心に抱くことで、今でいうポジティブシンキング、前を向いてひたすらがんばることができたのです。

 

涙をふきながらのところもありましたが、無事話し終えて帰宅すると、さっそく参加者のアンケートに書かれたコメントが、メールで届いていました。

皆さんは私の思いをまっすぐに受け止めてくれたようで、ほっとしました。

その中に、こんな言葉がありました。

「涙が出た。まさに1000人に1人の代表だと思った」

またまた私も涙……。

障害児を授かって、苦労が多い分、私の人生は豊かになった。それを改めて感じた瞬間でした。

 



旅のフォトエッセイ:世界遺産の五島列島めぐり⑤旧五輪(ごりん)教会堂2019年01月26日

 


旅の2日目、若松島のキリシタン洞窟を訪ねた後、さらに船を走らせて、久賀島(ひさかじま)の旧五輪教会へ向かいました。

 

▼濃緑色の海のすぐ脇、瓦屋根の日本家屋のような旧五輪教会が見えました。そして、横には明るいオレンジ色の新聖堂があります。


 


五島列島のほぼ中央に位置するこの島では、明治になって、厳しい弾圧が行われたそうです。

ようやく禁が解け、明治14年、この聖堂は当初、島の西側に建てられました。昭和になって新聖堂を建てることになったので、旧聖堂は解体されます。

私たちも船でこの場所に来ましたが、解体された旧聖堂も船で運ばれ、島の東側の五輪地区に引っ越してきました。昭和6年、この地の最初の教会として生まれ変わり、新しい使命を担ったわけです。

とはいえ、140年近い歳月がたっており、木造の教会としてはとても古いものです。昭和60年には、信徒の祈りの場としての使命を終えました。現在は隣の新聖堂がその役目を負っていますが、旧教会堂は貴重な遺構として、国の重要文化財に指定されているそうです。

そして昨年、この五輪集落も世界遺産に登録されました。

 

▼玄関の上に掲げられた看板の文字「天主堂」も読み取れないほど薄くなっていました。



 

▼中に入ると、まず正面の祭壇には、聖ヨセフが幼子イエスを抱いた像が私たちを見下ろしています。

この教会の守護の聖人は聖ヨセフ。聖母マリアの婚約者でしたが、マリアが精霊によって身ごもったことから、イエスの養父と呼ばれています。彼は大工としてまじめに働きながら、聖母マリアとイエスを愛情深く見守る立場に身を置いて生きました。その聖ヨセフが選ばれたのは、五島の漁村で清貧のうちに生きる信徒たちと重なるものがあったからだろう、と言われています。


 

▼両脇の祭壇には、キリスト像とマリア像があります。




▼堂内にはすでに椅子などは置かれておらず、がらんとしています。その分、天井が目を引きます。木材で造られたリブ・ヴォールト天井。木材を少しずつ温めて曲げるのだそうで、素人目にもすごい技術であったことがわかります。




ところで、五輪という地名、この文字を見た覚えがありませんか。そうです、シンガーソングライターの五輪真弓(いつわまゆみ)さん。この地区には「五輪」姓が多く、彼女のお父さんもこの地区の出身だそうです。おじいさんは教会でオルガンを弾いていたとか。ちなみに、「ごりん」と名乗るのは本家のみ、それ以外は「いつわ」と名乗っているとのことです。





 

▲教会堂を出ると、おだやかな海はすでにたそがれ始めていました。


ふたたび船に乗り込み、五島で一番大きな福江島の福江港へ。 


▼操縦士さんが、今度は荷物運びもしてくれます。お世話になりました。

沈んでいく夕日が、長い光の一すじを海に浮かべていました。

 







24年目の1.172019年01月17日



24年前の早朝、「淡路島で大きな地震が起きたらしい」とその一報を聞いたのは、市内の病院のベッドの上だった。空腹と、点滴の針の痛みと、ニュースの恐怖とで、一瞬ふらっと貧血状態になったのを今でも覚えている。

予定日を10日近く過ぎて、陣痛が始まって夜中に入院。結局、次男が生まれたのは翌18日だった。

 

入院中、どのテレビからも、地震のすさまじさを物語る映像ばかりが映し出されていた。

6人部屋の病室には、横倒しになった高速道路のすぐそばに実家がある、という人がいて、「里帰り出産していたら、今ごろどうなっていたか……」と話していた。

退院してからは、次男に母乳を飲ませながらも、泣きながらテレビ報道を見続けた。

阪神淡路大震災。6434人が亡くなり、私は一つの命を授かった。その現実をかみしめていた。

 

毎年のように、この日のエッセイを書く。震災が起きたことと、次男出産の記憶とは、私のなかでしっかりとリンクしている。それを書かずにはいられない。

 

今年は、前日に『BRIDGE はじまりは1995.1.17神戸』というドラマを見た。関西出身の友人がFacebookにアップした記事で知ったものだ。

震災で分断された鉄道を復旧させるため、技術者たちは崩れかけた駅舎を復元しなければならなかった。2年以上はかかると言われた工事を74日で成し遂げた男たちの物語だ。たくましく誠実に難工事に立ち向かう姿も感動的だが、その駅を取り巻く人びとの温かな人情や、犠牲者への悲しみも描かれ、丁寧に作られた見ごたえのあるドラマだった。

 

私がどうも気になったのは、春日という少年。震災当時、世をすねて盗みを働くようなワルだった。23年たった2018年の彼も語り部として登場するのだが、なんとも得体のしれない人物である。彼は罪を償わないまま、大人になった。そのことが彼の心の傷になっているらしい。それぞれ野村周平と椎名桔平が好演している。




春日のような悪さをしたわけではないのに、次男が春日にダブって見えた。

明日24歳になる次男は、大学に入ってから挫折を味わい、卒業の見とおしも持たずに、人生に迷子になっているように思える。

いつも、彼の誕生日が近づくと、世の中はあの大震災を振り返り、犠牲者を悼むとともに、災害への備えを話題にする。それに呼応するように、私の気持ちのなか、次男の誕生日には暗い影が落ちる。明るく素直に喜べない気がするのだ。それは震災のせいばかりではないのかもしれないが……

 


自閉症児の母として(55):800字のエッセイ「奇跡のメガネ」2019年01月12日



     奇跡のメガネ

 

 インターネットで、アメリカ発のこんな動画を見た。

クリスマスツリーが飾られた室内で、ティーンエイジャーの男の子が、プレゼントを開けている。出てきたのはサングラス。かけたとたん、「違う!」とびっくり。かけては外し、笑い転げている。

次のシーンは屋外。誕生日プレゼントにもらったサングラスをかけた男性は、言葉も出ないまま、まるで赤ちゃんのように、両手を握りしめて喜びを表している。左右を眺めてはまた両手を振るばかり。動画を撮る側のうれしそうな笑い声が聞こえる。

3人目の少女は、メガネをかけるなり、

「何これ。これが本当の世界? こんなふうに見えてるの?」とつぶやく。それ以後は泣いてしまって言葉が続かない。

 次の男性は、このメガネが何なのか知っていて、初めてかけてみる。すぐに外して、両目を押えて泣き始める。

 この動画に登場する7名の男女は皆、カラーブラインド、つまり色盲なのである。初めて補正メガネをかけた瞬間の感動が、見る者の胸をも熱くする。誰もが「オー、マイゴッド!」を繰り返し、誰もが涙なしではいられない。泣いている彼らに、かならず誰かが近寄って優しくハグをするのも、印象的だった。

 動画を見て、息子のことを思った。色盲の世界を知るには、カラー写真をモノクロで見ることで、ある程度理解できるだろう。でも、自閉症の息子は、相手の胸中が見えないコミュニケーションの障害だ。あげる・もらう・くれるなどの言葉が正しく使えないのは、自分と他人の区別や、その関係性が把握できないのである。彼が見ている世界は、一体どうなっているのだろう。想像するしかない。

それが見えるメガネがあったら、どなたか母親の私にプレゼントしてくださいな。 





 

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