ブログ、リニューアルで、リスタート!2014年03月01日

 

3月になりました。もう春です。

新しい春の服に着替えるような気分で、ブログもリニューアルしました。

 

これまで、ランキングのためのポチっとクリックをお願いしていました。

ご協力くださった皆さまには、心から感謝いたします。

大きな大きな励みにさせていただくことができました。

20129月、夏の北海道旅行のフォトエッセイで、ランキングが初の一桁になり、銅メダルをいただきました。

20135月には、銀メダル。続く6月には、とうとう念願の第一位に輝きました。

読者の皆さまのおかげだと思っています。

長い間、本当にありがとうございました。

もう数字を追いかけることは、おしまいにしました。

 

読みに来てくださる皆さんがいるだけで、本当にうれしいものです。

これからも、読者の皆さんが、読んでよかった、面白かったと言ってくださるような記事を書いていきます。エッセイはもちろんのこと、エッセイにまつわる話、エッセイの書き方のコツなどを書き続けていきますね。

 

  
 
  

 

来月から、新しい仕事が始まります。正確に言えば、「新しい」のではなく、「ふたたび就任」ではあるのですが、前回と異なり、重い任務を背負っての再出発です。心して向き合わなくてはなりません。

また、健康にも自信が持てなくなりました。年を重ねるということは、痛みの数が増えること……と思う今日このごろです。

 

というわけで、少し勇気を出して身辺整理をしよう、と思いました。

ブログもその一つです。

でも、思い切ってよかった、軽くなってさわやかになれた。そんなふうに言えるといいな、と思っています。

 

これからも、~HITOMI'S ESSAY COLLECTION~をどうぞよろしくお願いいたします!




ダイアリーエッセイ:お雛様を飾りながら2014年03月02日

 

わが家のお内裏様

 

2年ぶりに、お雛様を飾った。

24年前、娘が生まれた時にはまだ転勤族で、五段飾りはとても無理だからと断ると、お内裏様だけを、実家が買ってくれたものだ。

派手さはないが、品のある凛々しい顔立ちが好きだ。

 

わが家のお姫様はまだ自宅暮らし。当分、出ていきそうにない。

社会人2年生で、仕事はかなりきついようだ。

やめたい、と冗談半分、本気半分で口にする。

泣いて帰ることもある。

母親の私には何も語ろうとはしない。

それでも、翌朝には、気持ちを切り替えて出勤していく。

 

休日は一日中寝ているか、出かけているか、どちらかだ。

この週末は、冷たい雨のなか、箱根に泊りがけで出かけて留守だった。

友達との息抜きも必要だ。

 

私もまた、ちょっと落ち込むことがあった。衝撃、失意、そして怒り……。

静かな部屋でひとり、人形を飾ると、気持ちも落ち着いてきた。

自分がどんなに誠意を尽くしてやっていても、人と関わる仕事である以上、うまくいかないことがあって当たり前なのだ、と思う。

物言わぬお雛様に、教えられたような気がした。




800字エッセイ:卵焼きを作るとき2014年03月05日




 三人の子どもたちのために、十数年にわたって、毎朝せっせとお弁当を作り続けてきた。もちろん、売店や学食にお世話になったことも数多い。それでも、何百個、いえ何千個もの卵で、卵焼きや卵とじを作ったことになる。

割って、溶きほぐして、調味料を入れて混ぜ、フライパンに注ぎ込む。その瞬間、かならず思い出すことがあるのだ。

 

それは、女優の黒柳徹子さんが、ユニセフ親善大使としてアフリカを訪れたときの話。あるとき食糧不足に苦しむ国で、子どもたちと一緒に食事を作っていた。卵焼きを作るため、彼女が卵を溶いていたら、その中にハエが一匹落ちてしまった。つまんで捨てようとしたとき、そばにいた女の子が、その手を止めて言った。

「ハエについている卵がもったいないから、捨てないで」

黒柳さんは大きなショックを受けた。

 

もう十年以上も前に聞いた話だが、今でも忘れられずに、卵とともによみがえってくる。だから、溶き卵の最後の一滴がフライパンに落ち切ってもなお、丸いボールの底に残っているわずかな黄色を、ヘラを使って、必死でこそぎ落す習慣ができた。それでも、ボールにくっついて取りきれなかった微量の卵は、水道水を注ぐと、白い水となって排水溝に流れていく。

ああ、もったいない、と思う。

卵焼き一年分でボールに残った量を集めたら、卵の何個分になるだろう。何人の子どもの命をつなげるだろう。その女の子は、今どうしているのだろうか……。

遠い国に思いを馳せるのは、ほんの一瞬だけ。またすぐ、朝の慌ただしさに引き戻されてしまうのだけれど……。


ダイアリー・フォトエッセイ:美味しい散歩2014年03月09日

先々週の水曜日のこと。行きつけの美容室で、うれしい情報を手に入れた。

近所に新しくパン屋さんができたという。きれいになったところで、さっそく行ってみた。

 

 

住宅街の中、普通の家を、遠慮がちに改装したような店で、水曜と土曜しか営業しない小さなパン屋さん。

この日も、午後3時にはほとんどが完売。最後のマドレーヌ4個を買い占めたら、3個分の値段にしてくれた。

 

ふたたび、昨日の土曜、11時の開店に合わせて出かけた。わが家からは駅と反対方向に歩いて78分のところだ。

住宅街を歩くと、いい香りがする。春を告げる沈丁花が満開。

 

  

その先の門柱には、門番が立ちはだかるように、ラベンダーが生い茂っていた。

 

  

 

道を折れると、坂道になっていて、その視界の遥かかなたに、富士山。

手前の丹沢山系もすがすがしい眺めだ。

 

 

それにしても、無粋な電線……。右側に立っていた電柱は、「画像の編集」でカットできたけれど、なんとかならないものだろうか。

いえいえ、いかにも住宅街からの眺めだということで、これもまた一興としますか。

 

田園都市線沿線のこの地域、その名のとおり、まだまだ畑が広がっている。

途中、こんなものにも出会った。

 

 

野菜ロッカーだ。しかも、物置の中に入っている。

野菜の無人販売所があちこちにあるけれど、代金を置かずに持ち去る人も少なからずいるらしい。夜間は物置の扉も鍵がかけられるのだろう。

これもまた、無粋なことで。

 

わが家から1分、行きつけの畑の八百屋さんはこちら。

 

 

おばさんは元気な声で、お客さんとおしゃべりがはずむ。

手にしているのは、ビーツ。

「春になったら、もっと大きくなるのよ。イタリア料理の付け合せなんかに、薄く切ってのってるでしょ」

おばさんとイタリア料理の取り合わせが斬新……。ワインも召し上がるの?と今度聞いてみよう。

 

私が買ったのは、ほうれん草。雪のせいで茎が折れて傷んでいるので、特大の1束が100円だった。

 

 

さて、こちらがお目当てのパン。

25センチ四方のちぎりパンと、ごろごろレーズンパン。

 

休日の昼下がりに、焼き立てパンとコーヒー。言うことなし!

 

☆パンの写真は、はらぺこぱんのサイトからいただきました。




ダイアリーエッセイ:かわいそうな名前2014年03月10日

 

半月ほど前の大雪では、庭もすっかり雪をかぶった。

重い雪の下で、この花の蕾たちは、まるでしゃがみこんで肩を寄せ合う子どもたちのように見えた。

 

 

 

でも今は、春の日ざしを受けて、元気に咲いている。

クリスマスローズ。

春を呼ぶ花なのに、クリスマスとは、ちょっとかわいそう。

もっとふさわしい名前を付けてあげたら、と思う。

 

 



私の3.112014年03月12日

 

☆昨日、書いたものです。1日遅れのアップ。あしからず。

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市民館の玄関

 

3年目のこの日を、どうやって過ごそうかと考えた。

今日はオフだ。そこで、あの日、長男モトが働いていた職場を訪ねることにした。退職してからもうすぐ1年になる、市民館の中にある障害者雇用の喫茶室だ。

 

3年前のあの日、彼の職場は、地震が起きると同時に停電になって営業できなくなっていた。帰ろうにもJRは不通。ほかの従業員たちはみな家族が迎えに来て帰宅していったのに、私がようやく迎えに行ったのは夜の8時半ごろだった。

真っ暗な市民館の玄関を入って、「石渡です!」と名乗ると、寄り添うような二人の人影が現れた。その時間までずっと、〈職場のお母さん〉ともいうべき店長が、不安な息子を支えて暗闇の中で待っていてくれたのだった。

 

ひさしぶりに店長に会いたかった。

訪ねて行ったところが、あいにく今日はお休みとのこと……。

それでも、お世話になったスタッフ二人とおしゃべりをして帰った。

 

そして、3年目の1446は、そこへ向かう車の運転中で、黙とうもできず、心の中で祈った。

その時刻に私が走っていたのは、あの夜、一帯が停電して真っ暗だった商店街、信号も消えた道路だった。

 

社会の弱者である障害者たちが、どんなときにも社会の中で守ってもらえることを、改めて願わずにはいられない。

支えてくれる人々が、どんな場所にもかならずいてくれることを信じたい、と思う。

 





 



数字が整列!2014年03月14日

 

「博士の愛した数式」ではないけれど、自閉症の長男は、数字が好きである。

あいまいなところがなく、白黒はっきりしているからだろう。

何でもシリーズで揃えたがるのも、

カレンダーどおりに行事をこなしたがるのも、

プログラムどおりにコンサートが進んでいくのを見届けたがるのも、

どれもみんな、自閉症の特性からだ。

彼は、数字の秩序を愛している。

 

今日の私は、ちょっぴり彼の気分を味わった。

数字が整列すると、単純にうれしかったのだ。

ささやかな幸せを味わった。

 

 

 

アクセスしてくださる皆さんからのプレゼント、ありがとうございます。

 




ふたたび掲載:「震災の日から」2014年03月18日


 

2012226日に掲載したエッセイです。

新しい読者の皆さんにも、お読みいただきたいので、もう一度掲載いたします。

東日本大震災は、首都圏でも体験したことのない大きな揺れでした。

そして、私たちの人生にも、大きな跡を残したのではないでしょうか。

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   震災の日から


 その日は朝から頭痛がした。昼食後、少し眠ってもまだふらふらする。しつこい二日酔い……と思ったが、そうではない。恐怖が走った。
 地震だ!
 ベッドから飛び降りた。揺れはどんどん強くなる。ベランダのガラス戸を開け、サッシにつかまりながら、しゃがみこむ。木々や電線が激しく揺れている。ガラスの降り注ぐビル街、地下鉄の大災害、逃げ惑う人々……、映画で見たような映像が頭をよぎる。
「お願い、もうダメ。収まって、お願い!」
 ひとり声に出して叫んだ。
 東日本大震災の瞬間だった。
 テレビの画面には、東北地方の津波がリアルタイムで映し出される。信じられない光景。だが、これは映画ではないのだ。
 地元川崎市のニュースはほとんどなく、交通機関の「運転見合わせ」や「停電」の文字情報だけ。東北の被害に比べたら、この辺りは何でもなかったということだ。
 子どもたちは、どうしているだろう。わが家の長男は自閉症で、障害者雇用の職場に勤めている。公民館内の喫茶室で、新しくできた超高層ビルの一階にある。この程度の揺れなら、何の問題もなく営業を続けているだろう。でも、彼はパニックを起こしていないだろうか。ふだんから神経が過敏なのである。ところが、職場の電話もスタッフの携帯電話も一向につながらない。
 高校生の次男は、電車で小1時間、町田市の友人宅に遊びにいっている。彼からの連絡も気がかりで、私が自宅を離れるわけにはいかない。そのうちに長男が利用するJR南武線も動いて、なんとか帰宅できるだろう。もう少し待ってみようと思った。
 6時を回って、やっと次男から電話があった。友人の家ではなく、カラオケで遊んでいたという。親の心子知らず。地震以後ものんきに歌い続けていたらしい。
 JRが終日復旧しないと知り、ようやく車で長男を迎えに出たときは、午後7時を過ぎていた。少し走ると、信号が消えている。辺り一帯が停電しているのだ。街路灯も消えて、コンビニも真っ暗。暗闇の中、車列のライトだけが、ぞろぞろと歩いている人々を照らしだす。
 いつもなら30分もかからない距離なのに、1時間以上かかって長男の職場に到着。最新鋭のビルも真っ暗で、くろぐろと不気味にそびえ立っていた。まさかこのビルまでも停電が起きていたとは。
 ビルの玄関に入っていき、「石渡です!」と名乗ると、寄りそうような2人の人影が近づいてきた。息子と女性の店長だった。思わず3人で抱き合った。
 地震発生と同時に、息子は机の下にもぐり、震えながら店長の手を握って耐えたという。小学校のときから続けてきた避難訓練が生きたのだろう。最初の揺れの直後に全館停電となり、営業はストップ。ほかの従業員は次々と家族が迎えに来て帰っていった。日没後は懐中電灯をともし、営業用のドーナツやおにぎりを食べながら、店長と2人、ずっと私の迎えを待っていたのだった。

 地震当日から、首都圏は混乱状態に陥った。南武線の運行も見通しが立たず、計画停電があるのかないのかさえもよくわからない。息子の職場も、営業時間や勤務体制が日々変わる。さらには、彼が楽しみにしているテレビ番組もことごとく中止。かならず発売日に買っている雑誌も、予告もなく発売延期になったりした。
 自閉症者は、予期せぬ出来事が大の苦手である。カレンダーのように変更のないものを好み、予定がわかれば安心して暮らせる。それがこの異常な事態。息子の精神状態は大丈夫だろうか。
 しかも、彼は音の刺激にも過敏だというのに、テレビからは緊急地震速報、携帯からはエリアメールの音が、文字どおり四六時中鳴り響く。たえず不安と刺激にさらされ続けている。
 しかし、長男は何の不満も口にしなかった。テレビやインターネットからの情報をよく理解して、自分の生活のやむをえない変化も納得しているらしい。いつもと変わらぬ表情で過ごしていた。しかも、「節電しよう」と言っては自分から不要な電気を消し、エアコンもつけずに過ごしているのだ。見習わなくては、と思った。
 ある日、職場でこう話したという。
「被災地の人は大変だけど、僕は僕の仕事をがんばります」
 震災以降、私は日常生活の混乱に振り回され、さまざまな情報に一喜一憂していた。ところが長男は、環境の変化にも揺るがない強さをいつのまにか身につけていたのである。
 社会人となって5年目、大きく成長した長男がいた。


 

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皆さんも、ご自身の3.11を書き残しておかれることをお勧めします。

初めに、「大きな跡を残した」と書きましたが、それは跡ではなく、変化かもしれません。皆さんはどう思われるでしょうか。

 

 

東松島市大曲浜の海



モトのエッセイ:大砂嵐のように2014年03月23日

大乃国という横綱がいた。もう四半世紀以上も前の話である。

私が初めての子を宿し、臨月間近のころだった。体型がそっくりだと言われてから、妙に親近感がわき、ひいきにしていたものだ。

 

それが影響したのかどうか、そのときにお腹の中にいた長男モトは、長じて大相撲ファンになった。今では「歩く相撲事典」と呼んでいるほどで、関取の出身地など、すべて暗記している。それを知る方がたから、なかなか手に入らない番付表やお相撲グッズを頂戴することもある。

 

当然、NHKの大相撲中継は欠かさずに見る。15日間、新聞の星取表に勝敗を書き込みながら、賜杯の行方を楽しみにする。

今日は、春場所の千秋楽で、鶴竜が初優勝。横綱昇進は確かなものになったようで、大相撲ファンが湧いている。モトも興奮の15日間だった。

 


エジプト出身の大砂嵐

今、注目されている大砂嵐は、初のエジプト出身の力士だ。

ある日、解説者がこんな話をしていた。

「エジプトでは、頭を下げて挨拶をする習慣はないそうなんです。だから最初はなかなか慣れなかったけれども、少しずつ慣れてくるのと同時に、力士としても少しずつ成長してきましたね」

人は、その社会に適応するところから、成長が始まるのだろう。

 

資料を指示どおりに梱包する作業。

モトは、昨年11月に障害者雇用の新しい仕事に就いた。

彼はここ数年、有名人の真似なのか、挨拶の時に握手をする習慣がある。モト流のスキンシップなのだろうから、まあいいだろう、と放任していた。

ところが、新しい職場でも、握手をしていたらしい。

「日本の会社では、握手をしません」

と言って禁じられてしまったのである。

たしかに、日本人社員同士がなれなれしく握手はしないだろう。障害者といえども、就労して社会で生きていくためには、ごく常識的な習慣を身に着けなければならない。

さらに、障害者の中には、他人とのスキンシップを好まない人もいる。同僚のストレスになってしまってもいけない。

もし、握手がモトの強いこだわりによるものだとすると、急に禁止されたら戸惑うだろうか、とちょっと心配したが、それも杞憂に終わった。

職場のリーダーの報告では、握手を止められても、さほどこだわる様子も見せずに、素直に注意に従っているそうだ。仕事の面でも、新しい作業を次々と覚えて、生き生きと働いている、とのことだった。

 

遠くエジプトからやって来て、異国の相撲部屋でがんばる大砂嵐金太郎、22歳。

自閉症という宇宙からやって来て、社会人としてがんばるモト、27歳。

どちらも、まだまだ成長を見せてくれることだろう。

 

 




「笑っていいとも!」終了によせて2014年03月28日


 

少なくとも私のブログを読んでくださる皆さんなら、知らない人はいないでしょう。よけいな解説は不要ですね。32年間続いたフジテレビの「笑っていいとも!」が、31日をもって終わりになります。

ちょうど、私が結婚した年の秋に始まった番組で、言ってみれば、私の結婚生活はこの番組とともに続いてきたことになります。在宅の日の正午には、「いいとも!」にチャンネルを合わせて、さてお昼、というのが習慣になっていました。

 

ところで、結婚して2年目には、エッセイ教室に通い始めました。

この番組のことも、エッセイの中に登場させたことが2回ほどあります。

その最初の作品を、あえて載せてみましょう。

1983年、今から31年前のエッセイ。もちろん、手もとに残っているのは、黄ばんだ手書きの原稿用紙です。留めてあったクリップも錆びていました。

             

 

 

「幸福」の黄ばんだ原稿用紙。

 

 

  

「幸福」

 

暑い夏の昼下がり、『幸福』というドラマを見ている。向田邦子氏が亡くなって二年目の夏に、追悼番組と称して、彼女の脚本によるドラマが再放送されているのである。生前から向田ドラマの大ファンで、いつも欠かさず見ていたが、今回は数年ぶりのうれしい再放送である。

おりしもホームビデオを買ったばかりで、これを収録しない手はない。彼女の著書とともに大切に保存するつもりで、新しいカセットテープに一回一時間のドラマを毎回録画しているところだ。カセットの背には、収録内容を書き入れるように、幅2センチほどの白いシールが貼ってある。ビデオ愛好者向けの雑誌には、録画されそうないくつかの番組タイトルがそれに適したサイズできれいに印刷され、ただ切り取って貼ればいいようになっているのだが、あいにく『幸福』はその中に含まれていなかった。

かといって、末永く残すテープに手書きのタイトル、というのもアカ抜けない。そこで手持ちの女性雑誌からこの二文字を切り抜いて貼ることにした。「幸福」なんて、いかにも記事の見出しに使われそうだ。「私の幸福なひととき」とか「○○の幸福感」とか……。雑誌の四分の一を占めるカラフルな広告のページにだって、いくつか見つかるにちがいない。高をくくってページをめくり始めた。一冊一冊、記事や写真にも目を留めながら、「幸福」の二文字を探し続けた。何十分かの後、投げ出された雑誌の中、ついに「幸福」を見出せなかった不幸な私がいた。

       

 

使われているようで使われていない言葉というのは、意外に多い。あのタモリ氏の「いいかな?」とたずねて「いいとも!」と答えるやり取りも、決して新しい言い回しではないのに、今や立派な流行語である。彼いわく、あの「いいとも」は誰でも口にするようでいて、じつは日常あまり使われず、芝居のセリフでしか聞くことのない言葉だという。それを仲間うちで使ったらウケた。あとはテレビの電波に乗せて流行らせてしまったというわけである。

逆に、よく使われるから使わないほうがいい、ということもある。いわゆる陳腐な表現、月並みな言い回しは、ものを書くときには避けなければならない。

「……と思う今日この頃である」でエッセイを結ぶのはタブー。新聞記事なら、「今後の成り行きが注目される」でニュースを片付けてしまうこと。毎日新聞の記者の中には、自戒として「ナリチュウ」と呼んで使わないようにしている人もいるとか。そのことを何かの本で読んだ翌日に、朝日新聞のディズニーランドホテル用地売買をめぐる記事が、このナリチュウでおわっていた。まさに、朝日に輝く他山の石、などと笑ってはいられない。

 言語には、さまざまなルールや約束事があり、創作とはいえ、それらは守られなければならない。その範囲の中で、読む人にわかりやすく、ただし慣用表現は避けて新鮮な文章を書くとなると、文才のない私にとってはもうお手上げである。しかし、だからといって、使い古しの語句を捨てないかぎり、読む人を惹きつけることはできないだろう。

「幸福」という言葉が使われないわけもその辺にありそうだ。私たちは幸福を求めて暮らしてはいるが、なかなか手に入れることができない。どんなに物質的に豊かになっても心の悩み苦しみは一向に減らない。何が本当の幸福かもよくわからなくなる。それを、いともかんたんに「幸福」と書いてしまったら、あまりに直截で安易に過ぎる。しらじらしいのである。

 ところが向田氏は、そこを逆手にとって、あえてドラマのタイトルに使ってしまった。意表を突かれた感じである。「いいとも!」がウケたのも同じ理由だろう。使われているようで使われていないものを、ホラ、とでもいうように目の前にさらけ出して見せている。いかにもふがいなげな旋盤工の物語が『幸福』とは、何ともにくいではないか。

   

 

 

 昨年の夏には、ある週刊誌の別冊として、『向田邦子の手紙』という本が発行されたので、買って読んだ。個人の手紙や遺品が公開され、知人友人が彼女の人となりを語り、既刊の本十六冊も表紙の写真入りで紹介されていた。

「幸福」の二文字は、やむなくその中から切り抜いた。『向田邦子TV作品集Ⅱ・幸福』の表紙であった。

                           1983年9月 記

 

 

 

最後まで読んでくださってありがとうございます。

なんとも理屈っぽくてくどい文章。まだ始めたばかりの青臭さですね。自分で赤を入れたいところです。

でも、内容は一つひとつ懐かしい。

31年前、皆さんはどうしていましたか。

「いいとも!」は32年目で終わりますが、私の結婚生活はこの先も続きます。(やれやれ……)

 

次回は、もう一つの「いいとも!」登場エッセイをアップする予定です。

 



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