2019年の年賀状 ― 2019年01月01日
明けましておめでとうございます。
いつもブログを覗いてくださり、ありがとうございます。
今年もたびたびおいでくださったらうれしいです。
世間では、年賀状が年々減っているようですが、私は今年も100枚ほどの賀状を出すことができました。
親戚はもちろん、高校や大学の同級生に始まり、同僚だった人たち、旅先で知り合った人、子育てを通してお世話になった恩師やママ友たち、エッセイのお仲間、教室の生徒さんに至るまで、大勢のいろいろな方がたに宛てて書きます。
年に一度の年賀状だけでつながっている人も少なくはないのですが、それもまた、大事なご縁だと思って続けています。
もう一年がたつというのに、いまだに旅の余韻に浸っています。
ブログのポルトガルシリーズも、実はまだまだ続きがあるのです。何ヵ月かかっても、書きたかったことをきちんと書き残していこうと思います。忘れないうちに。
どうぞ、読みにいらしてくださいね。
お待ちしております。
そして、途中で元号が変わろうと、あなたにとってこの2019年が、
すばらしい年でありますように!
800字のエッセイ:「4人きょうだい」 ― 2019年01月08日
4人きょうだい
身内の集まりで、甥や姪たちと、おしゃべりをしていた。男2人に女2人の4人きょうだいで、今では子どももいる30代、40代の4人だ。私も同じ構成の4人きょうだいだったので、話が通じておもしろい。
子どもの頃、お菓子は何でも母親が4つに分けたという話題になった。
「ひとりで全部食べたいって、いつも思ってたよね」
「そうそう!」
「メロンもスイカも、丸ごと抱えて大きなスプーンでほじくって食べたいと思ったよね」
「そうそう!」
私も同じ思いだったけれど、おとなになったら忘れていた。しかし、彼らは違った。
「自分で自由になるお金が出来たら、絶対にひとりで食べようと思って……」
「やったの?」
「やった」
「私も」
「ぼくも。かまぼこも丸ごと1本、恵方巻みたいにかじったこともあったよ」
「あと、ビエネッタも!」と一番下の姪っ子が言うと、
「えー、お前もか!」
「お兄ちゃんも?」
みんなで大笑い。兄妹そろって、すごい執念だ。ちなみに、ビエネッタとは、森永製菓の四角いケーキのようなアイスクリーム。チョコレートと白いアイスが波のように折りたたまれていて、子どもにはごちそうだった。
「満足できた?」
「うーん、夢は叶った瞬間、色あせるよね」
誰ともなく、ちょっと切ない大人の顔に戻っている。
一人っ子がうらやましいと思ったあの頃、そしてそれをみんなで笑い合える今。きょうだいの絆は色あせることがない。
ところで、ビエネッタはご存じだったでしょうか。年齢がわかるかも……?
(私は知りませんでした)
1980年代に生まれたお菓子で、つい最近、マツコ・デラックスさんの番組で紹介され、ふたたび脚光を浴びているそうです。
自閉症児の母として(55):800字のエッセイ「奇跡のメガネ」 ― 2019年01月12日
奇跡のメガネ
インターネットで、アメリカ発のこんな動画を見た。
クリスマスツリーが飾られた室内で、ティーンエイジャーの男の子が、プレゼントを開けている。出てきたのはサングラス。かけたとたん、「違う!」とびっくり。かけては外し、笑い転げている。
次のシーンは屋外。誕生日プレゼントにもらったサングラスをかけた男性は、言葉も出ないまま、まるで赤ちゃんのように、両手を握りしめて喜びを表している。左右を眺めてはまた両手を振るばかり。動画を撮る側のうれしそうな笑い声が聞こえる。
3人目の少女は、メガネをかけるなり、
「何これ。これが本当の世界? こんなふうに見えてるの?」とつぶやく。それ以後は泣いてしまって言葉が続かない。
次の男性は、このメガネが何なのか知っていて、初めてかけてみる。すぐに外して、両目を押えて泣き始める。
この動画に登場する7名の男女は皆、カラーブラインド、つまり色盲なのである。初めて補正メガネをかけた瞬間の感動が、見る者の胸をも熱くする。誰もが「オー、マイゴッド!」を繰り返し、誰もが涙なしではいられない。泣いている彼らに、かならず誰かが近寄って優しくハグをするのも、印象的だった。
動画を見て、息子のことを思った。色盲の世界を知るには、カラー写真をモノクロで見ることで、ある程度理解できるだろう。でも、自閉症の息子は、相手の胸中が見えないコミュニケーションの障害だ。あげる・もらう・くれるなどの言葉が正しく使えないのは、自分と他人の区別や、その関係性が把握できないのである。彼が見ている世界は、一体どうなっているのだろう。想像するしかない。
それが見えるメガネがあったら、どなたか母親の私にプレゼントしてくださいな。
24年目の1.17 ― 2019年01月17日
24年前の早朝、「淡路島で大きな地震が起きたらしい」とその一報を聞いたのは、市内の病院のベッドの上だった。空腹と、点滴の針の痛みと、ニュースの恐怖とで、一瞬ふらっと貧血状態になったのを今でも覚えている。
予定日を10日近く過ぎて、陣痛が始まって夜中に入院。結局、次男が生まれたのは翌18日だった。
入院中、どのテレビからも、地震のすさまじさを物語る映像ばかりが映し出されていた。
6人部屋の病室には、横倒しになった高速道路のすぐそばに実家がある、という人がいて、「里帰り出産していたら、今ごろどうなっていたか……」と話していた。
退院してからは、次男に母乳を飲ませながらも、泣きながらテレビ報道を見続けた。
阪神淡路大震災。6434人が亡くなり、私は一つの命を授かった。その現実をかみしめていた。
毎年のように、この日のエッセイを書く。震災が起きたことと、次男出産の記憶とは、私のなかでしっかりとリンクしている。それを書かずにはいられない。
今年は、前日に『BRIDGE はじまりは1995.1.17神戸』というドラマを見た。関西出身の友人がFacebookにアップした記事で知ったものだ。
震災で分断された鉄道を復旧させるため、技術者たちは崩れかけた駅舎を復元しなければならなかった。2年以上はかかると言われた工事を74日で成し遂げた男たちの物語だ。たくましく誠実に難工事に立ち向かう姿も感動的だが、その駅を取り巻く人びとの温かな人情や、犠牲者への悲しみも描かれ、丁寧に作られた見ごたえのあるドラマだった。
私がどうも気になったのは、春日という少年。震災当時、世をすねて盗みを働くようなワルだった。23年たった2018年の彼も語り部として登場するのだが、なんとも得体のしれない人物である。彼は罪を償わないまま、大人になった。そのことが彼の心の傷になっているらしい。それぞれ野村周平と椎名桔平が好演している。
春日のような悪さをしたわけではないのに、次男が春日にダブって見えた。
明日24歳になる次男は、大学に入ってから挫折を味わい、卒業の見とおしも持たずに、人生に迷子になっているように思える。
いつも、彼の誕生日が近づくと、世の中はあの大震災を振り返り、犠牲者を悼むとともに、災害への備えを話題にする。それに呼応するように、私の気持ちのなか、次男の誕生日には暗い影が落ちる。明るく素直に喜べない気がするのだ。それは震災のせいばかりではないのかもしれないが……
旅のフォトエッセイ:世界遺産の五島列島めぐり⑤旧五輪(ごりん)教会堂 ― 2019年01月26日
旅の2日目、若松島のキリシタン洞窟を訪ねた後、さらに船を走らせて、久賀島(ひさかじま)の旧五輪教会へ向かいました。
▼濃緑色の海のすぐ脇、瓦屋根の日本家屋のような旧五輪教会が見えました。そして、横には明るいオレンジ色の新聖堂があります。
五島列島のほぼ中央に位置するこの島では、明治になって、厳しい弾圧が行われたそうです。
ようやく禁が解け、明治14年、この聖堂は当初、島の西側に建てられました。昭和になって新聖堂を建てることになったので、旧聖堂は解体されます。
私たちも船でこの場所に来ましたが、解体された旧聖堂も船で運ばれ、島の東側の五輪地区に引っ越してきました。昭和6年、この地の最初の教会として生まれ変わり、新しい使命を担ったわけです。
とはいえ、140年近い歳月がたっており、木造の教会としてはとても古いものです。昭和60年には、信徒の祈りの場としての使命を終えました。現在は隣の新聖堂がその役目を負っていますが、旧教会堂は貴重な遺構として、国の重要文化財に指定されているそうです。
そして昨年、この五輪集落も世界遺産に登録されました。
▼玄関の上に掲げられた看板の文字「天主堂」も読み取れないほど薄くなっていました。
▼中に入ると、まず正面の祭壇には、聖ヨセフが幼子イエスを抱いた像が私たちを見下ろしています。
この教会の守護の聖人は聖ヨセフ。聖母マリアの婚約者でしたが、マリアが精霊によって身ごもったことから、イエスの養父と呼ばれています。彼は大工としてまじめに働きながら、聖母マリアとイエスを愛情深く見守る立場に身を置いて生きました。その聖ヨセフが選ばれたのは、五島の漁村で清貧のうちに生きる信徒たちと重なるものがあったからだろう、と言われています。
ところで、五輪という地名、この文字を見た覚えがありませんか。
▲教会堂を出ると、おだやかな海はすでにたそがれ始めていました。
ふたたび船に乗り込み、五島で一番大きな福江島の福江港へ。
▼操縦士さんが、今度は荷物運びもしてくれます。お世話になりました。
沈んでいく夕日が、長い光の一すじを海に浮かべていました。