伊吹有喜著『彼方の友へ』を読んで ― 2021年04月16日

「面白いから読んでみて!」と友人が貸してくれたのがこの本。実業之日本社文庫の分厚い一冊です。
小説は、平成29年下半期の直木賞候補にもなっています。
時は昭和12年。佐倉ハツという16歳の少女が、憧れの少女雑誌『乙女の友』の編集に関わるようになるところから物語は始まります。最初は雑用係として、やがて編集部のれっきとした一員になり、さらには小説も執筆するようになっていく。
しかし、少女の成長していく様をつづっただけの物語ではありません。昭和12年から昭和20年といえば、日本が戦争に向かって走っていき、やがて敗戦を迎えるという時代背景がある。この時期の小説がそこから逃れることはできません。
前半は、雑誌の販売が軌道に乗っていた頃の話が展開します。出版社の社長や編集長、主筆と呼ばれるイケメン風の男性、ハーフのような美形の画家、気の強そうな女性執筆者たち……。こと細かく描かれたたくさんの人物に囲まれ、少し気の弱そうな主人公ハッちゃんが、右往左往しながらも彼らに支えられて頑張る毎日がつづられます。
ところが、半分を過ぎた辺りから、がぜん事態は深刻になっていくのです。
世の中に戦争の影が暗く落ちてくる。日本国民一丸となって戦争に勝利するための行動をとらなくてはならない。紙の無駄遣いのような少女雑誌はけしからん。華美な装飾はけしからん。敵性語はけしからん……。
雑誌はどんどんと追い詰められ、男たちは戦争に駆り出されていきます。
そして、空襲が東京を覆いつくす日々。ハツたちの体験した空爆の様子に、ただただ息をのむばかりでした。
若い頃の物語に、時々さしはさまれるのが、現代の介護施設に暮らすハツ。車いすで、うとうとしては、遠い日々の夢を見たりしています。
ある時、そこへ若い訪問者が現れて面会します。ハツが90歳を過ぎた今、最後の最後に、彼の言葉によって物語の全景が見えてくる。昭和の昔に埋もれてしまったような謎のかずかずが明らかになるのです。
前半の詳しい情報は、すべて伏線だったということに気づかされます。戦争がもたらした悲劇。それを乗り越えて進もうとする人々の熱い思い。そして、恋……。謎のまま残された部分さえも、いとおしく思えてきます。
前半を読んでいた時、いまいち入り込めないなどとちょっとでも思ってしまった自分に恥じ入りながら、後半は涙が止まりませんでした。
そして、巻末の解説によると、この小説はあくまでもフィクションだけれど、実在する『少女の友』という雑誌がモデルになっているのだそうです。1908年に実業之日本社から創刊され、1955年まで続き、当時の少女たちを夢中にさせたとか。執筆者には、川端康成、吉屋信子、堀口大學などなど、一流の作家たちが名を連ね、イラストは中原淳一が人気を博していたといいます。
残念ながらこの雑誌は、私の少女時代にはすでにこの世にありませんでしたが、2009年に、『少女の友』100周年記念号というものが発行されたとのこと。さっそく調べて図書館に予約を入れたところです。
私より、少し先を行くお姉さま方なら、きっと覚えておいでではないでしょうか。そんな皆さまにおススメしたい一冊です。

自閉症児の母として(70):映画『僕が飛びはねる理由』を観てきました! ― 2021年04月24日
3月20日の記事で紹介した映画を、ようやく昨日、観ることができました。
横浜駅の繁華街から少し外れた所にあるジャック&ベティというミニシアターへ。時間は午前9時からの1回のみ。いつもより早起きして出かけました。


これは、イギリスで作られたドキュメンタリー映画で、5人の自閉症の若者とその家族の日常を映し出していきます。
そして、おそらく彼らの目にはこんなふうに見えているだろう映像や、こんなふうに聞こえているだろう音声が、ふんだんに盛り込まれます。きらきら、ひらひら、ジージー……。無垢であり、美しくさえ感じられます。
ドキュメンタリーとしての自閉症の世界が、繰り広げられていくのです。
あえて説明のない部分もありますが、そこに、自閉症者である東田さんの文章が、英文の字幕になり、ナレーションとしても挿入されています。
彼の著作は以前にも読んだことがあるのに、改めて明晰な文章であることに驚き、感動します。
具体的な内容を私がここに書き記すことは、あまりに僭越だと思えました。私の言葉からではなく、ぜひ、東田さんの著書をお手に取って読んでください。機会があれば、この映画を見てください。驚嘆とともに自閉症の理解が深まることと思います。
これまでの歴史の中で、自閉症者は普通ではない変わった人、何も理解できない人、知能の低い人として、扱われてきました。
この映画のインド人の女性、言葉は持たずとも、こだわるように絵を描き続け、見る人を魅了する芸術作品を生み出すようになりました。それが彼女の自己表現であったのです。
言語療法だけでは改善を見られなかった重い自閉症者であっても、言葉で表出することができないだけで、内なる意思や、秘めたる能力はけっして劣るものではないことがわかります。
映画に登場するイギリス人の青年は、言葉による会話はできませんが、ひとたびアルファベットの表を持てば、一つずつ指さすことでスペルをつづり、自分の考えを伝える文章を作り上げます。言語能力がないと評価されることについてどう思ったか、という質問には、「人権が拒否された」というような文言で回答。そこには普通の同年代の若者と変わらない知性がうかがえました。
彼は東田さんと同じです。東田さんは子どもの頃に、ひらがな表を持たされて初めて、みずからの気持ちを伝えることができました。
彼らは、健常者の子どもたちと同様に、学ぶ権利がある。知的能力の有無ではなく、自閉症の思考回路は、平凡な私たちのそれとは大きく違っている。たったそれだけのことなのです。そのことに気がつくまで、いわゆる健常者の集まりであるこの社会は、長い年月が必要だったのですね。
私もまた、ひとりの自閉症者の親として、息子を理解するのに、ずいぶん時間がかかりました。今でも、新しい発見があります。
映画が始まってすぐから、涙が止まりませんでした。母親として初心に返る時、途方に暮れた30年前の記憶がよみがえるのです。
映画の中で、一人のお父さんが息子について語っていた時、「そして私は……、そして私は……、そして……、そして……」と、途中で次の言葉が出てこなくなりました。必死で込み上げるものをこらえている。ようやく言えたのは、「彼の将来が心配でならない」。
親亡き後、息子は一人ぼっちになってしまう。お父さんの思いが、痛いほど伝わってきます。私はマスクを濡らして一緒に泣きます。
大丈夫、お父さん。今の社会は、彼らをほったらかしにはしませんよ。かならず、理解者が支援の手を差し伸べてくれますよ。それを信じてがんばりましょう。
彼にも私自身にもエールを送って、明るい春の陽射しの街に出ていきました。
