母に代わって戦争体験記を〈後編〉 ― 2015年09月01日
〈前編から続く〉
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私の通っていた家政専門学校は本来なら三年間ですが、戦時下のため、二年半で卒業させられてしまいました。
卒業後は、世田谷区祖師ヶ谷大蔵の陸軍病院の事務職につきました。東京の陸軍病院とはいっても、殺風景なだだっ広い土地に、平屋の建物が数棟並んでいるだけ。まるで野戦病院のようなところでした。
私の仕事の一つに、慰問係というのがありました。週に一回、歌手や芸人の方々が慰問にやって来て、演芸会をするのです。そのお世話役は、楽しかったです。
また、入院中の家族の方が面会に来たときにも、患者さんを呼び出してお世話をしました。遠くから乗り物をいくつも乗り継いで訪ねてくるのに、病院を間違えて来る人もいました。がっかりしても、正しい病院の行き方をていねいに教えてあげると、ふたたびそちらへ向かっていったものです。やりがいを感じる仕事でした。
逆に、見ていて辛かったのは、面会家族の荷物検査です。食糧が不足しているなかで、心をこめて手料理をこしらえてきても、門のところで兵隊が、
「衛生上問題がある」
と言って、取り上げてしまうのです。かわいそうでなりませんでした。
そのほかに、英霊係という仕事もしました。「英霊」というのは、戦死者の霊のこと。病院で亡くなった人の名を紙に書いて、お骨の箱に貼ったりしました。
ますます戦争は激しくなっていきます。食糧はどんどん少なくなり、商店は店を閉めてしまい、私たちはお米や豆、野菜などの配給でしのいでいました。
男性は、国民服と呼ばれるカーキ色の服を着て、足元は動きやすいように脚半を巻きました。女性は、着物をほどいてモンペを作って、はきます。私のよそいきのモンペは、母の大島絣で作ったものでした。
東京は空襲に見舞われるようになります。敵機に見つからないように、電灯は黒い布で覆い、手元だけ照らしました。ガラス窓には紙を張って、割れても飛び散らないようにしました。門の外には、バケツやたるに水を入れて並べておいたりしました。
隣組では、家が燃えたときの水かけ訓練や、「エイヤーッ」と竹やりで人を突き刺す訓練までさせられたものです。
どの家も庭に防空壕を掘りました。あらかじめ、ろうそく、水、炒り豆などの食べ物を入れておき、空襲警報が発令されると、そこに避難するのです。
空襲警報が毎晩鳴り響くようになると、いつでも逃げられるように服を着たまま寝ます。眠いし、めんどうになって、避難もせずに押入れで寝てしまったこともありました。
幸い私の家の周りには工場などなく、畑や空き地が多かったので、あまり標的にはされていないようでした。それでも、爆弾の落とされる地響きが不気味で恐ろしかった……。
そんな非常事態でも、人々は日々の営みをやめるわけにはいきません。私も朝になれば電車に乗って、職場へ通いました。でも、着いてやれやれ、さて仕事をしようとすると、また空襲警報。病院の庭の防空壕に避難となるのです。
防空壕の入り口の隙間からおそるおそる空を見上げると、B29が3機ずつの編隊で工場地帯へと向かっていくのが見えたものでした。
ある朝、通勤の途中、高台にある豪徳寺駅のホームから、遠くの空に恐ろしい真っ黒な入道雲のようなものが見えました。今にして思えば、それが東京大空襲の翌朝だった。おおぜいの尊い命を焼き尽くした煙だったのです。
日本は勝ち進んでいる。毎日そう聞かされてはいる。それにしても、こんな空襲がいつまで続くんだろう。私たちはどうなってしまうんだろう……。口には出さなかったけれど、私は漠然とした不安を抱いていました。
「天皇陛下の放送があるらしいよ」
その日の朝、私はのんきに川遊びをしていました。わが家は、空襲で焼けては困る大事な荷物だけ、埼玉県・秩父の知り合いの家に疎開させていたので、その整理を口実に、夏休みをもらって泊まりに来ていたのです。家の子どもたちと一緒に、近くの河原にいると、奥さんが呼びにきました。子どもたちは小学校に行くように言われました。
急いで家に戻り、座敷に座ってラジオに耳を傾けます。でも放送は雑音ばかりで、陛下のくぐもったようなお声は、何を言っておられるのかちっともわかりませんでした。
戦争は終わった。日本は負けた。だんだんと本当のことがわかってきます。でも、何の感情も湧いてはこない。これからどうするんだろう。そんな思いばかりです。
ただ、夜になったら部屋を明るくできることがとてもうれしかった。もう、モンペじゃなくてスカートをはいていいんだ、ということも。でも、はこうにもスカートは一着もありません。
「そうだ、明るい電灯の下で、きれいな色のスカートをたくさん作ろう……!」
そう思ったとき、初めて私の胸がときめいたような気がしました。
電灯にかぶせた黒い布のように、戦争は、私の娘時代を覆い隠し、暗くしていたのでした。
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この2枚の写真、母は20代前半です。
モンペをはいて畑仕事をしていたり、楽しそうに風を切って自転車に乗っていたり……。今の20代と何も変わらない屈託のない笑顔です。
だからこそ、私は泣けてしまうのです。
それはなぜか、おわかりいただけるでしょうか。
ダイアリーエッセイ:フランス菓子のほろ苦さ ― 2015年09月13日
若いイケメン男性から、ピエール・エルメのマカロンを贈られた。
私の舌も瞳も、それはもうカラフルなハートマークがちかちか……。
マカロンは、洋菓子好きの私にとって、その中でもお気に入りだ。

しかも、この店のは、忘れられない味である。
昨年の夏、娘と二人でフランスに出かけた。パリに着いたその日、ピエール・エルメの店を目指していき、一つずつ買って、チュイルリー公園の池のほとりで、胸躍らせて食べたのだった。



ブルーの箱に並んだマカロンも、文句なしのおいしさだけれど……。
贈り主は、ほかでもない娘の彼氏である。
もう、娘と二人のパリは遠くなったということだ。
ちょっぴりほろ苦い味がした。

ダイアリーエッセイ:敬老の日、来年こそは ― 2015年09月21日
◎

母の庭には、毎年彼岸花が咲く。
その年の夏が、暑かろうと涼しかろうと、日照りが続こうが、長雨が続こうが、律儀にこの時期になると、こつ然と姿を現す。赤くにぎにぎしい花弁やしべを反り返らせて、窮屈そうに寄り固まって咲いている。
こんなに長生きしても、しょうがないねぇ。
一人じゃ何にもできないし、迷惑かけるばっかりで、だれの役にも、何の役にも立てなくて……。
92歳の母に、そんなふうにこぼされて、とっさに返事ができなかった。
そんなことないでしょ……とは言うものの、その先が出てこない。
〈ここにいて、そうやって息をしているだけで、私はうれしいわ〉
そう言ってあげるんだった。何も言えなかったことが、悲しくなる。
来年こそは、言ってあげよう。
だから、もう一年、長生きしてね。
私には、毎日が敬老の日。


ダイアリーエッセイ:終了前夜のときめきを…… ― 2015年09月24日
今、ちょうど中間試験の最終日前夜のような気分だ。
高校生の頃、試験が明日で最後だと思うと、まだ試験勉強が終わらないうちから、そわそわうれしかった。
1年のときから部活をやめて帰宅部だった私は、終わったら何をしよう、どこへ行こうか、とそんなことばかり考えながら最後の科目の勉強に励んだ。あと一日でつかのまの解放感に浸れることが待ち遠しかった。
【西暦2000年以降の直木賞受賞作を読破する】という目標を打ち立てていることは、これまでにも何回か書いてきた。今年の上半期までで、全部で41作品。それらが、あと154ページで読了、目標達成となるのである。
最後に読んでいるのは、昨年下半期の受賞作、西加奈子著『サラバ!』。
これもまた読み終わるのが惜しいくらい面白くて、よけいに胸が高鳴ってしまう。読んだ後で、改めておススメの本として紹介したい。
まるで高校生の頃のように、次は何の本を読もうか、今からわくわくする。
自分で作った足かせは、自分で外せばいいだけのことだけれど、面白がるのも私自身。せいぜい達成感と解放感に、はしゃいでみたい。


