ダイアリーエッセイ:舞台『CRESSIDA(クレシダ)』を観る2016年09月24日

 

世田谷線始発駅の三軒茶屋。その駅舎にくっつくように、小さな劇場がある。その名もシアタートラム。20年ほど前に造られたそうだが、レトロなデザインが、この町の雰囲気に溶け込んでいる。この辺り一帯は、小さな商店街がひしめき合っていて、まだまだ昭和の匂いが立ち込めているようだ。

世田谷線も、以前は玉電と呼ばれ、渋谷からチンチン電車が走る路線だったのである。私の祖父母が、玉電若林駅の近くに住んでいたので、子どもの頃は、よくチンチン電車に乗って出かけたものだ。

 

劇場の客席は200余り。私の席はほぼ中央の前から8列目だった。

いかにも演劇業界人的なお客さんが多い。私の2つ前の席には、フジテレビの笠井アナがいた。




 

舞台は、1600年代ロンドンのとある劇団のお話。かつては名優として活躍した老人シャンクは、今は若手の演劇指導を手掛けている。演じるのは平幹二朗さんだ。平さん自身は、82歳で今なお現役。長いセリフを覚え、ろうろうと発声し、軽やかに動き回る姿は、とてもそのお年には見えない。

 

当時のイギリスの演劇は、日本の歌舞伎界同様、女優は存在しなかった。女性の役は「少年俳優」が務めた。スティーヴンというその複雑な役どころを浅利陽介さんが演じる。現代日本の俳優が、女性役を務めた400年前の少年俳優という役を務めるのである。さぞや難しいことだろう。

彼は、NHK大河ドラマ『真田丸』で、秀吉の甥の小早川秀秋を演じていた。気弱な性格から、関ヶ原の戦いでは豊臣側を裏切ってしまう。スティーヴンもどこか似たような感じの少年で、色白でやさしい目をした彼の持ち味が生かせていると思った。

当時の「少年俳優」には、男色や同性愛のような一面もあったらしいが、明るくコミカルに描かれて、森新太郎氏の演出のうまさなのだろう。

 

スティーヴンは、シャンクの細かな演劇指導を受けて「少年俳優」として磨かれていく。この場面が素晴らしい。声の出し方、高低、強弱から、体の向き、手の上げ下げにいたるまで、シャンクは手本を見せてはスティーヴンにやらせてみる。芝居の中のワンシーンなのか、平さんが浅利さんに演技をつけているのかわからなくなるほど真に迫っていた。いや、文字どおり、スティーヴンの浅利さんは、シャンクを通して平さんから学び取るものが多かったにちがいない。

やがて、シェイクスピア作『トロイラスとクレシダ』のヒロイン役を演じて、拍手喝さいを浴びた。だが、シャンクは気に入らない。キスの場面で顔を赤らめたといってなじる。スティーヴンが、自分が教えた型どおりの「少年俳優」としてではなく、彼自身の内から湧き出るような演技で勝ちえた喝さいだった。そのことに、シャンクは気づいた。自分が教えてきた「少年俳優」の演技など要らなくなる。時代が動いていくのを悟ったのだ。いずれ女性も舞台に上がる日が近いことを予感する。

そして、彼が天に召されていくところで、幕は下りた。

 

名俳優の圧巻の演技は言うまでもない

難しい役どころを見事に演じきった若手俳優の浅利さんにも、拍手!

生の声でセリフが響き、飛び散るつばも汗も見える客席で、ただただ役者の芝居に引き込まれていた3時間。なんと贅沢な楽しみだろうか。





 


エッセイの書き方のコツ(30):初めての花が咲いたとき2016年09月19日

 

先日、植物園でアルバイトをしている夫が、「欲しかった花がようやく手に入った」と、小さな鉢をうれしそうに抱えて帰ってきました。

たくさんの葉をつけた30センチほどの茎が、ひょろりと伸びています。なんでも、ハイビスカスの一種で、じつにかわいらしい花が咲くのだとか。どんな花かと尋ねても、まあ咲くまでのお楽しみ、と言うだけでした。

 

その数日後、茎の先端、葉の間から花柄が伸びて、白っぽく細長いつぼみがぶらさがっていました。枯れてしまうのではと思うほど、頼りない糸のような細さで、下を向いています。

翌朝起きて見ると、出窓の白いカーテンを背景に、花は咲いていました。

わあ、きれい、線香花火みたい! まず、そう思いました。

薄紅色の花びらは、まるでレース編みのフリルように繊細で、四方に反り返っている姿は、一瞬の火花のようです。しかも花は下を向き、小さな赤い舌を垂らすように、しべが伸びています。

大きさは、子どものこぶしほどでしょうか。それでも、あの柿の種ほどのつぼみが、一晩でこんなにみごとな花になるのです。

ため息が出るようでした。

 

……と、ここまで読んで、どんな花か想像していただけたでしょうか。

よくわからないかもしれませんね。

では、写真をお見せしましょう。


 



いかがですか。

やっぱり、百聞は一見にしかず、ですね。どんなに詳しく描写したところで、文章は写真ほど正確に伝えることはできないかもしれません。

だからこそ、その時に感じたこと、心でとらえたものをつづってみるのです。

写真には写らないものを自分の感覚でとらえ、自分の言葉で伝えることこそ、エッセイの本領といえるのではないでしょうか。

 

ちなみに、この花の名前は、フウリンブッソウゲというそうです。

なにやら物騒な名前ですが、漢字で書くと、風鈴仏桑華。風鈴に似ているということから付いた名前のようですね。

やはり風鈴でしょうか。線香花火に見えませんか。

翌日にはぽとりと落ちて、はかない命を終えてしまったところも、似ているような気がしました。




 



自閉症児の母として(35):障害者支援施設を見学2016年09月15日





 

今日は、市内の障害者支援施設「桜の風」を訪れました。

身体障害者、精神障害者にも対応し、自立訓練や通所支援などを行っている施設です。いずれは地域での生活をめざした支援をしていく、いわば、通過型の施設というわけです。

息子は、短期入所(ショートステイ)を体験する目的で、見学させてもらいました。


息子はこれまで、社会人として働く訓練を受け、がんばってきました。とはいえ、家庭においては、ついつい過保護だったかもしれません。

息子ももうすぐ三十路。両親は高齢者の仲間入りも近いのです。いつまでも子どものように家庭で過ごしていては、いざというときに困るのは目に見えています。親亡きあとの息子の暮らしを考えるのに、早すぎることはないでしょう。

 

小高い丘に建つ4年目の施設は、木材の温もりとカラフルな色づかいが明るい雰囲気を醸し出していました。

どの部屋も廊下も広くとってあり、ミストシャワーで全身浴できる設備も、保温と冷蔵の両方を備えた配膳車も、目をみはるばかりです。





個室には、ベッドや布団のほか、テレビやクロゼットがあり、さらに窓の外には、家々の屋根とこんもりした緑の木々が遠くまで見渡せる。

「じつは、これ全部、桜の木なんです」

案内してくれる男性支援員が教えてくれました。

なるほど、それで「桜の風」という名前……。

「じゃあ、桜の咲く頃、お世話になれるといいですね」

私が泊まるわけでもないのに、思わず口にしてしまいました。

今日はあいにくの曇天だったからなおのこと、この窓から桜の風を感じてみたい……、そう思ったのかもしれません。


まずは、区役所の障害課で利用登録の手続きをして、それが完了すると、体験入所ができるそうです。

自立に向け、一歩を踏み出します。





 

 


伊藤比呂美著『父の生きる』(光文社文庫)を読んで2016年08月30日


母は93歳、同じマンションの4軒隣りで独り暮らしを続けてきました。

健康で過ごしてき母に、今年3月、病気が見つかりました。進行性の胃がんでした。入院、手術、そして退院から3ヵ月。新しく看護付きの施設に通うようになりました。

病気をきっかけに、母は以前の生活がひとりではできなくなりました。

母の世話を背負った私は、暗いトンネルの中を手探りで歩いているような日々でした。

この本と出合って、ようやく光を見たような気分になったのです。



 

この本を紹介してくれたのは、同じマンションに住む友人です。家族ぐるみのお付き合いは四半世紀に及び、もちろん母のこともよくわかってくれています。そして、私の「読み友」でもあるのです。

私が母のことをこぼすと、まあ読んでごらん、とこの本を貸してくれたのでした。

 

伊藤比呂美さんは、詩人でもあり、エッセイや小説も手掛ける作家。イギリス人の夫や子どもたちとカリフォルニアに住んでいるのですが、熊本で独り暮らしをする80代のお父さんを、3年半にわたって遠距離介護をしてきました。毎月のように帰国しては、仕事をこなしながら熊本で暮らす。しかも、すごいのは、毎日毎日欠かさずにアメリカからお父さんに電話をしたことでした。

この本はその記録です。

 

私がこんなに付箋を貼りながら読んだ本も珍しい。

のっけからお父さんの言葉に釘付けになりました。このまま読み進んでしまうのがもったいない。あとでもう一度かみしめようと、印をつけずにはいられなかったのです。

赤い色の文字で書いた部分は、原文のままの引用です。


    ◇

 

 あるとき私が、仕事が終わったよと言いましたら、父が「おれは終わんないんだ」と言いました。

「仕事がないから終わんないんだ。つまんないよ、ほんとに。なーんにもやることがない。なんかやればと思うだろうけど、やる気が出ない。いつまでつづくのかなあ」

 

私の母もすっかりやる気をなくしています。テレビさえあまり見なくなりました。何を見てもつまらない、と言います。

あれほどやってきた編み物も、手にしません。製図を見ながら高度な模様編みを楽しんでいた母にとっては、手が不自由になったからといって、子どもだましのような太い毛糸を扱う気にはなれないようです。

 

でもこのお父さんが、母と違う点は、なんといってもユーモアを持ち合わせているところ。さすがは詩人のお父さん、言うことがユニーク。

 

「だけど退屈だよ。ほんとに退屈だ。これで死んだら、死因は『退屈』なんて書かれちゃう」


    

 

ある時、カリフォルニアからの電話に向かって、お父さんはこんなことを言いました。

 

父が「おれには看取ってくれるものがいない、誰もいない、ルイ(飼い犬の名)じゃだめだし」と言い出したから、つい「それは聞くのがとてもつらいから、言うのやめようよ」と言ったら、「ときどき愚痴こぼしたっていいじゃないか、あんたしか言う相手がいないんだし」とののしるような口調で言うのだった。

 

母も、通い始めた施設が気に入らずに、帰ってくると愚痴をこぼします。さらには「生きていたって何も楽しいことはないし……。あのまま死んじゃえばよかった」などと、返す言葉もないようなことを口にします。必死で毎日世話をしている私には、たまらなくつらい。

そんな私は、このお父さんのセリフに、はっとしました。

私はたくさんの友人に恵まれて、愚痴をこぼしたり、気晴らしのおしゃべりを楽しんだりできる。でも、母にはもう電話をかけて愚痴を言い合うような友達もいないのだ。側に居る私しかいない。母は孤独なのだ……。そう気がついたのでした。

だから、言わせてあげなくては、聞いてあげなくては……と思ったのです。


    ◇◇

 

ここのところうちの電話の調子が悪くて、父に電話できずにいる。……(中略)……電話できないんだからしょうがないなあと思って、ここ二、三日のうのうとしていたのは事実だ。やはり「かけなくちゃ」と思わずに済むと気が楽だ。ああ気が楽だ、気が楽すぎて、後ろめたかったのかもしれない。

 

私は、毎晩必ず母の所に行きます。

夕食は施設で済ませてくるので、翌日の朝食を冷蔵庫に入れたり、連絡帳をチェックしたり、薬を間違えずに飲めるようにしておいたり、こまごまと身の回りの世話をしてきます。

母は9時までには寝てしまうから、私は夕食後まったりする暇もなく、急いで行かなくてはなりません。

ああ、行きたくないな……、私もそう思ってしまう。今夜もご機嫌が悪いだろうか、どんな愚痴を吐かれるのだろうか……、寝ていてくれると助かるけれど……。思わない夜はありません。

冷たい娘だろうか、と自分を責めたりもします。

でも、私だけではないのだと思い、ほっとできました。家族から非難を浴びながらも、こんなにお父さんに尽くしている比呂美さんでさえ、電話をかけなくていいと思うだけで、気が楽になるというのですから。

いい子になる必要はない。私なりに、できるかぎり「母の生きる」に寄り添ってみよう、と思えてきました。

 

母は、記憶力が急速に衰えました。

何を説明したところで、書いたものを見せたところで、母の脳みそに情報としてインプットされません。

もう母には覚えることも理解することもできないのであれば、私のほうが変わるしかありません。つらいことを言われても、以前の母ではないのだと思ってさらりと受け流すように、気持ちを切り替えてみました。

すると、母も少し変わってきたように感じます。穏やかになったのです。


    ◇◇ 


私は家族とともに暮らしていますが、比呂美さんはクリスマスから新年にかけての時期さえも、家族と離れて、日本でお父さんの介護に尽くします。仕事もはかどりません。

 

……こうやって人を食い荒らしつつ人は生きていかねばならないものかと、一日数回考える。

 てな感じの愚痴を友人に垂れ流したらスッキリするかと思ってやってみた。却ってよくないことがわかった。その瞬間は、声に出して吐き出すことでストレスの度合いがさっと下がるが、ここもいやよねあそこもいやよねと声に出して言ってるうちに、父の悪いところばかり見えてくる。……(中略)……だから、父の欠点をあげつらうような愚痴は口に出さないことにした。

 

そうそう、そうなのです!

やさしい友人が、「お母さんはいかが?」と聞いてくれると、堰を切ったように母の愚痴がこぼれ出す。ところが、それを口走っている自分が、とても嫌いになってくる。まるで、私のなかに悪魔が住み着いていて、私に母の悪口を言わせているような気分になるのです。

だから、ストレスは母の愚痴をこぼして発散するのではなく、短い時間でも楽しく過ごして気分転換を図ろう、と思えるようになりました。


    ◇◇◇

 

この半年余り、仕事だけは休まないで、辞めないで……と思ってがんばってきました。そのために、自分だけの時間がずいぶん犠牲になりました。

旅行はもちろん、映画や美術展、クラス会や女子会や飲み会からも、すっかり足が遠のきました。SNSやこのブログさえもご無沙汰ばかりで、介護が終わったときには、友達が半分になっているのでは、と危惧するほど。

でも最近では少しずつ、きょうだいの協力も得て、気持ちにゆとりが出てきました。要領よく自分の生活も立て直していかなくては、と思っているところです。

母の介護は長丁場、私の時間も永遠ではありません。

 

比呂美さんの『父の生きる』は、お父さんの最期を看取るところまで書かれています。私がその日を迎える覚悟は、まだまだできていません。


 

この本は、介護に苦しむ方にも、これから経験するかもしれない方にも、そして、自分の老後を考えてみたい方にも、絶対おススメの本です。

 

私に薦めてくれた友人には、ほんとうに感謝です、ありがとう♡



 

 


自閉症児の母として(34):シドニー・オリンピックの閉会式2016年08月22日


今日は長男の職場も台風のおかげで休業となりました。画面の隅に出る台風情報が気になりながらも、なかよくリオ・オリンピックの閉会式をテレビで見ていました。

息子といると、シドニー・オリンピックがいっそう懐かしく思い出されます。




 

   閉会式

 

最終日。オリンピック・スタジアムに出かけていく。男子マラソンのゴールを見とどけてから、閉会式になる。

この日は、前から二番目の席。周囲には日本人の団体も多い。バックスタンドとはいえ特等席だ。チケットに書かれた値段は、1,382ドル、約10万円なり。いまだかつてこんな高い入場料を払ったことはない。これから数時間の価値だ。ちょっぴり緊張する。

フィールドには、なにやら仕掛けのありそうな白いステージや、スピーカーなどの装置が、すでに並んでいた。

そのステージの向こう側から、マラソンのトップランナーが現れた。エチオピアの選手だ。そして2位にはケニアのワイナイナ。日本で活躍するわれらの選手だ。辺りの日本人がどよめき立つ。

ゴールのあと、喜びのウィニングラン。バックスタンドまでやって来る。「ありがとうございます」と日本語で挨拶しながら、日本人の観客たちと握手を交わす様子を、テレビカメラマンが追っていた。その映像は、衛星放送で世界中に生中継されていた。

帰宅後、録画しておいてもらったテープの中に、私の笑顔と望人の横顔が、ちゃんと映っていたのである!


 


              閉会式の大道具。(マリオは出てきません)


  

3日目にして初めて、スタジアムには冷たい風が吹いた。暗くなって寒さが増す。

閉会式の中でもとりわけ聖火の消えゆく瞬間を、私は神妙な気持ちで待ち受けていた。しかし、選手団入場やサマランチ会長の挨拶など、お決まりのセレモニーの後、期待はあっけなく裏切られてしまった。スタジアムの屋根のすぐ上、飛行機の爆音が聞こえてきたと思ったら、聖火は消し去られていたのだ。なんて物足りない幕切れなの……。


が、そんな感傷をも吹き消すかのように、次の瞬間、スタジアムの空間には、いっせいにクラッカーがはじけて、銀色の紙ふぶきが舞った。スクリーンには、”LETS PARTY!”の文字。耳に馴染んだモダンなミュージック。激しいビート。頭上にはミラーボールが回り、カラフルな照明がスタンドを浮き上がらせて揺れる。スタンドの人々も立ち上がり、リズムに乗り、一体となって揺れ動く。ビッグ・ウェーブも何回となくやって来る。一瞬にして、オリンピック・スタジアムは巨大なディスコと化したのだ。

ステージでは、一流のミュージシャンによるショーが繰り広げられる。トラックでは、次から次へとお祭りのようなパレードが続く。文字どおりのビッグ・パーティーだ。


夢を見ているようだった。いや、夢ではないのだ。今この時を、目の前に広がるこのシーンを、いつまでも覚えておこう、と思った。

この14年間、がんばってがんばって望人を育ててきた。そのご褒美のように、望人の夢に乗って、シドニー・オリンピックへやって来ることができたのだ。


ステージの仕掛けが動き、いつのまにか大きな球体のスクリーンが浮かんでいた。地球だ。大陸や海の映像が見える。

SEE YOU IN ATHENS!(アテネで会いましょう)の文字も読める。

このまま気球のように望人の夢に乗り続けて、世界中を旅することができたら……!

  私はもう一つの夢を見ていた。


       紙製の五輪メガネは、閉会式の観客用のグッズ。








自閉症児の母として(33):「夢シドニー二人旅」より2016年08月21日


今日は午前中、リオ・オリンピックのサッカー決勝がテレビ中継されましたね。ご覧になった方も多かったのではないでしょうか。

ブラジルvs.ドイツの試合は、11の同点のままPK戦へ。最後はネイマールの見事なシュートで、地元ブラジルが金メダルを手にしました。

 

私も、シドニー・オリンピックでは、サッカー決勝を観戦しました。

自著『歌おうか、モト君。』の中に収められた「夢シドニー二人旅」より、オリンピックのエッセイをいくつかご紹介します。

 


写真のはがきサイズのアルバムは、シドニーのおみやげに買い求めたもの。お金では買えない思い出の写真がたくさん入っています。

当時はデジカメではなく、フィルムを入れた一眼レフでした。



 

オリンピック・スタジアムで

 

自閉症の長男、望人と二人でオリンピックを見るため、2000年9月28日から6日間のツアーに参加した。このオリンピック観戦ツアーは、陸上競技、サッカー決勝戦、閉会式をメーンスタジアムで見ることになっている。ツアーとはいえ、ほとんどが個人行動。スタジアムへも自分で市電を乗り継いで行かねばならなかった。

 

 ヒューイ、ヒューイ、ヒューイ……

 歩行者用の信号が青になると、口笛を吸い込むような音がする。

カタカタカタカタカタ……

青の点滅に合わせて、木製のおもちゃを鳴らすような音に変わり、思わず走り出す。なんともユーモラスな効果音だ。

ホテルから最寄りの駅までは、にぎやかな大通りの歩道を歩いて10分ほど。街路樹のプラタナスが青々と繁ってすがすがしい。行き交う人々は、ラフなスタイルで表情も明るい。のんびりというよりは快活だ。一緒になって小走りに駅へ急ぐ。

渡された大きな観戦チケットを、ホルダーに入れて、首から提げておく。これがあれば、スタジアムのあるオリンピックパークまで市電がフリーパスなのだ。

駅はどこも混雑していた。けっして観光客にわかりやすい駅ではないけれど、カラフルなユニフォームを着たボランティアの係員があちこち立っていて、何でも教えてくれるので、迷うことはなかった。

スタジアムが電車の窓から見えてくると、望人がうれしそうに指さした。



 

ゲートをくぐり、中に入る。スタンドの大きさに思わず「うわあ」と声が出る。高々と燃えさかる聖火。席はバックスタンドだったけれど、前から10番目といういい席だ。

ぎらぎらと西日がまぶしい。日が沈んでからも、気温は下がらず、用意していったダウンジャケットがじゃまになった。こちらでも異常な暑さだという。そのせいか蛾がたくさん飛び交っている。

初日の夜は、陸上競技観戦。まず、女子の円盤投げが始まる。巨大なスクリーンに選手の姿が映し出される。英語とフランス語のアナウンス、電光掲示板などで、競技の進行がわかるようになっている。

暗くなるにつれ、11万人収容のスタンドはどんどん埋まっていき、ほぼ満席の状態。観客の声援もパワフルになってくる。オーストラリアの選手が現れると、怒涛のような歓声がわき上がる。

やがて、フィールドでは、男子棒高跳びが始まる。人間がすごい高さに跳ね上がり、迫力がある。

トラックでは男子、女子のリレーが行われ、速さを競うアスリートたちがすぐ目の前を駆け抜けていく。3000メートル障害の一団が、波のようにハードルを飛び越えて、水しぶきを上げる。さまざまな競技が同時進行でおこなわれているスタジアムの中、アボリジニの民族音楽の響きが満ちていく。

跳ねる人、駆ける人、跳ぶ人、上がる水しぶき、唸りのような声……。そのとき、私は不思議な感覚にとらわれた。遠く太古ギリシャ時代の競技場にいるような気がしたのだ。

それもつかのま、すぐ周囲に鳴り渡る携帯電話の音で、現代に引き戻されるのだった。


         ほほには、日の丸のシールを貼っている。


翌日は、正午からサッカーの決勝戦を観る。

望人は、Jリーグの大ファンだ。こちらに来るまでは、テレビに釘付けになって、予選で戦う日本チームに声援を送ってきた。

にわかフリークの私が、初めて観るサッカーの試合がオリンピックの決勝戦だなんて、ぜいたくな話だ。スペイン対カメルーン、といったって、じつのところ何の知識もない。

 

ところが、これも旅の運というのだろうか。隣の席に日本人の青年が座った。一人でオリンピックを見に来たという。髪を後ろで一つに結んで、いかにもフリーターといった感じだ。スポーツにとても詳しい。

「カメルーンのエンボマ、10番です、注目してください。ガンバ大阪にいた選手です」

 スタジアムには、テレビの実況中継のような解説はない。審判の笛が鳴っても、プレーが中断されても、よくわからなかったりするのだが、彼に尋ねると親切に教えてくれる。物静かな声で、きちんと敬語を使って話す。いい青年だと思った。

 

 私たちの後方には、スペインの国旗をはためかせた一団がいて、

「エスパーニャア!」と、大声で応援している。

ところが、試合運びがスペインに有利に展開すると、なぜか、どよめくようなブーイングが起こる。スタンド全体としては、どうやらカメルーンびいきに傾いているようだ。

「カメルーンは強い国じゃないのに、ここまで来たからでしょう」

と青年が言う。

 スタンドは、真夏のような西日を浴びて、暑かった。座って観戦しているだけで、シャツの中を汗がたらたらと流れていく。

結果はPK戦のすえ、予期せぬカメルーンの逆転優勝となった。

 

「どうぞお元気で」

 表彰式の後、名前すら聞かないまま、私たちは別れた。一期一会。そんな言葉が浮かぶ旅先での出会いだった。



         聖火をかかげるモト。



自閉症児の母として(32):16年前の「ひととき」欄2016年08月17日

 

今朝の「ひととき」欄のもとになった16年前の投稿記事。これも皆さんに読んでいただきたいと思いました。




 

当時は、小学校の普通学級から養護学校の中学校に入ったばかりで、私の心も揺れていました。思い切って母子二人旅に出かけて、本当によかったです。気持ちを吹っ切ることができました。

そして、何でもやればできる、という自信が生まれたように思います。

若かったんですね……。

 

いずれやってくる「親亡きあと」のために、もう少しがんばりましょう。


 

写真は、シドニーのオリンピック・スタジアムで撮ったツーショット。

写真屋さんでカレンダーにしてもらったものです。

 

 




自閉症児の母として(31):朝日新聞に掲載されました2016年08月17日


 

今朝の朝日新聞生活面、ひととき欄です。

クリックすると拡大します。




新聞の活字になると、改めてこの16年の歳月に感慨深いものがあります。

そして、最後の自分の年齢に、ちょっと涙ぐみました。


 


新聞掲載のお知らせ2016年08月15日



 

リオ・オリンピックもたけなわですね。

開会式をテレビで見て、ショートエッセイをつづり、朝日新聞「ひととき」欄に投稿したところ、あさって817日(水)の朝刊に掲載されることになりました。

 

購読なさっている方、ぜひお忘れなくお読みくださったらうれしいです。

もちろんデジタル版でもお読みいただけます。

それ以外の方も、当日の新聞をスキャンしてブログに載せますので、どうぞお楽しみに。








ダイアリーエッセイ:「山の日」に2016年08月12日

 

写真は、20141月に、富士山をバックに家族そろって撮ったものです。

一日遅れになりましたが、「山の日」の大事なご報告です。

 



娘が「山の日」に入籍しました。

今年から新しく始まる祝日が、新しい夫婦にはふさわしい。

そして、毎年仕事が休みだから、忘れずに祝うことができる。

そんな理由で、入籍の日に決めたそうです。

 

そもそも、初めて娘から彼氏の存在を聞かされたのは、一年前の夏、独り暮らしを始めるという引っ越しのさなかでした。母親の勘で、なんとなくそんな気がしていました。引っ越しのどさくさに紛れるように告白されて、やっぱりね、と思ったものです。

そして、今年になって、彼氏からもきちんと「ご挨拶」の言葉を聞きました。

 

ところが、平成生まれのふたりは、仲人も結納も釣書も、言葉さえ知らないというのですから、びっくり。

結婚という人生の一大イベントの段取りも、昭和の世代とは隔世の感あり。

同棲(これも死語ですね)⇒入籍⇒家族顔合わせ⇒挙式⇒新婚旅行は未定、

というのですから、その「順不同」ぶりに、またまたびっくり。

私がショックを受けたことさえ、娘にはショックだったようですが、ふたりがよく話し合って決めたことに反対はできません。平成生まれには親の世代とは違った新しい常識があって当然です。親の価値観を押し付けたところで、娘たちの将来の幸せは、ふたりで築いていくものです。

 

娘は、すでに高校生のときに、わが家から同じマンションの4軒離れた母の所で寝泊りするようになりました。そして、昨年の独り暮らしへの旅立ち。

思えば、なんと上手に少しずつ親元から離れていってしまったことでしょう。娘のやさしさだったのかもしれません。

「お父さん、お母さん、27年間お世話になりました」と三つ指ついて挨拶することもなく……。あ、これは私でさえしませんでしたけど。

 

私も、27歳のときに、M君と、某月11日に結婚しました。

娘も、同じ27歳で、M君と、11日に結婚したのです。

きっと幸せになれるでしょう!

 

先月には、5人家族最後の旅行をしてきました。楽しい思い出が残りました。

そして、「山の日」には、娘のいない4人家族で、山ではなく、海へ行っていました。寂しさを紛らわせたかったのかもしれません。

でも、娘がわが家から出ていくのではなく、新しい家族を連れて来てくれるのだ、と思うことにしました。

 

「サエ、結婚おめでとう。末永く幸せになってね」

 

 



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