800字のエッセイ:「モヤモヤするバアバたち」2023年11月05日





         モヤモヤするバアバたち

 

私の友人たちの多くは、子ども世代の子育てを手伝う日々を送っている。

たまに集まると、孫話で盛り上がる。

 

ある時、M子がこんな話をした。

娘が幼い孫たちに昼食を用意する時に居合わせた。

「お昼、何が食べたい」と娘。

「ラーメン!」と孫たち。

「わかった」と言って娘は、スーパーに食材を買いに行き、そして作り始めたという。

「娘は、子どもの自主性が育つから、と言うんだけどねぇ」とM子は首をかしげる。「私たちの子育て中は、子どもに聞いたりしないで、冷蔵庫にある材料で、栄養も考えて作って、はい食べなさい、と与えたよね」。

 

すると、今度はA子が話し始める。

嫁が2歳の孫娘を連れて泊まった時、パンをたくさん買ってきた。

嫁は孫に、「これ好きでしょ?」とパンをちぎって与える。「これもおいしそうだね」と別のパンを与える。すぐに2歳の胃袋はいっぱいになり、ごちそうさまとなる。

そして、残ったパンを嫁がゴミ箱に捨てた時は、さすがにA子の目が点になった。

「フードロスだけはいけないよね」

私たちは昔から「食べ物を残すな。粗末にするな」と言われてきた。

 

私たちの子育ての常識が子ども世代に通用しない。わが子の気持ちを大事にするのはわかるけれど、今のご時世、なんだかね……とみんなでモヤモヤする。

でも、私たちの子育てだって、親の世代からすれば「ちょっと変」だったことだろう。時代が変われば子育ても変わる。温かく見守ってあげなくては、と思う。「でもさ、絶対譲れないことだけは、きちんと説明してわかってもらおうね」と、みんなでうなずき合うのだった。


 


800字のエッセイ:「母の日のユリの花」2023年06月22日

     

   母の日のユリの花


わが家の36歳の長男は、知的障害があるのだが、家を出て障害者のためのグループホームに暮らし、週末だけ自宅に戻る。

2年前の母の日、彼はひとりで花屋に行ったらしく、帰ってくるとカーネーションの花束を差し出して、「母の日、おめでとう!」と言って手渡してくれた。予期せぬことに、私はびっくりして泣きそうになった。

でもそのあとで、花屋のレシートまで渡されたときは、苦笑してしまった。

 

1年前もカーネーションをもらった。そして今年は、たまたま夫も一緒に出かけて、花屋の店先で、「ママはユリが好きだよ」と教えたそうだ。

息子は「おお、わかった」と言って、大ぶりの白いユリの枝を一本買ってきてくれた。「わあ、ありがとう!」と受け取り、ガラスの花瓶にさして、リビングに飾った。

開いた花は見たこともないほど大きい。つぼみも3つ付いている。毎日1つずつ咲いて、濃厚な甘い香りが家中に立ち込める。この香りが好きなのだ。

花粉が服に付くと落ちにくいので、いつもならおしべを取ってしまうのだが、今回はそのままにしておいた。オレンジ色のおしべが目鼻口で、まるで白い顔が笑っているように見えて、なんだかおかしい。花のサイズも私の顔と変わらない。

 

そういえば息子が子どものころ、「ママの顔」の絵を描いたことがある。ピースマークみたいに、口は耳元まで延び、両目は半円を描いて笑っていた。息子にとって、ママはいつでもこんなふうに満面の笑みでいてほしいのだろうなあ、とつくづく思ったものだ。

子育ての日々はそうそう笑ってばかりはいられなかったけれど、これからはずっと、この花のような笑顔でいよう。息子はこんなに素敵な紳士に成長してくれたのだから……。

いつまでもつ(・・)かわからない花のように、いつまで続くかわからない小さな誓いをこっそり立ててみるのだった。




自閉症児の母として(77):支援者の皆さんにお話をしました2023年02月02日



毎年冬の時期に、東京都発達障害者支援センター主催の支援員研修会のなかで、自閉症児の母として、お話をさせていただいています。

コロナ禍で、中止になったり、オンラインになったりして、今回は3年ぶりに対面となりました。

 

講話のテーマとして、「子育てを通して親が学んだこと、支援者に望むこと」とあります。これも毎年ほぼ同じで、年に一度、子育て振り返りの機会をいただくと、お話ししたいことが少しずつ違っていることがわかります。過去のエピソードが変わることはありませんが、新しい気づきがあったり、意味を見出したりするのです。なんと貴重な機会を頂いていることかと、ありがたく思います。

 

◎まず、子育てを通して学んだことは?

★その1

あるがままを受け入れて心を通わせていく〈受容的交流方法〉。

キーワードは3つ。「安心」をさせて、「経験」をさせて、自分の意思で行動できるように、ひいては「プライド」を持って生きていけるようになることが目標です。

子どもの気持ちに寄り添うことは、障害児の子育てばかりでなく、健常児でも、高齢者の世話をするときも、人との付き合いにおいても、人間関係の基本ではないかと思います。

 

★その2

子育ては、みんなに助けてもらうことが大切です。

家族、親戚、ご近所、学校、地域の人々……みんなに理解してもらい、見守ってもらい、助けてもらわなければできません。親が子どもを抱え込んで壁を築いては、いつか行き詰ってしまいます。

本当に感謝してもしきれないほど、温かい人々に支えられた歳月でした。

 

★その3

毎年、必ずお話ししたい2つのエピソードがあります。

うちの子に限って、どうして……と悩んでは泣いてばかりいたころ、施設の園長先生から聞いた言葉です。

「現在、自閉症児は1000人に1人の割合で生まれると言われています。皆さんが苦労してお子さんを育てているからこそ、ほかの999人のお母さんはフツウの子育てを楽しんでいられる。つまり、皆さんは、1000人の代表として自閉症児を育てているんですよ」

ああ、私たちは選ばれたんだ、神様に。そう思えました。

その時から、私は神さまに選ばれたプライドで、前を向いてひたすらがんばることができたのです。ポジティブシンキングは大切ですね。

 

同じように、園長先生はこう言われました。

「子どもの犠牲にはならないで、自分の人生も大切にしてください」

どれだけ気持ちが軽くなったことでしょう。

今でも私の座右の銘です。

だからこそ、エッセイを書き続け、エッセイに支えられ、仕事にもなり、私の人生に、なくてはならないものになりました。

自閉症の息子についてのエッセイ集を出版したことも、こうしてお話しすることに役に立っているのです。

 

★その4

自閉症は、自分に閉じこもるのではなく、自分と他者との境界がない、混沌とした世界の中にいるように感じています。だから、人と自分との関係性がわからないのです。

・ただいま。おかえり。その区別がわからない。

・プレゼントは誰が誰に贈るのか。だれからもらったのか。

・母の日には、ママとカーネーションが必須アイテムで、誰が買ってきても、それはまったくの不問。

・「暴力事件が勃発した!」と言うのだけれど、誰が誰をたたいたのか。加害者と被害者の区別がわからない。

・スポーツ中継など、テレビの画面で小競り合いが起きると、その感情が自分の中にも流れ込んでしまって、パニックになる。

 

だからこそ、その混沌を秩序立てるために、変更のないカレンダー、前もって決められたプログラム、例外のないルールなどが必要なのでしょう。彼には大事な生活の必需品です。その枠組みで世の中が正常に動いていれば、突発的な異常事態が起きなければ、彼は安心していられるのです。

 

そこで気がついたこと。

息子は、16歳の時に側わん症になり、背骨をまっすぐにするために、8時間に及ぶ手術を受け、20日間も入院していました。完全看護でしたが、特別に私が付き添いを認めてもらって、2人部屋で寝泊まりしました。それでもよく頑張って、退院までこぎつけたと思います。

そういえば、彼は小さい頃から、注射や薬などで、親を困らせることはありませんでした。

おそらく彼は、病気という異常事態こそが許せないのです。熱が出たら、早く熱を下げたい。背骨が曲がってくれば、まっすぐに治したい。その価値観が強かったから、治療にもおとなしく従ったのではないか、と思うのです。

そして、その後2度も手術を受けますが、最初の経験がしっかりと生きて、怖がらずに自分から進んで手術室に入っていった姿がとても印象的でした。

 

◎支援者に望むことは?

療育や支援は、けっして障害者を健常児に近づけることではない、と思うのです。ノーマライゼーションとは、社会が障害者の環境を整えることで、健常者と同じように暮らしやすい場を作っていくことではないでしょうか。

例えば、自閉症の人たちは、息をするように独り言をいうのですが、それをうるさいからやめて、というのでは、障害イコール迷惑だ、となりかねません。周囲の人が気にしないですむ環境作りを工夫してほしいのです。

障害児を普通に近づけようとすることは、障害は良くないものという前提があって、障害児を否定することに通じてはいないでしょうか。

息子のことを「面白いですよね」と言われると、うれしくなるのはなぜでしょう。障害を持っている、そのままの息子を受け入れてくれていると感じるからです。

 

36歳の息子は、今なお成長を続けています。

自閉症は決して消えません。治るものではありません。

ですから、彼の成長とは、障害を抑え込んで健常者に近づくのではなく、社会で少しでも生きやすいように、折り合いをつけるすべを身につけていくことなのです。

これからも、どうか温かいご理解とご支援をよろしくお願いいたします。


▲東京都発達障害者支援センターは、息子が3歳からお世話になってきた施設が受託しています。この建物は、一度建て替わりましたが、ここには30年以上も通い続けていることになります。



1000字エッセイ:娘の上海事情2022年05月15日




☆ 娘の上海事情  

            

娘は2021年2月、コロナ禍の真っ最中に、夫を東京に残して上海に単身赴任した。

その頃の中国は、厳しいゼロコロナ政策を取り、感染者数を抑え込んでいた。ところが、今年3月になると、上海市内の感染者数が急上昇し、ついにロックダウン。毎日のPCR検査以外は外出禁止で、娘の勤務はリモートワークとなる。

 

娘とはLINEでやりとりをする。込み入った用事があれば電話をすることもあるが、たいていはメッセージのみ。月に数回、仕事のじゃまにならないように、私にしては控えめな短めのメッセージを送ると、さらに短めの返信が来る。あまりおしゃべりな娘ではない。

 


上海の状況は、日本でも連日のように報道される。静まり返った街区や、PCRに並ぶ人々が映し出されている。

「検査の行列で、グレーのオーバーの女性、あなたにそっくりだったけど」

「残念、はずれ。今日は紺色のダウンでした」

 

ロックダウンは延長され続け、テレビニュースでは、「配給の食糧が届かない。餓死するよ!」と、ビルの窓から住人たちが叫んでいる。暴動まで起きているらしい。

もう子どもではないのだから、と思っても、さすがに心配になる。

「大丈夫なの?」と問えば、配給で届いた青菜やオレンジ、三十個入りの卵の写真などを送ってくる。一人では食べきれないほどの量だ。マンションで一括して取り寄せるという。欧米人の多く住む地域だから、優遇されているのだろうか。

 

五月初め、中国も労働節という五連休がある。久しぶりにのんびりと料理をした、と写真が届いた。

「トマト缶もオリーブ油もなくて、スープみたいだけど、ラタトゥーユです!」

トマト、ナス、マッシュルーム、ズッキーニなどの野菜が、お鍋いっぱいに入っている。買い物ができないので、香辛料もワインもないという。どんな味に仕上がったことやら。一緒に食べるはずの夫とも遠く離れて、それを一人寂しく部屋で食べているのかと思うと、母親としては切なくて涙が出た。

 

かと思うと、

「きのう、小麦粉と砂糖が来たから、今度はお菓子を作るね」

と、楽しそうなメッセージが届いた。

もともと娘は何が起きても動じないところがある。どこへ行ってもたくましくサバイバルするだろう。涙を拭いて応援しよう、と気持ちを切り替えた。

娘よ、がんばれ! 


 



ダイアリーエッセイ:次男の卒業2022年03月29日


 

昨日は次男の大学の卒業式でした。


 

27歳にもなる息子の個人情報ではありますが、私は母親としての胸の内を吐露します。

彼は2年の頃に、ある挫折を味わい、「大学をやめたい」と言いだした。しかし、ここでそれを許したら、この先どんなことでも嫌になるとすぐに諦めるようなことになりかねない、と思った。休学はいいけれど、とにかく大学だけは卒業しよう。そう説得しました。それが息子のためだと思ったからです。

 

その後、コロナのせいでリモート授業一色になって、彼はまたもつまずいた。当時は、もし卒業までこぎつけたら、合格発表を見に来た日のように、私はうれしくて泣いてしまうだろうと思っていました。

 

最終的に、1年休学し、在籍期限の8年間を過ごし、合計9年かかって卒業が決まりました。

でも本人はとくにうれしそうではない。やっと足かせが取れてせいせいした……ぐらいの気分のようです。

だからか、私もなぜかあまり喜べない。馴染めない場所に通わせ続けて、本当にこれでよかったのかな、と思えてきます。


いや、これでよかった、と思える日が必ず来る。ここで学んだことがきっと生かされる日が来る。そう信じ続けよう。就職もせず、やりたいことをとことんやって、フリーランスで生きていく彼を、これからも見守っていこう、と新たな覚悟をしました。

 

昨日の卒業式は、保護者はコロナのため出席できず、本人は出席もしたくない。私は独りでキャンパスの写真を撮りに行きました。満開の桜の下、晴れやかな卒業生や保護者が大勢いるなか、ちょっと寂しかった……。

今日は、ゼミの食事会があるそうで、スーツを着て大学に行くというので、またとない写真撮影のチャンスとばかり、またキャンパスへついて行きました。

一日遅れですが、ようやく記念の写真が撮れたのでした。

次男にとっては大学卒業、私にとっては子育て卒業の記念すべき一枚です。


 

この大学には、わが子二人、姉と弟が大変お世話になりました。

私は来年もまた、思い出の桜を見に来ましょう。






ダイアリーエッセイ:娘はふたたび大空へ2022年02月27日


朝から雲一つない真っ青な空が広がる。

娘は、東京勤務の夫に見送られて、ふたたび上海へと向かう。

彼女を乗せた飛行機が飛び立つ時刻、私はひとり空を仰いだ。

 

コロナ禍の収束が見えない今、次に会えるのは何年先だろうか。

今回は日本で1週間、上海で3週間の隔離が必要とされた。重責の仕事に就く身で、そうたびたび許されることではないだろう。

さらに、この一時帰国の間に、彼女の夫のロンドン勤務が決まった。

 

娘が数年後に長期休暇をもらえる時には、帰る先は日本ではない。夫のもとに向かうのだ。二人にとっての〈わが家〉は、もう日本にはなくなるということだ。

いずれはそんな日が来ることぐらいわかっていたはずなのに。

娘と同じ志を持つパートナーと二人、海外に羽ばたいていくことを、応援してきたはずなのに。

 

先日来、まさかのロシアのウクライナ攻撃に、憤りを覚え、胸を痛めている。

一昨日のテレビで、ウクライナ人女性のインタビューを見た。

彼女は日本在住で、彼女の母親はウクライナで暮らしている。母親とはSNSで連絡が取れているという。

「大丈夫、怖くない、と母は言うけれど、その表情には恐怖しかない」

彼女は流ちょうな日本語で語り、涙をぬぐった。

 

明日は我が身などと思いたくはない。

戦争でなくても、災害や、今回のようなパンデミックで、互いに何が起きてどうなるか、未来のことはわからないのだ。

 

娘が、また遠くなった。

その思いが募るばかりで、まだ何の覚悟もできていない。

元気でいるようにと、祈るほかはない。

そして、ウクライナの人々に平和が戻るようにと祈っている。

 


ダイアリーエッセイ: お帰り!2022年02月17日


今月の初め、上海に単身赴任していた娘が、1年ぶりに帰国した。もちろん、一時帰国。まだ数年は今の職場に勤務する。

コロナの隔離期間が国内でも短縮されたばかりで、帰国者の娘も、自宅で8日間だけ隔離となった。不要不急の外出さえしなければ、食品の買い出しなどは自由だという。会社からもその間はリモートワーク中として認められ、同様にリモートワークの夫と、久しぶりの「共働き」という水入らずを楽しんでいたことだろう。

 

そんなわけで、娘と会えたのは、帰国して10日目のことだった。

都内の地上40階のレストランで、あいにくの雨の夜景を眺めながら、ちょっと豪勢なディナーを楽しんだ。上海では、住まいは21階、職場も40階だそうで、わが娘ながら、高層ビルが似合っているような気がしてくる。

本来なら、まずは実家に帰ってきてもらって、わが家の手料理をご馳走したいところなのだが、あいにく次男が卒論と格闘中。提出期限を目前にしてナーバスになっているので、やむなく外食にしたのだった。

娘が帰宅したらみんなで飲もうと、大事にとっておいた美味しいお酒を手みやげにして行ったのに、なんと上海みやげを東京の自宅に忘れてきたというのだから、相変わらずの娘だ。かえってちょっとホッとする。

 

思えばこの1年、娘の不在の間に、母を見送ることになった。その時にも娘がいなくて寂しいと感じることはなかったのに、ほかの人から「娘がそばにいない」ということを指摘されて初めて、孤独を意識して辛くなったものだ。

この晩の食事の席は、どちらも夫婦連れだったので、母娘の親密な会話ができず、心残りではあった。

 

さて、昨日のこと、もう一人帰ってきた。長男である。

グループホームの利用者の一人が、通所先に陽性者が出て、濃厚接触者になってしまった。抗体検査では陰性だったけれど、5日間は隔離の必要があり、グループホームに滞在することになるという。

連絡を受け、その間、長男は自宅に戻ることにした。何の準備もないまま、職場から急きょ自宅に帰ってきたのである。

よりによって、次男の卒論提出日に、にぎやかな長男のご帰還とは……。次男はあと数時間で締め切りだというのに、まだ最後の詰めに取り組んでいる最中だ。

長男は、今回の帰宅の事情をきちんと理解できているようで、次男のことも「大事な勉強中だから」と言うと、いつもの大きな声を出さないように努力してくれた。

弟のほうも、急な帰宅の兄に、いやな顔ひとつしない。それどころか、長男がゲーム機の充電器がなくて困っていると、卒論執筆を中断して、自分の充電器をきれいに拭いて貸してくれた。やさしい弟だ。

いつもはめったに会話もしないような兄弟でも、やっぱり血のつながった家族なのだ、と思うと、つかの間のほっこり気分を味わった。ナーバスになっているのは、この私だけかも。

 

さてさて、そんなふうに誰からも大事にされてきた次男は、大学8年目にようやく卒論に手が届いた。幼い頃から、なんでも時間のかかる子ではあった。

コロナ感染が広まると、大学はリモート授業になり、朝寝坊、宵っ張りが当たり前になる。コロナ禍の弊害で、そういうケースが多いとは聞くが、息子もご多分に漏れず、すっかり昼夜逆転していた。

しかし、この1週間ほどは、提出締め切り時刻が文字どおり秒読みになってくると、数時間の仮眠をとるだけで、パソコンに向かい続けた。彼の得意とするラストスパートだ。

提出当日。締め切り時刻の17時が過ぎてしまうと、気が気でない私は、息子の部屋の前でただおろおろ。ついに、30分も過ぎた頃、ようやく卒論のアップロードが終わった、と知らされる。それでも私は、大丈夫だろうか、ちゃんと受け入れてもらえるのだろうかと、安心できないまま今日を迎えた。

 

本日、リモートでの発表も無事に終え、及第点をもらったという。

やれやれ……。親としても感無量だ。長い長い8年間の忍耐が、ようやく報われようとしている。ひとまず大きな節目を迎えられそうだ。

もっとも、次男の社会人としての人生は、これから始まるのだ。手放しで喜ぶわけにはいかない。

この子も、いつか「お帰り!」と出迎える日が来るまで、もうしばらく親の心配は続きそうである。



 


自閉症児の母として(76):支援者の研修会で、講演をしました。2022年02月04日

 

昨日、東京都発達障害者支援センターで行われた支援員研修のなかで、自閉症児の母として、お話をさせていただきました。毎年恒例ではあるのですが、昨年1月は緊急事態宣言のため、初めて中止となりました。今回は2年ぶりとなります。

しかし、今年もまた感染拡大中。それでも中止にはせずに、リモートで行うことになりました。当初、研修会の参加者はそれぞれの場所からZoomで参加し、私は世田谷区のセンターまで出向いて、その一室からリモートで講演をする予定でした。ところが、2日前になって、センターから連絡があり、センター内の別の部署から陽性者が出たとのこと。急きょ私も自宅からZoomで参加することにしました。不要不急ではない社会活動を止めるわけにはいきません。

 

前回は、201912月に開催されました。その時のことは、ブログにアップしましたので、ご興味のある方、ぜひお読みください。(20191214日の記事はこちら

 

今回もテーマは同じ、

「子育てを通して親が学んだこと/支援者に望むこと」

前回とほぼ変わらない内容でお話ししましたが、2つばかり前回のブログ記事には書かなかったことをご紹介します。

 

☆その1

自閉症は、自分に閉じこもるのではなく、混沌とした世界の中で生きているのだと思います。

例えば、プレゼントを誰が誰に贈ったのか、よくわからない。

例えば、テレビ中継のサッカー試合で小競り合いがあると、自分も同じように負の感情を受け入れてしまい、テレビの前で叫んだり、物を投げたりする。

つまり、自分と他者との境界がない。だからこそ、その不安な混沌の中にいる彼は、カレンダーやプログラムやルールブックのような秩序を好むのではないでしょうか。とらえどころのない世界を、かっちりと安定させるための枠組みが必要なのかもしれません。

カレンダーどおりに、予定表どおりに、自分で決めたルーティンのとおりに、日々の生活を送る。それが彼にとって、安心して生きるための手段なのだと思えるのです。

 

☆その2

ノーマライゼーションとは、社会が環境を整えて、障害者が暮らしやすい場に変えていくことであり、障害者を健常者に近づけることではないはずです。

大きな声で独り言を口にするのは、ひとつの障害特性です。それをみんなに迷惑だからやめさせる、というのでは、「障害は迷惑だ」ということになりかねません。

働き方改革が推し進められている時代に、障害者ばかりが「がんばれ、がんばれ」と言われるのも、時代に逆行している気がします。

誰もがプライドを持って生きていける豊かな社会。理想ではあるけれど、そんなダイバーシティに期待しています。

 

 

今回も、話の途中で、やはり涙なしではいられませんでした。生来の泣き虫の私は、おとなげないと思いつつ、泣かずにはいられないのです。

なぜなら、この障害者支援センターは息子が3歳の時からお世話になり続けている場所。35歳になった息子について語りながら、当時の自分がよみがえってきます。今の自分を想像すらできなかった若かりし自分に、エールを送りたい。

同じように、今も大変な思いをしている若いお母さんたちにエールを送りたい。いつもそう思うのです。

お母さん、胸を張って、がんばって。

そして、画面越しに耳を傾けていてくださる支援員の皆さん、温かい理解とご支援をどうぞよろしく!




自閉症児の母として(75):お金のこと2022年01月26日

 

そう、大事なお金の問題です。

皆さんのお子さんはどうしていらっしゃるでしょうか。

 

わが家の息子は、10年ほど前、障害者が働く喫茶室で、レジをやらせてもらったことがあるほど、お金の計算はきちんとできるのです。

でも問題はそこではない。自分のお金は自分で大切に守らなくてはいけない、という観念がなかなか育ちません。

街頭募金などで、私が下の子に小銭を渡している間に、さっさと自分の財布から500円玉を出して、募金箱に入れてしまう。募金の意味もどこまでわかっているのか、親としては心配でした。

作業所で働いて賃金をいただいていた頃、お給料袋をその辺にふらふらと置きっぱなしにして、行方不明になったことがありました。同僚を疑うつもりはないのですが、万一だれかに持っていかれたのだとしても、失くした息子自身の責任です。結局見つかりませんでしたが、その時は作業所から再度1万円、実際の半額程度をいただいたように記憶しています。

こんな調子では、「ちょっとお金貸して」と言われたら、平気で貸してしまうかもしれない。返ってこなくても気にしないかもしれない……。不安は今なお尽きません。

 

それでも、銀行のATMに連れていき、預けてあるお金を一緒におろしては通帳を確認させたり、給与明細を説明したりして、自分の働いたお金で生活するのだ、と自立に向けて少しずつ理解させてきたつもりです。

また、必要経費ばかりでなく、せめて収入の10分の1ぐらい、好きなことに使わせてあげたい。ゲームが趣味の息子が、高額なゲーム機器やゲームソフトを自分で買えるように、毎月3000円の積み立てをしています。

 

そして、3年前にグループホームで暮らすようになってからは、生活費として彼の銀行口座から2万円を渡して、使ったお金をきちんと記録するようにさせました。交通費は定期券を買ってあげているので、使うのはほとんど、毎日の昼食代と、毎週、毎月購入する雑誌類。ルーティンの買い物だけで、買い食いなどはしません。

几帳面な彼には、小遣い帳をつけることなど朝飯前。レシートを確認しながら小さな文字で商品名を書き、1円単位まで記入して、財布の中身の小銭を積み上げては数えるのです。

よしよし、これで無駄遣いもせずに、お金を大事に使っていく習慣ができた。そう安心していたのですが……。

 

世の中は、IT化が推し進められて、今やキャッシュレス時代。カード決済よりも一歩進んでスマホ決済へと突き進んでいる。この先、息子はこの波に乗らないまま、不便な現金主義で生きていけるでしょうか。

気になりながらも、私自身は乗り遅れまいと、カードや○○ペイに手を染めていました。

そんなある日、アッと思うような落とし穴に出くわしたのです。

 

息子は、以前から交通系ICカードのPASMOの定期券を利用しています。通勤範囲を超えて電車を利用することもあるので、便利です。残金が足りなくなると、自分でチャージすることもとっくに覚えました。

何しろ、趣味はゲームにエレクトーン。機械には強いので、一度教えればたいていのことはできるようになるのです。

毎日コンビニでお弁当を買う時に、カードやスマホ決済もやらせてみようかと思ったこともありましたが、そうすると、小遣い帳をつけるときに不便になるのではと思い、まだ思案中です。

 

息子は、PASMOにチャージをした時には「チャージ」と記しています。ときどき私も目を通すのですが、先月と今月で、その「チャージ」が1万円以上にもなっていることに気がついたのです。

遠出をしたわけでもないのに、なぜ?? 

PASMOを買い物に使っている? では何を買った?

小遣い帳をつけさせていて良かった、とは思ったのですが、本人に尋ねてもよくわからず、らちがあきません。ゲーム攻略本は読めるし、理解もできる。でも、こういう説明はできません。

私の想像は、誰かにそそのかされたか、だまされたか……?と、悪いほうにばかり膨らんでいきます。

私も最近は、私のアドレスを悪用して、様々な企業をかたる詐欺メールが舞い込まない日はありません。彼のスマホがそんなメールを受信して、彼が言われるままに動いてしまっているのでは……? 不安と猜疑心で胸がドキドキします。

 

駅の券売機で、彼のPASMOの利用履歴を調べて、駅員さんに尋ねてみました。

鉄道駅の「入」と「出」で、駅の改札を通っていることがわかる。その他に、「現金 ○○駅」という種別がチャージに当たること、「物販」とあるのがPASMOで買い物の支払いをしていることだ、と説明してもらいました。けれども、それ以上、どこで何を買ったかはわからないとのことでした。

 

もう一度、息子と向き合いました。まずは、リラックスさせます。詰問は絶対にNG。履歴の紙を見せて、

「ほら、ここ見て。16日に高津駅で5000円チャージしたのね」

「うん」

「それから、その日、チャージした後で5000円何か買ってるよね。何だろう」

「えーと、えーと……」と、いつもの口ぐせ。その後はたいてい、わかんない! と続くのですが、そうはならずに、一瞬ひらめいた表情を見せました。

「ニンテンドーショップ」

ああ、そうなの。ちょっとホッとしたのもつかの間、ショップの店員が何かした……? とまたもや疑心暗鬼に陥ります。

「何を買ったの。ゲームソフト?」

「ニコ動」

ニコニコ動画というYouTubeのサイトです。それって有料なの?

息子はニンテンドーの最新ゲーム機器であるSwitchを使ってYouTubeを見ていることは知っていましたが、有料会員になっていたとは知りませんでした。プレミアム会員になればすべて視聴できる、とかなんとか画面に誘導されるままにクリックしていったのでしょう。これまでにもゲームソフトなどは、ショップのプリペイドカードを買い、それを利用して買っていましたから、その感覚で会員料金も払ったのでしょう。

そこで、ニンテンドーのホームページで調べたところ、有料サイトの視聴料は、PASMOで支払いができることがわかりました。ショップの店員さんに教わったのかもしれません。疑ってごめんなさい。少しずつ彼のチャージの理由が見えてきて、猜疑心も少しずつ溶けていきました。

 

ニンテンドーのゲーム機器は、親も子もが安心して楽しめるよう、親を介して契約するシステムになっています。息子が初めてSwitchを購入したときは、保護者として、夫がアカウントを登録したり、制限を設けたりしたのでした。

ですからこれまでは息子が何か購入すると、夫にメールが届いていました。今回は、購入というより、年会費を支払ったので、メールが届かなかったのでしょうか。これはまだ謎です。

ゲームで遊ぶぶんには、特に心配はないだろうと安心して本人の好きにさせていたのに、いつの間にか、ゲーム機器はYouTubeと紐づけされ、年間5000円ほどの視聴料を取るようになっていました。

改めて、Switchのアカウントを調べると、そこに残金として1万円以上の額が入っているのを確認できました。彼はこのお金の流れがわかっていたように思えてきました。

 

それにしても、息子は親の心配をよそに、自分からデジタルの世界に入り込んで、ちゃんと楽しんでいるのです。現金支払いだろうと、キャッシュレスだろうと、彼にとってはハードルなどないのかもしれません。

いやはや、やっぱり彼は宇宙人。日本語は上手く操れなくても、人間関係は大の苦手でも、機械相手ならお手のもの、ということなのでしょうか。

 

これからのITからさらにDXへと進んでいく世の中を、果たして彼は生きていけるだろうか。今回は一件落着したけれど、この先どんな悪の手が障害者に伸びてくるかわからない……という心配が結びになるはずでした。

でもこうして書いてくると、それは高齢者である親の私たちの心配であり、ダイバーシティの将来を生きる彼には、案外付き合いやすい世界になっていくのかもしれませんね。

そう、彼は宇宙人ではなくて、未来人。

ちょっと気持ちが軽くなりました。




母を想う日々 3:テーマ〈愛着〉で書く「タイムスリップはもうおしまい」2021年12月04日


 

タイムスリップはもうおしまい

           

母はこの20年間、わが家と同じマンションの4軒隣で一人暮らしをしてきた。母亡き後はその住まいを売却しよう。生前からきょうだいとも話し合っていた。私が譲り受けたとしても、母の思い出の染みついた部屋を維持するのはつらいだろうと思ったのだ。

今年の8月、とうとうその時が来た。遺品を整理し、それぞれが持ち帰ったあとは、バザーやボランティアに供出し、古物商に引き取ってもらい、廃棄業者に依頼し、すべてが消えていった。最後は、せめてもの思いから、なじみの清掃業者にぴかぴかにしてもらった。

肩の荷が下りた。寂しさよりも2ヵ月半でやり遂げた達成感が湧いた。がらんとした部屋には柔らかな秋の日が差し込んでいる。それを見て思い出したのは、意外にも、母を飛び越えて30年以上前のことだった。

 

最初にこの部屋を購入したのは、私たち家族だった。当時、都内の社宅に住んでおり、マイホームを求めてこの辺りを探し回った。出合ったのが築1年のこの部屋。駅から近く、子育て環境も良さそうだった。

引っ越しまでの間、3歳の長男と1歳の長女を連れて、ときどきやって来た。レジャー用の白いプラスチックのテーブルと椅子を室内に置き、お弁当を食べたり、子どもたちをお風呂で遊ばせたりして過ごす。

「まるでリゾートマンションね」と、夫と笑ったものだ。

引っ越してしばらくたっても、外出先で長男は「うちに帰ろう」と言うところを「リゾートマンションに帰ろう」と言っては私を苦笑させた。

 やがて生まれた次男は、この床の板目に沿ってミニカーを何十台も並べた。洗面所の壁一面の大きな鏡の前で、毎朝娘の髪を結った……。つぎつぎと記憶がよみがえってくる。

その後、私の両親が同じマンションの広い部屋に移り住んだ。母が一人になると、家族が増えたわが家と住まいを交換したのである。

 

母の部屋を売り出して1週間、買い手はすぐに決まってしまった。




 


copyright © 2011-2021 hitomi kawasaki