自閉症児の母として(30):「津久井やまゆり園」の事件に思う ― 2016年07月31日
7月26日の朝のニュースで、戦慄が走りました。
ドイツのミュンヘンや、フランスのニースで起きた最近のテロ事件が頭をかすめます。今度は日本かと……。
しかも、わが家にとっては身近な、地元神奈川県の〈障害者施設〉での殺傷事件と聞いて、大きなショックでした。
それから毎日、報道を目にしない日はありません。この5日間で、事件の詳細や、容疑者のこと、社会の反応など、いろいろとわかってきました。
私の心の中には、あいかわらず最初のショックがもやもやと居座っています。
容疑者は、以前はこの施設の従業員であったけれど、精神障害で、しかも薬物反応が見られたという。いったんは措置入院させられても、また野放しになって、経過観察されていなかった。つまり、不幸が重なったような、きわめて特殊な犯罪です。
だからといって、今後はめったに起きることはないだろう、とは言い切れません。模倣犯罪が起きる可能性もあるだろうし、不安はぬぐえません。
ネットでの書き込みなど、容疑者を英雄視する声もあると聞いて、暗澹たる気持ちになります。
今朝のNHK「日曜討論」の番組のなかで、映画監督の森達也氏が、
「どんな事件にも特異性と普遍性がある」と述べていました。
今回の事件も、特殊ではあっても、容疑者の偏った思想を助長するような土壌が、社会の中に普遍的にあるのでは、と思うのです。
障害者も一人の人間であり、かけがえのない尊い命を持ち、幸せに暮らす権利を持っている。理屈ではわかっていても、社会にとっての邪魔者だという気持ちが、どこかに潜んでいるのではないでしょうか。
今月半ば、出生前診断で胎児に異常が認められた妊婦の94%が中絶を選択したという新聞記事がありました。それぞれに事情があるのはわかります。しかし、おおざっぱな言い方が許されるなら、障害児は不要という選択でもある。残念な結果です。
また、今回の事件で特殊な点は、犠牲者の氏名が公表されないことです。
事件後すぐに私は、長男を通して知り合った障害者はいないだろうかと、心配になりました。が、公表されないことを知り、がっかりしました。
もちろん、それは、この施設で生活していた障害者、その家族への配慮だということは納得できます。知られたくない、報道されたくない。そう思う家族もおられるでしょう。でも、その配慮は、健常者が残忍な事件に巻き込まれた場合も同じはず。けれども健常者は公表し、障害者は伏せておく。それこそ偏見につながるような気がして、違和感を覚えます。
どんなに重度の障害者であっても、家族にとってはかけがえのない子どもであり、身内であったことでしょう。それは、実名の報道に応じた家族の思いを読んでもわかります。
「〇田〇男さんが、被害に遭いました。ここで穏やかに暮らしていました」
私はそういう報道をしてほしい。被害者の体温が感じられるように、障害者といえども、かけがえのない人生を送っていたことが伝わるように。
しかし、理想はそうであっても、まだまだ世間に対して身内が障害者であることを隠さなくてはならない、恥じなくてはならない。それゆえ、障害者はひっそり暮らさねばならないという常識が根強いのも、わからないではありません。
少しずつその偏見が薄れていき、障害者に対する理解が深まることを望んでいます。この津久井やまゆり園では地域の人々との交流があるという記事に、少なからずほっとできました。
そもそも社会というものは、必ず障害者が存在するのが当たり前の姿です。その人たちを否定し、排除しようとする思想は、あまりに独善的で、社会人としての意識が低いのでは、と思います。
だからこそ、今回の事件には悲しみとともに、怒りを感じます。
亡くなられた方々のご冥福を心からお祈りします。
障害の二文字は地上に残したまま、空の上では自由に安らかに過ごすことができますように。
残された家族の方がたの悲しみが、少しでも癒される日が来ますように。
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