800字のエッセイ:教科書にない言葉 ― 2021年07月03日
何の小説だったか、いつ読んだのか、どうしても思い出せない。そこにこんなくだりがあった。
――中国から来日して暮らす中国人家族がいた。偉人の名を付けたというその男の子の漢字名は、日本人が読むと「バカ」と読めてしまうのだ。ところが母親は、日本語の教科書にその言葉がなかったせいで、息子がいじめられていることに気がつかなかった――
それを読んだときに、5年前のことを思い出したのだった。
友人と二人でパリを訪れた。旅行会社の勧めで、空港からホテルまで送迎車を頼んでおいた。出迎えてくれたパリジャンのFさんは、日本語が達者ですぐに親しくなった。
ヨーロッパの人はたいてい運転がうまい。Fさんもしかり。幹線道路が混んでくると、勝手知ったるパリの道とばかりに、脇道を抜けて走っていく。
片側にびっしりと縦列駐車が連なっている狭い道路で、1台分だけ空いたスペースに、車を止めようとする女性ドライバーがいた。車のおしりを突っ込んでは出し、突っ込んでは出し……。私たちの車はじっと待たされ、Fさんが呟いた。
「ヘタクソ」
私はピンと来て、すかさずこう言った。
「Fさんの奥さんって、日本人でしょ」
「そうです! なんでわかるの?」
友人も同様に、「なんで?」と目を丸くした。
私は30代まで、日本語教師をしていた。学校には日本人と結婚している外国人も多く、彼らの日本語には、教科書では絶対教えないような言葉がたくさんあった。生活の中で連れ合いから教わっているのだ。教科書に「下手(へた)」はあっても「ヘタクソ」はないのである。
コロナ禍のテレビ報道は、ロックダウンによって人影の消えたパリの街角を映し出す。Fさんの奥さんの実家は福岡だと言った。今はどこで暮らしているのだろうか。
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☆冒頭の小説に心当たりのある方は、ぜひ教えていただけるとうれしいです。