兄へ贈る「レクイエム」 ― 2016年07月06日
今朝、「自分は今から死んでいくのだ」という夢を見ていた。
93歳の母のそばで、ずっと世話をしてきたからだろう。健康を害して、以前とはずいぶん違ってきた母を見ていると、現実に「その時」は遠くないのだ、と覚悟を迫られているような気分になる。
だからあんな夢を見たに違いない、と思っていた。でもそうではないと、今気がついた。
私は、兄、姉、弟の4人きょうだいで育った。わが家はカトリックで、さほど熱心ではなかったが、子どもたちは幼児洗礼を受け、土曜の午後は教会学校に通わされた。弟が小さいころは、5つ上の兄、3つ上の姉と、3人で行くことが多かった。
「かけっこで競走して行こうぜ」
兄が言い出す。後れを取るのは目に見えているから、私はいやだ。でも、いやとは言えない。すぐ手が出る怖い兄だ。
「後ろのほうから、スタートしてやるよ」
と、いっぱしの兄貴ぶりを見せる。私は少しだけ前に立たされ、その後ろに姉、遠くに兄。よーいドンで走り出す。どんなに懸命に走ったところで、いずれ兄にも姉にも抜かされていくのだ。私を抜かすときの、あごを突き出して得意満面な兄の顔といったら……。
教会学校に着くと、お聖堂(みどう)が見渡せる中2階に上がって聖歌の練習をする。子どもたちはオルガンの前に並んだ長椅子に腰かけ、白い模造紙に手書きされた楽譜を見ながら歌う。ほとんど子供向けの聖歌だったが、私はどんな歌もすぐに覚えてしまった。「大きな声で歌いましょう」と先生の言うとおりに、大きな声で歌う。
ところが、家に帰ると、姉が言うのだ。
「ひとみは、大きな声で歌うから恥ずかしい」
そこで次の週には、口パクで歌う。でも、すぐにまた、先生の「大きな声で……」の合図で大声を張り上げる。だれもいない、いえいえ、神様だけが聞いているお聖堂に私の声は響き渡り、それはそれは気持ちがよかった。
そんな私が小学5年生のとき、兄は誕生日のプレゼントにレコードを買ってくれた。
「これが青春だ」という青春ドラマの主題歌で、私の大好きな布施明が歌っていたものだ。喜ぶ私を見て、兄は何も言わず、にたにたとするばかり。
翌年には同じ布施明の「恋」を買ってくれた。兄貴風を吹かせることができて、ご満悦だったにちがいない。
いつもいばり散らし、気に入らないと暴力をふるうくせに、機嫌のいいときだけ、別人のようにやさしくてお調子がよくなるのだ。彼の気分次第で、わが家の空気は左右される。だから、兄のことはあまり好きになれなかった。
兄は小さいときから病弱だったという。
長じても心配をかけ続けた。何年もかかって大学は出たものの、仕事は長続きせず、一人暮らしも続かない。ずっとこのまま私が世話をしていくのかしら……と母が諦めかけたころに、教会関係の紹介でお相手が見つかり、結婚。子どもも一人授かった。
人並みに家庭を持ったけれど、健康にはついぞ恵まれなかった。父が前立腺がんで亡くなった翌年には、父と同じがんが発覚。さらに、心臓の異常も見つかり、手術を受けて人工弁を入れた。
そして今から5年前、東日本大震災の年の7月、あっけなく逝ってしまった。体の自由が利かなくなっていた兄は、夜明けの浴室で、溺死したのだった。
次男の学校の保護者会には、母親たちの聖歌隊がある。6年前の11月、学内のチャペルで鎮魂歌(レクイエム)の演奏会を聴いた。カトリックでは、11月は「死者の月」とされ、亡くなった人々を悼む月である。友人に誘われるまま、その日を機会に、私も聖歌隊に入った。もう、大きな声で歌って非難されることはない。
それにしても、まさか1年後に自分の兄のために歌うことになるとは……。神様だけがご存じだったのである。
翌年11月、その時が来た。20名ほどの聖歌隊で歌うのは、ガブリエル・フォーレ作曲の「レクイエム」。この曲は、たびたび転調したり、半音上がったり下がったりする。まして私のパートはメゾソプラノで、ほとんど主旋律ではないからさらに難しい。新人の私は、自宅のピアノで音取りをしながら、独り特訓をした。
当日本番、黒いスーツに身を包み、手元の楽譜と指揮者の指先だけを交互に見つめながら歌う。音程もラテン語の歌詞もまちがえないようにと、そればかりに集中した。
なんとか歌い終わって、ほっとする。
最後に、司祭である校長が言われた。
「皆さんの歌声は、チャペルの天井高く昇って、神様のもとに届いたことと思います」
円形の小さなチャペルは、ドーム型の天井が高く、音響効果もすばらしい。天井の中央には明かり取りの丸窓がある。その向こうから、そばかす顔の兄が、にたにたと笑いながら覗いているような気がした。
突然、ぽろぽろと涙がこぼれた。
今日7月6日は、兄の命日だったのだ。しかも兄は、今の私と同じ年齢で亡くなっている。
今朝の夢は、それを知らせてくれたのではないだろうか。