南フランスの旅のフォトエッセイ:⑥ニースの浜辺のサプライズ ― 2024年07月26日
ニースに着いた翌日は、ステファニーさんのガイドで、念願のマティスのロザリオ礼拝堂を訪ねて、早くも旅の目的を果たすことができ、満たされた気分でした。
そして、夜はコート・ダジュール初のディナー。Hiromiさんとふたり、ステファニーさんお勧めのレストランで、地元のロゼワインとともに美味しい料理を満喫。それは、また次回に書きましょう。
ところで、コート・ダジュールというのは、南フランスの地中海沿いで、とくに美しい海岸があり、温暖な気候から保養地になっている地域のこと。ある作家が『ラ・コート・ダジュール』という小説を出版したことから、この呼び名が定着したとか。日本語に訳せば、「紺碧海岸」ですね。
地理的にいえば、プロヴァンス=アルプ=コート・ダジュール地域圏の中にあり、私たちには、プロヴァンスという名もよく聞くので、はて、その違いはというと、これまたよくわからない。大ざっぱに言えば、神奈川県の海岸沿いのおしゃれな地域を「湘南」と呼ぶようなものでしょうか。
そのコート・ダジュールの中心的な都市のひとつがニースです。
夕食後、ほろ酔いで店を出ても、まだまだ明るい。気持ちのいい風に吹かれて、ニースの浜辺をそぞろ歩きました。ホテルのカーペットの模様と同じような石ころの浜が広がっています。泳いでいる人もいれば、男女混合でサンドバレーに興じる若い人たちもいる。日本人はほとんど見かけません。
夜の8時過ぎの浜辺▼
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男女混合でサンドバレーを楽しむ人たち▲
ふと見ると、男の人が砂の彫像を作っています。腹ばいになった犬の形をしている。彼のアートにチップを上げようと、コインを探しました。
と、その時、
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「これ、何犬ですかね」と、後ろから男の人の声。しかも日本語の。
「え?」と驚いて振り向くと、サングラスをかけたイケメン風の男性が立っている。「ええーっ?」と、2度びっくり。どう見ても、フランス人です。
「今、日本語、しゃべりましたよね。日本人には見えませんけど……」とHiromiさんが思わず尋ねました。
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「僕はニースに住んでいるフランス人。名前はトマといいます。日本語を勉強して、日本でも何年か暮らしたことがあるんですよ」
「あら、私も昔は外国人のための日本語教師をしていたんですよ」と話すと、興味を持ってくれたらしい。
「僕は日本語を忘れないために、日本人と会話がしたいんですけど、お時間があれば、ちょっとお茶でも飲みませんか」と、流ちょうな日本語で、ナンパされたのです。もちろん、断る理由など何もない。あとはホテルに帰って寝るだけ。息子ほどの年の男性に誘ってもらえるなんて、旅先のうれしいハプニング。Hiromiさんも異論はなさそうで、ふたりでトマ君についていきました。
浜辺に面した明るいテラスで、ハーブティーとソッカというお好み焼きのひとくちサイズのようなニース名物をご馳走になりました。
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彼は、日本ではディオールやヴィトンなどのモデルの仕事をしていたと言います。たしかに背も高くてルックスもいい。その写真も見せてくれました。
「でも今は、いずれニースで日本そばの店を持ちたいので、そのための準備中なんですよ」と話す。
「今日はどこかに出かけましたか」と聞かれたので、ステファニーさんのガイドであちこち連れて行ってもらった話をすると、
「ステファニーならよく知っていますよ! ぼく、同級生でした」
「えええーっ!」と、3度目のびっくり。地元の高校で一緒に日本語を学び、パリの大学でも一緒だったというのです。ニースはなんと狭いのでしょうか。
最初はちょっと警戒したけれど、ステファニーさんに連絡してみればすぐわかること。トマ君の言うことを信用しよう、とちょっとほっとしました。
ステファニーさんからも聞いてはいましたが、高校の日本語の授業では、漢字を何百と覚えさせられ、読み書きをきっちりと学んだそうです。だからこそきちんとした日本語を話せるのだろうと推測できました。彼らにとって日本語をマスターする難しさは、教師だった立場からもよくわかるのです。
トマ君、見かけと違って、意外と真面目でひたむきなのかもしれない、と見直したのでした。
「明日はママの誕生日だから、お寿司をご馳走するんだ」と彼が言ったとおり、翌日には、お寿司の写真と、はつらつとしたママとのツーショットが届きました。
彼には黙っていたけれど、じつは私は、彼のママと同い年。ニースにもう1人の息子ができたような気がして、なんだかうれしくなりました。
ステファニーさんからも、メールが来ました。
「ニースでトマ君に会ったのですか? あまりにも偶然でびっくりです、笑」
かつては一期一会だった旅の出会い。今はSNSで簡単に繋がることができます。世界は小さくなり、私の世界は広がっていく。
ときどき、2人の投稿を見ては、「いいね♡」を送ったり、コメントを書いたり。
またいつか、ニースに行くことも、彼らと日本で会うことも、もう夢ではなくなりました。
南フランスの旅のフォトエッセイ:⑤Hotel Beau Rivage ― 2024年07月15日
ニースで3泊したのは、Hotel Beau Rivage (ホテル・ボー・リヴァージュ)という4つ星ホテルでした。
Beau Rivageとは、フランス語で「美しい海岸」という意味です。その岸辺に建つホテルだという自負があるのでしょう。旧市街からも近く、立地条件の良さは抜群です。
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ホテルの廊下には、リアルな小石模様のカーペットが。▲
このホテルには、もうひとつ、すごい歴史がありました。それを知らずに予約してもらっていたのですが……。
1917年に、アンリ・マティスは初めてニースにやって来た。その時に泊まったのが、このホテルだったのです。しかも、それはクリスマスの日だったそうで、寒くて暗いパリから、暖かな陽の光が満ちているはずのニースへ、明るい希望を抱いてやって来たことでしょう。がしかし、運悪くひと月も雨が降り続いたとか。
その107年後、私たちは同じホテルにチェックイン。宝くじに当たった気分です。
きれいにリフォームされて、当時の面影はないのかもしれませんが、ロビーにも朝食をとるレストランにも、マティスのポスターや複製画がたくさん飾られていました。
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このシリーズ「南フランスの旅のフォトエッセイ」のプロローグとして、出発前日の6月3日に書いた記事「南フランスへ」の中でも、著書とともに紹介しています。
とくに今回のシリーズは、彼女がJAL機内誌SKYWARDに載せた「南フランス アンリ・マティスの光」という記事を参考にさせていただきました。プロのライターのメリハリが利いた文章も魅力のひとつ。ぜひお読みください。
(WEBマガジンで読むことができます)
さて、その美しい海岸で、サプライズに遭遇します。
次回、お楽しみに。
(⑥に続く)
南フランスの旅のフォトエッセイ:④Hiromiさんのナイスアイデア ― 2024年07月12日
さて、話は1日前に戻ります。
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6月4日の朝6時に家を出て、空港バスで成田へ。
11:20発のオランダ航空でアムステルダムへ。現在はロシア上空を飛べないので、北極海上空を飛んでいるようでした。13時間かかって到着。
スキポール空港で乗り継いで、ようやくニース・コートダジュール空港に到着したのは、現地時間の22:25です。東京は、時差7時間、翌朝の5:25着となり、自宅からここまで24時間近くかかったことになる。まあなんと長旅だったことでしょう。早くホテルで眠りたい……。
空港からホテルまでは、夜も遅い時間なので、日本で旅行会社の送迎車を手配してきました。
ところが、着いた時にお迎えらしき人がいない。待てど暮らせど、現れない。予約手配をしてくれたHiromiさんが、問い合わせ用のアプリをダウンロードして、電話をかけようにもなぜか通話ができないのです。
小さな空港ロビーから、ほとんどの利用客は姿を消していきます。30分たってもらちが明かず、客待ちをしていたタクシーでホテルに向かうことにしました。
一見怖そうなドライバーがたむろしています。その中のひげ面の1人が、私たちを見つけて、当然乗るだろう、と目で合図をされました。フランスのタクシーは問題ないとは聞いていたので、勇気を出して乗ることに。
スーツケースをトランクに入れてもらって、「Hotel Beau
Rivage」と告げると、すぐ走り出しました。
「英語を話しますか」と聞くと、「あまり上手じゃないけど」と言いながら、おしゃべり好きなフランス人らしく、いろいろ彼のほうから質問してきました。
最初の質問は、「どこから来ましたか」。
日本だと答えると、「日本に行きたい!」と急にテンションが上がりました。彼の友人も日本を旅して、とてもよかった、おもしろかった、と彼に薦めたそうです。30代か40代ぐらいの彼にとって、日本はアニメやゲームの聖地なのでしょう。彼は「ワンピース」などのマンガ本を読み、彼の息子たちはポケモンやマリオなどのゲームで遊んでいるとか。
そんな楽しい会話をしているうちに、あっというまにホテルに到着。スーツケースを下ろしてもらい、料金とわずかなチップを渡すと、さっさと車に戻ろうとした彼を、私たちは引き留めました。
「日本のおみやげを渡したいから、ちょっと待って」
Hiromiさんがスーツケースの中から取り出したのは、ポケモンのキャラクターが描かれているスナック菓子と、「きのこの山」。
「日本のお菓子です。お子さんたちと食べてね」
彼はびっくりして、そして、とてもうれしそうな笑顔で「サンキュー!」と言ってくれました。
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Hiromiさんは前回のクロアチア旅行でも、「チップと一緒に渡すと喜ばれるのよ」と言って、ポッキーとかハッピーターンとか、日本のお菓子をたくさん買い込んできてくれたのです。実際に、彼女がお菓子を渡すと、こわもてのドライバーさんがみな一様に顔をほころばせるのでした。
今回の旅でも、「私に任せて!」と大量に持ってきてくれていました。
到着早々の空港で見舞われたアクシデントだったけれど、Hiromiさんの機転で、こんなにステキな笑顔に出会えたのです。まさに、災い転じて福となす。
後日、送迎車を予約した旅行会社からは丁重なお詫びのメールが届き、全額返金となりました。
南フランスの旅のフォトエッセイ:③マティスのロザリオ礼拝堂へ ― 2024年07月04日
そもそも、私がこのマチスの礼拝堂の存在を知ったのは、昨年の夏、東京でのマティス展でした。その展示と動画を見た時、ここへ行きたい。次にヨーロッパへ行くなら、この教会のある南フランスへ。そう思ったのでした。
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礼拝堂のステンドグラスを透した光が美しいのは午前中、とりわけ冬の11時ごろだ、とマティス自身も言っていたそうです。ステファニーさんに朝早く出発してもらったのですが、ヴァンスの街に着いた頃にはあいにくの曇り空になっていました。
▼まず、道路わきに車をとめると、屋根から伸びた細くて華奢な十字架が目に入ります。向こうの黄色い建物はドミニコ修道会のものです。
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▼道路と反対側に回ると、庭があり、ブーゲンビリアが咲き、ブドウ棚の葉も茂っていました。見晴らしがよい丘の中腹に位置することがわかります。
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▲ここが入り口。憧れのチャペルにはるばるやって来たことに胸ときめかせながら、足を踏み入れたのですが、中に入ると、まず礼拝堂の手前にあるのは、美術館のような展示スペース。2016年に訪れる人々のために設けられたのだそうです。チャペルの中は撮影禁止なので、ここでたくさんの写真を撮りました。
そして、ようやくその奥へ。
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(▲上2枚の写真は、絵はがきを写したもの)
それは小さな礼拝堂で、50人も入れば満席になりそうな椅子が並んでいる。奥まった位置には別の椅子が並び、それはシスター(修道女)たちの座る場所だそうで、祭壇は、一般の人びととシスター席の両方に向くように、斜めに据えてありました。
祭壇の背後には、何かの植物の絵のステンドグラスが……。切り絵をモチーフにしたその柄をよく見ると、黄色いのは葉ではなく花で、ネイビーの部分が楕円形の葉だと気づきました。そう、サボテンです。そういえば教会の庭にも同じ形のサボテンがありました。
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(▲これも絵はがきです)
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▲サボテンのステンドグラスの外には、本物のサボテンが負けじと大きく茂っていました。
横の壁には、天井まで届きそうな細い窓がいくつも並び、ステンドグラスには、ネイビーと黄色の大胆で鮮やかな切り絵の葉が、コバルトグリーンを背景に描かれています。「生命の木」と呼ばれているそうで、ここから日が差し込めば、天国のような光に満ちた空間が生まれるのでしょう。
▼これは、展示スペースにある写真。作者マティスが写っています。
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白いタイルの壁には、晩年のマティスが好んだシンプルな黒い線で描かれた聖母子像や、十字架の道行きの絵がありました。
下の写真は、その聖母子像の下絵を描いているマティスの写真です。
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この「十字架の道行き」というのは、キリストが死刑判決を受けてから、十字架を担って歩き、三度倒れ、十字架にはりつけにされて死に、墓に葬られるまでの14の場面を描いたもの。一般的に教会では、それぞれの14枚の絵が礼拝堂の壁に順を追って掛けられているのですが、マティスはコンパクトに一枚の絵に収めています。
ステファニーさんは、私が「道行き」という言葉を使ったことに耳をとめ、その日本語を確認していました。ガイドとして、今なお日本語のブラッシュアップを心がける姿勢に頭が下がります。
マティスは晩年、がんに侵されます。その療養中に献身的な看護をしてくれた女性がいたのです。話し相手でもありモデルとしても、画家に尽くしました。やがて彼女がドミニコ会の修道女となり、会のための礼拝堂を作りたいと望んでいることを知り、マティスは自分にやらせてほしい、と申し出ました。そして、4年の歳月をかけて、彼の芸術のすべてを注ぎ込んで完成させたのだそうです。
その3年後、彼は天に召されました。
ピカソもシャガールも、芸術を通して深い親交があったはずなのに、彼の葬儀に姿を見せなかったといいます。マティスがロザリオ礼拝堂を請け負ったことに嫉妬し、その出来栄えにも嫉妬したのかもしれません。
そんな人間臭いエピソードが、聖なる場所である礼拝堂に絡んで語られる。じつにおもしろいと思いました。
光に満ちたニースの空、風、海、植物たち。そしてこの地にやってくる芸術家たちの人間模様。何もかも神様は微笑みながら見ておられる。マティスのことも、やさしく天国に迎え入れたことだろうと、ひそかに想像してみました。
マティスが亡くなったのは、私の生まれた年。それもほんの2ヵ月前だったのです。ここまでやって来たのはたんなる偶然だとわかっていても、日常を離れた旅先で、不思議な巡りあわせを感じました。
(④に続く)
南フランスの旅のフォトエッセイ:②ルノワール美術館へ ― 2024年06月26日
マイ・コート・ダジュールのサイトに問い合わせをし、何回もメールのやり取りをして、6時間のチャーターツアーをステファニーさんにお願いすることに決めました。ニース近郊のルノワール美術館、マチスのロザリオ礼拝堂、サンポール・ド・ヴァンス村の3ヵ所を、彼女の運転する車で巡ります。
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夜遅くニースのホテルに着いた翌朝、青空が私たちを歓迎してくれました。
海沿いの道路をステファニーさんが運転する大きなベンツで走っていきます。「イギリス人の遊歩道」と呼ばれる海辺の道を、たくさんのジョガーが走っていきます。気持ちよさそう!
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最初に訪れたのは、カーニュ・シュル・メールという小高い丘の上にあるルノワール美術館。
ルノワールは、モネと並んで日本人にはなじみ深い印象派の画家です。40代からすでにパリの画壇では認められた存在になっていましたが、晩年、リウマチを患い、医師から温暖な南仏で療養することを勧められ、この地にやってきました。
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1907年には、広いオリーブ畑の敷地を買い取り、この家を建てました。現在は遺品が展示されて、美術館として利用されています。
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ルノワールの身を包んだケープ、ステッキやベル、けん玉もありました。
彼の絵具箱、イーゼル、腰かけた車いすも、部屋の中に並んでいます。
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ルノワールは、妻のアリーヌと、3人の男の子に囲まれ、また、たくさんの弟子たちも出入りする賑やかなサロンのような家で、幸せな晩年だったのではないでしょうか。
私はかつて、ルノワールのふやけたような女性の絵(Pardon! 失礼 )は、あまり理解できませんでした。でも、最近はようやくわかりかけてきたような気がします。光を分解して、たくさんの色遣いで描かれた人物像は、その人の内面まで浮かび上がらせる。ルノワールが愛情を注いだ家族も、愛らしい子どもたちも、生き生きとして見えるのは、そのせいかもしれません。
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女性用の日傘や帽子とともに、「大水浴図」の絵が▲
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ルノワールの部屋の鏡を使って、3人の記念写真をカシャリ。▲
左がステファニーさん、右がHiromiさん。
広い庭には、オリーブの木や菩提樹も、今なおルノワールの描いた景色がそのままに残され、遠くの旧市街の街並みも、大きくなった木々のはるか向こうに見ることができました。▼
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▲彼が描いた農家の倉庫も当時のまま。
昨日までは、私は日本にいたのに……、今は20時間近くかけてやって来た南フランスの丘で、地中海からのさわやかな風に吹かれている。夢を見ているのかも、とちらりと思ったのでした。
(③に続く)
南フランスの旅のフォトエッセイ:①ステファニーさんとの出会い ― 2024年06月21日
2019年10月にクロアチア旅行をした後は、翌年の1月から新型コロナのパンデミックが始まり、海外旅行はおあずけとなりました。
昨年2023年5月にようやくコロナが5類移行となり、いろいろなことが解禁となり、私もコロナ以前の暮らしに戻れると期待したのでしたが……。
7月には遅ればせながらコロナに感染したり、夏にはぎっくり腰にやられて動けなくなったり……。同じころに義姉が脳出血で倒れ、入院中の義姉と、実家に一人残された高齢の義母との2人の世話をすることになったり……と、のんきに旅行どころではない難題が立ちはだかりました。
それも何とか落ち着いてきて、今年こそはいざヨーロッパへ。その希望をかなえるべく、ひそかに計画を進めたのでした。
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まずはガイドブックを見つけようと立ち寄った本屋さんで手にしたのが、『ニースっ子の南仏だより12ヵ月』でした。フランス人の女性が日本語で書いた本! かつて日本語教師をしていた私としては、それだけで興味津々です。
著者のステファニーさんは、高校生の時に日本語を学び始め、さらにパリの大学で勉強を続け、日本にも何度か留学したことで、読み書きもでき、流ちょうな日本語が話せるようになっていったのです。彼女の努力と、日本語への愛情のたまものにほかなりません。
こうして、その稀有な能力を生かし、日本人のための観光ガイドとして地元ニースで活躍してきました。この15年間、毎年ほぼ400人の日本人を案内しているとか。今ではマイ・コート・ダジュールという会社の代表であり、結婚して2人の男の子の母親でもあるという、スーパーレディなのです。
この本と出合えて、ラッキーでした。
私は、若いころからフランスが好きで、パリへは何回も訪れていますが、なぜか南仏に足を延ばしたことはありません。でも、昨年、東京で開催されたマチス展で、マチスが最後に手がけた南仏のロザリオ礼拝堂のことを知り、ぜひそこに行ってみたいと思ったのです。
今度の旅は、南仏へ行こう。
手がかり、足がかりは、ステファニーさんにアクセスすることから始まりました。
そして旅の道連れは、前回のクロアチアでも一緒だったHiromiさん。
彼女はすでに昨年、コロナ解禁後にイギリス旅行をしていましたが、初めての「南仏の旅」に心が動いたと言って、付き合ってもらえることになりました。
(②に続く)
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▲菩提樹の木の下で、左がHiromiさん、右がステファニーさん。
南フランスへ ― 2024年06月03日
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明日から、5年ぶりの海外旅行に出かけます。
行き先は、オリンピックで賑やかしそうなパリを避けて、南フランスを訪ねます。
★『ニースっ子の南仏だより12カ月』ルモアンヌ・ステファニー著
★『南フランスの休日 プロヴァンスへ』町田陽子著
この2冊に導かれて、旅の計画が出来上がっていきました。
ニースと、アヴィニョンで、それぞれの著者にお世話になる予定です。
帰国したら、少しずつ、旅のフォトエッセイをブログに載せていけたら、と思っています。
それでは、行ってまいります❣
800字のエッセイ:教科書にない言葉 ― 2021年07月03日
何の小説だったか、いつ読んだのか、どうしても思い出せない。そこにこんなくだりがあった。
――中国から来日して暮らす中国人家族がいた。偉人の名を付けたというその男の子の漢字名は、日本人が読むと「バカ」と読めてしまうのだ。ところが母親は、日本語の教科書にその言葉がなかったせいで、息子がいじめられていることに気がつかなかった――
それを読んだときに、5年前のことを思い出したのだった。
友人と二人でパリを訪れた。旅行会社の勧めで、空港からホテルまで送迎車を頼んでおいた。出迎えてくれたパリジャンのFさんは、日本語が達者ですぐに親しくなった。
ヨーロッパの人はたいてい運転がうまい。Fさんもしかり。幹線道路が混んでくると、勝手知ったるパリの道とばかりに、脇道を抜けて走っていく。
片側にびっしりと縦列駐車が連なっている狭い道路で、1台分だけ空いたスペースに、車を止めようとする女性ドライバーがいた。車のおしりを突っ込んでは出し、突っ込んでは出し……。私たちの車はじっと待たされ、Fさんが呟いた。
「ヘタクソ」
私はピンと来て、すかさずこう言った。
「Fさんの奥さんって、日本人でしょ」
「そうです! なんでわかるの?」
友人も同様に、「なんで?」と目を丸くした。
私は30代まで、日本語教師をしていた。学校には日本人と結婚している外国人も多く、彼らの日本語には、教科書では絶対教えないような言葉がたくさんあった。生活の中で連れ合いから教わっているのだ。教科書に「下手(へた)」はあっても「ヘタクソ」はないのである。
コロナ禍のテレビ報道は、ロックダウンによって人影の消えたパリの街角を映し出す。Fさんの奥さんの実家は福岡だと言った。今はどこで暮らしているのだろうか。
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☆冒頭の小説に心当たりのある方は、ぜひ教えていただけるとうれしいです。
おススメのエッセイ集:『あの日のスケッチ』松本泰子著 ― 2019年12月19日
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古くからのエッセイ仲間でもある友人の泰子さんが、満を持して、エッセイ集を編みました。
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落ち着いたサーモンピングの表紙を埋め尽くすように散りばめられたイラストは、すべて彼女の次男くんの描いたもの。素敵でしょう!
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表紙だけではなく、ページのあちらこちらに、そのエッセイにふさわしいカットが飾られています。オリジナルのしおりまで作って挟みました。
ところで、泰子さんとは、2016年3月にふたりでパリ旅行をしているのです。
その時のエッセイ「女友達との旅」も載せてくれました。そして、そのエッセイには、白ワインのグラスの挿絵が添えてあるではありませんか。
思わず、にんまり……!
あの日の思い出が、シャブリの香りとともに、懐かしくよみがえりました。
どうもありがとう、泰子ちゃん。
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あの旅のことを、私はほとんど書き残せなかったのです。帰国したその夜に、母ががんに侵されていることを告げられ、それからは超多忙な日々で、エッセイを書く余裕はありませんでした。
でも、今からでも、あの充実したパリの旅を書いておきたい。泰子さんの本を読んで思いました。
私が、エッセイの中でどんな登場をしているのか、って? うふふ、それはぜひ、買って読んでみてくださいな。
そのエッセイに限らず、どのエッセイにも、彼女の感性が光り、味わいがあり、同世代としても共感でき、聡明な女性の文章が心地よく胸に落ちるのです。
アマゾンでお求めになってお読みいただけたら、私もうれしいです。
また、彼女は、書き溜めたエッセイを本にまとめていく作業を、自分の「エッセイ工房」というサイトに詳しく書いています。エッセイに興味のある方、ご自分も本を出したいと思っている方、必見です。とても参考になりますよ。
こちらもおススメのサイトです。
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