自閉症児の母として(45):50周年に感謝です2017年09月18日



先日、社会福祉法人「嬉泉(きせん)」の50周年のお祝いに招待されました。

自閉症の長男が3歳の時からお世話になってきたところで、私の子育て人生を全面的に支えてくれたと言っても過言ではありません。

今でも、30歳を過ぎた息子とともに、お世話になることもあります。この先もずっと、関わりを切らすことはないでしょう。

 

転勤で静岡に住んでいるとき、2歳半の長男は自閉症と診断されました。

当時、NHKの教育テレビで放映されていた自閉症の療育番組で、嬉泉が運営する東京都世田谷区の施設の様子を見たのです。

ここに行こう。ここに行けば、きっと治る……。

そう思って、翌年の春には転勤を希望して東京に戻ってきました。

3歳からの幼稚園代わりに、テレビで見た「めばえ学園」に通い始めました。その園長先生からは母親もたくさんのことを教わりました。

「子どもの犠牲にならないで。自分の人生も大事にしてね」

今でも私の座右の銘です。

 


先生は、すでに80歳とのこと。この写真を見て、「あらやだ、おばあさんに撮れてる」と言われましたが、なんのなんの。相変わらず歯切れよい話しっぷりも、背すじのピンと伸びたところも、とてもお年には見えませんでした。

 

 

嬉泉の誕生には、感動的なエピソードがあったのです。会のはじめに挨拶された2代目理事長が、それを語ってくれました。



 

昭和40年ごろ、日本の自閉症研究の草分けともいえる石井哲夫先生が、日本女子体育大学で児童心理学を講義されていた。その中で、「まだ日本には自閉症児のための施設がない。ぜひ、広げていきたい」と述べたそうです。その講義を受けていたのが、理事長の妹さん。家に帰って父上に石井先生のことを話したところ、父上は関心を示し、石井先生から直接話を聞きました。そして、先生の情熱に感銘を受け、私財をなげうって支援することを決意されたのです。こうして財団が設立され、翌年には社会福祉法人となり、父上が初代理事長に就任しました。

彼は、戦後おせんべい屋さんで財を成したのですが、日頃から私利私欲はなく、収益はすべて世のため人のために使う、という考えの持ち主だったそうです。お子さんたちにも「美田」は残さなかったとか。

50年前に、石井先生の受容的交流方法という愛情あふれる自閉症の療育方法と、初代理事長の稀有な福祉の心とが出会いをはたした。そして嬉泉が誕生したというわけなのです。

日本の自閉症児の家族にとって、なんとありがたい出会いだったでしょうか。

 

さらに、2代目理事長のスピーチは続きます。

「石井先生初めたくさんの先生方、各方面で関わってくださった方がたに支えられて、50年目を迎えることができました。でも、忘れてはならないのは、それぞれの施設で、毎日食事を作ったり、お掃除をしたりと、裏方で働く方がたのおかげだということです」

そう言って締めくくられました。

組織のトップが、組織の底辺のことまで気にかけている。なかなかできることではありません。温かい気持ちになり、いいお話を聞いたと思いました。

 

現在、嬉泉は、東京と千葉県にいくつもの事業所や施設を構え、大きな組織になりました。地域にも根を下ろし、療育・相談・保育という三つの柱で、支援を必要とする人々のために活動を展開しています。

初代理事長はとうに亡くなり、石井先生も3年前に他界されましたが、若い後継者の方がたが、嬉泉をしっかりと受け継いでいくことでしょう。



 

ところで、この日の会場は、ホテルオークラ東京のアスコットホール。200名近い招待客は、その後、中華料理をごちそうになりました。

余談ながら、奇しくも35年前、このホテルの金屏風の前に座ったのは、ほかならぬ花嫁姿の私。時の流れに感無量のひとときでもありました。

 

 



四度目がないように2017年09月03日

〈前回の続き〉

 

やはり、大きな病院で受診してきた。

この地に住むようになって30年、何かとお世話になっている病院。次男を出産したのもここ。長男が側弯症で入院し、手術を受けたのもここ。

昨年、母に胃がんが見つかり、入院・手術を受けたのもここ。



 

とはいえ、建て替わって、まるでホテルのようだった。

ロビーでは、グランドピアノが自動演奏している。患者さんたちがソファのような椅子でくつろいでいる。

最上階まで吹き抜けがあり、明るい光が差し込む。空調も、暑からず寒からず、快適に保たれていた。

 

受付をすると、ポケベルを渡された。メロディとともに、メッセージが映る。

「2階内科3番診察室の近くでお待ちください」

「3番診察室にお入りください」

「1階採血室の前でお待ちください」

……最後の診察が終わって、カルテを会計に出すと、しばらくして、

「本日のお会計は、¥×××です。自動支払機でお支払いください」

とまあ、至れり尽くせりで迷うこともなく、待合室に呼び出しの声が流れることもほとんどない。

患者さんであふれていた以前のことを思うと、別世界だ。

 

ところで、診察のほうは、改めて血液検査をして、当日わかる範囲を教えてもらった。すべての検査結果は、1週間後に出る。

自分でもいろいろなサイトで調べ、発熱の原因が何なのか、思い当たることはあるのだが、結果が出るまではなるべく考えないようにしよう。

なんとなくまだ体調が良くないのは、5日間抗生剤を呑んだからだろう。

 

「病は気から」というとおり、気にしてばかりでは、よけい重病人の気分になっていくものだ。

 

ブログにも、もっと明るく楽しいことを書いていかなくては……!

 




ダイアリーエッセイ:二度あることは三度あった2017年08月26日

 

二度あることは三度ある……?

いやいや、三度目の正直ともいうではないか。

もし、もう一度同じような症状が起きたら、そのときこそ医者に行こうと思っている。三度目はないことを祈りつつ。


 

……と書いて、729日の記事をしめくくっている。

この夏、6月末、7月末と二度も、高熱を出したというお話。

 

その三度目が、昨日、起きてしまった。前回はいずれも39度近い熱だったが、今回は38度止まり。とはいえ、さすがに不安になる。心に決めていたとおり、近所の医者へ出向いた。

ドクターは、喉をのぞき、胸に聴診器を当て、風邪の症状のないことを確認。そのうえで、血液検査をしましょうと言われた。

今朝は、解熱剤が効いて熱が下がっていた。楽になった体で、結果を聞きにふたたび医者へ。

パソコンのデータを見ていたドクターは、開口一番、

「細菌感染ですね。白血球が減っていて、炎症反応も出ています」

体のどこが感染しているのか、前の二回もそのせいなのか、それはわからない。今回は原因が分かったので、抗生剤を出しておきましょう、とのこと。

「また熱が出たら、今度は大きな病院で診てもらってください」

 

何だか、ほっとしたような、よけい不安になったような……。

四度目にならないうちに、大きな病院に行ったほうがいいのだろうか。

 

 




ダイアリーエッセイ:母を見舞って2017年08月19日

 

母が大たい骨を骨折して、人工股関節を入れる手術をしてから、ちょうど2ヵ月がたちました。

入院中は、寝たきり状態のまま、リハビリもおざなり。病院からは、「本人にやる気がないので、元どおりになって自宅に戻れる見通しは立たない。施設を探してください」と宣告されました。

冗談じゃない、このまま寝たきりにはさせられません。母の終の棲家は、わが家の4軒隣の、自分のマンションです。

 

結局、つてを頼って、姉の地元のリハビリ専門病院に転院することができました。前向きな医療で高い評価を受けている病院です。

ところが、入院そうそう、ひとりで歩けるつもりになったのか、トイレに行こうとして転倒。腰を痛めてますますやる気も失せ、リハビリは遅々として進みません。

 

病院へは、車を飛ばして2時間。秋川渓谷のそばで、緑の木々に囲まれています。特に夏休みのこの時期は道路も渋滞し、一日がかりになってしまうのですが、スケジュールをやりくりして、週に一度は様子を見に行くことにしています。

でも、毎回、私が顔を見せても、母はにこりともしません。

窓の外の木々を眺めているので、「避暑地みたいね」と言うと、「避暑地だもの」と答える母ですが、表情も乏しく、スタッフの皆さんの声掛けにはあまり応じません。

おとといは、美容師さんにヘアカットをしてもらいました。それでも無言。





 

母はすっかり骨と皮だけの体になってしまい、もう自宅に戻れないのでは、という不安がよぎります。

入院前までは、弱った足腰でも、杖を突いたり手押し車を押したりして、何とか歩けました。また、負のエネルギーを発しては、そばにいる私を何かと悩ませていたのに……。あの母はどこに消えてしまったんでしょう。

 

この病院に移るまでは、一日も欠かさず母と向き合うことが私の日課でした。母にとって、遠慮なく言いたいことが言えるのは私だけ。私は精神的なストレスがたまり、せっせとストレス解消にも励みました。

今、母が離れて、私はそのストレスからは解放されました。それでも、母と向き合わないわけにはいきません。血のつながる母と娘だからです。

 

母のことを、こうして書くのは難しい。

変わってしまった母を見るのは辛い。目をそらせていたいのです。

母のようには老いたくない。でも、いずれはそうなる運命かもしれません。

こんなふうに思うのは、冷たい娘だろうか。いえいえ、できることは精いっぱいやってきた。葛藤は繰り返されるばかりです。

 

 

入院は、3ヵ月という期限があります。それまでには、少しずつでも母の状態が良くなってくれることを祈って、希望を捨てずに、母の病院にせっせと通うことにしましょう。

 

 



自閉症児の母として(44):ちょっといい話2017年08月14日

 



今日は、精神科の主治医のところで、安定剤を処方してもらってきました。月に一度、4週間分の薬をお願いしています。そして、その処方箋はいつも、友人M子が務める近所の薬局に持っていきます。

受付に処方箋を出してしばらく待っていると、「お薬ができました」と名前を呼んでくれたのは、ほかならぬM子でした。薬や代金の受け渡しをしながらも、小声でおしゃべりをしてしまいます。M子とは子どもたちが幼いころから家族ぐるみのお付き合いをしてきました。私にはかけがえのない友人の一人です。

「こないだ、モト君を駅で見かけたわよ。電車の発車時刻が書かれてなくて、モト君、隣にいた女の人に、『電車、遅れてるよね』って聞いたの。そしたらその人も、『そうね、遅れてるね』って、ちゃんと答えてくれてね。私たちと同じぐらいのオバサンで、モト君のことをわかってくれたんだと思うけど、いい雰囲気だった」

そんなうれしい報告をしてくれました。ありがたいことです。

その女性にはもちろん、M子にも感謝です。

 

じつは、10数年も前、モトが中学生の頃、隣町の養護学校までリュックを背負って電車通学をしていました。ある日のこと、車内でサラリーマン風の男性がモトに向かって、リュックがじゃまだから下ろしなさいと注意をしました。ところが、息子は自分のことを言われているとは気づかず、知らん顔をしていたようで、ホームに降りると、男性は怒りだすし、息子は大きななりをして泣きだす始末。ホームに人だかりができ始めました。駅員もやって来ました。

たまたまそこに通りかかったのが、M子だったのです。

「あら、モト君じゃないの」と、事情を話し、その場をさばいてくれたおかげで、事なきを得たのでした。

 

渡る世間に鬼はなし。

M子だけではありません。

「今日、モト君、見かけたよ。いつも走ってるね」

「モト君、いつも同じ時刻の電車に乗って、同じ場所に立ってますよ」

地元の友人たちが、たびたびそんな報告をしてくれます。

皆さま、本当にありがとうございます。

社会に見守られて、彼は生きていけるのです。








 


自閉症児の母として(43):グループホームを見学して2017年08月01日


息子は、昨年9月に30歳になりました。

30代からは、親元を離れて生活することにチャレンジさせよう、と考えています。チャレンジ失敗となっても、いつでも帰って来られるわが家があるうちに。

私たち夫婦は高齢者の仲間入りも近い。息子も、いつまでも子ども扱いのまま家庭で過ごしていては、いざというときに困るのは息子本人です。親亡きあとの暮らしを考えるのに、早すぎることはありません。

グループホームで暮らすことを、この30代の目標するつもりです。

 

障害者のためのグループホームでは、数名の障害者が、スタッフの支援を受けながら共同生活をします。アパートやマンションを利用したり、空き家を再利用したりして運営されているようです。

基本的には個人の生き方が尊重され、個室を持ち、昼間は各自そこから通勤する。週末には自宅に帰るなどして、自由に過ごします。

グループホームの数は増えているそうですが、希望者も多く、すぐに適当な場所が見つかるとは限りません。まずは見学を、と申し出ておくと、「近くに空きが出ました」と、さっそく連絡が入りました。知的障害を持つ成人男性6名が利用するホームとのこと。とりあえず私ひとりで見学に出かけました。

 

自宅からバスで15分。まだ新しそうな2階建て。20畳ほどのLDKには、オープンキッチンと6人掛けのテーブル、テレビなどが置いてありました。

そこにいた70歳前後の男性が、どうやらオーナーのようです。

「タバコは吸いませんか」

テーブルに着くなり、そう聞かれました。

「火事が怖いので、タバコをやる人はお断りなんです」

たしかに、タバコの火は火災の原因になりますね。カーテンも壁紙も、燃えにくい素材でできているそうです。

管理責任者の女性が、そのほかにも詳しい説明をしてくれました。何事も、時間や順番などのルールを決めて、それを守ってもらう。食事はスタッフが作る。個室での過ごし方は自由。ただし部屋の行き来は禁止……などなど、利用者への配慮が感じられました。

その後、家の中を見せてもらいました。最初からグループホームを目的に新築したとのことで、至れり尽くせり。リビングの南側にサンルームがあり、洗濯機が3台、物干しざおも6本そろっています。洗面台もトイレも3つ。個室には、ベッド、クーラー、広いクローゼットが付いており、テレビやパソコン利用のための設備もあります。

ルールを守るのは、几帳面な自閉症者の得意とするところ。息子でもやっていけそうです。管理もしっかりしているし、室内もきれい。前向きに考えてみようか……と思いました。

 

ところが、仮入居の話になって、雲行きが変わりました。

「1ヵ月間、体験入居してもらいます。その間、休日に自宅に戻ってもいいのですが、泊まってくるのはダメ。外泊は一切禁止です。他の利用者やスタッフとなじんで、お互いに理解し合うための期間ですから、少しは我慢をしなくては。テレビもリビングでみんなと一緒に見ます。パソコンは持ち込み禁止。のめり込んでしまう人もいるので……」

これじゃ、まるで軍隊です。一気に気持ちが冷めました。

息子は毎日パソコンに向かいます。インターネットでスポーツの試合結果を調べたり、Jリーグのデータを打ち込んだり、ゲームや音楽のさまざまな情報を得たり……と、彼の趣味や生活に欠かせない存在です。コミュニケーションが難しい自閉症者にとって、パソコンが「友達」という人も少なくありません。乱暴な言い方をすれば、生きるよすがともいえるパソコンを1ヵ月も取り上げてしまうことは、目の不自由な人から白いつえを取り上げるようなものです。

自閉症に限らず、知的障害の人々にとっては、最低限の息抜きが保障されて初めて、新しい環境に適応する努力ができるのではないでしょうか。健常者だって同じでしょうに。家に泊まってリフレッシュしてくることに何の支障があるのでしょう。パソコンにのめり込んで困るのなら、「一日一時間だけ」というようなルールを作ればいいのです。なぜ、体験入居の締め付けにそれほどこだわるのでしょう。個性を消して暮らせるなら、障害者支援など必要ないわけで、そもそもそれができないことが障害なのです。

オーナーはパソコンになじめないアナログ世代? スパルタ教育をよしとする昔気質な人? 百歩譲ったとしても、私には納得できませんでした。障害者を支援してやる――そんなおごりが感じられて怖くなりました。

 

後日、この一件を主治医の精神科のドクターに話しました。地域の障害者支援に詳しく、頼りにしている先生です。

「そりゃ話になりませんよ。世の中の支援の流れに逆行しています。こちらからお断りだ」と一笑に付されました。

グループホームは、入所施設ほど規定が厳しくないので、経営者によって、それぞれに特色があるそうです。

「この件は、グループホームを監督する部署に伝えておきますね。諦めないで次を探しましょう!」

そうですね、もっと自閉症に理解のあるホームがきっとあるはずです。

先生の言葉で、やっともやもやが収まって、次へ進む気持ちになれました。


 

 

 


ダイアリーエッセイ:これって、熱中症!?2017年07月29日

 




前回の記事から、3週間以上もたってしまった。その最後を次のように結んでいる。

 

「私は心身ともに疲れ果て、先週、とうとう高熱を出してダウンしました。

……さて、今後どうなりますことやら。」

 

この日は、渋谷で女子会の約束があった。朝から疲れていたので、少し仮眠を取る。起きてからも、まだだるい。栄養ドリンクを飲み、のんびりと家を出た。

渋谷には早めに着いて、ヒカリエをぶらぶらし、美味しそうなお菓子を買い込んだりしてから、約束の店に出向く。

日本酒と和食。駅前の喧騒から少し離れて、落ち着いた店で、気のおけない友人たちと、いつもの楽しいおしゃべりのひと時を過ごす。でも、お酒だけは控えめに飲んだ。

その甲斐あってか、飲んだ後の頭痛もまったくなく、自宅に戻り、快い眠りに落ちたのだったが。

 

夜中、2時半ごろだったろうか。寒くて目が覚めた。

真夏のこと、ベッドサイドにあるものは限られている。それこそ手当たり次第に体に掛けた。タオルケットに、夏の布団に、そばにあったカーディガンまで布団の上から掛け、それでもぶるぶる震えた。歯がガチガチと鳴る。両側の肋骨の痛みもある。

なに、何なの? このまま、どうなっちゃうの……。

 

そういえば、こんな状態を一度経験したことがある。

30年以上前のこと、開腹手術の直後に、寒くてガタガタと震え、看護師さんが手慣れた様子で電気毛布を掛けてくれたのだった。極度の貧血と低血圧に陥っていたらしい。

 

この夜は、震えが止まらないまま、熱が上がってくるのだろう、と予想しながら、朝を待った。朝には、39度近い熱があった。

医者に行く気力はなく、食欲もなく、とりあえず解熱剤を飲んで眠る。薬の効果が薄れてくると、下がった熱がまた上がってくる。喉の痛みはなく、風邪の症状もなく、ひたすら熱だけ。

それでも、3日後には平熱になり、のこのこと電車で出かける元気が戻っていた。

 

その後は、ふたたびいつもの多忙な日々の繰り返し。仕事やもろもろの用事に追い立てられながらも、半年前から予定していた軽井沢の1泊ドライブには出かけた。その合間を縫って、母の病院に通い、母の次の転院先も決めなくてはならなかった。

 

そして、4週間後の726日。ふたたび、夜中の寒けに襲われた。ガタガタ、ぶるぶる。朝にはやはり39度の発熱。

前日は、とても蒸し暑い日だった。仕事先の会場はクーラーがきつかった。あまり気乗りがしなかったが、疲れた体を引きずるようにして、母の病院にも寄った。帰りはラッシュアワーで、しかも電車は事故で遅れて激混みだった。

幸い今度は解熱剤を1回飲んだだけで、熱がぶり返すことはなかったが、食欲が落ち、熟睡できない状態が続いている。

 

これって、熱中症? 自律神経失調症?

二度あることは三度ある……?

いやいや、三度目の正直ともいうではないか。

もし、もう一度同じような症状が起きたら、そのときこそ医者に行こうと思っている。三度目はないことを祈りつつ。








 

〈軽井沢では、広大なローズガーデンのわきに佇む瀟洒なホテルに泊まり、優雅なひとときを満喫したのでしたが……〉






800字エッセイ:「ひとつ屋根の下」2017年07月03日




先日、所属するエッセイストグループの勉強会で、エッセイの課題が出ました。テーマは「住」、字数は800字、というものです。


そして書き上げた作品がこちらです。




 

    ひとつ屋根の下

 

今から20年ほど前まで、実家の両親は、木造2階建ての大きな家に老夫婦2人きりで暮らしていた。一時期は家族8人が住んだ家だ。父は病のせいで足も不自由になっていた。

そんな折、わが家のマンションの一室が売りに出された。同じ1階の4軒隣で、広くて明るく、小さな庭もある。興味本位で見に来た両親は、ひと目で気に入り、横浜から川崎への転居を決めてしまった。

「マンション暮らしは憧れだったよ」

 そう言って喜んだ父は、半年住んだだけで入院し、4年後には帰らぬ人となった。

 母は今でも、父の決断に感謝している。あの家に独り残されずにすんだ。私たち一家のそばに、安心して独り暮らしができる場所を、父が作ってくれた、と何度も口にする。

 母が80歳を過ぎても、元気なうちは何かと助け合った。急な雨には洗濯物を取り込んであげたり入れてもらったり、旅行中の留守を頼んだり頼まれたり。だれかの誕生日には、わが家で一緒にテーブルを囲む。私の家族とはほどよい距離を置いて暮らしてきた。

やがて母は足腰が弱り、自分の食事の支度さえ困難になる。私は料理をお盆に載せて、文字どおりスープの冷めない距離を往復する。

しかし、便利なひとつ屋根には思いがけない弊害もあった。介護保険サービスを受けようとすると、集合住宅の別世帯であっても、身内が同じ建物に居る、と判断されて、条件が悪くなるというのだ。もっと近い距離でも、屋根さえ違えば別の家となるらしい。お役所的な線引きがまかり通っているのである。

母は現在94歳。つい1週間前のこと、玄関で靴を履こうとして倒れ、動けなくなった。救急車で運ばれて入院。大腿骨骨折だった。ストレッチャーに乗せられて出ていった自宅の玄関を、歩いて入る日が来るのだろうか。部屋の明かりは消えたままだ。



 

「たった800字の中に、20年間の情報をうまく盛り込んでいる」というお褒めの言葉をいただきました。手前みそでした。


 

そんなわけで、母は胃がんの手術から1年。ようやく今の介護サービスに慣れ、私の生活も落ち着いてきたところだったのですが、ふたたび家事や仕事をこなしながらの病院通いが始まりました。母の容体やリハビリなど、先行きの心配も尽きません。

私は心身ともに疲れ果て、先週、とうとう高熱を出してダウンしました。

今日からなんとか普通の生活に戻りましたが、さて、今後どうなりますことやら。




映画『ローマ法王になる日まで』を観る2017年06月24日

 



半月ほど前に、映画『ローマ法王になる日まで』を観てきました。

これは、宗教映画ではありません。

現在のローマ法王フランシスコは、1970年代、アルゼンチンが軍事独裁政権下にあったとき、一人の青年神父として、政府の圧力を受けながらも、たえず貧しい民衆に寄り添って、勇気を持って権力と闘ってきました。

彼の半生をできうるかぎり当時の事実に基づいて再現された物語です。

政府に対する反勢力という疑いをかけられては、民衆が捕らわれていくなか、仲間を殺されたり、友人を失ったりもしました。ひとりの人間として、どれだけ苦しんだことでしょう。

 

当時のアルゼンチンでは、ユダヤ人を虐殺したナチスと同様の残虐な行為で、国家が人々を苦しめていたのでした。しかもそれは、第二次世界大戦の話ではありません。

1970年代といえば、日本は昭和の後半、右肩上がりの高度成長期にあって、平和な時代です。私も青春を謳歌していたころです。

その暗黒時代のアルゼンチンで、民衆とともに苦しみ、生き抜いた神父が、現在、ローマ法王というカトリックの頂点に立っているのです。

そして、世界中のあらゆる問題に対して発言をします。環境問題や人種の問題、そしてアメリカ大統領候補に対しても、臆せずに意見する。その説得力、影響力は、この映画で描かれている体験から生まれているのだ、と確信できます。ずしりと深い感銘を受けました。

 

おりしも、現在の日本は、テロの犯罪から国民を守るためという口実で、国民を監視するような法律を無理やり成立させてしまいました。映画の恐怖と似た思いを抱く人も少なくないのでは、と思います。

 

国内でも、上映が広がっているようです。

機会がありましたら、ぜひご覧ください。

映画『ローマ法王になる日まで』公式サイトはこちらです。





自閉症児の母として(42):「桜の風」でショートステイ2017年06月17日

 


長男は、今年3月に初めて障害者支援施設「桜の風」に泊まりました。自立に向けての第一歩を踏み出したのです。

その後は、順調に毎月1度、1泊2日のショートステイを続けています。

 

この宿泊のため、息子は職場で、有給休暇の利用申請書を事前に書いて提出しているそうです。

宿泊の前日には、自分から進んで持ち物の準備も始めます。

持ち物すべてに名前を書き、リストにすべて記入するのは私の仕事。

1泊2日のほとんどの時間、自分の個室でゲーム三昧なので、その量は半端ない。ゲーム機はニンテンドウ3DSだけにすると決めて、ゲームソフトはあれこれ数種類持っていきます。WiFiも持参します。

初回のとき、ゲームと攻略本は2種類だけにしようね、と言い聞かせ、前日には私が持ち物リストにその2つを書いてカバンに入れました。ところが、いざ施設に着いてカバンを開けてみたら、なんとゲーム6ケースと本が6冊も入っていたのでした。

でも、今回は本人の希望どおり、ゲームは5つ、本は2冊となりました。



 

施設到着は11時。車で連れて行きます。

担当の支援員の方と、持ち物のリストとカバンの中身を照らし合わせ、財布の中の金額を確認し、貴重品を預けます。そこまで私が付き添い、そこから先は、保護者退場。ひとりで過ごすのです。もちろん支援員に見守られながら。それが、彼にとっての訓練です。

 

まず、息子は、そこにあふれる音に過敏に反応します。音楽が流れていたり、他の利用者の声がしたりすると、とても気になる。耳をふさいで、自己防衛態勢に入ります。これも、彼にとっては必要な行為です。

 

食事は、食堂で一緒に食べるのだろうと思っていたのですが、希望すれば、自室で落ち着いて食べることができるそうで、今回もそれを希望していました。これまでは、自宅での食事同様、すべて完食!だそうで。

午後には、車に乗せてもらい、しばしのドライブのあと、どこかのお店で、おやつを買います。先月泊まったのは59日、ちょうどアイスクリームの日だったので、行事男の彼は、当然のようにアイスクリームを2つ食べて、ご満悦だったとか。

入浴は、時間になると声をかけてもらい、自分で入っているようです。

就寝、消灯、起床などの生活パターンは得意中の得意。そうやってルールを守ることで、自分を支えているのかもしれません。

翌日は、11時に迎えに行きました。家を出るのが遅れ、着いたのは5分過ぎ。

「遅れた理由は?」と、息子から質問されました。

「車が混んでいたので」と言うと、納得してくれます。ごめんね。

 

主治医のドクターが言われたとおり、自閉的な傾向がある人は、ルールさえ理解できれば、新しい環境でも何の問題もなく、それに従って生活できる強さがあるようです。

 

2ヵ月先まで、宿泊の日程が決まっているので、そのことにも安心できるのでしょう。この調子で、続けていけたらと思います。

次は、2泊に増やすことも考えていますが、焦らない焦らない。たっぷり時間をかけることが何より大切だということは、3歳のころから親の私が学んできたことです。



 

「桜の風」は桜の木々に埋め尽くされているような地域にあります。この時期、桜の青葉の下には、アジサイがたくさんの花を咲かせ始めていました。




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