自閉症児の母として(78):息子の起こした“大事件”2024年01月22日

昨年9月のある日のこと、夕方5時ごろ、電話が鳴った。

「高津警察署の地域第3課の加藤と言います」

あ、詐欺電話? 一瞬身構える。

「石渡モトさんがバスの中で暴れましてね……」

その声の向こうで、息子が何かしゃべる声が聞こえた。間違いなく本物だ。いったい何をしでかしたのだろうか。

彼には自閉症という障害があり、4年前から家を出て障害者のためのグループホームで生活している。職場へは30分足らず、電車とバスを乗り継いで通う。バスには障害者用のフリーパスを利用して乗車し、療育手帳も携帯しているので、運転手はもちろん、通報を受けて駆け付けた警察官も彼の素性がすぐにわかったようだ。

加藤さんと何度か電話のやり取りをしたあと、夫と二人で、指定された場所に車で向かった。そこはホームに帰る途中のバス停の近く、物流倉庫の駐車スペースで、辺りは暗くなっており、すでにバスも乗客の姿もなかった。

バス停のベンチにいた息子は、「スマホのユーチューブで、サッカーの試合を見てたの」と何度も言った。それだけで夫も私もピンときた。彼は以前からテレビの試合観戦で小競り合いのシーンを見ると、怒りの興奮を自分の中に受け入れてしまってパニックを起こすことがあったのだ。そのたびに扇風機を倒したり、テレビのリモコンを投げつけたりする。自宅にいる時に限られていたのに、よりによって乗客の多いバスの中で起こすとは……。

 

若い巡査が、小さなスマホの動画を見せてくれた。バスの運転席の車載カメラがとらえた映像だ。鮮明ではなかったが、チェックのシャツを着た息子が急に立ち上がって動く様子が見えた。

巡査の話によると、座ってスマホを見ていた息子が、突然右隣の若い男性を殴り、左隣の60代女性にも手を上げたが、女性は出口に向かって逃げ、その後、向かいにいた男子小学生の足を蹴った。バスは停車し、その3人だけでなく、乗客たちは全員バスを降りて、次に来たバスに乗りかえていったという。

 巡査は私たちの気持ちをなだめるように、「自分も障害者施設に仕事で行くことがあるし、いとこにも同じような障害者がいるので、よくわかりますよ」と話してくれた。

加藤さんは、「障害者ということで、今回の件は事件として成立しません。あとは、当事者同士で話し合ってください」と言った。

親として、迷惑をかけた3人の方にはお詫びの言葉だけでも伝えたかったので、こちらの電話番号を先方に知らせてもらい、電話を受ける方法をとった。ただ男性だけは、「障害者じゃ仕方ない」と言ってすぐ去ったそうなので、連絡先もわからないという。

 足を蹴られた小学生のお母さんは、その夜、電話をかけてくると、「障害のある方とは気づかず、110番してしまってごめんなさい」と、逆に謝られてしまった。「子どもはケガもしていないし、何も気にしていない様子で今もポケモンゲームで遊んでるぐらいだから、心配いりませんよ」とも言ってくれた。理解あるやさしい言葉にほろりとする。

 もう一人の女性からは、「出口に向かって逃げた時に、つまずいて足を捻挫したので治療費と、パートを休んだ分の賃金も補償してほしい」と言われた。息子は傷害保険に加入していたので、それですべて支払った。電話に出た夫に対しては、「もうバスに乗せないでほしい」などと、くどくどと小言を連ねていたようだ。当然だろう。私も同じ目に遭ったら恐怖で縮み上がって、家族に対して文句の一つも言いたくなるかもしれない。女性はその後は何か言ってくることもないので、良識ある人でよかった、と思っている。

 

 さて問題は、バス会社だった。迷惑をかけたことを詫びて、「1週間ほど、同乗して通勤に付き添いますので」と申し出たところ、営業所の責任者から、「今後二度と再発しない対策をお願いしたい。1週間の同乗だけでは、その後が不安ですよね。お客様の100パーセント安全な保障が必要です。医師などの専門家の診断を聞かせてほしいのです」と言われてしまった。

 主治医の精神科のドクターに相談する。

「付き添いをするにしても、せいぜい3ヵ月でいいのでは。ちょうど年末年始の休暇が区切りにもなるし。大事なのは、本人の意識のなかでの再発防止策、リスクヘッジが必要ですね」

 というわけで、その3ヵ月を、夫と私、有料のヘルパーなどで手分けして通勤に付き添うことにする。夫が休みの日にはホームに迎えに行き、バスと電車で職場の最寄り駅まで付き添う。腰痛を抱えていた私は、ほとんど車で送迎。朝夕1時間ずつかかる。誰も付き添いの都合がつかない日は、息子は欠勤した。

 

そして、もう一つの対策は、息子のスマホに視聴制限を設けること。YouTube、NHK、ニコニコ動画など、動画を見るためのアプリ9つを対象に、平日の通勤の時間帯には利用できない設定にした。ルールを破ってまで、車内で動画を見ることは、彼の几帳面な障害特性からいっても考えにくい。これが一番の決め手だと思えた。

息子は私の運転する車の中で、「ゲーム・プレイ・オンリー」と呟いてはスーパーマリオに熱中する。合間に「迷惑行為を防ぐには?」などと口にする。自分の状況はわかっているのだ。

 

かくして3ヵ月が終わろうとする頃、主治医のドクターからのアドバイスで、障害者問題に詳しい弁護士にも相談した。今回のバス会社の対応は障害者の人権を侵すもので、障害者差別解消法からすれば明らかにアウトだという。その件に関してバス会社との話し合いの場を設けるため、第三者によるあっせんをしてもらえることを知った。

しかし、バス会社には乗客の安全を守る責任もあるわけで、行き過ぎだったとも思えない、と私が首を傾げると、弁護士は、「バス会社は『今後はどうしたらいいのか、一緒に対策を考えていきましょう』というスタンスを取るべきだったんです」と教えてくれた。

大ごとにはしたくなかったので、バス会社にひとこと報告したうえで、息子は1月から以前のように単独でバスと電車に乗って通勤することにした。ときどきは、一緒に乗って見守る必要もありそうだ。

さらに「スマホの動画視聴は生涯禁止です」と言い渡しておいた。

 

息子がトラブルを引き起こした日は、彼の誕生日だった。中秋の名月が頭上に輝くころ、ようやくホームに戻って、世話人さんたちに「ご迷惑をおかけしました」と謝ったあとは、用意してあった誕生日祝いのごちそうやケーキをおいしそうに食べたという。

 

私たちがこの3ヵ月に味わった苦労は、けっして無駄ではなかったと思う。息子の脳の障害の難しさを改めて思い知ると同時に、彼は社会に守られ、理解ある人々に助けられていることを実感できた。

私は障害者の家族であり、一般市民でもある。2つの立場を行ったり来たりしながら、障害のある人もない人も、より暮らしやすい社会になるように、この経験を次につなげていきたい。

 


コメント

_ 秀子 大野 ― 2024/01/26 10:58

大変でしたね。もっと早く、ご連絡しようと思いましたが、何と声をかけたら良いものかと迷っていました。まず、あのモトくんが?と、信じられない気持ちでした。今迄のご両親のご苦労は、私には計り知れないと思いましたが、ご主人が、協力的で、一緒に解決策を模索しているようで、素晴らしいですね。私の姪は、それが得られず昨年、離婚しました。モトくんも、自分のした事は、分かっていても、どうしようもないのですね。
なんと声をかけて良いかわかりませんが、私に何か出来る事があったら、おっしゃって下さいね。兎に角、応援しています。

_ hitomi ― 2024/01/27 09:14

大野さま、コメントありがとうございます。温かいお言葉が胸にしみました。
「自分のしたことはわかっていても、どうしようもない」、そのとおりなのですね。だから彼を責めるわけにもいかず、社会に理解をしてもらうことがとても大切だと思っています。
夫が息子に対して愛情をいっぱい注いでいることはよくわかるのですが、いつまでも息子の人生に付き添っていくことはできません。一人になっても社会に支えてもらえるように、仕向けていかないとならないのだから……と、ときどき夫のやり方に異を唱えることもあります。それでも夫婦で協力しながら、これからの息子の人生を考えることができて、ありがたいと思います。姪御さんのような子育て仲間もいました。どれほど心細い思いをされていることかと思います。
私たちは、たくさんの理解ある人々に支えられていること、いつも感謝しています。これからもよろしくお願いしますね。

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