若かりし頃のエッセイ「雨」2020年06月30日

 

いつかデータ化して保存しようと、本棚の隅に眠らせている原稿用紙の束。エッセイを習い始めた頃の作品群です。B5サイズで1200字の原稿用紙にペン書き。1編ごとに留めたクリップもさびている。

今でいうアラサーの頃、DINKSdouble income no kids)と呼ばれていた当時、私はどんなエッセイを書いていたのかと、ちょっと読み返してみました。


先日のこと、今は一人暮らしをしている生徒さんが、

「家族の風景が書けない私は、何を書けばいいのだろうかと、思案中です」

とつぶやきました。何かアドバイスが見つかれば、と思ったのですが、さてさて……。

 

皆さんにも何編かご紹介します。

今日は、午後から雨模様。このエッセイを選びました。

 

 

   ・・・ 雨 ・・・

 

掛け布団にしがみついたまま、ようやく半身を起こすと、雨が聞こえた。毛布をなでるような優しい雨の音が、カーテンを引いたほの暗い部屋の空気に染みている。時折、車が路上の雨を轢いて遠ざかる。その響きが眠りを引きずった頭に快い。

窓を開けてみる。外気が首筋に触れて、ひんやりと冷たい。ここは地上4階。ベランダの手すりの向こう、雨は空と同じ色で降りてくる。けれど、地上に降り立った雨は暗い色。鈍い光にだけ空を載せている。屋根瓦も、木の枝も、電柱も、遠いビルも、重たげに雨をまとって動かない。

 

昨日から降り出した雨だった。いつもなら4階の住人には来訪を告げもせず、雨はいつの間にか下界を濡らし始めているのだが、昨日は違った。夕暮れ時、机に向かっていると、にぎやかな音を立てて、雨がやって来た。

窓を開けたとたん、思わず息をつまらせるほどに、雨が匂った。

雨は、ベランダからの眺めに、無数の直線を引いていた。そして、桜の花房を揺らし、若葉をたたき、屋根をすべり、乾いた土に飛び降りる。

突然の雨の訪問に、下界は慌てて雨をまとう支度にとりかかる。花も葉も瓦も土も、雨の触れるすべてのものが、ふうっと息を吐くように、匂いを放って雨に差し出すのである。降り出した雨の隙間を万物の匂いが満たしていく。

つかの間の雨と下界とのやりとり。ベランダの私は、それを見守る立会人。

雨が匂った、と思った。が、本当はそうではない。雨は匂いを運ぶだけである。むせ返るほどの匂いも、夜更けにはすっかり消えていた。雨は一体どこへ運び去ったのだろう。

 

ラッシュアワーを過ぎた電車に乗る。床に踏みにじられて汚れた雨が横たわっている。窓ガラスは灰色に曇り、外は見えない。閉ざされた車内でおしだまる乗客は、コンテナに積まれた貨物のように運ばれていく。

隣に和服姿の老婦人が腰かけた。立ち昇る着物の匂い。渋い茶色のイメージ。子どもの頃住んでいた家の匂い、それとも祖母のタンスを開けた時の匂い……。

甘酸っぱく切ない香りが鼻をつく。今立ち上がった男性の整髪料。いつか、誰かがつけていた……。

私の前に立った女性が、ガサゴソと紙袋を網棚に載せる。また何かが匂った。ナフタリンのような、シナモンのような……。知っているはずの匂い。何だろう。でも思い出せない。

雨は匂いを運び、匂いは遠い記憶を連れてくる。雨の日、私は振り返るばかりで、前に進めない。私もまた、雨をまとってうずくまる。




当時、エッセイ教室の課題として提出すると、こんな講評が書かれました。

「作者は詩を書いているのだな。それ以上には何のコメントも付けられない作品だ」

確かにそうだったかもしれません。

その日の気分や感覚を、言葉で表現することがおもしろくて、書いていたような気がします。読み手を意識するなんて二の次だった、と今の私は反省しきり。

でも、エッセイを書くことが楽しい、と思えるのも大事なこと。だからこそ、今日まで書き続けているのでしょう。


 

 



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