ご報告のためのエッセイ:「グループBになる」 ― 2023年07月14日
*** グループBになる ***
遅ればせながら、いや、遅まきながら、いや、いまさらですが、ついに、とうとう……と、友人に近況を伝えるまくら言葉が決まらなくて悩んだ。
6月下旬のある日、翌日からの旅支度をしながら、のどが痛くなってきて、あらちょっとヤバいかな、と小さな不安が湧いた。友人と2人で、1泊2日、青森の美術館を訪ねるツアーに出かけるのだ。あわてて風邪薬を飲んだ。
翌朝5時過ぎに起きて、ぼーっとした頭で身支度を始めた。大丈夫そうだ。でも念のため熱を測ると、37.6度。ダメだ! ぼーっとしているのは早朝だからではなく、熱のせいなのだ。ああ、ドタキャンするしかない。すぐに友人にラインをした。
「残念だけど、お大事に。当日キャンセルだと旅費は戻ってこないかなぁ」と返事が。
仕方ない。よりによって出発の日に、と不運を嘆くばかり。かっくりしてふたたび眠りに落ちた。お昼ごろ目覚めると、熱は39度近くに上がっていた。出かけていたら、向こうで大変なことになったにちがいない。ドタキャンできてよかったのだ。今度は解熱剤を服用し、自宅にあったコロナの抗原検査キットを試してみた。陰性だったのでひと安心。今大流行の夏風邪だろう。
翌日、まだ熱は37度台。念のため、ふらふらしながらも近くのクリニックの発熱外来に出向いた。
受付にもアクリル板、待合室にも大きな透明なカーテンがひらひらしている。コロナが5類に移行しても、ここは時間が止まったままなのだ、と改めて思う。
狭い部屋の診察台に腰かけて、しばし待つと、青い防護服に身を包んだ男性の医師が、カーテンの向こうから現れた。数年前にできたクリニックで、初めて会う先生だ。
「インフルエンザとコロナと、両方一度に検査できるので、それをしましょうか」
穏やかな口調で言われ、「はい、お願いします」と答えた。
検査は、自分でやればいいので楽だった。鼻の奥を拭った検査棒を看護師に手渡し、スマホをいじっているうちに、ふたたび先生が現れて、検査キットの表示板を見せてひとこと、「コロナ陽性ですね」。
え、まさか……。
もう、世の中はどんどんコロナ前に戻ろうとしていた。デパートの入り口に並んでいた消毒液や体温測定器が消えている。カフェのアクリル板もなくなった。緊張してそれらを利用していたあの頃が懐かしくさえある。電車に乗ればノーマスクの乗客が半分以上も。コロナが消えたわけではないのに、もうだれも何も守ってはくれないのだと心細さを感じる。5類になってもコロナはコロナ。いやいや、もうかつての脅威はない。……本当にそうなのだろうか。
疑心暗鬼になりながらも、飲み会は復活する。家から駅まではマスクをしないで歩くようになった。
そんな矢先に、コロナにつかまったのだ。
クリニックからの帰り道、呆然としながらも思いめぐらす。それにしてもどこで拾ったのだろう。ここのところ連日出かけていたけれど、周りに怪しい人はいなかった。憶測をしても始まらないのが5類というわけか。
ほぼ毎日家にいる夫も驚く。「じゃあ、当然僕もうつってるな」と何やらうれしそうだ。
北側と南側の窓を開けて換気をよくした。私がリビングやキッチンに立ち入るときは手の消毒をする。家族3人マスク着用。私の食事は時間差で。あとはひたすら自分の部屋にこもる。3日間は熱が上がったり下がったりで、頭痛も咳もつらい。薬を飲んでは眠っていた。
食欲もなかった。おかゆに豆腐の味噌汁に卵焼き、プリンにヨーグルト。幼児食のようなご飯を一人で食べていると、夫がテーブルに来て食後のコーヒーを飲もうとする。
「うつりたいの?」
「あ、そうか」と、何を考えているのか、能天気なことよ。
ついにこちら側に来てしまった。グループAからグループBの人間になってしまった。そんなふうに感じた。
以前はある種の偏見を持って、感染した人たちを見ていたかもしれない。かつては命を落とすリスクも大きかった。グループBへは行きたくない。そう思っていた。
でも、いざこちら側に来てみれば、もうリスクもだいぶ小さくなって、のんきにエッセイなど書いている。症状も何度かかかったことのあるインフルエンザとほとんど変わらない。5類になった今でよかったのだ。見返りとして3ヵ月の免疫抗体がもらえることだし。
「遅まきながらコロナにやられました」
結局そんな文面でさらりと近況報告をした。すると、あれよあれよと体験談が寄せられて、グループBの人の多さに今さらながら気がつく。
発症から3週間が過ぎた。もうとっくに元通りの生活をしているのだが、のどのいがらっぽい不快感だけがなかなか抜けない。これが今回のコロナの特徴らしい。
「それに、ちょっと物忘れがひどくなったみたいで、後遺症かも?」
「それはコロナのせいじゃなくて、お年ゴロのせい」
予想どおりの答えが返ってきた。

おススメの本『木挽町のあだ討ち』 ― 2023年07月02日
先ほどまで、大河ドラマ「どうする家康」を涙ながらに見ていました。
「鎌倉殿ロスだから、家康は見たくない」という友人もいます。マツジュンがタイプでないという友人もいます。……といった感じで、私の周りでは、ちょっとばかり視聴率が低そうです。
私はといえば、いつものように、日曜午後8時は大型テレビにかぶりついて見ております。
現代劇みたいでチャンバラシーンも少なく、重厚感もなく、従来の大河ドラマがお好きな方にはつまらないもしれません。風変りすぎて。
現代人が描く〈戦国時代劇〉だと思えば、それなりにおもしろいですよ。
なんといっても、私にはこれを見る理由があるのです。
月に一度、浜松のカルチャースクールで、「初めてのエッセイ」の講師を務めています。浜松愛にあふれた生徒の皆さんの影響で、私もすっかり浜松びいきになりました。
そして、ちょうど一年前の今ごろ、浜松城を訪ねました。興味も倍増するというものです。
前置きが長くなりました。
そうそう、大河ドラマの今回は、家康の妻と息子の信康が謀反の罪で、自害するシーン。今生の別れが描かれました。
それを見ながら、思い出していたのは、昨晩読み終えた本のことでした。
それが、『木挽町のあだ討ち』。著者は、永井
紗耶子さん。
じつは、今月発表になる直木賞の候補5作の中のひとつで、唯一の女性作家です。
私はいつも女性を応援したい。男女格差が先進国の中でもほぼ最下位の日本、女性に頑張ってほしいのです。というわけで、読み始めたのでした。
初めて読む作家ですが、同じ大学の文学部卒という経歴に親近感がわきます。
これまでの著書には時代小説が多いようですが、流れるような読みやすい文章、武士道についても、市井の人々の生き方なども、肩肘張らない深い洞察が感じられます。
そして、なんとも胸のすくあだ討ちでありました。
ところで、6月2日の記事に、「直木賞を読む」というエッセイを載せています。
現在も直木賞作品を読破するという目標は続いていますが、〈直木賞を受賞する前にその作品を読了する〉という二つ目の目標も持っています。
いまだ達成できたことがないのですが、この本はいけるかもしれない、とひそかに期待しています。
今年上半期第169回直木賞の発表は、7月19日です。
さて、ドラマの自害シーンと、小説の中のあだ討ちシーン。同じか否か。
ぜひ、皆さんも、だまされたと思って、この本を手に取って確かめてください。

800字のエッセイ:「母の日のユリの花」 ― 2023年06月22日
母の日のユリの花
わが家の36歳の長男は、知的障害があるのだが、家を出て障害者のためのグループホームに暮らし、週末だけ自宅に戻る。
2年前の母の日、彼はひとりで花屋に行ったらしく、帰ってくるとカーネーションの花束を差し出して、「母の日、おめでとう!」と言って手渡してくれた。予期せぬことに、私はびっくりして泣きそうになった。
でもそのあとで、花屋のレシートまで渡されたときは、苦笑してしまった。
1年前もカーネーションをもらった。そして今年は、たまたま夫も一緒に出かけて、花屋の店先で、「ママはユリが好きだよ」と教えたそうだ。
息子は「おお、わかった」と言って、大ぶりの白いユリの枝を一本買ってきてくれた。「わあ、ありがとう!」と受け取り、ガラスの花瓶にさして、リビングに飾った。
開いた花は見たこともないほど大きい。つぼみも3つ付いている。毎日1つずつ咲いて、濃厚な甘い香りが家中に立ち込める。この香りが好きなのだ。
花粉が服に付くと落ちにくいので、いつもならおしべを取ってしまうのだが、今回はそのままにしておいた。オレンジ色のおしべが目鼻口で、まるで白い顔が笑っているように見えて、なんだかおかしい。花のサイズも私の顔と変わらない。
そういえば息子が子どものころ、「ママの顔」の絵を描いたことがある。ピースマークみたいに、口は耳元まで延び、両目は半円を描いて笑っていた。息子にとって、ママはいつでもこんなふうに満面の笑みでいてほしいのだろうなあ、とつくづく思ったものだ。
子育ての日々はそうそう笑ってばかりはいられなかったけれど、これからはずっと、この花のような笑顔でいよう。息子はこんなに素敵な紳士に成長してくれたのだから……。
いつまでもつかわからない花のように、いつまで続くかわからない小さな誓いをこっそり立ててみるのだった。

ほぼ2000字のエッセイ:直木賞を読む ― 2023年06月02日

油絵を習っているという友人に聞いた話だ。彼女の絵の先生は、
「本物を見なさい。展覧会に行ったら一等賞の絵だけ見ればよい」と言うのだそうだ。
絵に限らず、文章も同じではないか。一等賞の文章を読もう、できればおもしろいものを、といつも思っていた。ある時、はたとひらめいた。そうだ、直木賞受賞作がいい。大衆文学の一等賞だ。エッセイの上達のためにも、ちょうどいいのではないか。
そこで私は、柄にもなく目標を打ち立てた。10年ほど前のことだ。
《西暦2000年から現在までの直木賞受賞作を読破する》
昭和10年に文藝春秋社が始めたこの賞は、著名な作家陣10名ほどが選考にあたり、毎年7月と1月、その半年間に発表された小説の中から選ばれる。受賞作2作品のこともあるし、該当なしのこともある。
ところで、私の目標はなぜ2000年からなのかというと、それには理由がある。1999年上半期の受賞作に、かつて読み始めたのだがどうしても読み進むことができずに投げ出した作品があったのだ。佐藤賢一著『王妃の離婚』。3分の1まで頑張ってみたけれど、何がおもしろいのがわからないままギブアップしてしまった。これを課題図書としないための年代設定だった。
それから3年ほどで目標は達成できた。それ以後も継続中で、新しい受賞作を欠かさず読んでいる。この1月に発表された2作を読み終えて、合計58冊、すべて読破し続けている。
それにしても『王妃の離婚』は、なぜそれほど相性が悪かったのだろう。謎を解くためにも、再挑戦してみようかと思うこともある。
私のもくろみどおり、読破した一等賞の作品はどれも本当にすばらしい。おもしろい。裏切られることはない。
なんといっても、読書の幅が広がった。自分で思うに、私は何事にもあまり好奇心旺盛ではない。この目標がなかったら、自分から手を伸ばすのはたいてい、お手軽な恋愛小説とか、のめり込んでしまうような推理小説とか、できれば舞台は現代で、リアリティがあって共感しやすいもの……といったところだった。知らないジャンルは避けてきた。
そんな私が、戦国時代だろうと明治時代だろうと、異国の物語だろうと未知なる生業の物語だろうと、機械的にページを繰っては文字列を追い続ける。そのうちに、しっかりと小説の中に埋没して、胸躍らせながら楽しんでいる自分がいるのだ。みずから定めた目標は、期待以上に効果があった、と自画自賛している。
ところが、である。2年前の受賞作『テスカトリポカ』佐藤究著。これにはまいった。初めて選考委員を恨んだ。なぜこれが受賞作なのかと。
おどろおどろしい古代遺跡の一部のような表紙も、一度では覚えられないタイトルも、古代アステカ文明の神様らしい。舞台は1990年代のメキシコから始まり、日本、ジャカルタにも及んでいる。麻薬密売組織の抗争。謎の密売人、闇の医師、プロの殺し屋たちの暗躍。古代文明の残虐ないけにえの儀式。巨額の資金が動く臓器売買という闇のプロジェクト……。最初から殺戮シーンが冷酷に克明に描かれ、物語が展開するにつれて、それらは狂気を増してエスカレートしていくのだ。
ちょうどその頃、朝日新聞デジタル版に、選考委員を退任した北方謙三氏のインタビュー記事が載った。彼は私の目標と同じ2000年以来の就任だったというから、選考の様子や印象的な作品など、話の内容がすべて理解できておもしろかった。
『テスカトリポカ』に関しては、選考委員の中でも意見が分かれたという。残忍な描写はともかくとして、子どもを犯罪に巻き込む場面を表現する必然性があるのかと、北方氏が選考会で疑問を呈したところ、「男って弱いのね。私は平気よ」と言われたそうだ。ちなみに、現在の選考委員は男性3名、女性6名という比率。残酷シーンにも冷静でいられる女性が増えたということか。しかも、彼女たちはそれをも含めたこの作品の文章力の高さ、小説としての優れた部分をきちんと見極めていたのだ。
この記事を読んで、目からうろこだった。私が負の感情ばかりにとらわれて、小説としてのおもしろさに思いが至らなかっただけだ。古代のいけにえの儀式を現代の犯罪によみがえらせるという奇抜な構想は、かなりの書物を読み、各地に足を運び、綿密な情報を集めたことだろう。佐藤究はすごい作家なのだ。気がつくと、結末を知りたくて、残酷シーンにおののきながらも、昼も夜も読み続けた。
これほどエネルギーを消費した読書はなかった。読んでよかったとはいまだに言えないけれど、とりあえず読了してノルマ達成できたことに安どする。
当初の目的「エッセイの上達のため」は二のつぎ、三のつぎだ。
さてさて次回の受賞作は、いかに。


GO, GO, GO!の旅(4)フォトエッセイ:広島・ヒロシマ ― 2023年05月18日
3回までで止まっていましたが、まだまだ続行。1年前の旅のフォトエッセイです。
ご存じのように、明後日19日から3日間、広島サミットが開催されます。
そのことをまったく知らない1年前に、広島を訪れ、サミットの会場となるグランドプリンスホテル広島にも1泊しました。
振り返って、当時の写真をアップします。
広島には行きたい、とずっと思っていました。
世界で初めて原爆投下された街を実際に訪ねたい。2019年にはローマ教皇でさえ、はるかバチカン市国から訪問しています。その地を私も訪ねたいと思ったのです。
もう一つの理由は、映画「ドライブ・マイ・カー」のロケ地でもあるということでした。
高知でレンタカーを借り、翌朝出発。しまなみ海道を北上しながら、300キロの道のりを走破して、広島までやってきました。
夕方4時に広島市に入ると、まっすぐ向かった先は、広島市環境局のごみ処理工場でした。正式名称は、中環境事務所。
映画のなかで、ドライバーのみさきが、妻を亡くした家福をこの場所に連れていき、案内するのです。巨大なごみ処理機の無機質なオートメーション、きらきらしたガラス張りの吹き抜け、海面まで下りていく階段……。
映画の印象的なシーンが目の前に広がりました。
夕方のその時刻には、もう機械は動いていませんでした。人もまばらで、気持ちの良い風が吹き抜けます。
海に釣り糸を垂れる人もいれば、草原に愛犬を走らせる人もいました。





映画では、みさきが家福に説明していました。
「原爆ドームと平和記念公園内の原爆死没者慰霊碑を結ぶ線は〈平和の軸線〉と呼ばれています。この工場の建物は、その線を塞がず海まで延びるように設計されているんです」と。
この映画は、ひとことでいえば、傷ついた二人の再生と出発を描いたもの。平和を祈る場所から吹いてくる風は、再生の場所を通り抜け、海へと旅立っていく。
そして、素敵な市民の憩いの場所でもありました。

宿泊したグランドプリンスホテル広島でも、映画のロケが行われました。
広島市南端にある宇品(うじな)島の海沿いに、背の高い四角いビルがひときわ目立っています。
庭先にはヤシの木や、真っ赤なブラシツリーが咲き誇っていました。
ロビーの壁には、映画ロケの様子が写った写真パネルが並んでいました。










▲原爆資料館。昨年は高校生たちが熱心に見入っていました。今年は、バイデン大統領も訪問するとのこと。
さらに、平和公園から歩いて、幟町(のぼりちょう)教会へ。
この教会は、世界平和記念聖堂と呼ばれ、みずからも被爆したドイツ人神父の尽力によって1954年に献堂されたカトリック教会です。外観は重厚な造りですが、内部はステンドグラスが美しく、原爆で犠牲になった人々の追悼と慰霊のため、世界の平和を祈るためにふさわしい聖堂でした。



いよいよ明日、原爆投下された世界でたった一つの地、ヒロシマに、核を投下した国の大統領も、核保有国の首脳たちも、集まってきます。
どのような共同声明が発表されるのか、期待を持って注目したいものです。
初めて書いたエッセイ 「左利きの話」 ― 2023年05月09日
大学卒業後に就職した会社では、社員の作る冊子があり、新人の頃、作文を載せてもらいました。(エッセイとは呼んでいなかったと思うのですが……)
エッセイ教室に入ったのは、その5年後。そして、5年前の作文を、社会的テーマのエッセイとして書き直したのでした。
今回、満を持して、40年前の手書きの原稿に推敲を加えながら、ブログに載せることにしました。いろいろな意味で、私の原点ともいえるエッセイです。
昭和時代のエッセイ、お笑いください。
*** 左利きの話 ***
あなたの周りに左利きの人はいないだろうか。
おかしな角度でペンを構えて紙に向かう人、包丁をさばく手先がなぜか危なっかしく見える人、西洋料理のテーブルで両手を交差させてナイフとフォークを取り上げる人、バッターボックスに立つとピッチャーに嫌われ、テニスコートでは相手に嫌がられる人……
じつはこのどれもが私のこと。私は何から何まで完璧な左利きに生まれた。右利きのあなたに、流行歌に歌われるほどカッコよくもない、そんな私の話をお聞かせしたい。
子どものころから、私の両親は右手を使うようにと口うるさく言った。とはいえ、四六時中、親の監視の目が届くわけもないから、親の目が光っているかいないかで巧みに手を使い分けていた。
例えば、食事の時は、家族そろって食べるので箸は仕方なく右手の中。おかげで、7歳の頃には右手でも上手に箸が扱えるようになっていた。
学校に行っている間は、もう左手の天下だ。どの先生からも、あえて右手に治すようにと言われた覚えはない。当然、いつまでたっても鉛筆は左手に握られていた。
中学3年の時だ。見かねた母が真剣な顔で言った。
「高校入試の時に左手なんかで書いていたら、落とされてしまうわよ」
ショックだった。このままでは高校生になれないなんて。母の言葉を真に受けた私は、その日から死に物狂いで、家でも学校でも右手でノートを取るようになった。時間はかかるし、手は疲れるし、後で読めない字もあったりで、それはそれは大仕事だった。
最初は糸みみずの乱舞だった文字が、やがて立派なみみずの行進になり、いつしかそれもノート上からいなくなり、文字らしい文字が並ぶようになっていた。半年ほどかかっただろうか。
見事左利きを返上して試験場にのぞんだ私は、難なく高校生になった。
ところが、入学して間もなく、ノートにも黒板にも左手で字を書く生徒を発見したのだ。聞けば、入試でも左手で書いていた、というではないか。なんだか損をしたような気分になって、家に帰るとさっそく母に文句を言った。
「ぎっちょで受験したら落っこちるだなんて、ママの嘘つき」
母は涼しい顔で答えた
「とにかくぎっちょが治せてよかったじゃないの」
母の狙いはそこだった。初めての入学試験で頭がいっぱいの私は、足元を見られたような作戦にまんまと引っかかったのだ。
でも、今にしてみると、母も半ば本気で心配していたのではないかと思えてくる。なぜ母はあれほど私の左利きを嫌って、治そうとしたのだろう。
「大人になっても、左手で字を書いたりご飯を食べたりしていたら、みっともないでしょ」
それが母の口癖だった。
なぜみっともないのか。みんなと同じではないから。だからぎっちょはいけない、というわけだ。
最近でこそ、子どもの左利きを無理に矯正すると、吃音になるなどの弊害もあることがわかってきた。むしろ左利きも一つの個性として伸ばそうとさえ言われている。しかし、「個性の尊重」からは程遠い時代に生きてきた母にしてみれば、試験場でひとり目立つ左利きはどうしても不利としか思えなかったのかもしれない。
今でこそ、「入試でぎっちょは落とされる」と言ったら笑われるだろう。でもちょっと、入社試験の会場へ向かう大学生たちを見てほしい。短く刈った黒髪、黒縁のメガネ、黒のスーツ。あの没個性的なスタイルは、母の理屈が今なお生きていることを物語ってはいないだろうか。
みんなと違うこと。それはみっともない? 不利なこと?
私は子どものころから現在に至るまで、自分の左利きがみっともないなどと思ったことはない。むしろ、左利きの問題点は、もっと別のところにあるのだとわかっていったのだ。
私が半年間で右手で字が書けるようになったことを、早いと思われただろうか。私自身は、意外と早く上手になれたように感じたのだ。これにはわけがある。おそらく、右利きの人が左手で書けるようになるには、もっと日数がかかるだろう。
日本語の文字というものは、右利き用にできているのだ。漢字の書き順は左上から始まって右下に終わるというのが基本的なルール。これは、昔から右利きによって書き継がれ、右手で書きやすいように工夫されてきたものにほかならない。
試しに、右手で右から左へ線を書いてみてほしい。左から右へ書くよりも、書きづらいはずだ。左利きはこの書きづらさで字を書くのである。したがって、右手で書けばこのつらさは消えて、自ずと字の形が整ってくるのだ。
私は根っからの左利きなので、どんなに右手が使えるようになっても、やはり左手のほうがスビーディに筆圧の確かな字を書くことができる。それでも整った文字は、右手にはかなわない。
小学生の時、習字の時間には、最初から筆を右手に握った。鉛筆で書くのとは勝手が違って、払ったり止めたりという大きな文字の筆の勢いまでは、ごまかせない。それでも、小さな字を書く細筆は左手で持ったりしながら、奮闘したものだ。
先生がたは、鉛筆や大小の筆を右に左にと持ち替える私を見て、あきれながらも器用だと言って感心していたけれど、それは見当違いのほめ言葉。私にしてみれば、必要に迫られた苦肉の策だったのだから。
うまく使える手がたまたまみんなと違うだけで、どうしてこんなに大変な思いをしなければならないの。先生さえもそれがわかっていないなんて。子ども心にも、そんな不満をいだいていた。
ある年のクリスマス、4人きょうだいの私たちに、両親がギターを買ってくれた。かわるがわるギターを手にしては弾いてみたが、左利きの私が左手で弦を押さえて右手で弾いても、みんなのようにはうまくいかないのだ。
弦の順番を逆に張り替えて、左利き用にしてみた。ビートルズのポールのギターだ。すると、弾ける、弾ける。ただし、コード表も手元とは逆になるので、読み取るのに骨が折れたけれど。
ギターが弾けた喜びもつかのま、弦はまた元どおりにさせられた。4人のうちでただ1人左利きだったから、多数決で我慢をするのは私。この時初めて、ぎっちょの自分をみじめに感じたものだった。
同じように社会においても、少数に過ぎない左利きは、いつも我慢を強いられているように思う。右利きの人に、どれだけそのことがわかってもらえているだろうか。
あなたは、漢字が右手で書きやすいようにできていることを考えながら書くだろうか。自動券売機のお金の投入口が右側についていることを、電話のダイヤルや腕時計のねじが右手の指で回すようになっていることを、あなたの家の缶切りや裁ちばさみが右手用にできていることを、意識したことがあるだろうか。ようやく出回るようになったとはいえ、左利き用の道具には右手用の倍の値段が付けられていることを知っているだろうか。
これは人から聞いた話。歩道と車道の本の5cmの段差が、車椅子にとっては大きな障害になるのだとか。言われてみればなるほどと思えるのに、自分の2本の足で歩く私は考えたこともなかった。私も大多数の1人なのだ。
左利きなどは、わずかな我慢ですむけれど、普通の人とちょっと違っているばかりに、大きな犠牲を払わされる人々のことを、もっと心にとめたい。それが、左利きに生まれた私の、ひとつの使命のような気がする。

旅のエッセイ: 旅するアートか、アートする旅か ― 2023年04月25日
私の趣味はと聞かれたら、いくつもあるけれど、小説を読むことと、美術を鑑賞することの2つは、必ず答えに入るだろう。それをダブルで提供してくれるのが、原田マハさんだ。
作家としても数かずの賞を受賞しているし、美術館のキューレーターをしていたくらいだから、芸術にも造詣が深い。天は二物を与えるのだ、といつも思ってしまう。
マハさんにはアートを題材にした小説もたくさんあるが、今手にしているのは、『原田マハの名画鑑賞術』という本。文字どおりハウツーものだ。
「日本は世界的に見ても美術館大国」と、帯には書いてある。
本書では、日本の美術館が所蔵する18人の芸術家の作品を取り上げて、鑑賞している。

この本を図書館で借りて読み始めたのは、3月上旬のこと。
ちょうどその頃、夫と名古屋に1泊する予定があり、そこで何をしようかと計画をしているところだった。
タイミングよく、この本が大きなヒントをくれた。愛知県美術館にグスタフ・クリムトの絵があるというのだ。この美術館の場所をグーグルマップで調べてみると、なんと滞在予定のホテルから歩いても10分とかからない距離にあるではないか。決まりだ。
私は彼をクリムトさまと呼ぶ。大ファンである。40年前からの筋金入りのファンだというのが、私の自慢である。金を用いたモザイク模様の中に写実的な人物が描かれていて、官能的な肢体やまなざしで、見る者を引きつけてやまない。あやしい魅力がたまらないのだ。
本書で紹介されている彼の絵は、「人生は戦いなり(黄金の騎士)」。
写真からわかるのは、騎馬に乗り、鐙(あぶみ)を踏んで直立する騎士が横向きに描かれていることぐらいだ。その絵のディテールや質感がすばらしいと書いてあるのに、残念ながら8cm四方の写真からは見てとれない。
これはもう、行って本物の絵を見るしかない。
この本は半分まで読んで図書館に返却した。自分で購入して手元に置こうと思ったのだった。
さて当日、名古屋到着後、ホテルにチェックインしてから美術館に出向いた。広い道路、広い歩道、大きなケヤキ並木は新緑が光り、根元の花壇には、黄色いチューリップと水仙が満開で美しい。
愛知県美術館は、愛知芸術文化センターの10階と8階にある。エレベーターを昇っていくと、吹き抜けの天井からぶら下がるような大きな作品が展示されている。人間に見えたり、鳥にも見えたり……。
休館かと思うほど、がらんとしている。平日だからか。事前に公式サイトも覗いてきた。今、企画展はなく、常設展のみだそうだ。
受け取ったチケットの半券には、クリムトさまのくだんの絵があった。やはりこの美術館の〈売り〉なのだろう。もうすぐ会えるのだ。
とはいえ、この絵を目指して一目散などという、はしたないまねはしたくない。現代美術の作品を一つずつ丁寧に見ていく。広い展示室が続く。絵画もあれば、彫刻や立体作品もある。説明がないと首をひねりたくなるようなものも。
訪れる人の少ない展示室で、近くにいたひとりの男性にふと目をとめた。背が高く、ウェーブした長めの黒髪、黒ずくめの服。後ろ姿からも日本人ではないとわかる。作品の解説にスマホを近づけているところを見ると、翻訳アプリを利用しているのだろうか。横顔を向けると、その白さにドキリとした。まるでギリシャ彫刻のようだ。どこの国の人だろう。この室内の、どの作品よりも美しいと思った。
夫はとっとと先の部屋を覗いて、どこに消えたかと思ったら、廊下のソファに座っていた。
どうもおかしい。近くにいたスタッフに、チケットの絵の場所を尋ねた。
「今はヨーロッパで展示のために、ここにはないんです」とのことだった。
何年も前に、かの地から日本にやってきた絵画は、現在帰省中だったのだ。ホームページを見ても、気がつかなかった。
改めて、ページを開いてみる。そのお知らせは、「新着情報」を昨年7月までスクロールしてやっと見つけた。せめてトップページにそれを貼り付けておいてくれたら、落胆することもなかったのに。
しかたない。仕切り直しだ。また絵が帰国したときに、見に来よう。お楽しみ期間が増えたと思えばそれもまた楽し。

▲愛知県美術館のチケットの半券。手のひらサイズの小さなものです。
さらにもう一つのアートの話。
この本のクリムトの次の章には、エゴン・シーレの絵が紹介されていた。
折しも、東京では「エゴン・シーレ展」が都美術館で開催中。
10年前、彼の大きな展覧会を見た時、かなりの衝撃を受けた。クリムトさまの弟子でもあり、嫌いではないのだが、いかんせん、その時の重さと暗さが忘れられず、たださえ病院通いの重く暗い気分のこの時期に、わざわざ見に行きたいとは思わなかった。
本書に載っているのは、「カール・グリュンヴァルトの肖像」という人物画で、豊田市美術館所蔵とある。同じ愛知県だ、名古屋ついでに行ってみようか。
しかし、電車を乗り継いでいくと、名古屋からでも1時間半を要するらしい。残念ながら諦めた。
こうして、本書の中の2点のアートにそっぽを向かれたのだった。
ところが。
名古屋に行った後、友人にこの本を見せると、パラパラとめくって、
「この絵も、シーレ展にあったよね」とつぶやいた。
「えー! そうなの? 名古屋から豊田に行かなくて正解だったのね」
その日のうちに、シーレ展のチケットを予約。最終日の3日前だった。

▲エゴン・シーレ展で買ったえはがき「カール・グリュンヴァルトの肖像」。
かくして、今度こそは会えた。まぎれもなくマハさんの本の写真で見た絵だ。小さな写真と違って、グリュンヴァルト氏が、ほとんど等身大に描かれた縦長の堂々とした作品だった。
愛知県豊田市から、わざわざ上野の山へやって来てくれてありがとう。
マハさんは解説で、次のような言葉で、この絵を語っている。
「グリュンヴァルトの本質的なもの、内面を引き出して描くことこそが、おそらく表現したかったことではないか。(中略)シーレはやりきった。素晴らしい。この肖像画は歴史的なもの」
これまでの肖像画の常識は、本物よりも見栄えがするように、偉そうに見えることが大事だった。しかし、そんな既成の価値観を打ち破ってこそ、芸術なのだ。
マハさんの鑑賞術を読んでからシーレの絵と向き合ったことで、別の見方ができたような気がする。今回はさほど重さも暗さも感じなかった。
才能ある一人の若者が、作品を生み出し、仲間と交わり、信仰を持ち、恋をし、そして28歳の若さで病に倒れて死んでいく。かけがえのない人生の、命の、はかりしれない重さ。私は、それだけを背負って、片道1時間の旅を終えた。
まるで、クリムトに会えなかった代償のように、彼の弟子に会えた。不思議な出会いだった。
おススメの本『月の立つ林で』 ― 2023年04月02日

昨年の9月におススメした『赤と青とエスキース』の著者、青山美智子さんの最新刊です。新聞広告を見て、すぐに図書館で予約しました。
読みやすくて、おもしろくて、おしゃれで、心優しくて。
この4つだけでおススメ条件は十分ではないでしょうか。
これだけで読んでみたいと思われたら、この続きは読まないほうがいいかもしれません。ネタバレでごめんなさい、という意味で。
①読みやすい。
設定は現代。子どもから高齢者まで、幅広い年齢層の登場人物たち。セリフも多く、言葉遣いもナチュラルで、こんなふうにさりげない文体でエッセイも書いてみたい、と思います。
②おもしろい。
5つの章立てで、ひとつの物語となっています。まるで短編集のようではあるのですが、そうではない。1章では脇役だった人物が、2章では新しく主人公として描かれる。1章の主人公は5章でキーパーソン的な端役としてちらりと出てくる……といった具合に、人物たちが現れては影を潜め、また現れて少しずつ物語の全体像が見えてくる。推理小説を楽しむようなおもしろさがあります。
その他にも、タイトルの一部「月」が、構成のうえでも、素材としても、天文学的にも、文学的にも、重要なテーマになっているのです。
さらに、お笑い芸人が必死でネタを考える場面では、笑ってあげたくなるし、今どきのアマゾンミュージックからポッドキャストを聞くなんて、今どきの新しさにも興味が湧きます。
③素材がおしゃれ。
手作りのワイヤーアクセサリーとか、切り絵アートとか、美しいものたちがイメージされて楽しめる。この著者は、物語の空間を情緒豊かに彩ることがとても上手で、惹かれます。
ほかにも、アイパッドでグーグルのポッドキャストをネット視聴するなどと、新しい現代のアイテムが持ち込まれ、しかも、若い人が高齢者に手ほどきをしているので、読み手もなるほど……と、置いてきぼりにならずにすむのです。
④心優しい。
とにかく癒されます。「誰かのために何かをしたい」と、主人公たちは皆思っているのですが、なかなかうまくいかない。傷つくこともある。それでも、誤解が解けて、本当のやさしさが通い合う。よかったなと心が温まるのです。
話が逸れますが、私は直木賞の作品を読むという自分なりの課題を持っています。最近は戦国時代の作品を続けて読みました。それ以外にも、あまりに殺戮シーンの多い作品は、読むのを休止中にしてしまっているのもあります。
そんな時に手にしたこの本、なんと穏やかでやさしいのだろうか。「癒し系」はべつに好みではない、と自覚していたはずなのに、しみじみと癒されて、読んでよかった、と思えました。
うららかな春爛漫。
とはいえ、出会いと別れの季節でもありますね。
疲れた夜には、読書もいいものです。
そんな時に、おススメの一冊です。
ダイアリーエッセイ:WBC準決勝を見て ― 2023年03月21日
WBCの頂点を目指す侍ジャパンの戦いを、1次ラウンドからすべて、テレビの前に貼りついて見てきた。
大谷選手も、一躍人気者になったヌートバー選手も、もちろん目が離せないのだけれど、中でも気になったのは、絶不調に苦しむ村上選手の姿だった。
彼を見ていて、ある記憶がよみがえってきたのだ。
小学6年の時のことだ。学年全員で横浜市の体育大会に出場することになって、その練習を続けていた。競争ではなく演技のひとつに、4段の跳び箱を跳び越えていく種目がある。どのグループも一人ずつ同じ速さで進んでいけばいいのだ。
それが、なぜか急に跳べなくなった。
お転婆の私は、4段どころか5段も6段も跳べていたのに、跳び板まで走っていって手をつくと、ふっと固まってしまう。何度やってもどうしても跳べない。
「そのうち、また跳べるようになるから」と、先生は苦笑いでスルーしてくれて、跳び箱の横を走りぬけるしかなかった。
そして大会当日、私はどうなったか。
ないのだ、その日の記憶が。ないところを見ると、きっと跳べなかったのだろう。屈辱の記憶だからこそ、抹消してしまったのだと思う。
さて、本日の侍ジャパンVSメキシコの戦い。あいにく家族もいないし、朝からビール片手にというわけにもいかない。それでもドキドキしながら孤独な応援を続けた。
4回表に3点も先制点を取られて、なかなか返せない。ようやく吉田選手の3ランホームランで同点に持ち込んでも、次の回でまた1点取られてしまう。
村上選手の不調は、準々決勝で2回のヒットを放ち、復調したかに見えた。が、今日もやはり不調気味で三振が続く。
彼がわが子のようでもあり、遠い日の自分のようでもあり、バッターボックスに立つたびに、今度こそ、今度こそと祈り続けた。
1点差で迎えた9回裏、もう後がない。彼は日本中のファンの祈りを受けて、ついにタイムリーにヒットを放ち、サヨナラ勝利を決めることができたのだ。
その瞬間、滂沱の涙が止まらなくなる。よかったね~、村上選手!
打順が回ってきたことも、その時に打てたことも、村神様はいたのかもしれない。でも、彼を信じた監督、不調な彼を支えてきたチームメンバー全員、応援し続けてきたファンのすべてが、神様となったのだと思う。


「岸田首相、本日ウクライナ電撃訪問」のニュース速報も入るなか、侍ジャパンの勝利と村神様の復活に酔いしれたひとときだった。
明日の決勝もがんばれ、侍ジャパン!
母を想う日々 6:あの頃の母に ― 2023年03月08日
あの頃の母に
2月半ば、副甲状腺の腫瘍を摘除する手術を受けた。放置すると骨密度がますます下がっていくという。首元を横に5センチほど切開するのである。
手術当日は、おととし亡くなった母の、生きていれば100歳の誕生日にあたる。母が見守ってくれるだろう。そして私は母の長寿を受け継ぐにちがいない。心強い、と思った。
長引くコロナ禍にあって、患者が出入りする病院は、依然として厳しく感染防止対策がとられていた。面会は一切禁止。売店の買い物は原則ヘルパーが代行。食事時のお茶のサービスはなく自販機で購入する。
土日でも見舞い客のいない病棟は静かで、個室に入った私は、気楽なひとりの時間を過ごす。この時のために、タブレットに電子本を何冊も流し込んで持参していた。
その中の『重力ピエロ』には、兄弟の父親が明日手術だというくだりがあった。あら、私と同じ。それを読んでいたのが、ちょうど私の手術の前日だったのだ。結局、父親のがんは開腹したものの手の施しようがなく、息子たちが火葬場の空に父の煙が昇っていくのを見つめるシーンで終わる。私の腺腫は99パーセント良性だと言われているので不安はない。
翌日の手術は午後から。朝から飲まず食わずで、点滴を入れながら読書三昧となる。
次に読み始めたのは『夜に星を放つ』という短編集。昨年夏の直木賞受賞作で、著者の窪美澄さんは私の好きな作家だ。
物語に、死んだ母親が幽霊となって中学生の娘のもとに現れる話がある。またしても私と同じ? いや、私の場合は幽霊ではない。晩年の母ではなく、元気で私を支えてくれた若い頃の母を思い出しているだけだ。
40年近く前、私は結婚してまだ子どもができないうちに、片方の卵巣を摘出する手術を受けた。外出先で腹痛を起こし、救急車で外科に運ばれて、緊急の開腹手術だった。下半身だけの麻酔だったから、手術中の機器の音や、医師たちの会話もよく聞こえた。
「女の人ってのは、危ない橋を渡って生きてるんだなぁ」と一人の医師が呟く。卵巣の血管が切れて腹腔内に大出血していたらしい。手術の後に、「半日遅れていたら命はなかった」とまで言われた。
当時の母は、今の私よりも若く、毎日のように都心の病院まで見舞いに来てくれた。私は事の重大さをあまり意識しなかったが、母はどれだけ心配したことかと思う。母の心配は杞憂に終わり、その後3人の子を授かった。
なぜか2人の息子とともに、気持ちのよい草原にいる夢を見ていた。ああ、幸せな気分だ……。
「石渡さん、起きてください。終わりましたよ」
その日の手術は眠っている間にあっけなく終わった。しかし、目が覚めたとたん、首が圧迫されて傷が痛む。首をねじってはいけないと言われ、緊張して寝返りも打てず、苦痛の一夜を過ごした。
ふと、病室に若い頃の母が顔をのぞかせるような気がする。そんなバカな、と打ち消す。母にこのことを伝えようと思ったりして、またも苦笑する。麻酔のなごりか、小説の読みすぎか、あらぬ世界に引きずり込まれるかのようだった。それとも40年前にタイムスリップしたのだろうか。
晩年の母ではなく、あの頃の母に会いたいと思った。でも、もう母はいないのだ。母が亡くなってから初めて、寂しさをかみしめて泣いた。
