800字のエッセイ:「母の日のユリの花」2023年06月22日

     

   母の日のユリの花


わが家の36歳の長男は、知的障害があるのだが、家を出て障害者のためのグループホームに暮らし、週末だけ自宅に戻る。

2年前の母の日、彼はひとりで花屋に行ったらしく、帰ってくるとカーネーションの花束を差し出して、「母の日、おめでとう!」と言って手渡してくれた。予期せぬことに、私はびっくりして泣きそうになった。

でもそのあとで、花屋のレシートまで渡されたときは、苦笑してしまった。

 

1年前もカーネーションをもらった。そして今年は、たまたま夫も一緒に出かけて、花屋の店先で、「ママはユリが好きだよ」と教えたそうだ。

息子は「おお、わかった」と言って、大ぶりの白いユリの枝を一本買ってきてくれた。「わあ、ありがとう!」と受け取り、ガラスの花瓶にさして、リビングに飾った。

開いた花は見たこともないほど大きい。つぼみも3つ付いている。毎日1つずつ咲いて、濃厚な甘い香りが家中に立ち込める。この香りが好きなのだ。

花粉が服に付くと落ちにくいので、いつもならおしべを取ってしまうのだが、今回はそのままにしておいた。オレンジ色のおしべが目鼻口で、まるで白い顔が笑っているように見えて、なんだかおかしい。花のサイズも私の顔と変わらない。

 

そういえば息子が子どものころ、「ママの顔」の絵を描いたことがある。ピースマークみたいに、口は耳元まで延び、両目は半円を描いて笑っていた。息子にとって、ママはいつでもこんなふうに満面の笑みでいてほしいのだろうなあ、とつくづく思ったものだ。

子育ての日々はそうそう笑ってばかりはいられなかったけれど、これからはずっと、この花のような笑顔でいよう。息子はこんなに素敵な紳士に成長してくれたのだから……。

いつまでもつ(・・)かわからない花のように、いつまで続くかわからない小さな誓いをこっそり立ててみるのだった。




ご報告のためのエッセイ:「姉からのLINE」2023年02月20日



2日前のこと、

「ご心配をいただきましたが、手術も無事終わり、経過良好で昨日退院してきました。これでまた普通の生活に戻れると思いきや、のどに大きな傷を抱え、術後からの頭痛が抜けず、まだまだ病人状態です。回復が遅いのは年のせい?!と落ち込んでいます」

「ひとみさんの口から落ち込んでると聞くのは、68年間で初めてよ」

私からの報告に、そんな返事をくれたのは3つ違いの姉でした。

意外でした。私はいつだって誰かに愚痴をこぼし、弱音を吐いては、励ましの言葉をもらって支えられてきたと思っていましたから。

そんなふうに突っ張っている妹だった? ……いやいや、これはいつもの姉流の励まし。達者な毒舌の裏が読めたら、ちょっとほろりとして、思わず涙ぐみました。姉の言葉はさらに続きます。

「私たちの母譲りの遺伝子は100歳生存可能なんだから、老年期前の必要なメンテナンス。7080代で脊椎やられている人もたくさんいるから、今のうちに手を打ててラッキーなのよ。

回復しない病気ではないので、ここは心を病まないように、好きな音楽でも聴いて乗り越えて!」

 

たしかに姉の言うとおりです。未来に向けての治療だと、自分でも納得して手術を選んだはず。回復には若い頃の何倍も時間がかかるのは仕方ない。ここで落ち込んでいないで、今日よりは明日、明日より明後日、少しずつ回復に向かうことを信じていましょう。

 

散歩を兼ねて、遠回りで買い物に出ると、久しぶりに通る道沿いの畑で、白梅が花を咲かせていました。これからは次々と花が開き、春はかならずやってくる。何も焦ることはない。そう思えました。

 


旅のフォトエッセイ:奇跡を呼ぶ4人の仲間2022年04月30日


コロナ禍の世の中になって、緊急事態宣言の出ていないゴールデンウィークは、3年ぶりだという。そう言われれば、たしかにそのとおり。ようやく解放されたかのように、人出はかなり増えている。もちろん、感染防止には注意を払ってのことだろう。

そこで私も、旅のエッセイを解禁としたい。じつは、感染拡大の大波をかいくぐっては、小さな旅行に出かけてきた。いろいろと忖度もあり、それをブログに書くことだけは自粛してきたのだった。

  

私には、同じマンションで一緒に子育てをしながら家族ぐるみの付き合いをしてきた仲間がいる。今では酒好き旅好きの気の合うオバサン4人グループとなった。

これまでに、北は北海道の雪まつり、南は沖縄まで、ヨーロッパへも遠征して、いったい何回旅行をしたことだろう。

何といっても記憶に残るのは、2008年と2017年の2度の弘前城公園や、2014年の京都・奈良のお花見ツアーだ。いつも晴天に恵まれ、満開の桜が迎えてくれた。

一説によると、日本三大桜の名所とは、吉野山、弘前城、高遠の桜だという。

となれば、残すは長野県の高遠の桜。ぜひともいつものメンバーで見に行きたいと思っていた。そして、ついにこの春、実現したのである。

 

車で出かけることも考えたけれど、バスツアーに参加して、欲張って信州のあちこちの桜名所を回ろうと思った。開花予報によれば、高遠の桜は411日が満開。そこで見つけたのが、13日出発の12日のツアー。忙しいスケジュールの私たちには打ってつけの日程だ。

気になるのは天気予報。初日は晴れるようだが、二日目は雨マークが消えないままだった。

 

出発当日は、予報どおりの快晴、初夏のような気温だ。

小諸の草笛という名物信州そばのお店で昼食をとる。食べるのが遅い私には、ちょっと時間が足りない。慌てて食べ終え、すぐ隣の小諸城址の懐古園を見て歩く。▼

 


その後、須坂市の臥竜公園へ。大きな池の周囲800mに、ぐるりと桜が並ぶ。満開の染井吉野はもちろんのこと、枝垂れ桜や黄緑色の八重桜など、種類も豊富で楽しめた。▼


 



夕方近くなると、長野県を北上し、県境を越えて新潟県へ。高田城址公園の夜桜を見物する。

バスを降りて歩き出すと、小ぬか雨が降ってくる。まあまあ、黄昏時の雨にかすんだ夜桜も風情があっていいのでは……? とプラス思考の私たち。

どんなに強がっても、明日の高遠は雨だろうなあ、と半分諦めの心境だった。

 



翌朝も、雨はやんでいたけれど、今にも泣きそうな空。天気予報は、ずばり雨。それでも私たちは晴れ女を自認しているのだ。雨が降っては沽券に関わるというもの。何とか4人のパワーを結集して、雨を吹き飛ばしたい……。しかし、その願いもむなしく、道中、バスのワイパーは動き続けていた。


伊那市の六道堤の桜という名所も、きれいだった。が、この曇天。▼


ところが、高遠城址公園にもうすぐ到着という頃になると、雨が止んだのである。しかも、園内の桜は、これ以上のつぼみは一輪もないくらいの100%満開! 

ここの桜はコヒガンザクラという濃いピンクでやや小ぶりの花が愛らしい。








さらにさらに、私たちが園内で桜をめでて、そろそろ帰るころになると、今度は風もないのに急に桜が散り始め、紅白のトリの紙吹雪か、宝塚のグランドフィナーレか、というほどの豪華な桜吹雪となったのだ。

明日までひとひらも残さないで、今日の私たちのために、桜の力を振り絞ってもてなしてくれているかのようだった……。

 

この日の桜のことを、私たちは高遠の奇跡と呼ぶことにした。




ダイアリーエッセイ:次男の卒業2022年03月29日


 

昨日は次男の大学の卒業式でした。


 

27歳にもなる息子の個人情報ではありますが、私は母親としての胸の内を吐露します。

彼は2年の頃に、ある挫折を味わい、「大学をやめたい」と言いだした。しかし、ここでそれを許したら、この先どんなことでも嫌になるとすぐに諦めるようなことになりかねない、と思った。休学はいいけれど、とにかく大学だけは卒業しよう。そう説得しました。それが息子のためだと思ったからです。

 

その後、コロナのせいでリモート授業一色になって、彼はまたもつまずいた。当時は、もし卒業までこぎつけたら、合格発表を見に来た日のように、私はうれしくて泣いてしまうだろうと思っていました。

 

最終的に、1年休学し、在籍期限の8年間を過ごし、合計9年かかって卒業が決まりました。

でも本人はとくにうれしそうではない。やっと足かせが取れてせいせいした……ぐらいの気分のようです。

だからか、私もなぜかあまり喜べない。馴染めない場所に通わせ続けて、本当にこれでよかったのかな、と思えてきます。


いや、これでよかった、と思える日が必ず来る。ここで学んだことがきっと生かされる日が来る。そう信じ続けよう。就職もせず、やりたいことをとことんやって、フリーランスで生きていく彼を、これからも見守っていこう、と新たな覚悟をしました。

 

昨日の卒業式は、保護者はコロナのため出席できず、本人は出席もしたくない。私は独りでキャンパスの写真を撮りに行きました。満開の桜の下、晴れやかな卒業生や保護者が大勢いるなか、ちょっと寂しかった……。

今日は、ゼミの食事会があるそうで、スーツを着て大学に行くというので、またとない写真撮影のチャンスとばかり、またキャンパスへついて行きました。

一日遅れですが、ようやく記念の写真が撮れたのでした。

次男にとっては大学卒業、私にとっては子育て卒業の記念すべき一枚です。


 

この大学には、わが子二人、姉と弟が大変お世話になりました。

私は来年もまた、思い出の桜を見に来ましょう。






俳句のエール2021年02月27日

 先日、エッセイサロンのお仲間から、メールが届きました。

明るくユーモアたっぷりのエッセイを書くかたわら、俳句もたしなむ80代の華子さん。コロナ禍の今、俳句会もリモートになり、横書きでパソコンから投句するとか。そんな選考会で、華子さんの句が選ばれたそうです。

選者のコメントとともに、その句が送られてきました。

 

   春浅し 夫(つま)を残して転勤す  華

 

〈選者のコメント〉

共に仕事を持つ若きご夫妻。妻の方に転勤の辞令。迷ったか、迷わずか、転勤を決めたのですね。夫も励ましたのでしょう。

浅春の出来事であるのと同時に、現代に生きる若い夫婦のあり様を詠んで、春浅きがぴったりだと思います。

 

すぐにわかりました。華子さんは、私の娘のことを詠まれたのです。

たまたま娘の住まいが華子さんのご近所だということもあり、以前から娘のことを気にかけてくださっていました。転勤のことも伝えてあったのでした。

 

その句には、華子さんの温かなやさしい思いが感じられました。

そのコメントは、的確な表現で、句のすばらしさを私に届けてくれました。

二つがセットで、私の胸に響いた時、思わず涙が……。

 

浅い春の、ちょうどバレンタインデーの日に、離ればなれの暮らしを始めた娘夫婦。

それを見守るだけの母親の私。

それぞれへのエールなのだと思えました。

 

娘はようやく2週間の隔離が終わり、明日いよいよ上海の街に足を踏み入れます。



ダイアリーエッセイ:ステキな一日!2021年02月17日

 

日本でも、ついにワクチン接種が始まった。明るい希望のニュースだ。

初めは心配だったが、有効性が高く、副反応のリスクは低いそうだ。特異体質ではないので、ぜひ喜んで受けたいと、今は思っている。

 

午前中から、仲良しグループのラインが入る。

「次の月例会の日時を決めましょう。みんなでおしゃべりして笑い合って、そうやってみんなで年を取っていこうね!」

うれしくて奮い立った。けじめをつけて、緊急事態宣言が解除になったらすぐにでも……。こうして春3月の最初のお楽しみ行事が決まる。

 

関西は冷え込んだらしいけれど、東京地方は青い空が広がり、朝から春の日差しが暖かい。近所の郵便局へ。お気に入りの風見鶏の家の前を通ってみたら、ミモザの花が、もう咲き始めていた。



夕方、ポストに入っていたのは、友人が上梓したエッセイ集。白い地に生き生きとした金木犀の絵が楽しい。誘われるように開くとオレンジ色の装丁がまたオシャレ。彼女の朗らかで闊達なエッセイが、今の季節にふさわしい気がした。


 

郵便局へ出向いたわけは、年賀はがきのお年玉が当たっていたので、交換に。

3等賞の切手シートだけれど、85枚のうちの5枚。確率は悪くない。今年はツイているかもね。

おまけに、なぜか郵便局で、ミツカンのお酢を配っていた。


 

酢テキな一日でした!(お粗末)

 



自粛の日々につづる800字エッセイ:「送迎ドライブで見つけたもの」2020年04月18日

▲朝、グループホームの前の道路で待っていると、息子が走ってくる。


 

緊急事態宣言が出されても、長男が働く福祉の職場は原則休業にはならない。きちんと感染防止に対応した環境を整えている。とはいえ、電車通勤のリスクは避けられない。

そこで私は、息子のグループホームと職場間の送迎を買って出た。朝と夕方、一時間半ずつのドライブだ。

 

終業時は、さすがに疲れた顔の息子に、まずウェットティッシュで手を拭かせてから、チョコやアイスのおやつタイム。食べ終わると、バッグからゲームを取り出して遊び始める。

 

職場のそばに消防署がある。五階建てのビルの間にネットが張られ、隊員たちが忍者のようにその上を移動する。スバイダーマンのように壁を下りてくることも。

署の前の歩道には、たいてい幼い子どもの観客がいて、指さしながらお父さんに何か話しかけている。この時期だからこその父子でお散歩、それとも保育園の帰り道?

 

最初の送迎は34日、桜が満開の頃だった。

途中、休館中の藤子不二雄ミュージアムの前を通る。いつもなら子どもたちであふれている場所だ。裏山には大きな桜の木があり、ひっそりとした建物に向かって枝を差し伸べていた。ドラえもんの描かれた市バスが花吹雪を舞い上がらせて、がらすきのまま走り去った。

 

日がたつにつれて、車の数も減ってくる。燃費もよくなった。車列はまるでソーシャルディスタンスを取るようにして、すいすいと走っていく。

それでも信号で止まると、

「赤信号です。少々お待ちください!」と息子のアナウンス。以前はこんなことは言わなかったのに、やはり非日常が彼をいら立たせているらしい。

 

葉桜になると、今度は花水木が目に付くようになる。ホームの近くの住宅街に、きれいな並木道を見つけた。

街道沿いのツツジの植え込みも少しずつピンク色を増やしていく。

 

息子をホームの前で降ろした後は、FMラジオを聴きながら、リスナーからの「今どきのネタ」に笑い転げる。

「マスクの日々で、口紅がカビた」だって……!


 



自閉症児の母として(60):シチリアのお皿のように2019年03月30日

 


この地域の桜が、今日にも満開を迎えようとしています。


3日前の千鳥ヶ淵。まだ五分咲きから七分咲きでした。)

 

ちょうど1年前の今ごろは、長男の問題に悩み、人知れず涙の日々が続いていました。(いずれ書く日も来るとは思いますが、今はまだ書かないでおきます)

それでも、いつもの友人たちと連れ立って、目黒川のお花見に行きました。



 

川沿いの道に、シチリア島の陶器を扱う小さなお店があります。

そこで目をとめたのが、このお皿。引き寄せられました。


 

思わず手に取って、思ったのです。

息子もこんなふうに明るく笑うお母さんが好きなのだろうな……。

もちろん買って帰りました。

 

それから1年、息子は家を出ました。

この1年間、宿泊訓練を積んで、息子なりにがんばってきました。

私はこのお皿のような笑顔になれたのでしょうか。まだわかりません。泣き笑いの顔をしているかもしれません。

少なくとも息子の問題は解消したように思います。

「長男の巣立ち」の記念として、今日、このお皿を飾りました。

 

どんなに障害を持っていても、成長しない子どもはいない。

私はいつでもそう思っています。

平成が終わって元号が新しくなるこの時に、私の子育ても一つの区切りを迎えて、新しい次のステージに移っていきます。

だから今、子育てに悩むお母さんたち、諦めないで。

かならず笑顔になれる日が来ますから。 

 

 



ダイアリーエッセイ:オリエンタルリリーが咲いて2017年05月31日



母の日に、息子たちがプレゼントしてくれた鉢植えのオリエンタルリリー。10日ほどして、ようやく咲きそろってきた。

花は小ぶりだが、八重になっていて、思わず目を引く。ユリの中でも珍しい。



 

私は、子どものときから、体が小さかった。背丈はいつも、クラスで前から3番目以内。チビと言われるのが嫌で、背の高い人がうらやましかった。

そんな私を慰めるつもりか、母はよく、

「山椒は小粒でピリリと辛い」と言った。

だから何なの、と反発を抱くこともあった。私は山椒ではない。辛いことが人を褒める言葉とは思えなかった。

 

なぜ小さいことがコンプレックスだったかと言えば、小さいと年下に見られる。自分の年相応にふるまっても、生意気に見られてしまう。

中学の部活動で、私の話したことに対して、先輩の男子生徒から言われた言葉を、今でも忘れない。

「おまえは、こまっしゃくれてるな」

思わず、どういう意味ですか、と聞き返した。つまり、小生意気だということらしかった。同じことを背の高い生徒が言ったら、印象は違うのだろう。神さまは不公平。なぜ私はチビなの。そんな気持ちがあった。

それでも、コンプレックスをエネルギーに換えて、小さくても中身で勝負、人の良し悪しは背の高さとは関係なし、とチビを跳ね返すように、がんばっていた。

小生意気に見えたのは、なにも、すべて背が小さいせいではなかっただろう。子どもっぽい顔つきだったこともあるかもしれない。

チビだと言われて反発するのも、生来の性格や、4人きょうだいの中でもまれ育った環境なども一因だったかもしれない。

 

でも、やがてコンプレックスは薄らいでいった。ある大事なことに気づいたのだ。どうやら男の子たちは、小さい女の子が嫌いではないということ。

そして、オバサンと呼ばれるようになると、さらに大事なことに気づく。小さいと年下に見られる。……うれしいことではないか! ようやくチビが報われる時が来たのだ。

 

とはいえ、チビに生まれたことは、その後の私の人格形成に少なからず影響を与えているらしい。チビへの反発心や負けん気が、ピリリとした辛さになった。やはり私は山椒だったのである




 

小ぶりのユリは、花びらを重ねて、見る人を魅了する。

小柄な女性は、幻の若さをまとって、見る人の目をくらますのかも。

 




新しい春が来た!2017年04月09日



かつての私にも、春にはたくさんの人生の節目があった。卒業や入学、転勤など、自分自身のことばかりではなく、結婚後は夫や子どものことで、春はいつも忙しかった。

それがなくなってきたのはいつごろからだろう。気がつくと、年度末の忙しさも、別れの切なさも、4月の新しさも、感じることが少なくなっていた。

 

今年の春は、変化の春にしよう。新しくしよう。願いを込めてそう思った。

 

1週間ほど前、胃カメラの検査を受けた。あまりに胃の不調が続き、いよいよ心配になってきたのである。

胃カメラは初めてではない。大人になり、いらいら、くよくよすることの多い私が、ストレスを胃で受け止めるようになってからは、何回もお世話になっている。

しかし、今回の医師は、鼻から挿入することを勧めた。これは初体験。痛いのでは……と怖気づいた。

 

言うまでもないのだが、胃はストレスでダメージを受けやすい。

1年前の母の入院、手術、その後の介護……。毎日、毎日、毎日、そばに住む私には大きなストレスとなってのしかかってきた。

親の介護は、物理的、時間的な負担だけではなく、精神的な負担があまりにも大きい。実の娘だからこそ、遠慮なく言いたいことを言う母。母のわがままを聞き入れてあげないのは、冷たい娘だからだろうか。残り少ない時間を、なぜ安らかに過ごさせてあげられないのか。ことあるごとに、自分を責めてしまう。

でも、私にも家族があり、仕事があり、自分の人生がある。

そのせめぎ合いに苦しむのだ。かくして、胃の痛む日が増えていく。

 

内視鏡には、胃の表層に櫛でひっかいたような赤い筋が何本も写っていた。

「気苦労が多いもので……」と言うと、

「まさにその痕ですね」と医師。

しかし、重篤な病気ではなさそうで、いくぶんほっとした。

胃痛が完全に消えたわけではないが、気にしないで大丈夫だ、と医師は薬を処方するでもなく、つれなかった。

 

介護がいつまで続くのか、見通しを立てることはできない。それはタブーだ。

ならば、他のストレスを少しでも軽くするほかはないだろう。

 

そこで、思い切って仕事の断捨離をした。

一時期は5つも抱えていたエッセイ教室を3つに減らす。そして、NHK学園の通信エッセイ講座の専任講師も、職を離れることにした。

これで、仕事は半分になったといえる。

 

自由な時間が増えた。少なくとも、月に7日はフリーになる。

さて、何をしようか。新しく何かを始めようか。

まずは、のんびり、ゆったり、考えることからだ。自分のための時間の使い道に、楽な気持ちで思いを巡らす。

胃に優しく、そしてなんと贅沢なひとときだろうか。

  

  

 


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