旅のフォトエッセイCroatia2019 ③ドゥブロブニクは☆パラダイス2019年11月23日



城壁に囲まれた旧市街は、何百年の歴史を持つ教会や修道院をはじめ、プラッツァ通りを中心に細い路地が縦横に並び、カフェやレストラン、銀行やこぎれいなみやげ物屋が並び、ほとんどが観光客のために営業をしているようです。土日に休業することもありません。

私たちが3泊した5つ星のホテルは、城壁のプロチェ門から徒歩5分の近さ。ほぼ毎日のように2往復して、朝から晩まで楽しい時間を過ごしました。

 

プラッツァ通りは、12世紀に水路を埋め立てて造られたそうです。今では石畳がぴかぴかに光っています。▼

 

 日本のわが家を出発したのが、10月3日の午後4時ごろ。成田空港からトルコ航空を利用、イスタンブールで乗り継いで、ドゥブロブニクのホテルにたどり着いたのは、翌4日の午前8時過ぎ。時差7時間を足せば日本時間の午後3時ごろ。ほぼ丸1日の長い旅だったわけです。

ホテルに着いても、まだ部屋には入れず、着のみ着のままで、街へくり出しました。

 

せめて長旅の疲れを癒やそうと、最初に入ったレストランは、プロトという店。ガイドブックにも載っており、創業100年以上の老舗だとか。ランチタイムから糊のきいた白いクロスのかかったテーブルが整然と並んでいて、ちょっとスノッブな雰囲気です。

コースを頼まなくても嫌な顔をされないかと心配しましたが、イケメンのスタッフが「OK!」と言って、にこやかにテーブルに案内してくれました。

まだ12時前だったので、店内も静かで、落ち着いていました。▼


 


まずは、クロアチアワインとともに、カキの養殖で有名なストン産のカキ。▲

平たい岩ガキです。もちろん生で、レモンを絞って食します。冷たい海の味がたまらない。アドリア海の澄んだ青が口の中に広がるようです。

クロアチアワインは、日本ではまだなじみがありませんが、ヨーロッパでは人気があるそうです。たしかに安くておいしい♡


▲そして、なんと、名産の黒トリュフ入りのパスタ! ほっぺたが落ちそうでした♡



 次の夜には、広場にテーブルを置いているカメニツェというレストランへ。青と白のストライプの椅子がトレードマークで、ここも人気があるそうです。▼


カメニツェというのはクロアチア語でカキのこと。ストンに自家専用の養殖場を持っている、とガイドブックに書いてありました。これは、はずせません!

もちろん、とてもおいしかったです。▼

 ▲この青いラベルのワインは、クセのない味がいい。大衆的なものらしく、スーパーやおみやげ売り場にも置いてあったので、日本に買って帰りました。


カキ同様においしかったのが、こちらのムール貝のリゾット。▲

テーブルクロスもお皿もお店の雰囲気も、前日のプロトとは対照的でカジュアルでしたが、お値段もリーズナブル。プロトの約半額で、おなかいっぱいになりました。

 

 

夜空の下、暑くもなく寒くもなく、海のそばでも湿気がなく、これ以上ないくらいに快適です。街のレストランのお客さんは、観光客に交じって、地元の人々も、外での食事を楽しんでいるようでした。

 

帰り道、聖ブラヴォ教会の向こうに、月が。▲

 

▼これがプロチェ門。ここをくぐってホテルに戻ります。何度出入りしたことでしょう。

 


ドゥブロブニクは、料理やワインがおいしいだけではなく、従業員のサービスも本当に気持ちの良いものでした。適度に控えめで、きびきびと動き回り、お客さんの要望にはいつもにこやかにOKしてくれるのです。

街の中には、ほかの国のように、お金をせびってくる乞食もいません。たむろするゴロツキや、大声を上げて騒ぐような若者もいない。

治安がいいのは、警備が厳しいわけでもなさそうです。お巡りさんは見かけませんでした。

そして、街中の清潔なことにも驚きます。アイスクリームやサンドイッチの食べ歩きはしても、ごみを路上に捨てる人はいない。ごみ箱の周りさえ、ごみが落ちていないのです。観光客のお行儀がいいから? どこかのテーマパークのように、神業で掃除をしてしまうから……??

 

不思議な街でした。

観光客には本当に天国のような街……。そう思いました。

 

この話は長くなるので、また次回に…… 

 

《続く》

 


旅のフォトエッセイCroatia2019 ②ドゥブロブニクの城壁を歩く2019年11月05日


 

紀元前の昔から、ヨーロッパという地域は、多くの巨大勢力が台頭し、領土を奪い合う歴史を繰り返してきました。クロアチアも例外ではありませんでした。ローマ帝国、フランク王国、ビザンツ帝国、オスマン帝国、ハプスブルグ家、ナポレオン軍、そしてハンガリー、オーストリア、イタリア、ナチス・ドイツ、ユーゴスラビア……などなど、次々と支配が入れ替わる変遷の歴史をたどってきました。

 

そんな中で、ドゥブロブニクはローマ人がラグーサ共和国をうち建てて、14世紀に独立し、ベネチア同様の海洋都市国家となりました。海運貿易で富を蓄え、イタリアからルネサンス文化が入り、1516世紀には繁栄を誇ったそうです。

都市をぐるりと取り囲む頑強な城壁が完成したのもその頃でした。

 

「アドリア海の真珠」と呼ばれるほどに美しい街、ドゥブロブニク。その旧市街は、1979年に世界文化遺産に登録されています。

 

着いた次の日の夕方、ロープウェイで町の北側にそびえるスルジ山に上りました。標高412mのこの山からは、旧市街を見下ろすことができます。

「みなさま、下に見えますのが、ドゥブロブニクの旧市街で、ございます!」というぐらい、手に取るように見えました。 


▼旧市街が城壁で囲まれているのがおわかりいただけるでしょうか。

 

日が落ちて、城壁がライトアップされてきました。


 新市街の向こうに広がる西の海に日が沈み、しばらく雲をオレンジ色に染めていました。


 

その翌日には、朝から城壁を歩きました。12km。快晴の空の下、真夏のような強烈な日差しが降り注ぎます。



 

▼ここが入り口。この階段を上って城壁に上がります。

料金は大人150n(クーナ)。日本円にして約2550円

 

城壁にはところどころに要塞が設けられ、狭い通路や階段が続きます。幅1メートルほどしかない箇所もあります。当時の兵士たちは戦闘服を着て、武器を持ち、この狭い城壁の上を機敏に動き回ったのでしょうか。

今は、のんびりと観光客が歩くばかりです。


▲今回の旅の相棒、ヒロミさんです。赤い帽子と黒いサングラスがお似合い。


私はといえば、スーツケースに一度入れた半袖のTシャツを、寒そうだからと出して置いてきたことが悔やまれてならず……。寒さ対策だったストールが、直射日光を遮ってくれる日よけになりました。


対岸の崖の上にも、ロヴリイェナツ要塞という名の大きな要塞が、海をにらんでいます。手前の、大砲が置いてある所が、今通ってきたボカール要塞です。▼


▼これは何の箱でしょう。銃や弾丸を入れたのかしら。謎の石の箱です。



城壁に守られている内側の家々を見るのも楽しい。

洗濯物、よく乾くでしょうねぇ。




さて、ほぼ半周を歩いたところで、聖イヴァン要塞に来ました。北側には、昨日上ったスルジ山がこちらを見下ろしています。▼


▼ここから、旧港が見下ろせます。


さらに進んで、聖ルカ要塞へ。

旧港の手前に見えるのは、ドミニコ会修道院。▼



 えっちらおっちら上り坂を進んでいくと、向こうに筒状の建物が見えてきます。ミンチェタ要塞です。城壁ウォークのなかでも最も高い場所なのです。暑い暑い。さらに要塞の中の狭い階段を何段も上って……


▼やったー! 城壁征服! 真っ青な空に踊るクロアチアの旗の下で、思わずVサイン。


そして、見下ろす旧市街。オレンジ色の屋根の波。▼




私が滞在している間、ドゥブロブニクは毎日明るい陽ざしを浴びて、平和そのもののように見えました。

しかし、「アドリア海の真珠」と呼ばれるこの街は、世界遺産になった12年後、爆撃を受けてかなり破壊された。それでも、ユネスコの支援のもと、再び元の姿を取り戻したのでした。

戦争の話は、また次回に。

 

ともあれ、お疲れさまでした!!



 


旅のフォトエッセイCroatia2019 ①はじめに2019年11月03日



「今度の旅行はクロアチアに行ってきます」

私がそう言うと、返ってきた言葉のベスト3は次のとおりでした。

 

☆なぜ、クロアチアに行くの?

私がクロアチアに行きたいと思ったのは、2年前のことです。

娘から、「消化しきれなかった有給休暇を取るから、1月に一緒に旅行しない?」と誘われました。

さて、行き先はどこにする? もちろんヨーロッパ。私が子どものころからの憧れの地。時間とお金と体力が許す限り、ヨーロッパに行きたい。娘はといえば、まだ訪ねたことのない国に行ってみたい。

そこで、ヨーロッパの中で、2人とも未踏の国にしよう、となりました。

その時に娘が「クロアチアがいいよね」と言ったのです。

私には全く未知の国でしたが、ちょっと調べただけで、きれいな写真に魅了されました。しかし、冬は寒そう。結局、選んだのは冬も温暖なポルトガルでした。

前後して、親しい友人がクロアチアの旅から帰ってくると、「また行きたい!」と大絶賛でした。私の興味は深まり、次こそはクロアチアへ、とひそかに決めていたのです。

 

☆誰と行くの?

「またお嬢さんと?」と何度か聞かれましたが、そうそう既婚の娘が私に付き合ってくれるはずもありません。

じつは今回の相棒となったのは、ほかでもないクロアチアに行って大絶賛したくだんの友人でした。同じマンションに住む仲良し女子4人組のうちの2人。4人そろっての国内旅行は札幌から沖縄まであちこち出かけましたが、2人きりで海外へ行くのは初めて。

「どんな珍道中になることやら。旅先からのライン、待ってるからね!」

残留組の2人の期待を一身(二身?)に背負って、旅立ったのでありました。

 

☆クロアチアって、どこにあるの?

最初私もよくわかりませんでした。8年前には東欧の国々も訪ねたのでしたが……。

▼グーグルマップをお借りしました。ほぼ中央にあるのがクロアチアです。アドリア海を挟んでイタリア半島と向かい合っているのですね。



 

滞在したのは、アドリア海沿いのドゥブロブニク3泊と、首都ザグレブ2泊。

日帰りで国境を越えて、隣国ボスニア・ヘルツェゴヴィナの都市モスタルへ。

また、内陸ザグレブからはプリトヴィッツェ湖群国立公園へ。

ざっと、この4か所が主な旅の目的地です。

 

▼これは、わが家へのおみやげのエプロン。クロアチアの地図が描かれています。面積は九州の約1.5倍。人口は400万人ほど。

上部の真ん中あたりに位置するザグレブ。アドリア海に沿って南下していくと、しっぽの先にあるのがドゥブロブニク。おわかりいただけますか。

ちなみに、ボスニア・ヘルツェゴヴィナはオリーブの絵の所に隣接しています。



  

iPadiPhoneで撮った写真は500枚以上になりました。ところが、ラインで送ったりクラウドを利用したりしていたせいか、改めてパソコンで整理しようとすると順番が狂ってしまっていました。少し手間ひまかかりそうですが、厳選してご覧いただきましょう。

 


帰国の翌日から2019年10月25日

 

103日の夜に成田から飛び立って、58日。クロアチアの旅を終えて、10日の夜、無事に帰国しました。

 

ところが、帰る前から「史上最強の台風が関東に接近している」という恐ろしい情報が入っており、半信半疑でしたが、予報どおりの現実となりました。

帰国翌日には、スーツケースの荷解きと並行して、夫と次男と3人で台風対策におおわらわ。買い出しに行く人、ガラス窓に段ボールを貼り付ける人、懐中電灯の明かりを確認する人、カセットコンロをチェックする人、ベランダの竿を外す人、それを室内で受け取る人……。

いつもは週末の朝に帰宅する長男も、金曜の仕事が終わったら帰宅させました。

 

翌12日、夕方になると、雨も風も激しくなってきて、不安と緊張が高まります。わが家は高台にあるので、水の心配はなさそう。怖いのは風。生垣に囲まれた1階とはいえ、何が飛んできてガラスを割ってしまうかわかりません。

家族4人一緒だし、備えも万全、きっと大丈夫……と思いながら、夕食をとっていると、ぐらりと揺れるではありませんか。

「おいおい台風と地震のコラボか。冗談じゃないぜ」と息子たち。

NHKテレビの画面は、台風情報と地震情報、青い額縁が二重になっていました。


 

食事もさっさと片付けて、鍋という鍋に水を入れました。浴槽もきれいに洗って水を張りました。わが家はオール電化なので、いったん停電すると、水道もトイレもガスも使えません。

9時を過ぎたころ、ふっと明かりが消えました。停電です。さっそく準備しておいた懐中電灯やスマホの照明が役に立ちます。でも、23分であっけなく復旧しました。……と思いきや、また停電。また復旧。3回繰り返した後は、長い停電が続きます。

 

することがない、と夫はさっさと寝てしまいましたが、息子二人と私は、寝るにはまだ早い。次男が珍しく部屋からギターを持ってきて、ポロンポロンとつま弾きます。3人でたわいのない話をしながら、いつもとは違う暗闇の中で、まったりとした時間が流れていきました。

家中の明かりがぱっとついてテレビの音が響いたのは、寝入った明け方3時半ごろでした。風はぴたりと止んでいました。

 

翌朝からは、各地の被害状況が刻々と伝わってきて、台風19号の豪雨災害の恐ろしさを知ることとなるのです。

神奈川県と東京都の境界を流れる多摩川も例外ではありません。慣れ親しんでいる地域が浸水し、同じ区内でも犠牲者が出ました。ご冥福をお祈りします。

その方はわが家と同じ「マンションの1階に住む60代の男性」ということで、たくさんの方に「あなたのご主人では?」とご心配をいただきました。


 

今なお、災害の傷痕深く、行方不明の方もいて、胸が痛みます。今日もまた大雨。報道から目が離せません。

そのかたわら、にわかファンとして、ラグビー日本代表チームの快進撃に大興奮。被災者のためにがんばる。勝って元気をあげたい。そんな彼らに、私もテレビの前で声援を送り続けました。

また、22日の天皇陛下ご即位の儀式にも、そのお言葉にも、大変感慨深いものがありました。

この半月ほどは、日本人だれもが、次々と心をつかまれるような出来事が続く日々ではなかったでしょうか。

 

長い前置きになってしまいました。どうしても書いておきたかったのです。

では、次回から始めます。

旅のフォトエッセイCroatia2019

どうぞお楽しみに!



 

 

ダイアリーエッセイ:この日にあたり、ごあいさつ。2019年09月29日



今日は、929日。長男の33回目の誕生日です。

「軽い自閉症ですね」と、小児科医に診断を下された日から、30年が経ちました。なんとまあ、長い歳月だったことでしょう。涙あり、笑いあり、苦しみあり、喜びあり。あらゆる思いがぎゅうぎゅうに詰まった30年間でした。

 

そして、この春、自宅を離れて自立の第一歩を踏み出してから、7ヵ月。

毎晩、夕食後に電話があり、その日の食事のメニューや、サッカーJリーグの試合結果、大相撲の勝敗などを報告してくれます。

毎週土曜に帰宅し、翌日にはホームに戻ります。

生活は順調で、小さな問題はあっても、本人が自立して暮らしていることにプライドを持ち、満足している。それが何よりも大切なことなのではないでしょうか。

 

昨晩は、家族5人が集まって、近くのレストランで夕食をとりました。

33歳の抱負は?

「ホームでの生活をがんばります」 

 



介護施設にお世話になっている母も、健康状態は良好。穏やかに過ごしているので、ここらでほっと一息、ついてもいいかな、と思いました。

そんなわけで、10月上旬、1週間ほど旅行に出ます。

 

今回も3週間ぶりのブログ更新になってしまいました。

旅行の前後がとても忙しいのは毎度のこと。「何も今じゃなくてもいいのに……」と思うような用事が、向こうから手を振ってやってくる。それをクリアしていくことで、旅行の喜びも増すというものですね。(強がり?)

次回は帰国後に、楽しい写真をご覧いただければと思います。

行き先は、クロアチアです。


 



ノートルダム大聖堂の復活を祈って2019年04月18日

 


おとといの朝、ノートルダム大聖堂から火の手が上がる映像に、わが目を疑いました。

次々と送られてくる写真や動画のかずかず。高い尖塔が、その骨組みを炎の中に黒く浮かび上がらせ、やがてあまたの火の粉を撒き散らしながら、ゆっくりと二つに折れ、なすすべもなく崩れて落ちていく……。その様子には、さすがに涙が出ました。

初めて訪れたのは大学生の時。その後も何度となく訪ねたものでした。

 

フランス人にとってのノートルダム大聖堂は、日本人にとっての富士山のようなものだ、と言った人がいます。そうであれば、富士山のように永遠にそこにあり続けるはずだったのに。

世界遺産としての価値にとどまらず、今なおカトリックの信仰の場でもあります。パリ市民にとって、フランス人にとって、そして、私のような遠い国の外国人にとってさえ、心の支えでした。

 

でも私は、どのような形であれ、かならずや復元されることを信じています。

 

最近訪ねたのは、3年前の春でした。


▲ここがパリのゼロ地点。



パリへ飛び立つ直前の空港で、母が通うデイサービスの介護士さんから電話を受けました。

「お母さまは顔色もすぐれず、娘さんが外国旅行に行かれるので不安なのかもしれません」

今ここでそんなことを言われても……と途方にくれたのでした。

ところで、ノートルダムはフランス語で「われらの貴婦人」つまり、聖母マリアのこと。この大聖堂は、聖母マリアに捧げられて建立された教会です。母もまた、クリスチャンネームは聖マリア。つまりマリア様が母の守護聖人なのです。

パリに着いた翌日、ノートルダム大聖堂を訪ね、母の健康と長寿のためにキャンドルを灯して祈りを捧げました。



 ところが日本ではちょうどそのころ、母は病院で診察を受け、胃がんが見つかっていたのです。手術をしなければ、余命半年。私がその事実を知らされたのは、5日後に帰国した夜のことでした。

93歳という高齢でしたが、胃の3分の2を摘出する手術を受けました。その後の経過は順調で、若い人の何倍も時間はかかったものの、完全に回復することができたのです。

だから、あの大聖堂はきっと再建される。私にはそう思えます。今こそ、母を救ってくれたノートルダムのために、今度は私が祈りを捧げましょう。

 

しかも、悲劇が起こったのは、もうすぐイースターというこの時期でした。来たる日曜日が、イースター。つまり、キリストが十字架にはりつけになって亡くなり、3日後に復活した日にあたります。

そのことにむしろ明るい希望を感じるのです。大聖堂も、きっと復活を遂げるにちがいない、と。

キリストのように3日で復活は無理でも、すでに1日にして1000億円もの寄付が表明されているとか。また、再建に向けた募金活動も各方面で始まっています。世界中の人々の気持ちが、祈りが、悲劇を乗り越える大きな力となって、復活を実現させていくことでしょう。



3年前の内部の様子。美しいステンドグラス「バラ窓」なども、被害を受けたようです。







祭壇のあるこの辺り、昨日の映像では、屋根が焼け落ち、ステンドグラスも抜け落ち、床にがれきが積もっていました。十字架だけは同じところにありました。▲



 ▲セーヌ川クルーズをした時、船の上から大聖堂の裏側を撮りました。崩落した尖塔がそびえていました。




 



旅のフォトエッセイ:世界遺産の五島列島めぐり⑤旧五輪(ごりん)教会堂2019年01月26日

 


旅の2日目、若松島のキリシタン洞窟を訪ねた後、さらに船を走らせて、久賀島(ひさかじま)の旧五輪教会へ向かいました。

 

▼濃緑色の海のすぐ脇、瓦屋根の日本家屋のような旧五輪教会が見えました。そして、横には明るいオレンジ色の新聖堂があります。


 


五島列島のほぼ中央に位置するこの島では、明治になって、厳しい弾圧が行われたそうです。

ようやく禁が解け、明治14年、この聖堂は当初、島の西側に建てられました。昭和になって新聖堂を建てることになったので、旧聖堂は解体されます。

私たちも船でこの場所に来ましたが、解体された旧聖堂も船で運ばれ、島の東側の五輪地区に引っ越してきました。昭和6年、この地の最初の教会として生まれ変わり、新しい使命を担ったわけです。

とはいえ、140年近い歳月がたっており、木造の教会としてはとても古いものです。昭和60年には、信徒の祈りの場としての使命を終えました。現在は隣の新聖堂がその役目を負っていますが、旧教会堂は貴重な遺構として、国の重要文化財に指定されているそうです。

そして昨年、この五輪集落も世界遺産に登録されました。

 

▼玄関の上に掲げられた看板の文字「天主堂」も読み取れないほど薄くなっていました。



 

▼中に入ると、まず正面の祭壇には、聖ヨセフが幼子イエスを抱いた像が私たちを見下ろしています。

この教会の守護の聖人は聖ヨセフ。聖母マリアの婚約者でしたが、マリアが精霊によって身ごもったことから、イエスの養父と呼ばれています。彼は大工としてまじめに働きながら、聖母マリアとイエスを愛情深く見守る立場に身を置いて生きました。その聖ヨセフが選ばれたのは、五島の漁村で清貧のうちに生きる信徒たちと重なるものがあったからだろう、と言われています。


 

▼両脇の祭壇には、キリスト像とマリア像があります。




▼堂内にはすでに椅子などは置かれておらず、がらんとしています。その分、天井が目を引きます。木材で造られたリブ・ヴォールト天井。木材を少しずつ温めて曲げるのだそうで、素人目にもすごい技術であったことがわかります。




ところで、五輪という地名、この文字を見た覚えがありませんか。そうです、シンガーソングライターの五輪真弓(いつわまゆみ)さん。この地区には「五輪」姓が多く、彼女のお父さんもこの地区の出身だそうです。おじいさんは教会でオルガンを弾いていたとか。ちなみに、「ごりん」と名乗るのは本家のみ、それ以外は「いつわ」と名乗っているとのことです。





 

▲教会堂を出ると、おだやかな海はすでにたそがれ始めていました。


ふたたび船に乗り込み、五島で一番大きな福江島の福江港へ。 


▼操縦士さんが、今度は荷物運びもしてくれます。お世話になりました。

沈んでいく夕日が、長い光の一すじを海に浮かべていました。

 







旅のフォトエッセイ:世界遺産の五島列島めぐり④キリシタン洞窟へ2018年12月14日


前回、「次は、『④旧五輪教会』に続きます」と書きましたが、その教会の前に立ち寄ったキリシタン洞窟についてお伝えすることにします。




▲ バスを降りて、郷ノ首港からチャーター船に乗ります。ここで、とてもよく説明をしてくれたガイドさんともお別れです。

これから、車の通れる道もないような所へ向かうのです。

船は、観光用というより釣り人のための船のようで、ガソリンの匂いがして悪酔いしそうです。ここで酔っては一大事……と緊張していました。


 

船を操縦する男性が、ときどきガイドを兼ねてマイクで説明してくれるのですが、窓も汚れていてよく外が見えません。



30分ぐらい揺られていると、速度を落とし始め、操縦士さんはやおらドアを開けました。

岸壁が見えてきたのです。




 

五島を訪ねたかったもう一つの理由は、大学生の頃に見た映画『沈黙』が、ずっと忘れられなかったからでもあります。

『沈黙』の原作は、遠藤周作のキリシタンを題材にした小説で、篠田正浩監督が1971年に最初に映画化しました。

キリスト教が禁じられた時代に、キリシタンは踏み絵を強いられ、拷問を受け、それでも隠れて信仰を保ち続け、ポルトガルから来る宣教師を待ち焦がれる。そんなキリシタンの生きざまが鮮烈で、頭から離れなかったのです。▼




 それから45年後、再び映画になりました。マーティン・スコセッシ監督が2016年に映画化。映画館で見る勇気がないまま、五島を旅することが決まってから、テレビ録画しておいたものを見ました。

前作とは国籍も違う監督が、切り口を替えて映像化したとは思うのですが、本質的なところで、私の印象はあまり変わりませんでした。新作は役者のうまさもあって、私をがっちり捉えました。そして同じ疑問がわいてきます。

なぜ、キリシタンはあれほど強く信仰を持ち続けることができたのだろうか、と。



 映画の中にも出てきたような海辺の洞窟が、目の前にありました。

岩場に降りられるかどうかは、行ってみなければわからない。そう聞いていました。操縦士さんはしばらく状況を見ていたようですが、やがて船を近づけ、私たちを降ろしてくれました。



▲白い十字架とキリストの像が、遠くからも目立ちました。像の下方には、キリシタン洞窟と呼ばれる場所があります。

明治時代になってから弾圧が厳しくなり、3家族12名のキリシタンがここに逃げ込んだのですが、4ヵ月後、煮炊きの煙が見つかってしまい、捕らえられ、拷問を受けました。

彼らの強い信仰をたたえて、昭和42年に像が立てられました。そして、今なお毎年秋には、この岩場でミサが行われるそうです。とはいえ、天候や潮の影響で、今年は3年ぶりのミサだったとか。

 

信仰を許されず、家を追われ、最後の場所に逃げ込んでも、やがて捕まってしまう。それでも、神は”沈黙“したまま、救ってはくれない……。

キリシタンの人々がどのような思いを抱いていたのか、その岩場に降り立っても、私にはわかりませんでした。

神はなぜ沈黙するのかという、小説と映画の問いかけにも、答えは見つかりませんでした。

 

足元の不安もあり、洞窟にもキリスト像にもこれ以上近づけません。▼



 

旅からひと月たった今、少しずつ、私なりのシンプルな答えが見えてきた気がします。

キリシタンは、生き延びたとしても貧しい暮らしが続き、逃れようのない過酷な現実のなかで、苦しい日々に耐えるしかない。唯一の希望は、死んだら天国に行って神様のそばで幸福になれるということ。それしか残されていなかったのではないか。

現代に生きる私には、彼らの信仰の純粋さがまぶしく思えるのでした。

 

 

*映画『沈黙』の画像は、アマゾンのサイトからお借りしました。




旅のフォトエッセイ:世界遺産の五島列島めぐり③頭ヶ島教会2018年12月02日



20187月に、世界文化遺産に登録された正式なタイトルは、「長崎と天草地方の潜伏キリシタン関連遺産」です。

17世紀から19世紀の200年以上にわたるキリスト教を禁ずる政策の下で、長崎と天草地方において、ひそかに信仰を伝えた人々がいました。それが「潜伏キリシタン」です。

彼らが「潜伏」したきっかけに始まり、信仰の実践と共同体の維持のために日本の伝統的宗教や一般社会と関わりながらも、ひそかに行ったさまざまな試み、そして宣教師と接触することで転機を迎え、「潜伏」が終わるまでを、12の構成資産によって表したもの――それがこの世界遺産の内容です。

 

ブログのこのシリーズ①で紹介した青砂ヶ浦教会は、国の重要文化財としては登録されていますが、12の構成資産には入りませんでした。

今回の頭ヶ島教会は、構成資産の一つ「頭ヶ島の集落」の中にあります。



五島列島の最東端に位置する頭ヶ島は、かつては無人島だったそうです。そこに19世紀になって信徒が渡来し、わずかな平地を切り開いて集落を作ります。

その後も迫害を受けて、信徒たちは島を出ますが、キリスト教の禁が解けると島に戻り、念願の教会堂を建てることができました。

 

とはいえ、鉄川与助という建築家が手掛けた、日本でも数少ない石造りの教会は、完成までに10年もの歳月がかかっています。途中で資金が足りなくなったのです。それでも信徒たちは諦めずに、つましい生活をさらに切り詰めて費用を捻出し、五島石と呼ばれる砂岩を石切り場から運び出すなどの労働に従事して、ようやく完成に至ったそうです。教会は信徒たちの信仰の証そのものといっても過言ではないでしょう。

 

教会は、小さいながらも重厚な造りで、その勇壮なイメージには信徒たちの誇りが感じられました。

ところが、一歩中に入ると、がらりと違った印象です。白壁にはパステルカラーの花や葉のモチーフがあしらわれて、天国もかくやと思わせるようなやさしさに満ちています。柱はなく、天井は船底の形をした折上げ式というものだそうです。



▲教会内部は撮影禁止なので、この写真は絵はがきを撮ったもの。

外観と内部の印象の違いがお分かりいただけるでしょうか。


 

教会を出て、海へ向かいます。

途中、キリシタン墓地がありました。たくさんの石の十字架が、海を見つめて立っています。せめて近くで撮りたかったけれど、なにしろ時間がありません。先へ先へと急ぐ駆け足旅行です。



 

浜辺に着いたとたん、遠い記憶がよみがえりました。

次男の修学旅行の一枚の写真。制服を脱いで、ワイシャツの袖もズボンのすそも捲し上げ、無邪気に遊んでいる生徒たち。

あの写真はここで撮った。なぜかぴんときたのでした。

 

私たちが訪れた時は曇っていましたが、それでも海は少し緑がかった青さでおだやかに空を写していました。

息子たちの旅行中は晴れて暑かったと、のちに先生方から聞きました。晴れていれば、海は青く輝いていたことでしょう。生徒たちも、教会巡りが続いてやれやれ、波打ち際ではしゃぐひとときは、楽しかったにちがいありません。

9年前、息子はこの海を見ていた……そう思うと、不思議な気持ちになるのでした。

 

帰ってから、自分の写真と、学校通信に載ったモノクロ写真とを、見比べてみました。

遠くの島影も水辺の岩も、ぴたりと一致しました。





 

次回、「④旧五輪教会」に続きます。

 



旅のフォトエッセイ:世界遺産の五島列島めぐり②「心に残る」2018年11月30日


五島に行きたいと思うようになったのは、9年前にさかのぼります。
次男の忘れられない出来事にあるのです。

当時、それをエッセイにつづりました。まずはお読みいただきましょう。

 

 

    「心に残る」――母バージョン

 

ゴールデンウィークが明けた日、ひさしぶりに一人の静けさを味わっていると、次男の中学校から電話がかかってきた。

385分のお熱がありまして、今保健室で休んでいるのですが……」

車を飛ばして20分後、保健室には青い顔の息子がいた。

 

ちょうど、アメリカ帰りの大阪の高校生が、重症になりやすい新型インフルエンザで隔離された、というニュースが日本列島を不安に陥らせていた頃だ。

保健室の先生の話では、息子のクラスにもインフルエンザの生徒が数名出ているという。

私も青くなった。中3の息子たちは、5日後に長崎への修学旅行を控えていたのである。

「でもご安心ください、B型ですから」と、先生はにこっと笑った。

恐怖の新型はA型で、学校では安心のB型というわけだ。おそらく息子もその菌をもらったのだろう。

「発熱して1日たたないと菌が出ないことがあるので、検査は明日のほうが確実かもしれませんね」

とりあえず息子を連れて帰って寝かせる。夜には40度になり、解熱剤を飲ませた。大丈夫、出発まで5日ある。諦めるにはまだ早い。

あいにく私は、翌日の午前中は自分の習い事、午後からは仕事先の年に一度の総会が控えていた。しかたがない。午前中は休むことにして、医者に連れて行こう。総会では大事なお役目もあるから休むわけにはいかない。薬を飲んで眠っているうちに出かけてこよう。

 

翌日、午前中にかかりつけの小児科に連れて行く。検査の結果は予想どおりのインフルB型。

「ほうっておいても寝てれば自然に治るんだけどね」と医者は前置きして、「一刻も早く治したい事情があるということなので、特効薬を処方しましょう」。

薬はリレンザ。従来のタミフルは、副作用でまれに幻覚や妄想が起こるとされている。子どもの患者が異常行動で亡くなって以来、未成年には許可されなくなった。

「リレンザでも同様の副作用があるという報告もあります。服用したら24時間、目を離しちゃだめですよ」

大声を上げて外へ飛び出したり、窓から飛び降りたりする可能性もあるというのだ。

 

万事休す。午後からの総会もあきらめ、急きょ欠席のお詫びを入れて、代理を頼んだ。

吸飲式のリレンザは、簡単な器具に薬のパックを装てんして投与する。息子はやがて眠りについた。1時間おきに部屋をのぞいても、いつも死んだように眠っていた。

結局その日は、夜まで息子の爆睡を見守っただけだった。総会に出かけても大丈夫だったのに、と思う。でもそれは結果論だ。

わが家にはもう一人保護者がいるのだが、夫の育児への協力は土日祝日限定である。育児のために仕事を犠牲にするのはいつだって私。収入の多寡だと言われればそれまでだけれど、仕事である以上、私にも社会的な責任はあるんだけどな……。

 

翌日には息子の熱も下がり、リレンザのおかげで快方に向かった。2日間平熱が続けば完治とみなされる。旅行の前日には医者の診断書をもらって、午後からは登校できた。なんとか修学旅行に間に合ったのだ。

さて旅行当日の朝、最後のリレンザを吸いこんで、いざ出発……のはずが、トイレに入ったきり出てこない。薬の副作用から下痢を起こしたようだ。今度は下痢止めを飲ませる。ぎりぎりの時刻まで待って、集合場所の羽田へ向かわせた。中学生にとって、修学旅行に行かれないことぐらい悲しいことはない。そんな私の信念が、息子を送り出したのだった。

 


34日の旅を終え、元気に帰ってきた息子は、開口一番、こう言った。

「ありがとう、母さん!」

初日は辛かったけれど、2日目からは食欲も出たという。五島の海の青さ、班長として班別行動をとった思い出……口下手な息子の話でも、楽しかった様子が想像できた。

母さんが治してあげたわけではないけど、でもよかったね、みんなと行けて。

 

1ヵ月後、さらにおまけがつく。

国語の苦手な息子が書いた「心に残る」というタイトルの修学旅行記が、学校通信に載ったのである。

「仕事を休んでまで看病してくれた親のためにも、楽しめなければ悪いという気がした」

旅行記は、私の心に残る“最高傑作だった。




 ぎりぎりセーフの病み上がりで出かけ、元気になって帰ってきた息子。彼が見た海を、いつか私も見てみたい。願いは9年目にかなったのでした。

次回、「③頭ヶ島教会」に続きます。

 

 
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